「雪」 曽根 裕展


【タイトル】 雪
【アーティスト名】 曽根 裕
【会期】 2010年12月10日(金)~2011年2月28日(月) 

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 私は雪が好きだ。
 それは最近好きになったようなものではなく、子供の頃からのことだったと思う。父に連れられて谷川岳の天神平スキー場に行ったことが、さらにスキーを通して雪に熱中するはじまりとなった。ロサンゼルスに移住した現在も、年に約30日はシェラ・ネバダのマンモス山でスキーをしている。私はスキーを通して雪をいつも見ていた。または、雪を見るためにスキーをしてきた。3年ほど前には、自前のスキー板を友達と一緒に自宅のガレージで作り、スキーが出来上がったのが結局夏だったので、ウィスラー(カナダ)の氷河に登って滑った。そのとき私達は、スキーは銀世界に線を描くドローイングであり、 「スキーは詩だ」“Ski is poem“ だと確かめ合った。
 数年前の2月、私はいつものようにマンモス山スキー場でリフトに乗っていた。そのスキーリフトは“チェア25“ 私のお気に入りの一つだ。冷たい太平洋からの西風にのった粉雪がちらちらと降っていた。そのとき、もちろん今まで何度でも雪の結晶を見てきたのだが、1つ,2つと大きな雪の結晶が黒い手袋に降り落ちてきて“目が合った“。私は凝視し続け、やがてそれは、私の体熱で消えた。6本の枝に小さな毛のようなとげとげが付いていた。たった3秒程度の出来事のようであったけれど、その瞬間の美しさは私にとって永遠のものと感じられた。なにせ私にとって「スキーは詩」であり、雪はそれよりも原始な何かである訳だから。
 その夜、私は自分の心にひとつの約束をした。あの瞬間見た、光り輝く雪の結晶の造形美を、彫刻の力で永遠にとどめておくことができないか? そして、それを実際にやってみるということを、自分に何度も言い聞かせた。

 その日から私の実際的な雪の結晶の制作をはじめるまでにかなりの時間がかかった。というのも,いつものことであるが私は展覧会制作の予定に追われていて,それにもまして他の2〜3の大きな彫刻制作の途中だったので,それらの作品を仕上げるまでは雪の彫刻プロジェクトを立ち上げるにはいかなかったのである。それでも,いやそれだからこそ、私は雪の彫刻の夢に取り付かれていった。それは私にとって,あの夜、自分の心と果たした約束であり,同時に日々の制作活動からの逃避でもあった。
 私はまず、 雪に関する本を読みあさった。次に、雪がどうしてそのような形として生まれてくるのか、科学的な研究書に手をのばした。雪の結晶に関する決定的な仕事をした人達——19世紀のバーモントに住む写真家MR.ベントレー、人工的に雪の結晶化に成功した中谷宇吉郎博士、カリフォルニア工科大の科学者や現代の中谷氏の科学をさらに発展させている人達。先人の偉大なる研究、その葛藤を。そして私は、雪の結晶が空に舞うのを夢見て床につくのだった。

 秋吉台国際文化村の仕事で日本を訪れた際、私は金沢の中谷宇吉郎資料館を訪ねた。そこでさらに中谷氏や中谷氏のカメラマンによる仕事に深い感銘を受け、私は雪の結晶の彫刻化に強い確信を感じ始めた。同時に私もベントレー氏や中谷氏が行ったように顕微鏡で結晶を見てみなければいけないと思った。そうすればきっと、自分と、その時そこに降った雪との更なる関係ができて,そのとき生まれる雪との直接的な距離感が彫刻制作の方向性を決定づけると考えたからである。同時に私個人の雪の捉え方も整理することができると思った。
 私の雪の結晶の彫刻制作における個人的な要点は次のようなものである。
− それがとてもとても小さな風景のときも、雪の結晶を風景の連続として捉える。
− 雪の結晶が空に舞っている状態を想像する。そして見る。
− あまり具象的にならない(これは芸術家としての直感で,具象的になり過ぎると雪の結晶が空を舞う時の詩情感が少なくなってしまうと思ったからで  ある)。
− 雪の結晶は2つと同じ形のものがない。だから具象性と抽象性の中間を選ぶことで,きっとそれも何処かにあるだろう,というひろがりを大切にする。
 そのような方向付けから、私は顕微鏡を作ることにした。デジタル技術に個人的な興味もあったので、カメラ原理を今一度少しだけ勉強してデジタルカメラ(ニコンD10)を購入。それに蛇腹の延長レンズを2つ繋げて,先端に200mmのマクロレンズを連結することで、デジタルカメラを顕微鏡に改造した。長さ約1mのレンズはそれ自体構造的に設計されていないので,レンズとカメラと三脚が完全に固定されるようにひと夏使って改造を重ね,最後に優雅にワンクリックでシャッターが下りるように手持ちのノートパソコンG5を繋げた。そして機材を降雪から守る小型オープンテントを買い,何度も何度も焦点を合わせる練習をした後,それら一式を愛車92年型トヨタカムリ、メタリックブルーに載せて冬を待った。
 一方、私の日々は相変わらず他の作品制作に追われており、私はこの雪の彫刻プロジェクトを誰も公式に応援してくれないことにイライラしていた。それはよくある作家と画廊の行き違い、または作家の単なる暴走。もっとも、この時点では作品化の習作やモデルも何もなく、ましてや最終的な素材の選択がなされていない以上、誰も理解できずにスポンサーも少し引いてしまっているのは当然だったのだが、私はとにかく雪の結晶が空に舞う風景を表現したくてしょうがなかったのだ。

