艾未未のことば 4 生命の中の一秒は全て同じだ

生命の中の一秒は全て同じだ  
訳・責任編集/牧陽一   

*このインタビューは雑誌『撮影の友』2008年8月7日号に収録された内容をもとにしています。

写真から映像へ 文/牧陽一

撮影の友編集部(以下ST) 一部の人の写真は、生活や自然には近づいていないと感じるのではないですか?

艾未未(以下AWW) 写真が生活から遠く離れているのではなくて、いささか唯美的で、まったく別の世界を写しているのだ。

ST あなたのブログを見ると随分気ままに撮っていて、評価は一定ではありませんね。あなたはそれをどう見ていますか?

AWW あなたが表現と生活の関係を如何に考えるか、一枚の写真からか、それともひと山の写真を通じてか、写真を事実として表現するのか、それとも行為として表現するのか。そうしたそれぞれ異なった認識がある。写真からそれぞれの撮影者がとる違った態度を見ることができる。

ST あなたの態度は?

AWW 私は、私の表現が、何も表現しなくなるようになることを望んでいる。表現することと表現しないこととの境界線を平らに塗りつぶしたい。撮る理由そのものを失うまで大量に撮るのだ。私はたくさんのものを撮っている。ブログに載せているのはほんの一部だ。私たちは眼で見ているというのに、どうしてその上まだ記録し、最後にそれを平面の世界に変え、化学あるいはデジタル方式を通じて現実の秩序あるいは心理の秩序を完成し、1つの限定的な情報にするのか。1枚であろうと、シリーズであろうと、一時期の作品群であろうと、やはり写真は限定的な情報だ。いくらか具体的な事実や撮影対象に特徴がある。例えば戦争、地震、日常などだ。撮影者の関心を反映させたものもある。例えば文化、興味、態度、それらは世界に対する撮影者の理解を構成している。写真とは外在する世界への解釈であり、内在するあるいは自己の世界の叙述であり、普通の記録から今日の芸術の範疇まで、見るという問題からは離れられない観者のゲームだ。

ST あなたは、写真とはあなたに代わってものを見て、記録するものだと思っているのですか?

AWW 単純な目の問題ではなく、閲読でもない。何を見て、どのように見るかという構造を含有し、とても強い主観的な意図を含んでいる。いかなる写真もいったん生成されれば現実とは関係がなくなり、写真そのものが現実であり、写真が使った素材が過去となる。

ST あなたのブログはどんな形式ですか?

AWW 私は形式がないことを望んでいるが、日記であってもいいし儀式であってもいい。それはすべてであってもいいし、存在或いは不在であってもいい。

ST 毎日ブログにあんなに多くの写真をアップするのは大変な仕事量ではないですか?

AWW:ブログは仕事量ではない、あるいは呼吸も仕事量だ。つまり仕事とみなした時に仕事量となるのであって、撮っている時には撮っていることを意識してはいない。デジタル記録方式は以前のカメラとは違う。私は20年余りフィルムのカメラを使っていたが、デジタルはいっそう気ままで、気楽な方法を提供し、儀式的な感じがとても少なくなった。フィルムだと技術条件やコストを考えねばならず、すぐに結果を見ることができなくて、想像と期待があったが、今はそういうことはすっかりなくなってしまった。いつでも撮ることができて、「連写」もできる。始まったばかりの頃は多くの人がフィルム式で写していたが、今では無限に撮ることができる。無限に撮れるということは、実際は撮らないということと大して差が無くなった。あなたは選択なしにシャッターを押せばいい、すぐに見て、削除するのも、共有するのもとてもすばやい。方法はつまり内容であって、以前とは大きく異なっている。

ST これは写真を芸術から更に遠くさせたのではないですか?

AWW 分かりやすく言うと、写真は技術条件を通じて撮影記録を完成する。フィルムであろうとデジタルであろうと、技術条件を満たして出来て初めて写真と呼ぶ。写真の品質は異なってくる。それは善し悪しの問題ではなく、もう慎重にならず、とても気ままに撮っていいということだ。写真の質がすべてを決定すると言っているのではなく、一画面中の情報量、関連する事柄、完成度、持ってくる可能性なども重要だ。しかしそれも全てではない。質が悪い写真も、その写真の持つ質であるし、気の向くままの態度も態度であることには変わりがなく、それらはまた別の写真として存在する。

ST 建築と写真にはどんな関係がありますか?

