左:モモイロクモタケ 右:ミヤマタンポタケ いずれも清水大典原図、紙、ペン、彩色
所蔵・画像提供:米沢市上杉博物館(以降すべて)
清水大典(だいすけ)の名を知ったのは、震災の翌年、福島県のいわき湯本に頻繁に足を運ぶようになった頃のことだった。おもしろい人がいるからと案内された田んぼのなかの一軒家で、とある冬虫夏草の在野の研究者の方にお目にかかったのだ。その方は近々、冬虫夏草図鑑の決定版を準備中で、過去に刊行された冬虫夏草の数少ない図鑑を出してきて見せてくれたのだけれども、そのうちのどの本も、この分野で大きな功績があった人物として大典の名を挙げ、多大な感謝を捧げていた。
その時にはまだ、この人物が自分と故郷を同じくするなどとは想像もしていなかったけれども、最近、音楽家で秩父前衛派を主宰する笹久保伸から聞いて驚いた。大典は、秩父を代表する写真家で登山家としても知られる清水武甲の弟だというのだ。ちょうど東北芸術工科大学での特別講義に招かれていた私は、山形と福島の県境に接する米沢にある米沢市上杉博物館に大典の残したコレクションが所蔵されていることを知った。そのうえで、機会を作って下さった三瀬夏之介氏にお願いし、講義の翌日、山形でも珍しいという1月も半ばを過ぎてからの時期外れの大雪のなか、その日の午前中に終えた読書会のメンバーとともに米沢へと向かった。彼らの取り組むプロジェクト「東北画は可能か?」とも、なにがしかの接点が生まれることを期待して。
実は、同館では1年前のちょうど今ごろ、「植物学者 清水大典 冬虫夏草図の世界」と題するまとまった回顧展が開かれていた。昨年は、大典の生誕百年にあたっていたのだ。そこでは大典が調査活動に使ったカバンや飯盒、へらなどの採集道具や画材の現物が公開され、生前の書斎イメージが再現されたうえ、170点もの原画が展示されたらしい。残念なことに、私はこの展覧会に足を運ぶことができなかったのだが、今回は特別に学芸員の方が取り計らって下さり、大典が残した手描きの冬虫夏草図を収蔵庫でかなりの点数、見ることができた。けれども、それは全体のうちほんのわずかにすぎない。上杉博物館に収められたコレクションは、大典の死後発刊された『清水大典 冬虫夏草原図複製』(日本冬虫夏草の会、2000年)に収録された310点の原図を中心とするものだが、マムシをはじめとする蛇の研究者でもあり、キノコはもちろん苔類、山菜や果実、鉱物や薬草、さらには温室植物やランの栽培にも詳しかった大典には、これらと併せると、わかっているだけでも二千枚以上の絵が残されていると考えられている。まだまだ全容がわかっていないのだ。
清水大典の採集道具類
一角とはいえ、それでも、私たちが触れることができた原画は、いずれも素晴らしい出来栄えのものばかりだった。日本の本州はおろか、奄美や西表といった南の島々、さらには台湾といった日本国外からも採取され、冬虫夏草の生息域を著しく拡大した標本群を、大典はルーペを通じて肉眼でスケッチし、驚くほど細部に至るまで克明に記録している。細かさばかりではない。その発色の見事さはどうだろう。自然界に宿された色彩は人の都合など構ってくれない。ましてや、冬虫夏草は採取したその瞬間から色が変わり始める。それを捉えるため大典は、現場で素早くスケッチとメモを取り、家に帰ってからそれらと記憶に忠実に絵具で顔料を基準にわざわざ色を作り、水彩絵具も併用しながら、「何色」と特定できないような精妙極まりない色合いで対象を図画化している。そんな時間差との闘いを、大典はいったいどのようにして克服したのだろう。
学芸員の方に聞くと、大典は絵を描くとき家族を寄せ付けず、また家族も恐れて寄り付こうとしなかったから、画材や機材こそ残されていても、いったいどのようにしてこれらの絵を実現したのか、未だにわからないことが多いのだという。けれども、その徹底ぶりは、特定のネズミの髭だけを集めて、細くて腰の強い線を引くための筆を自作していたというのだから、ちょっと想像を絶している。2014年に刊行された最新の『冬虫夏草生態図鑑』(日本冬虫夏草の会、誠文堂新光社)では、図画に代わって発見直後の個体を地中に収めたまま撮影した写真が主に使われている。けれども、これを見るかぎり、かりに科学的・実証的には進歩したのだとしても、絵としての魅力は望むべくもない。けれども、大典の冬虫夏草図が資料だけのものであれば、とうにお役御免になっているはずだ。ところが、事実はまったく逆だった。写真による客観的な記録が可能になって初めて、大典の冬虫夏草図が、たんに観察の結果だけではないことがはっきりしたのだ。それらは本人の意図さえ超えて、あきらかに美術の領域に入り込んでいた。
左:ハチタケ(紙・ペン・彩色) 右:クチキムシコガネツブタケ(紙、ペン)
