想像力を鍛える「劇場」 ― マクドナルドラジオ大学 in 鳥取
文 / 相馬千秋
朝8時。鳥取駅マクドナルド南店。BGMのない店内は、マクドナルドというよりは病院の待合室のようにしんと静まり返っている。一人で朝マックを食べるサラリーマン。会話もなくコーヒーを飲む老夫婦。隣の席では、スマホに夢中な父親を呼び続ける幼児の声が甲高く店内に響き渡る。店員はたどたどしい日本語でオーダーを受けてくれる。名札を見ると外国のルーツを思わせる名前だ。ソーセージエッグマフィンとコーヒーをオーダーし、受け取ったトレイのランチョンマットにはこう書かれている。「マクドナルドが大学に!? 鳥取県内全店舗で開校中!!」
QRコードを読み取ると、一瞬で「マクドナルドラジオ大学」の聴講科目一覧に飛び、17科目の講義をどれでもワンクリックで再生し聴講することができる。「You are listening the board cast by the McDonald’s Radio University / お聞きの放送は、マクドナルド放送大学です。」イヤホンの左から英語、右から日本語が聞こえてくる。
このプロジェクトは、2017年から継続して発展してきた、アーティスト・演出家、高山明によるアートプロジェクト「マクドナルドラジオ大学」だ。2017年、シリアやアフリカからの大量の難民が押し寄せていたドイツのフランクフルトで最初に考案されて以来、ベルリン、東京、香港、金沢、ブリュッセル、ウルサンと世界各地を舞台に展開されてきた。シリア、アフガニスタン、イラン、エリトリア、ガーナ、ソマリア、スーダン、パレスチナ、中国、コンゴ、日本などの故国を、何らかの理由で離れ、移民や難民として生活をしている人々を「教授」として迎え入れ、彼ら独自の知恵や知識を伝授する「講義」が、マクドナルド店内ないしそれを模した展示空間で音声によりラジオ形式で放送される。マクドナルドの店舗同様、世界各地で増殖する講義の数は、今回の鳥取でのものを加えて40を超えた。
6年前のフランクフルトの様子については、「難民の移動ルートを学びの場へ変容させる「道の演劇」:ヨーロピアン・シンクベルト / マクドナルド放送大学 レポート」(ARTiT レビュー, 2017年3月16日掲載)という文章に詳しく書いたのでそちらをご覧頂きたいが、本文では6年かけて発展してきたこのプロジェクトの現在地について、難民/教授、観客/学生、マクドナルド/劇場、という3つの視点から新たに考察を加えてみたい。
難民/教授 ― 尊厳とアイデンティティ復旧のためのドラマトゥルギー
2022年末、地球上の難民・避難民が、人類史上はじめて1億人を超えた[1]。実に世界の74人に1人、全世界人口の1%以上が故郷を追われているという衝撃的な数字である。21世紀に入ってからの20年間を振り返るだけでも、数えきれないほどの紛争、迫害、災害が世界各地で発生し続けている。アフガニスタン紛争、シリア、ソマリア、イエメン、ミャンマーでの内戦、ロシアによるウクライナ侵攻戦争、アフリカ諸国でのクーデター、そしてパレスチナ・ガザへのイスラエル軍による侵攻……。日本でも東日本大震災および福島の原発事故やその後も続く度重なる自然災害で、住む場所を失ってしまった人々が避難生活を続けている。
住む家を失う。先祖伝来住んできた土地から引き離される。それは単に生活の拠点を失うだけではない。自分がどこからきて、どういうコミュニティや文化に属し、どういう人間であるか、そのアイデンティティそのものを失うことでもある。高山は今回公開された特設ウェブ上に掲載された「小中高生の皆さんへの入学案内(そしてかつてそうだった皆さんへ)」という文章の中で、ドイツで出会った難民の方々の話を受けて、このように書いている。
彼ら(難民)の話を聞くと、自分が「難民」以外の何者でもなくなってしまうことに苦しんでもいました。「わたし」が「わたし」として成立するために帰属するもの-「アイデンティティ」-が、「難民」でしかなくなってしまう危機です。母国で何をしていたか、本当はどんな人間か、どんな信念を持っているか、何が一番得意か・・といったことは問題にされず、ドイツから何かを学ぶ「難民」になるしかない。「難民」でいる限り生きていけるし、「ドイツ人」になってしまえばさらに安泰かもしれないけれど、当然ながら彼らのアイデンティティはそれだけではないし、彼らの存在はそこに収まるものでもありません。
