ガブリエル・オロスコ インタビュー

不可避の様式
インタビュー / アンドリュー・マークル


La DS Cornaline (2013), installation view in “Gabriel Orozco: Inner-Cycles” at the Museum of Contemporary Art Tokyo, 2015. Photo ART iT.

Ⅰ.

ART iT あなたは以前、横浜トリエンナーレ(2001)に参加していましたが、この東京都現代美術館での展覧会が日本で初めての大規模な個展とは少し意外でした。今回、基本的にはまったく新しい観客を前にして、自分の作品を考え直すのはどんな気持ちでしたか。一般的に、準備の段階でどの程度観客を意識するのでしょうか。

ガブリエル・オロスコ(以下、GO) 今回のような過去作品が大半を占める展覧会や回顧展を開くにあたり、自分の作品についてそこまで詳しくない普通の人々を考慮して、いろんな仕事を見せることで、観客にさまざまな時期の作品のあらゆる差異を知ってもらうのは重要なことでしょう。それと同時に、教条的になりすぎたり、型にはまりすぎたものにならないようにして、既に作品を知っている人々のことを考えることも大事です。彼らにもう一度作品を観に行こうと思わせる展覧会をつくりたいですね。一方で、新しいプロジェクトに焦点を絞った展覧会では、もっと自分自身がやりたいことを優先して、観客がそれについてきてくれると信じています。


Left: Sleeping Dog (1990), Cibachrome print. Right: El Muertito (1993), silver dye bleach print, courtesy Gabriel Orozco and Marian Goodman Gallery.

ART iT 今回の展覧会が写真作品から始まるのは理にかなっていると思います。あなたの写真作品はよく日常的な環境における彫刻的状況の提案として機能するとともに、あなたの実践のほかの側面と繋がるテーマに向かう方法も提供しています。今回は出品されていませんが、「El Muertito」(1993)という人体をガラスの棺で運ぶ儀式の写真を見たとき、そこから目が離せませんでした。肌の色や身体の質感から、棺の中の人物は生きているように見えますが、タイトルと棺の存在は彼の死を暗示しています。観客は「生ける」屍、もしくは、「死んだ」生体に直面し、生と死という対極関係が崩れていく。あの写真を撮影したときはどのような状況だったのでしょうか。

GO これはちょっと特殊な写真ですね。私は普段、いわゆるメキシコのステレオタイプ、例えば祭りやそのほかの民族的事象は撮影しません。あの写真のときは、棺の中の人物が生きていて、儀式のために死者を演じていました。あんな風に運ばれながら、彼が心地良さそうに死者を演じている様子がよかったんです。基本的には、この生と死の狭間という状態が面白くて、写真を撮りました。
同じようなことが、個人的にはより重要な写真だと思う「Sleeping Dog」(1990)にも言えます。とても寝られないようなほとんど垂直の岩場に子犬が横たわり、本当に気持ち良さそうに寝ていて、私は彼を起こしてしまわないように撮影しました。この写真も犬が死んでいるかもしれないと思わせますね。それ故に写真にはドラマがあります。でも、同時にこれはかわいい犬がただリラックスして気持ち良さそうに眠っている写真でもあります。こうした生と死、寝ている状態と起きている状態といった曖昧な時間を味わうために、写真は現実を尊重する必要があるでしょう。
私は写真家ではないけれど、たしかに、この展覧会では自分の作品における写真の軌跡を見せることは重要だと考えていました。作品や思考で多くを占めるのは、立体やインスタレーション、そして、日常との遭遇に着目したものですが、私は単純にそうした瞬間を捉えたり、持ち運んだりするための最良の方法としてカメラを使っています。写真を撮ることは、ほとんどドローイングのようなもので、私の制作にとって普遍的なものです。そういうわけで、観客が、私がこの世界で見ているもの、関心があるものを知って、立体、インスタレーション、絵画へと進んでいく上で、好ましいイントロダクションだと思います。


Clockwise from top left: Crazy Tourist (1991), C-print; Total Perception (2002), C-print; Lemon’s Game (Juego de Limones) (2001), Cibachrome print; Cemetery (view 1) (2002), C-print, courtesy Gabriel Orozco and Marian Goodman Gallery.

ART iT 今回の展示で、「Total Perception」(2002)、「Crazy Tourist」(1991)、「Vitral」(1998)、「Juego de Limones」(2001)といった写真がいっしょに並べられているのが印象的でした。これらの写真には、現実空間にさまざまな形で現れたキュビズム的と呼べるような空間が捉えられています。ティンブクトゥの「Cemetery」(2002)もここに加えられますね。それでいて、各写真にはその光景を決定するさまざまな論理も働いています。風で飛ばされた凧が木に引っかかっている「Vitral」もあれば、オレンジをテーブルの上に置いていった「Crazy Tourist」のような周囲の環境に対して意図的な介入を行なったもの。もしくは、「Cemetery」の場合、地中に埋められた肉体(人物)と肉体の間や、その土地自体との間の物理的な関係性が、地上に見えるものを決定付けている。各写真にはこうした違いがありますが、あなたの中でそれらはどのように繋がっているのでしょうか。

