写真から映像へ 文/牧陽一

写真から映像へ
文/牧陽一

拘留された日から1年が過ぎた2012年の4月4日、自宅に軟禁されている艾未未に『艾未未読本』のゲラを見てもらおうと朝の8時半にフェイクスタジオを訪ねた。彼の朝食、小さな肉饅を一個もらった。パソコンの上の天井にはカメラがあって、私たちがパソコンの画面を覗き込むとすぐにツイッターで「誰か後ろから来たよ」と。艾未未は「ふたりの日本人」と答えている。寝室にもカメラを増やして24時間放映している。監視カメラが15個あると言うが、それをもっと増やして、全てのプライバシーを世界に向けて発信していた。政府がそんなに私を監視したいのなら、全てを見せようというわけである。報道では禁じられるまでの2日間に520万のアクセスがあったと言う。筆者はちょうどその時フェイクスタジオにいた。艾未未は写真から映像へと表現を広げていった。特に写真や映像を権力に対抗する手段として採用していった。
映像画像の力を艾未未が実感するのはアメリカ在住時1981-1993年だろう。「彼に表現者としての修養を最初に実現させたのは現代アートではなく、むしろ写真だったと考えられよう。艾未未はアメリカで湾岸戦争、警察暴力、同性愛者差別反対、ホームレスの人権運動などのデモに参加し、報道写真を次々に発表した。こうした大多数の庶民の運動や、被差別や人権問題はこの時期から彼の重要課題となっていた。また艾未未の撮った写真は警察暴力の証拠となり、警官が処分され、署長にも責任が及んだ。こうした体験から一庶民が警察暴力にどう対処するかという方法までも学んだことになる。」(『艾未未読本』p14, 15)たった一枚の写真でも世論に大きく影響することを実感したことだろう。写真映像も持つ強さを確認したのではないか。またアメリカにいようが中国にいようがどこにいても反体制的姿勢を維持する意志と方法を獲得していった。これが艾未未アメリカ滞在12年の最大の収穫だったのではないだろうか。『艾未未読本』のためにフェイクスタジオから提供された写真がある。艾未未は歩きながらカメラを胸のあたりに固定して、ファインダーも覗かず写真を撮ろうとしている。カメラがかなり身体化していたであろうことは容易に想像がつく。

艾未未工作室は2007年からいくつも映像作品を制作発表していった。(艾未未工作室DVD/C目録)そこでは事件のドキュメンタリーによって証拠を残し、ユーチューブなどで拡張していった。政府の不正は明らかであり、どんな公式発表よりも映像の方が説得力のあることを明白にしている。
さらに2011年1月25日には不慮の「交通事故」で亡くなった銭雲会の父親銭順南のドキュメンタリー『平安楽清』を制作している。「浙江省内の温州楽清市内の農村で2010年12月25日、蒲岐鎮寨橋村元村長の銭雲会(53歳)が大型トラックの下敷きになって死亡した。銭雲会は村の土地146ヘクタールが官僚によって不正に奪われた事を政府上級に訴えていたところだった。インターネットでは「銭さんは殺された」との見方が多く表明され、地元住民からも警察側見解と矛盾する新証言が出はじめたが、結局事故死として処理された 。つまり官僚の汚職を追及していた元村長が殺害された可能性がある。―2011年このドキュメンタリーに触発された左小祖咒はアルバム「庙会之旅Ⅱ(廟会之旅Ⅱ)」で「私の息子は銭雲会という(我的儿子叫钱云会)」を発表。これを歌っている老人は「不慮の交通事故」で亡くなった銭雲会の父親銭順南である。左小祖咒もまた、庶民の中でこうした事が「有り得る」と感じさせる「不正が蔓延った社会」を告発している。」(『艾未未読本』351,352p)
今回は艾未未の写真や映像に関する発言を取り上げてみた。写真の歴史を振り返った上で、かなり深く突っ込んだ議論がなされている。写真や映像と「真実」「現実」との問題を哲学的に自問自答しているが、こうした「理解」が今日の彼の活動の根幹をなしていることは間違いないだろう。
軟禁が解けたはずの2012年6月23日現在、艾未未は新たに「重婚、色情の伝播」の疑いで拘束が続いている。政府はどうしても艾未未を自由にはしたくないようだ。暴力で強制的に自由を奪うという原始的な政府の姿が世界に晒され続けている。

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