AWW:写真の概念はとても広範だ。建築も同様で、橋梁やタワーをつくるのも一個のハンガーをつくるのもすべて建築と称することができる。つまり、物質の構造を通じて生活環境を改造することをすべて建築ということができるのだ。写真も同様で、全く撮影のできない人がシャッターを押したものでも、経験のある写真家の撮った写真でもどれも写真であって、すべて或る場所のある時間を記録し、撮影者が採集し、情報で濾過した過程だ。それらは異なった領域に属してはいるが、共通点はそれらがすべて人の表現であり、表現の前にまず理解があり、理解の後にやっと表現したいと思うことだ。

ST 北京オリンピックのプロジェクトをあなたは撮りたいと思いますか?

AWW 鳥の巣の建設過程を撮影して、北京空港T3も撮った。3年前に始まってから、完成するまでの経過を。

ST とても整っている写真ですか?

AWW 観念的な写真。とても冷淡であり、すべて同じレンズの絞り、同じ構図で撮ってある。最初から完成するまですべて同様だ。T3の写真は百枚選んで、本がすぐ出版される。鳥の巣の写真の方は9月12日前には出る。

ST オリンピックプロジェクトと地震ではどちらの方があなたの撮影したいものだったのでしょうか?

AWW:地震も、オリンピックの工事も、私はどちらも撮った。それだけではなく、私は視覚のおよぶすべてに興味がある。私は立ち退きから取り壊しされている状態も、新しい家がまだ建っていない状態もたくさん撮った。地震の後の何日かは、もともと写真を撮るためではなくではなく行ったつもりだったが、映秀へ行くと、情況は想像していた以上に深刻だった。


ST あなたがニューヨークにいた頃、冷蔵庫の中すべてがフィルムだったそうですね。その時は、たくさん写真を撮ったのですか?

AWW ニューヨークでの写真は1万枚ある。用事がない時、手にカメラがあれば時間つぶしができる。あの頃はとても好奇心が強くて、突発的事件を撮ることがあった。『ニューヨーク・タイムズ』に電話をかけると、彼らはすぐさま現像して、必要な写真を選んで、私にお金を渡し、翌日朝3時には新聞に載せた。『ニューヨーク・タイムズ』、『ニューヨーク・ポスト』、『朝日新聞』は私の写真を使ったことがある。すべて電話をかけたら載せてくれた。最初に新聞に発表した写真は、ある人が自分で撮影し保有してたもので、警官の暴力に関係がある写真だった。裁判所はそれを必要だと言ったが、彼自身は渡したがらなかった。裁判所を信じてないからだった。それが理由で裁判所は彼を捕まえた。私は彼のことを知っていたから、起訴の日に出掛けて行った。彼は掌に2行の文字を書いたがその意味は市長を辞めさせろ、だった。彼は法院に入ろうとする瞬間、手を開いて私に見せ、私はすぐに撮影した。『ニューヨーク・タイムズ』はこの写真を掲載した。このニュースは彼にとっても、公衆にとってもとても意義がある。私にとっても興奮するものだった。私は記者になりたくはなかった、私はただメディアシステムを知りたかっただけだ。
それ以来撮ってきたものはすべて暴動写真で、私は前を突き進んだ。警官も私をマークしていて、彼らも私を撮る。撮影の範囲も数量もすべてとても大きいが、私はいかなるメディアの身分もなかった。以前撮った白黒写真、20数年現像しなかったのを、今やっと現像したが、これから整理しなければならない。

ST どんな写真家があなたにいくらか大きな影響を与えましたか?

AWW 私は写真を学んだことがない。私はロバート・フランク(注1) を知っているし、彼を撮ったこともあるが、彼の影響は受けていない。

ST あなたは荒木経惟の作品が好きですか?