身ひとつで母国を脱出し、ボートや徒歩でドイツにたどり着いた難民たち。彼らは一時的に施設に収容されたのち、ドイツ語を学び、ドイツの社会ルールに従うための教育プログラムを受け、やがて人手不足のドイツの労働力として社会に組み込まれていく。そこで彼らは常に、施される側であり、教えられる側である。
高山がこのマクドナルドラジオ大学で試みていることは明快だ。この構造を逆転させ、「難民」たちが「教授」となる講義を開発し、マクドナルドを学びの場に変容させることである。「難民」というイメージに閉じ込められ、哀れみと支援の対象としてのみ存在させられる「難民」たちが、ここでは「教授」として声だけの講義を提供してくれる。今回の鳥取では、新たに3つの講義が加えられた。
①昆虫学: パレスチナ出身の昆虫学者が、性フェロモンを使って害虫を駆除する方法を解説し、農薬の使用を減らすことで環境を守り、パレスチナをはじめとする虐げられた国々の農業に貢献する術を探る。
②機械加工学: スーダン出身の機械加工学者が、幼少期からの機械への偏愛と、現在の専門である「マザー・マシーン(機械をつくる機械)」について語る。
③社会学: 中国出身の女性が、嫁いだ村での体験を振り返り、社会人類学の古典『タテ社会の人間関係』(中根千枝著)を読む。
これらの講義をつくった鳥取在住の三人は、留学など自らの意思で日本に来たという意味では、欧州に危険を冒して漂流してきた難民たちとは異なる。だが、祖国で紛争が激化する、家庭が崩壊するなど、何らかの理由で戻る場所を失い、日本で必死に生きている人たちだ。彼らは高山との対話を重ねる中で、自らの専門性や逆境から生まれた教訓や知恵をもとに10分から20分の講義テキストを執筆した。彼ら自身がそのテキストを母語ないし英語で読み上げ、副音声で日本訳の朗読がオーバーラップする。
例えば、今回社会学の講義をつくった中国人の「教授」は、20年前に嫁いだ人口300人の農村の美しい描写から語り始める。だがそこは、携帯さえ通じない陸の孤島であり、日本旧来の閉鎖的なイエやムラ社会そのものだった。家庭内では姑による陰湿ないじめの連続で、それでも逃げ場のない彼女の日常が、これでもかというエピソードを交えて描写される。正直、講義というフレームがなければ聞いていられないような酷い差別と虐待である。彼女は講義の最後、1967年に書かれ、その後も社会人類学の古典となった中根千枝の『タテ社会の人間関係』を淡々と読み上げる。離婚後、中国に戻ることもできず、鳥取で小学生の娘と生活保護で暮らしているというその女性は、ムラ社会日本における「難民」であると言えるが、高山は彼女に壮絶な体験のその悲劇性ではなく、あくまで講義という形式で距離をとって語らせる。彼女は中根の文章が50年以上前に書かれたにも関わらず現在も日本が変わっていないことを指摘し、「日本に住むかどうかの材料にしてください」と講義する。
考えてみれば、彼らが自らの力で難民的状況を打破できるのであれば、彼らはもうその難民的状況を脱しているはずだ。自らの意思や力ではどうにもならない状況の中にいるから「難民」なのである。そんな彼らの悲劇を聞いて、涙を流したり、共感したりするだけでは、彼らのその「難民性」が強くなるだけだ。彼らに最も必要なものは、彼らが彼らの生きてきた苦難を受け止め、それをある種解放させる語りの力であり、価値の転換である。それが彼らの尊厳とアイデンティティの復旧につながる。悲劇を悲劇として語って、それを消費したい人たちに提供するのではなく、語る主体である難民たちが、自らの力で尊厳を回復できるようなフレームと構造を作り出すこと。それによって難民たちをエンパワメントすること。マクドナルドで流れる講義は、高山と難民が共に執筆した一種の戯曲でもあり、それを朗読することによって、難民たちの苦境や孤独を別次元へと昇華させる演劇の形式であるとも言えよう。