 夜の自由な時間を使い、私はポエットリーディングに行くようになった。西海岸の街ではビートニクスの根深い文化が脈々と続いているので、私は画廊やライブハウスに行きポエットリーディングを始めたのだ。その時の詩はというと、つまり雪がどのように生まれ、どのように成長して、どのように空を舞い、どのように着地するかまでの風景を詠んだ即興詩である。気分や空模様によって毎回内容を変えて唱え続けた。私にとってのポエットリーディングは、それ自体が彫刻作品制作のためのスコアでありコンセプトシートである。それに、もしかしたら誰かお金持ちが私の詩を聞いてくれて、「おっ、これなら面白い。この彫刻制作を応援するか!」 などという人に会えたらといった期待もあった。が、実際はパンクロッカーやヘビィメタルの若者ばかりが集まってきて、気がついたら私はなんとバンドを結成して、そのリードボーカルをやることになっていた。なんてことだ! と思うのは今その彫刻制作の全容を書き綴っている最中だからで、その時は自分の詩が受け入れられているといった実感と同時に、詩の流れに合わせた即興音楽化との一体感に視覚芸術にはない喜びを感じていた。ツアーもした。なにせロックですから。ニューヨーク、メキシコ、アムステルダム、パリ。そしてロサンゼルスでは毎週のように演奏した。私はギブソンのSGを買ってとりあえず弾ける和音をときどき弾いた。そのうち様々な事件が起きてバンドは解散。私自身もこのバンド活動により昼の作品制作がさらに遅くなり、結局画廊主に音楽禁止を言い渡された。が、もともとの目標は達成されたようで、とうとう画廊が本格的に雪の結晶プロジェクトをサポートしてくれることになったのである。
 一方、冬を待っていた愛車カムリと自家製デジタル顕微鏡は、雪が降り始めると大活躍をはじめた。降雪速報をインターネットで確認すると、私はアシスタントを連れてマンモス山に向かう。走れ、カムリ!

 雪の結晶の写真を撮る場合、私達はストームの始まりに合わせてマンモス山に到着するようにする。もし仮にストームのちょっと前に到着することができれば、タイヤにチェーンを巻く必要もないし、乾いた場所でテントを張り、カメラの準備ができるからだ。そしてストームがやって来る。マンモス山山頂では風速50マイルぐらいになることもある。私のアシスタントはすでにかなりナーバスになっている。それは今まで3回も挑戦して、私達は一度も雪の結晶の撮影に成功していないからだ。実は私はそれほど心配していない。何回かマンモス山に行けばきっと必ず撮影できると思っているからだ。それに、この仕事には撮影の後にスキーが、それも新雪の銀世界がおまけとしてついてくる。
 雪が降り始めた。私達はとても複雑に絡み合った出来事とシステムの完全性の先頭に立ったのだ。テントは風に吹き飛ばされないようになっている。ニコンD10改造型顕微鏡とマッキントッシュG5は布で巻かれ寒冷地に対応している。この調子で雪が降り続き、気温が下がればよい。私は寒くなりすぎて我慢できなくなった時の避難場所としてカムリをテントの横に止めた。
気温−5℃。
「オーケイ、ユタカ!!」
アシスタントのジョーイがカメラを覗き込んでDistanceを調整しながら左手を上げた。私はクリッとクリックした。パシャ。
 私が撮る雪の結晶は、一つの結晶をプレパラートの上にのせて撮るのではなく、雪の上にふわっと居る雪の結晶を背景も含めて撮影する。それは私の約束“雪の結晶を風景として扱う“に基づいている。

 2
 私は今日、少しだけ悩んでいる。
 今作っている水晶の雪の結晶のための紙粘土製のマケットを、今日中に完成させてここ中国・崇武のスタジオに置いてロサンゼルスに帰るか、それともこの未完成のマケットをロサンゼルスに持って帰り、完全に完成させて中国のスタジオに郵送するかに関してだ。私は明日、厦門から成田経由でロサンゼルスに帰る。もう一つの選択肢はもう少し中国に滞在することだが、それはできるだけ避けたい。どうせまた来月にここに戻って来るからだ。それまでの一ヶ月はロサンゼルスで家族的に過ごしたり、どばどばっと絵を描いたり、マンモス山にスキーに行ったりしたい。
 
