PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015

PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
文 / 大舘奈津子


京都市美術館 写真:福永一夫

京都で初の大規模な現代芸術の国際展『PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭』が開幕した。
メイン会場は、1933年に建てられた和洋折衷の重厚な帝冠様式の京都市美術館である。この不思議な空間の経緯に好奇心をそそられ、まず、展示の中腹にあたる南地下室で「美術館の誕生」なるセクションを見る。京都市美術館の歴史をスライドで見せるシンプルな展示であるが、後方の扉に戦後米軍に接収された当時に使用された靴磨きの看板が残っており、この美術館が経た複雑な歴史を端的に感じさせる。この場所以外にも館内の至るところに残る痕跡からもわかるように、この美術館はそうした日本の歴史を内包した場所であるとともに、京都のアーティストにとっては当地の美術大学の卒業制作展が数多く開催される、極めて馴染みがある場所でもある。通常、国内外の近代美術展や公募展を行なうことが多い、ホワイトキューブからはおよそ程遠い展示空間のこの美術館が、全館まるごと現代美術の展示場所になったことは、京都の人たちにとってもちょっとした驚きをもたらしたようである。

PARASOPHIAは、京都国立近代美術館で長らくキュレーターを務め、京都における現代美術の変遷を熟知しているアーティスティック・ディレクター、河本信治の思考および趣向が余すところなく発揮された展覧会とも言える。ロゴ、カタログ、また何種類にも展開されたポスターなどビジュアルデザインは旧知のデザイナー西岡勉、また参加アーティストも、ウィリアム・ケントリッジ、アナ・トーフ、アーノウト・ミック、ルイーズ・ローラー、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、フロリアン・プムフースル*、アラン・セクーラ*、森村泰昌、やなぎみわ、高嶺格、石橋義正、笠原恵実子、高橋悟ら、河本が過去に手がけた展覧会を通じて、すでに信頼関係が築かれているアーティストが中心になっている。また、新たに加わった多くのアーティストについても、オープンリサーチ、ワークショップなどを通し、事前の京都招聘を行なうことで、対話を重ねてきた。そうして周到に準備された多くの作品は、ほぼひとりひとつの展示室というゆとりある空間に展示され、非常に見やすい。これについて河本は「極めて普通のことを、普通に行なった」と語るが、それは40組というアーティストだからできたことに間違いない。作品数を増やすというより、質を上げることを重視したことがよい結果を生んだのだろう。
特徴的であるのは、展覧会の「コンセプト」や「テーマ」を持たないことを積極的に選択した点である。(対談:河本信治 x 森村泰昌)また、スペクタクル性を否定し、河本が長らく関心を持ってきた物語性からも離れる試みも行なわれている。とはいえ、ある種のキーワードが至るところに見え隠れし、それを拾い、自らが組み立てを行なえるような遊びを観客に促す。展示作品は、マスを意識した一部の作品(蔡國強、やなぎみわ、石橋義正)を除けば、視覚的には地味な作品が多い。スペクタクル性を否定しているだけでなく、単純に映像作品が多いため彫刻やインスタレーション作品で感じられるような身体的体験も少なく、観客の側にも丁寧な読解が求められる。河本企画の展覧会における特徴と言えるが、それを楽しいと思うか、煩わしいと思うかは好みが分かれるところだろう。とかく観客へのサービスが先行されるこの国においてはとりわけて不親切にも思えるほど、観客の側からの積極的な関与を求めてくる。それは関係性の美学において観客に促されるものとは明らかに質が異なるものである。


上から順に、「南地下室の扉に今も残る接収時の「靴磨き」の看板」
フロリアン・プムフースル「メザマシ隊」2014-2015年 展示風景 写真:四方邦熈
サイモン・フジワラ, 「キングコング・コンプレックス」2015年 展示風景 写真:ART iT

