ひとさじの記号論

ジュディ・アニア

2007年、東京、森美術館での『笑い展 現代アートに見る「おかしみ」の事情』を企画した片岡真実は、同展のカタログの中でアートの重要な役割のひとつに「固定化し、安定しようとする思考や認識の海に小石を投げ、水面を揺らすことにある」と述べている。

その「水面の揺れ」こそが、言葉と精神、精神と物、物と人との対話が真に起こりうる場を作り出すのだ。同展では、山本高之のビデオ作品が主に『スプーン曲げを教える』シリーズ(2001年~)から何点かが展示されていた。このプロジェクトで山本は、様々な文化に属する子どもたちにイスラエル出身の有名な超能力者、ユリ・ゲラーが念力でスプーンを曲げる手法を教えている。


山本高之『スプーン曲げを教える(レッスン1、シャルジャ・アートセンター、アラブ首長国連邦)』
2003年、ビデオスチル

アーティストでありながら小学校教師でもある山本は、ビデオ作品を通し、彼自身が気になる様々なことを詳らかにしていく。そのほとんどは子どもたちにまつわることだ。例えば、どのように正しく洗車するのかについて。また、先手を打って災難を回避するといった防護策を考えること、さらには、子どもたちが嬉々として罰のために自分が送られるかもしれない架空の環境を創り出すといったような奇妙にも思える状況をつくりだすことなどだ。

多くの山本作品の魅力は、子どもたちが山本およびビデオカメラと話す際の直接的な関係にあり、それが作品によく表れている点である。子どもたちは既に小学生でありきちんと状況を把握しているので、コミュニケーションがとれていないとは言えない。しかも、山本は特別な環境を作り、子どもたちにも事前に説明しているので、彼らの言葉や動きがありのままに見えたとしても、必ずしもそうとは言い切れない。しかしながら、『スプーン曲げを教える』の真の魅力は、実用的な「教える」ことと非実用的な「スプーンを曲げる」ことの矛盾を具体的に示すタイトル自体に表れている。

山本はビデオカメラの位置を固定するため、鑑賞者の観る位置も指定される。各生徒がひとりずつ画面に近いところに平行におかれた机に、ビデオカメラに向かって座る。作品の鑑賞者は、山本と同じ位置、すなわちビデオカメラと同じ場所から見ることになる。画面の背景にはクラスの皆がおり、スプーン曲げを見たり練習したりしている。そして、ひとりずつ前へ出てきて、いろいろな習い事の発表会と同様に、自分の能力を披露するのだ。ここで合格か不合格かを真剣に考えるのは残酷だ。

だいたい相当だまされやすい人間でもなければ念力でスプーンを曲げられるなどと信じないだろう。しかし一方では、虚構を信じ、物事への幻想を持つことは日常からの小休止をもたらし、我々を何気なく芸術的な「水面の揺れ」へと導いてくれる。スプーン曲げなんてどうやったらできるのだろう? 子どもたちが喜んでその可能性を追求していることは山本のビデオから明らかだ。しかし、実際にスプーンが曲がったときの驚きと安堵の入り混じった表情には――そして両者の間のいかなるニュアンスの表情にも――それを見る大人たちが忘れてしまったかもしれない不安があり、一瞬その不安を思い出させてくれるのだ。


山本高之「どんなじごくへいくのかな」, 2010年、ビデオスチル

山本の作品は決して平穏に他者の経験を通じて何かを感じ取らせるだけのものではない。「どんなじごくへいくのかな」(2010年)では、山本は子どもたちに、どんなことをしたら「地獄」におちるか、そしてそれはどんな「地獄か」想像して作ってみようと言う。それから子どもたちが自分で色を塗って作ったダンボールの構造物がどのように機能するかを自ら説明する様子を記録する。このビデオは寄りで撮影されており、子どもたちが大写しになって自分の作った「地獄」の主な特徴を述べ、まるでテレビの気象予報士がお出かけに傘が必要か否かと視聴者にアドバイスしている姿を思わせる。子どもたちの可愛らしさと、偉い人を喜ばせようとする熱心さ、そして彼らが自分たちに苦痛を与えるためのシステムを考案しているのだという事実が同居しており、ほろ苦くもあり微笑ましくもある。そして不道徳的ながら、鑑賞者は子どもたちの独創的な構造物と想像力豊かな解説に感心してしまうのだ。

