イタリア国立21世紀美術館(MAXXI) レビュー

 ローマにイタリア初の国立現代美術館、国立21世紀美術館(MAXXI)がオープンしたことはすでに本誌ニュース欄にてお伝えずみであるが、実見する機会があったので早速詳細をレビューする。

 1999年に行なわれた設計コンペティションから11年、総面積2万7000平方メートル、総工費1億5000万ユーロ(およそ163億5000万円)の美術館は、当初2005年に予定されていた開館が大幅に遅れ、昨年2009年秋に建物は完成披露されたものの、使用目的の達成までにはさらなる時間を要し、2010年5月30日、ようやく美術館として開館した。

 プリツカー受賞建築家ザハ・ハディドによる建物は、ローマの市中心部から離れているとはいえ、規模も大きく遠くから見ても非常に目立つ壮大な建築。曲線と直線が奇妙に入り交じり直観的に捉えるのが難しい。外観では巨大なコンクリートの箱を支える丸い支柱が5本ずつある他、前庭のデザインにみられるストライプ的な要素がところどころ組み入れられている。建物前のテラス部分はゆるやかな坂となっており、そこに立つだけで平衡感覚を揺さぶられる。

 内部に足を踏み入れると、入口部分はいくつもの黒い階層として階段部分が不規則に重なって見える吹き抜けがあり、上階にあがる幅広の階段および階段の延長線上の渡り廊下が目立つ。階段は黒い鉄でできているものの側面や階段の一部にLEDらしき白いライトが組み込まれ、足下の素材に工場で使う金属メッシュを使用しているため、下階/天井が透けて見え、幅広の階段が交差しているにも係らずトップライトを遮らず、さらに階段に組み込まれた光が浮遊するライトの役割を果たしている。受付はアイランド式で独立しており、ザハに特徴的な曲線でできた白のカウンターで未来的な印象を与える。


Exhibition view, Luigi Moretti

 MAXXIは21世紀の建築と美術を紹介することを目的とした美術館であり、建築部門と美術部門にそれぞれディレクターがあり、双方を重視している。
 建築展はルイジ・モレッティの展覧会。模型と映像、写真などに彼自身の美術コレクションを中心とした、極めて正統派の展覧会であったが、ガブリエレ・バジリコがコミッションワークとして撮影したモレッティの建築物の写真と、ハディドの建築に呼応するように天井から曲線と直線を交えつつ見せた展示が展覧会に強度を持たせていた。
 モレッティの展覧会が行なわれていた展示室のさらに奥にはハディドのMAXXI建設に関する資料のアーカイブ室。美しいキャビネットが目立つ。これは功労賞的な展示だろうと解釈する。

 開館記念展覧会における最も大きな展覧会は『Spazio』(空間)と題されたコレクション展。これも館の性格を象徴するように、建築と美術の双方の分野から収集した作品を展示している。セクションは4つ。「Natural Artificial」(自然 人工)「Maps of Reality」(現実の地図)「from Body to the City」(身体から都市へ)「the Stage and the Imagination」(舞台と想像)にわかれている。ギャラリーとよばれる各展示室は20世紀的現代美術館のホワイトキューブとは性格を異にする非常に独特な空間。壁にも床にも傾斜があり、不均衡、それでいながら展示は非常に見やすい。これは流れるような導線のせいかもしれない。
 「Natural Articficial」では、ハミッシュ・フルトン、アンセルム・キーファー、ピノ・パスカーリ、アンディ・ウォーホールら。特にこのセクションを象徴していたのはジョゼッペ・ペノーネによる「Sculture di linfa」(樹液の構造)と題された大型インスタレーションとその手前に展示されたギルバート&ジョージの『General Jungle or Carrying on Sculpting』シリーズからのドローイング4点。前者は2007年のヴェネツィア・ビエンナーレで展示された作品で、大理石の床、皮で型取り着色されて作られた樹皮で覆われた壁、 中央には木を彫りだすようにして作られた木柱が置かれている。後者は1971年に制作された23点ドローイングからなるシリーズから「As day breaks over us we rise into our vacuum」「Nothing breath-taking will occur here but…」「Our limbs begin to stir and to form actions of looseness」「We stroll with specialised embarressment and our purpose in only to take the sunshine」が各1点ずつ壁に展示された小部屋。彼らがロンドンの公園でパフォーマンスを行なった際に撮影したイメージを壁に投影し、それをチャコールでトレースしたドローイングから成るインスタレーション作品で、イギリスの公園という伝統的な風景画の要素が、パフォーマンス、写真、ドローイングさらにインスタレーションと何層にも及ぶフィルターを通ることによって、もはやもとの対象物が曖昧になり破片だけを抽象的に見せられるような不思議な空間へと変態している。
 「Maps of Reality」は政治的な意味合いを持つセクション。アリギエロ・ボエッティの「Mappa」(1972-73)は無難な選択だとしても(それでも外せないと納得させられるのがこの作品の素晴らしいところ)、ウィリアム・ケントリッジの「North Pole Map」(2003)、ローレンス・ウェイナーの壁面インスタレーション、アトリエ・ファン・リースハウトの作品など、小さいセクションながら、領土とはなにか、国とはなにかを考えさせるセクション。暴走しがちな元首に振り回される自国と照らし合わせて見ているのか、と思わず穿った見方をしてしまう。


