ジョーン・ジョナス インタビュー(4)


Lines in the Sand, Performance, Documenta XI, Kassel, Germany, 2002. Photo: Werner Maschmann. All images: Courtesy Wako Works of Art, Tokyo.

 

浮遊するイメージ、動かされる手
インタビュー / アンドリュー・マークル

 

ART iT 「Jones Beach Piece」(1970)と「Delay, Delay」(1972)は、近作の「リアニメーション」に繋がっているのではないかと思われる興味深い作品だと考えています。どちらの作品でも、風景全体へとパフォーマンスやイベントを拡張し、ディレイ・サウンドを流し、風景の中でドローイングを行なっています。近年の作品でもこのようなアイディアを再検討することはありますか。

JJ 直接的な形ではないけれど、風景や距離を扱うというアイディアを再び考えてみたことはありますね。ドローイングという行為やドローイングという概念は、すべての作品に取り入れていて、作品の内容や空間との関連でドローイングすべき理由を見つけます。「リアニメーション」の撮影のためにノルウェーに行くまで、雪上にドローイングすることになるとは思っていませんでしたが、突然そうしなければと閃いたのです。その場で閃いて、ドローイングを始めました。

過去の作品を見ると、どうやったらそこで試みたアイディアに再び取り組めるだろうかと考えます。回遊するボキャブラリーについて考察しているのです。

 

ART iT ローマを舞台とした「Delay, Delay」の場合、パフォーマンス自体の動きのための装置としてテヴェレ川の動きを使いました。これこそ根本的なことなのです。私たちは常に都市の風景の中に川を見ています。しかし、それらの川には動きがあって、その動きが私たちの行動に本質的に結びついているということにほとんど意識的ではありませんよね。

JJ その通りです。身近にあるものを使って制作しますが、「Delay, Delay」のパフォーマンスは実験的なものでしたね。まず、ロープを結びつけた板を川の中に沈ませます。当初、私は6人の男性パフォーマーがその板を引き上げられると考えていたのですが、実際には無理でした。結果として、6人の男が板を引き上げようとするのが、パフォーマンスの間ずっと続いただけでした。

 

ART iT 仮に彼らが板を引き上げられていたらどうなっていたでしょうか。

JJ 何もないでしょう。ただ、引き上げられたということだけです。何も計画してなかったのですが、パフォーマンスの間、水中でロープと板が繋がっているというイメージが気に入っていたんです。

 


Lines in the Sand, Performance, Documenta XI, Kassel, Germany, 2002. Photo: Werner Maschmann.

 

ART iT 最近の作品でもパフォーマンスとビデオの両方に取り組んでいますが、今話したような偶発性やアクシデントのようなものが入り込む余地を残そうとしていますか。

JJ そうですね。まず素材やアイディアを集めた上で制作を始めますが、偶然も受け入れています。制作の仕方は変わってないですね。まず、構造と主題があって、それらに深入りしていくように頭を調整していきます。そのようにして、アイディアが閃くのではないでしょうか。例えば、「Mirage」(1976/2005)を制作している時期に、路上でけんけん遊びをしている子どもたちを見かけました。よく見る光景ですが、その状況、その瞬間、それがパーフェクトだと感じて、作品に組み込むことにしました。そういったことが起きるのを受け入れているのです。

 

ART iT 能ではリハーサルを演者がいっしょにやらないと聞きました。演者はみな高度に訓練されていて、実演の前にたった一度全体として合わせるそうです。

JJ すばらしい。それは初めて聞きましたね。私の場合はリハーサルをしているのですが、生のパフォーマンスを完全にインプロヴィゼーションにしてしまうと上手くいきません。事前にほぼ完璧に決めていて、唯一変わるとすれば、舞台を横切る時間やその前に移動する時間を少しだけ、ほんの少しだけ遅くしますが、すべて演出しています。これは私の動きに対する考え方と多分に関係しているのですが、私はあるやり方で動き、部屋を横切り、ものを拾う。毎回同じようにそうした動作をしようと試みていて、それらはタイミングであったり、無駄のない動きであったり、連続した繋がりの動きがある種のダンスになりうるという感覚に起因しています。