09年、シドニーでは、日本人のふたり組、エキソニモが同様の反響を呼び起こすオンラインインスタレーション「Supernatural」を展示した。ふたりは娘の誕生が近かったため、展覧会を主催した非営利団体である「アースペース」に展覧会準備ための滞在をすることができず、このふたりの作家はアートと生活、隔たりと近接、得ることと与えること、有形と無形、一見すると自然なものと実は超自然かもしれないものを調和させる作品を考案し、展示した。その優雅なまでにシンプルな作品は暗くしたアートスペースの展示室にスプーンの柄だけが浮かんでいるというものだった。「すくう」側の半分は東京のエキソニモの自宅兼スタジオに吊り下がっている。そしてアートスペースの幅広の壁には、切り離されたスプーンが合体して映し出されていた。シドニーにある半分が左に、東京の半分が右に。

アートスペースの側からは、鑑賞者がリアルタイムで東京のエキソニモと交信し、Webカメラの前で展開するふたりの日常生活を観察することができる。アーティストの側からも同様に、コンピュータで来場者やその反応を辿ることができる。スプーンのふたつの画像を完璧につなぎ合わせた巨大な映像以外にシドニーにあるのは、展示室の入り口に照らし出されたスプーンの柄と、遠隔地の目として機能する小さなWebカメラだけ。どちらも細いモビールのような竿の上でバランスを保っている。竿を支えているのは、吊るされたダチョウの羽根だ。


exonemo – Installation view of Supernatural at Artspace, Sydney, 2009. Courtesy Artspace, Sydney.

ある意味、スプーンは切断され、サイバースペースでまたつなぎ合わされて、自分自身をすくい取ったのだ。「Supernatural」は見る、想像するという二元的な行為を連携させ、極めて身体的な体験に仕立てたのだ。その点だけ取り上げても、一見ほとんど具体的なものがないように見えるこの作品は意義深い。アートの中にはまさにその非物質性を通じて表現する作品もある。それらの作品はもっぱら映像のみで存在するので、最大の効果を発揮しても記憶や心象の中に一部だけ残留することしかできない。「Supernatural」にはコンセプトや視覚表現だけでなく空間構成のおかげで、ダイナミックな要素が見られた。Webカメラの目、羽根、切断されたスプーンの柄、完全なスプーンの画像によって一体化されるふたつの別々の映像を見ていると、21世紀版『不思議の国のアリス』から気まぐれに逃げ出してきた物体たちのようにも見え、また、SF作家のウィリアム・ギブソンがシュルレアリストのジョセフ・コーネルと交信して宇宙を動かそうとしているかにも見える。

エキソニモが使う「切り貼り」の様式は、文字通り彼らが作品を作るのに使用したプロセスでもあり、現実でもサイバースペースでも起こっている不断の更新プロセスでもある。その「切り貼り」が文学やアートに見られる20世紀のコラージュの伝統を押し進める。空想の中や他者との対話の中で生まれる相互作用の複雑な層をアートで表現しようというのは極めて人間的な衝動のように思える。交流を作り出してその成り行きを見ようとする考えもまた意義がある。それに付随して、イメージやアイディアを想像や対話から解釈しようという衝動もあるが、これはアーティストが観客の求めるものに応えることに専念してしまうと、無意識のうちに均質化へと向かってしまいうる。それゆえに批評家であり哲学者でもあったヴァルター・ベンヤミンが1923年に述べたことを考えてみるといい。「接線が円に瞬間的にただ1点において接触するように、・・・翻訳は瞬間的に、かつ意味という無限小の1点においてのみ原作と接触したのち、忠実の法則に従いつつ、言語運動の自由において翻訳独自の奇跡を辿ってゆく。」 (*1)ここでいう「瞬間的接触」とは、噴火を起こし、さざ波を起こし、真実を保ち、意味の幅を広げることのできる「水面の揺れ」なのだ。

(翻訳 松浦直美)

1. ヴァルター・ベンヤミン著、野村修訳「翻訳者の課題」『暴力批判論 他十篇』p88(岩波書店、1994年)

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