 水晶を彫刻するのは結局“ゆっくりさ“が最も重要で、特に彫刻後の磨きに時間がかかり、そして神経を使う。急ぐと必ず失敗する。水晶は表面の熱変化に弱く、20秒も同じ場所を電動工具で磨けばすぐに表面温度が上がり、クラックが入って割れてしまう。大量の水が必要なのでスタジオも改造した。屋上に貯水タンクを作っていくらでも水が使える様にしたのだ。特別な磨き粉を香港から取り寄せもした。きっとこれは日本では普通に流通しているものだと思うが、ここ、石工の町・崇武では手に入れることができないもので、ここでは魔法の磨き粉として貴重に取り扱っている。
  私のチームは常に7〜10人ぐらいで仕事をしていて、そのうちの一人、志明君は24歳の若手No.1の石工で、彼は19歳の時から私の作品を彫っている。彼は今、大理石細密彫りスタジオで新作大理石のスキーリフトの中彫りに入っている。彼が扱っている以上この作品はまず心配ない。隣のスタジオでは水晶の雪の結晶の中彫りが行われている。中彫りといえども常に水を使い、冷却しながらの作業となる。工場主蒋さんは新作を測って石料と構造の確認をしている。私には彼がスタジオディレクターとしてかっこつけ(中国式だ)て居るだけに見えるが、本当はそれでいてすごいスピード仕事をしているのだ。結局私は少しだけ粘土を手にした後、肯定的な諦めとして、制作途中の作品をロサンゼルスに持ち帰ることにした。本当は荷物が大きくなるのは嫌だったが、作品のクオリティを落とすわけにはいかない。

 水晶は単結晶体で、原子が均等にならんでいる鉱物だ。だから本当に透明なのである。私はこの2年間、この均質で透明な鉱物を、それも彫刻に使える程の、できるだけ大きなものを探した。ちなみに中国で水晶は“珠“という石材区分の一つで、このユーラシア大陸のあちこちで採れる。ユーラシア大陸全体の石材マーケットは密接に繋がっているので、私達は極東のシベリアから、中国、アフガニスタン、イラン、ヨーロッパまで、全てを念頭に入れて水晶を探した。私が探している水晶は、呪術のシャーマンが使っている何でも見たいものが映ってしまう水晶珠よりも、もっと大きくて透明なもの。結局私は黒龍江沿いの山から採れる水晶に決めた。大きさにして50㎝×50㎝×14.5㎝。中に2本の天然の線があるけれども、それが今のところこの2年で探し当てた最大級のものだ。 

 水晶が大地の中で生まれるには様々な条件が揃わなくてはいけない。特に温度に関してはとても重要で、とてつもなく長い時間にゆっくりと、温度が少しずつ冷えていかなくてはならない。それがどれほど長い時間なのか、水晶を彫刻しながらこの透明が生まれた時間や環境を想像する。地中の、近くでは大理石が誕生しつつあるような、温度がとてつもなく一定であるような、それはきっと空間ではなく、密度と時間と温度の世界。そしてそこでも重力が働いている。それはこの世界の何処かや、何処かのさらに地中深く行った所。地獄かもしれない、そうでないかもしれない何処か。
 少しこの透明体を彫刻すると、ほんの数分の間に何万年もいってしまうような錯覚に陥るが、恐ろしいことに、事実、そうなのだ。1㎤の厚みの中にとてつもない時間が入っている。それがこの天然水晶であり、今もまた違う世界の何処かや何処か、あちこちで、これと同じ様な水晶が結晶化されつつあると想像できるし、きっとそれは本当のことだ。
 そして私はこの透明な鉱物で“雪の結晶“を彫刻する。大地の単結晶と空の単結晶。この歴史を含む世界で、水晶が結晶化しようとしなかった時はきっとないし、いつも水晶のもとのできごとは結晶になろうとしている。空の方はといえば、何処までも空が続いているような感じがするが、その“広がり“の何処かで、たとえ今年まだマンモス山に雪が降っていない今も、たくさんの雪が生まれているに違いない。ある雲の中の水分がそこの空気にある塵とくっついて雪の結晶化がはじまる。ほんの瞬間に、そしてあちらこちらで。それでいていつも、ずっとこれからも空の何処かで。

 私は水晶に雪の結晶を彫るという“ゆっくりさ“の中で、そんなことを考えていると楽しい。結局どこまでも続く実際的な想像の旅は、作品が完成するとかを超えて私の中でぐるぐると続いている。私は作品を制作する過程を“完全 “に楽しんでいる。そしてこの“おたのしみ“をとても大切にしている。そしてこの“おたのしみ“のために徒労や努力といった少しの犠牲をよしとしているのだ。作品完成時には、私はいつも、愛に満ちている。
今回の“水晶でできたマンモス山の雪の結晶“が完成するのはもう少し、あと2ヶ月程度だが、あまり先のことは考えないようにしている。ただただ本能的に私は“作品のための制作“と“制作のための作品“を混同していて、それらをどんな過酷な条件の中でも極端に平たく、そして等価に扱う。毎日の行動の選択はそのような考えや本能のもとで決まっていく。とりあえず、明日は朝10時に飛行機に乗ってロサンゼルスに帰るのだ。

 ■プレスカンファレンスインタビュー

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