 

ART iT 60年代にはトリシャ・ブラウンやほかのコレオグラファーとともにワークショップを行なっていましたが、そこではどんなことが起こっていたのでしょうか。

JJ パフォーマンスへと向かう前に少しだけど先行経験があって、彫刻や広義の視覚芸術を学んでいる間に、ダンサーとともにワークショップに参加しています。トリシャ・ブラウンのワークショップには、参加者がほかの参加者とともに新しいことを試したり、発表できる状況がありました。彼女の作品のために働くということはまったくなくて、インプロヴィゼーションのための非常に開放的な状況でした。彼女は参加者の作品に一度もコメントしませんでしたが、参加者の間で話し合っていました。イヴォンヌ・レイナーとのワークショップでは、彼女の作品内で私たちは例えば「走る」のようなシンプルな行為をしました。レイナーの「トリオA[Trio A]」は興味深い作品で、一度もパフォーマンスすることはなかったのですが、なにかを学ぼうとしましたね。そうした人々といっしょにパフォーマンスをすることはなかったのですが、デボラ・ヘイとはホイットニー・ビエンナーレで一度いっしょにパフォーマンスをしました。

 


Mirage, Film stills, 1976. Photo: Babette Mangolte.

 

ART iT ポータパックを手に入れたことも含め、1970年の日本への旅はあなたのキャリアにおける大きな転機になりましたね。その年には日本で大阪万博と東京ビエンナーレがあり、日本のアートシーンに日本以外の世界との間に対話が生まれたのではないかと考えています。もの派もその頃に認知されるようになってきましたね。日本に滞在したとき、日本のアーティストやキュレーターとの交流はありましたか。

JJ ポータバックについては日本に来る前から知っていましたが、ちょうど日本で手に入れることになりました。その頃、私はミニマリズムの美学から逃れて、自分自身の言語を展開させたいと真に望んでいたのですが、そのときに能を見て、それがある種の身体的かつ視覚的な舞台で、ずいぶん勇気づけられ、刺激を受けました。

しかし、日本のアーティストには会わなかったですね。もの派のことは最近になって知りました。リチャード・セラといっしょにいましたが、東京ビエンナーレが開幕した後は、京都や奈良に滞在していました。

 

ART iT 能に出会ったことは、本当に大きかったんですね。

JJ はい。そして、日本に滞在するという体験も大きかったです。到着してすぐに、音が違うと思ったことを今でも覚えています。東京以外はどの街も今よりずっとゆったりしていて、静かでしたね。音を聴き、それを考えることがアメリカとはまったく違ったのを覚えています。すべてが全然違いましたね。日本以外のアジアの国に行ったこともなかったので、すべてが本当に魅力的でした。個人的には日本のアーティストに会うことはなかったけど、60年代のアメリカのアーティストと日本のアーティストとの接触は、当時ニューヨークで起きていたことに強い影響をもたらしていましたね。

 

ジョーン・ジョナス インタビュー(5)

 

 


 

ジョーン・ジョナス|Joan Jonas

1936年ニューヨーク生まれ。映像を用いたパフォーマンス・アートの先駆的存在かつその歴史における最も重要なアーティストのひとりとして知られる。美術史と彫刻を学んだ後、60年代後半から70年代にかけて、鏡や衣装、小道具、ドローイング、映像などを組み合わせた実験的なパフォーマンスやインスタレーションを屋内外で発表。幅広いイメージの源泉から、さまざまな表現手段を用いて、独自の視覚言語を織り上げている。

これまでにニューヨーク近代美術館、バルセロナ現代美術館、レイナ・ソフィア国立現代美術館、テート・モダンをはじめとする世界各国の美術館で個展を開催、パフォーマンスを発表している。また、ドクメンタやヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレなど、多数の企画展、国際展に参加している。日本国内では、CCA北九州やワコウ・ワークス・オブ・アートでの個展のほか、横浜ビエンナーレにも参加している。

 

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