AWW 荒木の作品を私はあまり好きではないけど、あんなに多く女の子を撮るなんてすごく面白いとは思う。どのような芸術ジャンルに属するかは関係ない、重要なのは感染力と独自性だ。荒木は一生を通じてこんなにも多大な独自性を持っている。世俗の写真ではない。地震の時、一部のメディアの写真はとても俗悪なものだった。何が俗悪なのか?流行りの審美観で特殊な事件を歪曲し、人と人との間のいわゆる慈しみを表現することだ。地震の時の撮影は慈しみを表現するのではなく、恐れ、そして人が自然界で自らを喪失し全く寄る辺がないことを表現すべきだというのに、多くの人の撮ったものは恩に感謝し、徳を讃えるものだった。一枚の写真を見る時、まず人間であって、それからやっと中国人ということだ。荒木は一個の人間であって、私たちの尊重するのは彼の感情だ。私たちが彼を知ってから、やっと彼が日本人であることを理解するのだ。写真とは人の意志の表現であってその他の表現ではない。

ST あなたは世界各地で記念写真を撮っていますが、これはこれらの場所への蔑視ですか?それとも個人の表現ですか?

AWW その両方だ。私はその場所を蔑視するし、また同時にこれが私個人の表現だ。だが、これらの写真の大多数は手持ち無沙汰で、そこいらへ行って記念撮影でもしようと思って撮っただけだ。あなたはそれが何だと言うのか?自分で自分の性質を決めることもできないのに、私は自分がどうであるかなんていうことは言えやしない。言うなれば、私がどうするかによってやっと自分がどうなのかが分かる。大多数の教育はすべて目的が先なのだ。それからどうすべきかが決まるが、しかしそれには理由がない。そうすれば、自分をいくらか自由にできる、なぜならそうでもしなければとてもつまらない。教育が行なうすべての努力は、あなたを永遠にあなたにはさせないことだ。

ST あなたは行ったところをどこでも写真に撮っています。これはどのようにやりおおせたのですか?誰かに止められませんでしたか?

AWW アメリカではカメラをたたき落とされたことがある。奴らは今自分たちがしていることを記録されたくないからだ。上海では警察に没収されて、警察署に連行された。なぜ勝手に撮るのかということが理由で日本でも止められた。私は見たものを撮る。だからそうした問題は避けられないので、私の身に降り掛かるこうしたことについてはあまりに気にかけてはいない。自分の意図によってやり、相応する責任を引き受ける。この世界には穏当な事などない、そうでなければ事を始める前に「いけ(・・)に(・)え(・)」になってしまう。

ST あなたの写真が持つ風格はどのようなものですか?

AWW 写真には風格はない、その度ごとの動機、意図、物事自体と関係がある。表現の前にどのようにして自分の理解を弱めることができるか?なぜなら理解自体に問題があるからだ。私は人の世界に対する理解が完全に信頼できるものとは信じていない。あなたは表現の中に自分の理解を付加させるだろう。なぜなら理解していない表現には表現への願望さえないからだ。どうして撮るのか?写真は人の生活態度、もの事への取り組み方と関連していて、特殊な技巧ではなくて、技巧を希薄にしなくてはいけない。技術の発展は行う事をますます容易にさせるが、事「自体」は永遠に容易になることなどあり得ない。なぜなら別のレベルでは私たちの態度はとても扱いにくいものだからだ。

ST 今ますます便利なツールが出てきて写真を撮ることができる、あなたは受け入れていきますか?

AWW:これらの撮影のやり方、写真を撮る特殊な状態と気分は、伝統的な写真が備えていなかったもので、写真を撮れないような人が空っぽな写真を撮り、すぐにウェブやケータイで順次伝えていくのとは、別の意味を持つ。最初は写真の原版を自分で作っていた。私はケータイで撮ったこともあるが、まだとても認可できる質のものではない。私はカメラをずいぶん長い間使ってきたからね。写真の画質の要求はそれぞれ異なっている:ある画質は良くなければいけないが、ある画質は悪い方が逆にいい。写真はもうどれもこんなに鮮明になっているのだから、鮮明であることはそう重要ではなくなった。私たちの眼はとてもすごいもので、写真撮影とは開きがあるのだ。

ST あなたが今最も多い時間を何に費やしていますか?

AWW 取材やブログに時間を使っている。単にそれが好きだからね。何でもするけれども、最も重要な時間などというものはない。生命の中で毎秒はすべて同じだ。

ST あなたの会った人はすべてあなたに撮られて、ブログに載せられるのですか?