Alfred Jaar, Installation view, Infinite Cell (2004) installation

 「from Body to the City」は展示室を2つ使った大きなセクション。キキ・スミス、フランシス・アリス、チェン・ゼンなど身体的な作品を集めている。もちろんマリオ・メルツなどのイタリア現代美術史に欠かせない作家の作品もある。イタリア人作家であるヴァネッサ・ビークロフト、ララ・ファヴァレットらだけでなく、キキ・スミスやローズマリー・トロッケル、などが入っているこれまでイタリアの美術館に見られた男性中心(=アルテ・ポーヴェラ中心)の現代美術史から、女性的な視点が組み込まれていることに好感を覚えた。美術部門のディレクターが女性であることも一因であろう。このセクションのタイトルにあるように身体的なものから、都市空間へ拡張していくが、通路のような展示空間を通りすぎて行くことによって物理的にも「from…to…」の移動が感じられる展示であった。アルフレッド・ジャーの「Infinite Cell」(2004)はアントニオ・グラムシが1929年から1935年の間投獄され、『獄中ノート』を執筆した独房を再現したものだが、中に鏡を貼り、思想の自由について言及した作品。メキシコのホームレスや野犬を映しだすフランシス・アリスのスライドプロジェクション作品「Sleepers II」(2001)、第2次世界大戦中に破壊されたリヒターの生地でもあるドレスデンの街の航空写真をもとに描いたゲルハルト・リヒター「Stadtbild SA (219/1) 」(1969)など単なる都市風景ではなく、政治的社会的意味合いを持たせたものや、パブリックスペースを意識した作品を中心に選んで展示しているのが印象的だった。自分の身体からでたものがどうしようもなく社会と結びついてしまうということが物理的に辿っていくことによって理解できる展示である。特にジャーの作品は、作品自体については容易な解釈を許容するものではあったが、少なくともこの展覧会においては身体的空間から社会的空間への通過点として、牢獄という身体=拘束=社会を象徴するにふさわしい作品だったと思う。

Installation view “SPAZIO” with the works of Luigi Ontani, Wiliam Kentridge, Giulio Paolini, Vedovamazzei