実際、鳥取でのマクドナルドラジオ大学初日には、この講義をつくった中国人女性が娘とともに会場を訪れ、満面の笑みで人々が彼女の講義を聞く様子を楽しんでいた。これまで語ることさえできなかった負の記憶が、誰かの学びへと転換された時、彼女のなかで何らかのポジティブな変容が訪れたのではないだろうか。
観客/学生 ― 「避難」する身振りの訓練
「教授」による講義を受け取る「生徒」である我々観客の経験は、至ってシンプルだ。マクドナルドでハンバーガーやポテトをオーダーし、QRコードを読み取って、イヤホンから流れる講義を聞く、それだけの身振りである。それは通常のマクドナルドの客の身振りと全く見分けがつかない。ハンバーガーを食べながら、スマホからイヤホンを通じて声を聞く。その声が、YouTubeから流れる音楽か、マクドナルドラジオ大学から流れる講義かくらいの違いしかない。そしてその身振りは、マクドナルドが存在する全世界、100以上の国の4万を超える店舗で共通の身振りである。そこに、マクドナルドラジオ大学を聞く客の身振りと、マクドナルドでスマホを充電しWi-Fiをつなぐ難民の身振りが重なり合う。
早朝のマクドナルドでソーセージエッグマフィンを食べながら3つの講義を聞いていた私は、店内でたったひとりの「マクドナルドラジオ大学」の学生であると同時に、いまこの瞬間、同じように鳥取県全域10店舗のマクドナルドで講義を聞く大勢の学生のひとりかもしれない、というフィクションと現実の間を楽しんだ。講義の日本語訳の朗読は、決して達者とは言えない、おそらく地元の中学生か高校生の不慣れな声である。彼らもまた、鳥取県内のどこかのマクドナルドで、自分の声を介して届けられる講義を聞いているかもしれない。あるいは、斜め前に座ってスマートフォンで何かを聞いている中年男性も、講義を聞いているのかもしれない。ここでは、誰もが孤独に講義を聞く「学生」に見えてくる。そして自分も、そう見られているのかもしれない。その感覚は、私をより透明な、不可視の存在にしていく。講義の声が脳内に紡ぎ出す異世界と現実世界の間に宙吊りになって、自分もまた、何かを逃れ、マクドナルドに一時避難して潜伏しているような身振りが自然に生まれてくる。
誰もが自らの中に孤独や不安、避難したい現実を抱えている。それらをめぐる内なる声や痛みと、難民による講義の朗読が、二重に重なり合う。その時、自分のテーブルが、スマートフォンが、壮大な「マクドナルドラジオ大学」として立ち上がるように思えた。そこで学ぶべきは、語弊を恐れずにいれば自らの「避難民性」を鍛えること、その想像力の訓練ではないか。その訓練は、目の前の難民を気の毒な他者として憐れむのではなく、彼らと自分をつなぐ想像力の回路を太く鍛えていくことを可能とする。それは単なる憐れみや共感ではなく、自らの身体で演じられ、将来的に想定されうる「避難民」の身振りでもある。その訓練は、自分の努力ではどうにもならない状況に飲み込まれたときに、自分を救う助けになるかもしれない。それは、地球上の難民・避難民が1億人を超え、誰もが物理的にも精神的にも難民になり得る時代の、「予行練習/身振りの訓練」としての演劇の形である、とも言えないだろうか。
マクドナルド/劇場 ― 逆説から構想された、演劇の社会実装
全世界、100以上の国で4万を超える店舗をもつマクドナルドは、その徹底した画一戦略ゆえに、地域の固有性を奪うグローバリゼーションの象徴と捉えられてきた。また、国際政治情勢の影響や批判を受けやすい企業の筆頭でもある。ロシアによるウクライナ侵攻直後には、ロシア全土のマクドナルドが撤退し、最近ではイスラエルのフランチャイズである、イスラエルマクドナルド社がイスラエル軍への食料を提供したことを受け、マレーシアなどのイスラム諸国でマクドナルドの不買運動が起きている[2]。