GO 私の写真を見るとき、まず、私が構図や画的な構成にほとんど関心がないことがわかるのではないかと思います。大抵の場合、関心をひくひとつの対象に集中します。例えば、犬、靴の箱、円、丸い形。次に、全体的なイメージのようなもの、複数の中心を含む全体性、もしくは魅力的な特徴という見方もありますね。ときどき、やきものの容器が点在する風景が砂に埋められた死体の位置を示していたあの墓地(cemetery)のように、非常にシンプルなものとして、現実の中で起きています。または、世界最古のひとつとして、かなり粗末で単純なモスクの編み目から射し込む複数の光の点が写っているため、「Total Perception」と名付けた写真もあります。これはひとつのユニットとして空間を認識するための全体性に関するもので、かなりフラットな写真ですが、無数の小さな点が写っています。ブラジルの市場でオレンジを使った写真とも通じますね。
ある意味、どれも非構図的で、ひとつの統一性、もしくはいくつかの統一性が場全体に存在している。私は介入を常に既存の状態を指し示したり、よりはっきりさせたりする方法だと考えているので、その場で自分が見つけたものにしか働きかけることはありません。なにかを持ち込んだりすることはありません。風景と事物、そしてもちろん風景の中の自分の存在の繋がりを明らかにするためなら、見つけたものはなんでも動かします。しかし、究極的には、その状況自体が作品にするのに十分な強度を持っていて、私はただ写真を撮っているだけです。

ART iT 程度の差はありますが、文脈が特定しにくい写真もありますよね。写真を見るとき、街の写真だとかビーチの写真だとか言うことができますが、「Frozen Spit」(2014)みたいに、どこで撮影され、写っている唾が実際に固まっているかどうかわからないようなものもあります。ある状況から別の状況へと何かを運ぶために写真を使うとき、撮影された場所と結果としての写真は、どのように関係しているのでしょうか。

GO 写真の場合と同じように、彫刻的な介入や立体も制作された文脈に関連します。私は具体的な時間の具体的な文化の現場で見つけた素材を扱っているので、それらは私がそのとき取り組んでいる文脈との繋がりを持っています。しかし、そうした作品はそこから移動した時点で、なんとなくその文脈との関係がなくなっていきます。それらは私が考える世界、もしくは、私があらゆる実践を通じて創り上げようとしている宇宙と関係のある文脈で見られます。
写真もそういうものだと思っています。もちろんそこには具体的な瞬間、物体を撮影したという文脈があります。写真の情報や観客の知識によって、それがどこで撮られたのかわかるかもしれませんが、私はそれを明言しません。「犬、メキシコ」とか「唾、ニューヨーク」、「車輪の跡、ニューヨーク」なんて絶対に言わない。1970年代の報道写真に特徴的だった写真における地理的な具体性に対する興味がないんです。そういった写真の多くは、それが撮影された都市をエキゾチシズムのために明言していました。「亡骸、インド」とか「苦難の女性、バングラデシュ」とか、魅惑的な感じで。しかし、私は世界の事象に対する民族誌学的アプローチが好きではありません。撮影者としての私自身という個人的参照も、地理的もしくは民族誌学的参照も避けようと努めてきました。なぜなら、作品が文脈とは無関係に時間や空間を移動しはじめて、それを見る人のものになりうるのですから。あの犬はメキシコにいた犬です。しかし、それを知る必要なんてありません。あの馬もメキシコにいたのかもしれませんが、ああしたみすぼらしい馬がいそうな場所なら、どこの馬だってありえるのです。
もし、写真の主題が撮影された時間や場所、その逸話から離れられたら、哲学的な概念として頭の中を移動しはじめられるだろうし、誰もが親近感を持てるのではないでしょうか。例えば、あらゆる1枚1枚の写真が、日本にいる人にとって日本で撮影された写真になりうるかもしれない、というような感じです。


Left: Frozen Spit (2014). Right: Waiting Chairs (1998), Cibachrome. Below: Installation view of “Gabriel Orozco-Inner Cycles” at the Museum of Contemporary Art Tokyo, 2015. Photo ART iT.

ART iT おっしゃったことは「Waiting Chairs」(1998)から、確かに感じられました。この写真には、一列に並んだプラスチック製の椅子の後ろの石壁に刷り込まれたヘアオイルの「暈(かさ)」の痕跡が写っています。このような「暈」が日本では広島や長崎の原爆犠牲者の「影」を想起させるでしょう。実際の状況として、この痕跡は時間をかけて蓄積された結果ですが、この新しい解釈のもとでは、凍結した瞬間になります。

GO それは考えたことがなかったです。私の作品のほとんどは人間の活動、例えば、ピアノの上の息だとか車輪の跡といった私自身の行為の残滓を扱っていて、それは生きている身体が物理的な世界と接した形跡です。ある意味、偶然の出来事で、悲劇的にもなりうるわけですが、それらはただ単純に実際に起きたことなのです。生活の中の身体のあらゆるすべての痕跡のコノテーション(潜在的意味)は、トラウマ的な記憶であれ、楽しい思い出であれ、繋がることができます。あらゆるものは偶然に、産業的なもの、機械的なもの、普通の風景と関連する有機的な現象に関係しているのです。

ガブリエル・オロスコ インタビュー(2)

ガブリエル・オロスコ|Gabriel Orozco
1962年ハラパ(メキシコ)生まれ。ありふれた物や何気ない風景の中にひそむ詩的な要素を現出させる実践で知られる1990年代以降の現代美術を代表するアーティストのひとり。都市空間を移動しながら彫刻的空間を収めた写真作品や、立体、インスタレーション、絵画など思惟を促す作品を制作している。1993年の第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ・アペルトやニューヨーク近代美術館の「Projects」で作品を発表すると、その後もパリ市立近代美術館、サーペンタイン・ギャラリー、ニューヨーク近代美術館、バーゼル市立美術館、ポンピドゥー・センター、テート・モダンなどで個展を開催。ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタなど数多くの国際展に参加している。日本国内では2001年に横浜トリエンナーレ2001に参加。
日本初個展『ガブリエル・オロスコ展 —内なる複数のサイクル』が東京都現代美術館で2015年5月10日まで開催されている。

ガブリエル・オロスコ展 —内なる複数のサイクル
2015年1月24日(土)-5月10日(日)
東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/

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