いずれも清水大典原図
いま「美術」などと言ってしまったが、軽卒だったかもしれない。というのも、この在野の冬虫夏草学者について取り上げようというのはほかでもない。美術批評家としての私の長く大きな関心のひとつに「アウトサイダー・アートとは誰なのか」というものがあるからだ。その成果の一端は昨年刊行した『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)で披露した通りだが、清水大典もこの系譜に入ると直感する。大典を知ったときの感触は、その本のなかでも取り上げた昭和新山の麓にある三松正夫記念館で、初めて三松正夫の描いた火山画の数々を見た時の体感にそっくりだった。今ならきっと、その中の章立てに大典を加えていたに違いない。だが、それだけではない。大典の描いた「冬虫夏草」という名自体が、既存の領域を突き崩す「後美術」的な力を持っている。
そもそもこの名は、宿主となる菌類がセミやハチなどの昆虫やクモ類などの「虫」に寄生して成長し、やがてなかば虫、なかばキノコという、世にも不思議な姿と化することに由来する。「冬は虫で動きまわり=陽、夏にいたれば草に変わる=陰」と説いた中国の陰陽思想まで辿ることができるのだ。これにならえば、冬には昆虫学、夏には菌類学とでも言おうか、それこそ固有の学問領域を侵犯するような存在でもある。言い換えれば、だからこそアカデミックな研究のはざまに落ち込み、大典のような大学での専門の訓練を受けていない「無学」の一学徒が世界的な成果をあげることにもなったと言えるかもしれない。だが、それにしても現在、世界で確認されている約五百種にのぼる冬虫夏草のうち、日本で報告されているものだけで約四百種を数え、そのうちのかなりの部分が大典の独力で発見されているというのだから、やはり尋常ではない。しかも、残された標本の中には、いまだ種としての同定ができず(同一の標本が最低でももうひとつ発見されないと種としての認定ができない=複製の痕跡なくして固有性を主張できない「コピーライト」ならではの原理)、世界にひとつしか採取されていない冬虫夏草が複数あるのだと聞く。
現在ではさらにここに、東京電力福島第一原子力発電所・核燃料メルトダウン事故で拡散した放射性物質による生物学的被曝の問題も入ってきている。キノコが放射性物質を高濃度に溜め込む性質があることは震災後、よく知られるようになった。また、昆虫は世代交代が早いことから、放射線被曝の遺伝的影響が最も早く観察される対象として注目を集めている。そう考えると、大典の残したこれらの冬虫夏草図もまた、どこかで本連載の主題である「爆心地の芸術」にふさわしいように思われてきたのである。
私たちが棲むこの「地」は、「3・11」以降、虫と菌類と放射能と美術が交錯する世界となった。そう言えば、これらの貴重な図画が上杉博物館の所蔵となったのも、東日本大震災の勃発した2011年のことだという。そもそも、博物館といっても上杉博物館は自然史博物館ではなく、狩野永徳による洛中洛外図のような国宝も蔵する立派な歴史博物館である。比喩的に言えば、「ムシ・カビ」こそなによりも排すべき天敵中の天敵ではないか――しかも、冬虫夏草といえばその合体である。けれども、いまやそのような「寄態」にこそ、既存の制度によって隠されていた新しい可能性を開く余地があるのではないだろうか。そんな生物学上での、博物学上でのハイブリッドな産物を、いま大典と故郷を同じくする美術批評家が論じようとしている。1998年に82歳でこの世を去った大典がそのことを知ったら、いったいどのように感じただろうか。(続く)
付記:本稿を書くにあたって、米沢市上杉博物館の花田美穂 学芸主査に資料面などでたいへんお世話になった。また東北芸工大の三瀬研究室にも様々な便宜をはかっていただいた。記して感謝いたします。
著者近況:2月20日、福島のギャラリーオフグリッド にて、小森はるか+瀬尾夏美の「巡回展 波のした、土のうえ in 福島」トークイベントにゲスト参加。3月1日に青山ブックセンター本店で椹木野衣トーク&レクチャーシリーズ「震災以後の世界~ジャンルの破壊と溶解。創造の地平を目指して」の番外編を開催。テーマは「震災から5年 気仙沼 リアス・アーク美術館とDon’t follow the wind から考える 未来を担う美術館と展覧会」。3月13日には京都、MEDIA SHOPにて、HAPS企画 「HONESTY AND MODESTY」によるトーク「『後美術論』の先と後」に登壇(進行:遠藤水城)。
3月24日は、東京のアテネ・フランセ文化センターにて、特集上映会 「佐藤真の不在を見つめて」の上映後トークを予定している。