しかし高山が着目したのは、こうしたマクドナルドの逆説である。彼は特に欧州において、客も労働者も含めてもっとも多様な人々が混じり合う共生を実現しているのはマクドナルドだと言い切る。画一されたメニューは、現地の言葉がわからない旅行者や他所者でも安心してオーダーができる。画一的な接客システムは、どんな文化的背景を持つ外国人でもアルバイトの職を得やすい。徒歩で移動を続ける難民たちにとっては、Wi-Fiを受信でき、スマホを充電できる生命維持に関わる公共インフラだ。この逆説こそが、高山がマクドナルドを「未来の劇場」と呼び、その実践場として選ぶ最大の理由である。
マクドナルドは、キッチンから客席までさまざまな人が入り混じっています。実際に多文化・多民族の共生を実現しているマクドナルドは、来るべき「未来の劇場」とさえ言えます。近所にあるマクドナルドで、アカデミズムや西洋文化からこぼれおちた多様な知に触れることができたら、学びの可能性はどれほど広がることでしょう。
今回の鳥取では、1ヶ月の間、県内にある10店舗のマクドナルドが、高山の演出を受け入れる「劇場」となっている。フランクフルトでの初演時から6年間、マクドナルド社との粘り強い交渉を経て実現した今回の展開は、高山が希求する演劇の社会実装のさらなる一歩であることは間違いない。そこで演劇は、舞台上に表象される「作品」としてではなく、都市や社会の中で活用される「機能」となることが目指されている。
移民・難民が地球規模の課題となって久しい21世紀、今も毎日、シリアで、パレスチナで、ウクライナで、ミャンマーで、土地を奪われ移動を余儀なくされる人たちがいる。私たちは何もできない。構造的暴力を前に、演劇やアートはあまりに何もなす術がない。だが想像することはできる。たった一人の難民の声を聞き、彼らから生きる術を学ぶことで、彼らの尊厳に寄り添うことができる。そして自分自身の内側にある孤独や不安に向き合うことができる。想像力を鍛える場。それは、人類が2500年以上かけて、劇場の中に求めて続けてきた機能でもある。その「劇場」は、潜在的に全世界のマクドナルドの店舗に広がり、これからも避難民・難民と、そこで学ぶ私たちを出会わせてくれるはずだ。今この瞬間にも、鳥取のひっそりとしたマクドナルドで、誰かがその声を聞きながら、遠くの誰かの遠くの現実を想像しているようにー。
[1] 国連UNHCR協会「数字で知る、難民・国内避難民の事実」https://www.japanforunhcr.org/refugee-facts/statistics
[2] Altarnaオンライン/Yahoo News「イスラエル兵にハンバーガー無償提供で不買運動 マレーシアなど」https://news.yahoo.co.jp/articles/de7fe316114fbbe79f68c42ed1c71895c6cc3e28
ミュージアムとの創造的対話04
ラーニング/シェアリング ―共有から未来は開くか?
2023年11月26日(日)-12月28日(木)
鳥取県立博物館 第1・第2特別展示室および中庭
鳥取県内のマクドナルド(※高山明作品のみ各店舗の営業時間内に体験可)
https://www.pref.tottori.lg.jp/museum/
企画展担当学芸員:赤井あずみ(鳥取県立博物館 美術振興課)
マクドナルドラジオ大学
https://www.mru.global/information/
相馬千秋|Chiaki Soma
NPO法人芸術公社代表理事。アートプロデューサー。演劇、現代美術、社会関与型アート、VR/ARテクノロジーを用いたメディアアートなど、領域横断的な同時代芸術のキュレーション、プロデュースを専門としている。過去20年にわたり日本、アジア、欧州で多数の企画をディレクション。その代表的なものは、フェスティバル/トーキョー初代プログラム・ディレクター(2009-2013)、あいちトリエンナーレ2019および国際芸術祭あいち2022パフォーミングアーツ部門キュレーター、シアターコモンズ実行委員長兼ディレクター(2017-現在)、豊岡演劇祭2021総合プロデューサー。2023年ドイツで開催された世界演劇祭テアター・デア・ヴェルト2023のプログラム・ディレクターを務めた。