個別の作品へと目を向けよう。ウィリアム・ケントリッジによる映像作品「セカンドハンド・リーディング」(2013)は、京都に来た際に購入した筆を使って、800ページもある古い辞書にパラパラ漫画の手法で描かれている。関連企画として事前に元・立誠小学校講堂で展示していた映像インスタレーション「時間の抵抗」(2012)と比べるとだいぶスペクタクル性に欠けるが、展覧会全体を俯瞰しているような作品で、本、読解/誤読、すべてを知ることはどんなに欲望があっても不可能であることなどについて考えさせられる。ケントリッジ自身が本の中を歩く映像は、展覧会の(作る側、観る側、双方にとっての)長い道程を象徴しているかのようだ。
圧倒的な強さを持った作品は、続くフロリアン・プムフースルの新作プリント作品「メザマシ隊」(2014-2015)のインスタレーション。プムフースルが以前より関心を持っていた日本の大正、昭和初期の芸術運動から、今回は東京左翼劇場から生まれた左翼劇団メザマシ隊16人のポートレートを制作した。これらは一見抽象画のようでもあるが、伝統的な漆喰を使い丁寧に制作され、ガラスケースの中に収められている。階段を挟んでふたつの展示室に展開されたインスタレーションの両端に、村山知義による絵画作品と東京左翼劇場の緞帳をそれぞれ配置。強力なメッセージ性をもった大正のプロレタリア劇団が、プムフースルにより抽象化され、ある種の意味の反転を起こす。およそ理解不能で無駄とも思える芸術行為は、親切な啓蒙活動とも、関係性の美学とも程遠いのであるが、そこにアーティストの創造性を見ることができ、心地よい。
また、サイモン・フジワラはこれまで彼が制作した作品を組み合わせた新作インスタレーションで参加したが、彫刻、個人史が絡み合い、また、フラグメントの組み合わせによって、一見何もないように思えるものをゆるやかにつなぐという点で、河本が目指した電子雲に近いように思えた。初期の「Welcome to the Hotel Munber」(2008-2010)や、「Aphrodisiac Foundations (Imperial Hotel 1968, King Kong Komplex)」(2013)など、ひとつのシリーズだけで見せるインスタレーションに比べると観客が容易に物語を追えるものではないが、これもアーティストからの河本に対する回答なのかもしれない。このフジワラのインスタレーションと、ブラント・ジュンソーの伝統的とも言える彫刻作品を見た後に、なんとも奇妙なヘトヴィヒ・フーベンの映像作品「手と目、そしてIt」を見ると、抽象化された身体がまた自らの身体に戻るような奇妙な感覚に襲われる。
サウジアラビア出身の医師でもあるアフメド・マータルの作品「四季を通して葉は落ちる」(2013)はPARASOPHIAにおいて非常に重要な作品といえる。この作品は、マータルがメッカ周辺の開発に携わる建設労働者にスマートフォンを持たせ、撮影した動画を集め、再編集した映像である。建物をダイナマイトで破壊するシーン、尖塔飾りとともに男が吊り上げられるシーン、多くの外国人労働者、その中での諍いなどの日常が粗い画像で記録されている。もちろんこれをメッカ周辺の地域という特殊な地理性を反映したものとして観ることも可能であるが、アリン・ルンジャン*、王虹凱、笠原恵実子らの作品と同様の問題意識を共有しているように思えた。それは国益のための産業と、そこから直接的もしくは間接的に生まれる諍い、さらにはそうした構造を支えるのはいつも無数の名もなき人たちという事実に対峙する姿勢である。マータルの映像作品はそうした事実を、なんら芸術的ではない映像フラグメントによって構成しているがゆえに、美術作品の枠からはみ出し、より強く強調されたように思えた。この名もなき人たちへの目というのは、森村によるヨコハマトリエンナーレ2014とも共鳴するテーマである。


上から順に、アフメド・マータル「四季を通して葉は落ちる」2013年 写真:ART iT
アナ・トーフ 「ファミリー・プロット」展示風景(部分)2014年、WIELS、ブリュッセル 写真:Sven Laurent. © Sven Laurent
田中功起「一時的なスタディ:ワークショップ#1「1946年〜52年占領期と1970年人間と物質」」2014-2015年 展示風景 写真:ART iT

把握しきれない世界をどうキャプチャーするかという問いも、展示を見ながら考えさせられたことのひとつである。世界をどう見るかというケントリッジの作品はもちろん、アナ・トーフの作品もこうした観点への問題意識を感じさせるものである。彼女は植民地主義がもたらしたさまざまなものに対する命名についての考察に基づいた作品を継続的に制作している。今回展示した「ファミリー・プロット」(2009−2010)は、スウェーデン人植物学者カール・フォン・リンネを中心に25人の植物学者(ただひとりをのぞきすべて白人男性)をとりあげ、各人ひとりひとつのパネルを、丹念なリサーチで得た詳細な情報と当時の地図を各人の世界のチャートとして制作している。到底すべてを読むことができないその25のパネルは、西洋中心的な植民地主義の歴史を啓蒙し、それに対する批判が見られず、読んでいていたたまれない気持ちになるほど誤謬にあふれた当時の歴史と、それらが公式のものとして存在していたという事実を示している。25のパネルは時系列ではなく名前(命名)順に並べられることで、全体の事実としての重さを増している。
こうした世界を見ようとする試みからすると、田中功起のインスタレーション作品「一時的なスタディ:ワークショップ#1「1946年〜52年占領期と1970年人間と物質」」(2015)はいささか局所的に感じられてしまった。ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館での展示がある種の不完全さによって強度を持っていたとするならば、ここで展開されたインスタレーションは田中特有のもはやマニュアルに沿ったように見え、ずらすことの楽しさではなく、ずらすことが必須となっているような硬直した印象を受けた。また、非常に理解しやすい展示空間の歴史への考察が、ローカルであるが故の反転を生み出すことを望んでいたのかもしれないが、あまりにも世界から遠い日本特有の問題をどのように位置付けたらよいのか、個人的には困惑を覚えた。「美術館の誕生」でみられた靴磨きの痕跡、アーティファクトのインパクトが強すぎただけかもしれない。


上から順に、森村泰昌「ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る」2013年
笹本晃「誤りハッピーアワー」パフォーマンス 2014年11月2日 Photo by Ben Hagari, courtesy of JTT, New York and Take Ninagawa, Tokyo