AWW:普通はすべて撮る。私は時々私の会ったすべての人と彼らの身分を整理してみようかと思ったりする。数日前にはドイツの緑の党の指導者とのら猫を救う志願者に会った。

ST どんな人に会っても心理状態は同じですか?

AWW すべて同じだ。

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写真について

もし私たちが写真の歴史を回顧するなら、写真が芸術表現として広範な社会に認可されたのは20年余り前のことにすぎない。これ以前の写真は史実を記録する純粋な技術手段とみなされてきた。
ここ数年、写真芸術に発生した変化は依然として内容、色彩、光影、構図、叙事などであり、多くの要素は西洋絵画史に関係する方法と特徴を留めている。写真は常に一つの手段であり、人々の習慣的認識と表現方法から離れられないものとみなされてきた。この歴史的誤解は、更に深いレベルの哲学的意義上の古くて恒久な問題から来ており、たとえば何が真実か;真実は記録されるべきなのか;記録した真実と現実にはどのような関係があるのか、といった事だった。明らかにその結論はいっそう写真が幻影にすぎず、真実ではないものの反映であると言っているかのようだ。この幻影は物質の存在としてまぎれもない事実になる。その物質的特徴が動か静か、彩色か白黒か、大型サイズかカードサイズか、フィルム現像かデジタル・シミュレーションかに関わらず、写真がいったん発生したら、新しい独立した事物がもつすべての特徴を持つ。これは写真という物質自体が、すでに存在するいかなる物質とも違うことを証明している。表面的に見ると、それは被写体の記録から来ているが、このいわゆる客観的な真実の記録は、さらに大きな誘惑と欺瞞性を持っていて、いっそう現実に忠実でないばかりか私たちの生理的な体験と表現方法の根幹へと懐疑を投げかける。
写真は狡猾で危険な媒介であり、媒介とは方法であり、意味であり、どこにでもある希望の盛大なる宴会であり、越えることのできない絶望の陥穽である。写真は最終的には真実を記録し表現することはできない。写真は現れた真実性で真実を押し開け、現実を私たちからさらに遥か遠くへつれていく。
東洋人は審美的態度において別の可能性に傾いている:彼らはこれまで人の芸術活動が認識の手段だと考えたことがない、あるいはこの命題にはさして興味がなくて、認識過程自体の方法、認識の方法を表現することが認識の最終的な本質だと思っている。この本質は世界が心の中ではどのようなものかということであって、いわゆる外界の真実は、更にいっそう幻影となる。その宇宙の真実には限りがあって非情で、人のものである真実はずっと心理的で情緒的で、不確定で、削り出すこともできない、唯心唯我的だ。そうであるならば、自己に対する認識、自己の内心の体験への認知はいっそう困難で面白いのではないだろうか? (2006年2月9日)

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写真

写真は一種の実践としてもうすでに事実に対する記録でなく、事実自体となった。物質の基本的な意味、たとえば尺度、密度、虚実と事実として含有するはずの意義指向を、映像はキャリヤーとして備えている。事物の映像に対する理解と事物自体の意味としての写真は奇妙な関係を成している。映像の事物の重要な参照物としての真実性と可能性は分離し、この分離の中で映像を再び事実自体にさせる。
映像は事実自体としてすでに撮影という活動に別のレベルの意義を獲得させる、それは私たちの知る様々な知識のように似て非なるものである。私たちは映像に積載した情報を信じるかあるいは信じないか、いずれにしても私たちの映像と経験の可能性に対する懐疑を払拭する役には立たない。光線、密度とデータの解析は、理性と感情を事実に対する依存と不案内な感じの中で遊離させる。
写真が技術と記録の原始的状態から離脱する時、写真はただ瞬間の状態から事実の可能性へと転換する。この転換が写真を人の活動にさせ、別の意味を含有し、それは存在のみとなる。生きているのは疑いもない事実にすぎず、つくることはこの事実と真実の関係のないまた別の事実であり、両者は奇跡の発生を期待している:それは意義に対する新たな質疑の提出である。写真は仲介物として、生活と感知活動を、絶えず見知らぬ世界でのあがきの中へと推しこんでいく。 (2003年7月25日)

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