 「the Stage and the Imagination」は古典的な美術や演劇を中心とする他の芸術と結びつけられている作品を中心に展示。フランチェスコ・ヴェッゾーリのビデオインスタレーションはヴェネツィア・ビエンナーレで観たときはその目に余る(アメリカ批判の)政治的コメディに困惑したが、ここではあからさまなフィクションとして呈示されており、作品の面白みが伝わってくる。同様の展示で美しかったのはルイージ・オンターニ『Le Ore』(1975)、ウィリアム・ケントリッジによる「魔笛」のドローイングをつかった小さな劇場「Preparing the Flute」(2004-2005)、ジュリオ・パオリーニの等身大人物石膏彫刻「Tre per Tre」(1998-99)、ナポリ出身の2人組ヴェドヴァマッツェイによるシャンデリア作品の組み合わせ。作品全体がひとつの演劇の舞台にいるような、スペクタクルな空間となっていた。(注1)このセクションには他にイリヤ・カバコフのインスタレーション、ハイム・スタインバック、インカ・ショニバーレの作品など。
コレクション展以外の美術の企画展はふたつ。トルコ人ビデオ作家クトゥル・アタマンの展覧会はいまひとつ。彼の初期作品に見られるドキュメンタリーの手法を使いノンフィクションとフィクションの間で揺れ動いていた面白さは薄まり、近作は装置に多くを負った映像作品になっており、作品としての強度に陰りがでてきたように思えた。

 もうひとつはアキーレ・ボニート・オリーヴァがキュレーターを務めたジーノ・デ・ドミニチスの個展。1階の会場は彼の70年代から80年代のパフォーマンス作品を展示。時代別ではなく、作品の性格別に展示で見やすく構成されている。惜しむらくはこの個展が行なわれたスペース。ハディドが得意でないと思われるホワイトキューブを無理して作ったような空間であった。天井が波状にデザインされているため、天井と壁の間に奇妙な隙間が生まれ美しさを損ねている。また最上階の展示室に彼の絵画作品が展示されていたが、物理的な距離がやはり障害となって、パフォーマンス作品との共通性を見いだすことが極めて困難であった。

 特にコレクション展を観てイタリアという国の底力を強く感じた。初めての国立現代美術館とは言え、この国には現代美術そして現代建築の聖地のひとつであるヴェネツィアがある。コレクションされた作品に、ペノーネ、ヴェッゾーリ、カバコフなどヴェネツィアで観た大型インスタレーションの一部とも言える作品がいくつかあった。ヴェネツィアを擁するイタリアだからこそ、こうした作家の主要作品とも呼べる作品が収集できる。このアドバンテージは大きい。イギリスやフランスの様に、決して国が主導をとって文化政策を進めている訳でないが、結果としてこうしたアドバンテージが良い結果を産み出しており、さすがイタリア恐るべき、と感じた。ヴェネツィア・ビエンナーレに建築部門と美術部門があるように、MAXXIにもふたつの部門があるのもそう考えると非常に理にかなっている。
 一方でこれからの前途は非常に困難である。ベルルスコーニの黒い影はMAXXIにも覆いかぶさる。開館に駆けつけた現代美術に対して好意的でないベルルスコーニ政府の文化大臣サンドロ・ボンディは記者会見で「ベルルスコーニのおかげで開館にこぎつけた」と発言し、イタリア人記者たちからブーイング。彼はカンヌ映画祭にベルルスコーニ批判の映画が出品されたことで映画祭を欠席したことで有名になった人物でもある。当然予算の確保については困難が予想されるが、美術館が直面する問題はこれだけではない。現政権の直接的な美術館運営への介入である。2011年のヴェネツィア・ビエンナーレのイタリア館コミッショナーに現政権から任命された、アルテ・ポーヴェラに批判的な超保守派の美術評論家でヴィットーリオ・ズガルビがボンディ文化大臣のアドバイザーに就任し、MAXXIの作品収集、運営方針にも口を挟むことが予想される。テレビ番組での美術作品ショッピングチャンネルなどで圧倒的知名度を誇るズガルビの登場によって、MAXXIは開館からいきなりの方針転換をせまられる恐れがある。イタリア初の国立現代美術館が政治の道具として無駄に消費されないことを望みたい。

注1)ただし、ルイージ・オンターニはイタリアの2010年5月28日の日刊紙ラ・レプブリカでディレクターへの手紙を公開し、「ザハの建築は作家が欲しい空間を提供していない」と不満をあらわにしている。

文・写真/ ARTiT日本語版編集部

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