京都文化博物館別館での展示は、美術館へのオマージュともとれる内容。森村泰昌による、プラド美術館で撮影した、ベラスケスの「ラス・メニーナス」を題材とした「ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る」シリーズに、森村自身の声で解説を加えた展示と、昨年、マニフェスタのためにエルミタージュ美術館で撮影された、「Hermitage 1941-2014」シリーズ。後者は森村がヨコハマトリエンナーレでも参照した、レニングラード侵攻下で所蔵作品を疎開させたために、作品がなくなった美術館でのガイドツアーの物語をテーマとしている。2階には、ドミニク・ゴンザレス=フォルステルの「オテロ 1887」(2015)。こちらは1887年に植物園として建てられ、現在国立ソフィア王妃芸術センターの別館として使われている、クリスタル・パラスで同じ年に初演されたオテロを映像作品に仕上げたものである。いずれも世界有数の美術館で撮影され、そして、建築、オペラ、絵画といった芸術作品を横断するような作品が、明治時代に旧日本銀行京都出張所として建てられた建物に展示されることで、時間および距離を超えた展開を見せる空間になった。

堀川団地では、笹本晃が映像と彫刻で構成されたインスタレーション作品を発表。映像作品は、アーティスト本人が初めて編集を手がけたもので、これまでの彼女の作品に見られた、彼女自身の動きにフォーカスが当てられた動的で、記録的な映像から、カメラ割りも計算された構築的な映像作品への変化が見られる。その映像は、一見ランダムに作っているように見えながら、実は緻密な計算に基づいて作られている彼女の彫刻作品同様、極めて精密な映像作品に仕上がっている。堀川団地では、同様に映像に対する緻密さを持つピピロッティ・リストの映像インスタレーションも展示されており、布団と天井に投影された映像はリスト独自の不思議な鑑賞体験をもたらす。


上から順に、ハルン・ファロッキ「トランスミッション」2007年 © Harun Farocki GbR
アラン・セクーラ「催涙ガスを待ちながら」1999-2000年 ヴィンタートゥーア写真美術館蔵

PARASOPHIAのクライマックスは、京都市美術館の最終パートにあるだろう。ハルン・ファロッキ*の「トランスミッション」(2007)、アラン・セクーラ「催涙ガスを待ちながら」(1999−2000)を見ながら、展覧会を通じてその存在を示唆される、世界中に無数に生きる名も無きものについて考える。彼らの信仰、主張、労働といったものが世界のあちらこちらで生まれては消え、ときには形が残るものの、その多くが残らず消えてしまう。芸術作品という価値があるものとしてではなく、ある意味では無価値なものを捉えているとも言えるこのふたつの作品を、展覧会を通じて投げかけられた様々な問いを反芻しながら眺める。ファロッキの映像では、時にはすがるように、時には興味本位で、形の残った(もしくは象徴でしかない)信仰の対象に触れる人々の姿がフラグメントとして映し出され、セクーラのスライドショーにおいては、デモを撮影しながら、メッセージ性を削ぎ落としたイメージの集積が目に入る。もはや鑑賞ではなく、ひたすら目にすることのみによって、そこに、映らなかったものから、名も無き人のことを考える。長時間をその暗闇で過ごし、そこから出てきたところに、スーザン・フィリップスの「インターナショナル」(1999)が響き渡っており、非常に感情を揺さぶられてしまった。

京都であることがエキゾチズムを生むのではないか、という2013年末の筆者の問いは杞憂に終わった。しかしながら、神社仏閣をあえて外し、堀川団地や、崇仁地区という場所を選んだことは、ある種の京都らしさを求めるひとには肩透かしだったかもしれない。しかし、町おこしという形の国際展ではなく、創造の場としての国際展という新たな形は、完成からは程遠いものの、輪郭線くらいはつけられたのでないかと思う。もちろんこれを継続していかなければ意味がないことは、誰よりもPARASOPHIA関係者が理解しているだろう。
PARASOPHIAの第2回目があるのかないのかは実のところ誰にもわからない。しかしながら、「京都という街を創造を生み出す場所にしたい」という高い目標を掲げて始まり、リサーチや議論の場を経て展覧会として結集したものを一度きりで完結させるのはあまりにも惜しい。リサーチから関わることも多かったこれらのワークインプログレスとも言えるPARASOPHIAの形が、展覧会会期とともに終了するのではなく、次回の開催ヘ向けて、創造と知の場所を継続することを切に望む。

* PARASOPHIAの表記では、それぞれ、フロリアン・プムヘスル、アラン・セクラ、アリン・ルンジャーン、ハルーン・ファロッキ。

PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
2015年3月7日(土)–5月10日(日)
京都市美術館、京都府京都文化博物館、京都芸術センター、堀川団地(上長者棟)、鴨川デルタ(出町柳)、河原町塩小路周辺、大垣書店烏丸三条店
http://www.parasophia.jp/
開館時間:京都市美術館 9:00-17:00(3/27〜4/12、4/29〜5/10は19:00まで)
京都府京都文化博物館 10:00-19:00 ※ともに入場は閉館30分前まで
休館日:月(ただし、3/9、5/4は開館)

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