対談:東恩納裕一×宇川直宏

矛盾をはらんだ現実を作品の力に

本人らが認める通り、「東京」らしさを強調する作家ではない。それでも両者の表現にこの都市の印象を強く抱くのは、彼らがいまの世に溢れる矛盾の中にも表現の可能性を探し、それが実体験に支えられたものだからか。意外にも(?)、の初対談!

司会・文:内田伸一
ポートレート:永禮賢


Higashionna Yuichi, untitled (mirror ball 2), 2007 Courtesy Yumiko Chiba Associates

――今回、初対談とのことでよろしくお願いします。まず、おふたりとも作風はまったく違いますが、共通点を探すとしたら、以前『オプ・トランス!』展(2001年)にともに参加されたように、手法としてオプティカルな要素をよく用いていますね。また、作品のモチーフになんらかの象徴的・暗示的なものも共通して感じます。

東恩納 僕は身近な日常生活の中で、自分が好きなものではなく、むしろ嫌いと言っていいもの、フロイトが言う「不気味なもの」に相当する何かを扱い続けているように思います。カーテンやリボンなど、どれも日本の一般家庭における「ファンシー」なモノと言われるけれど、かわいいから好きなのではなく、キッチュで悪趣味な部分が表出してしまっているものに意識が引っかかる。

宇川 その感覚はわかりますね。例えばハローキティのキャラクターがアメリカでも、しかも大人たちにも迎え入れられたのは、いまさらスーザン・ソンタグを引用するまでもなく、キャンプやバッドテイストのフィルターを通した上での趣向ですものね。

東恩納 自分の場合は、対象に馴染み深さがあるというのも重要。オプティカルな表現一般も、身体性、エロティシズムを明らかに内包しているでしょう。宇川君の作品はさらに、非常にコンセプチュアルなものが多いよね。

――『Dr. Toilet’s Rapt-up Clinic』なども非常に意味深ですよね(編注:マジックミラーでつながる5部屋の公衆便所を設置。入室する人物を、ディレイをかけたTV音声と、α波誘発パルスを同調させたシンクロエナジャイザーとで瞑想に誘う。さらにその現場は監視カメラで鑑賞された)。

宇川 でも、コンセプトだけでやってると守勢的になる。だから自分はEYEさんとコラボった、眼球に直接エフェクターを繋ぐような5Dメガネで体感するNOコンセプトのインスタレーションもやるし、受け手の心拍数を上げるだけのハードコアな作品もつくってます。そうやってメンタリティを保っているのかもしれない。ただ、俺と東恩納さんに共通する記号としてオプティカルなるものがあるとしても、ふたりとも「それだけ」に依存していないところがいいのだと思います。目くらましで、錯視的な表現は、身体に響くインパクトに比べて、概して内面には響かない。だからオプアートは、美術史的にも評価がしばらく保留にされてた気はしますね。自分はオプを扱うとしても、そこにサイキックな波動を忍び込ませたい欲求があるのです。モアレの中に丹波哲郎を呼び覚ましたいワケですよ(笑)。

東恩納 僕はいろいろ手を動かす中で、感覚が言語化されていくタイプかと思う。いま話したことをベースにしつつ、考え方は変わる中でやっています。10年前はこの「不気味さ」をシニカルに強調してたけれど、そのベクトルも少し変化してきたと思う。例えば丸形蛍光灯でつくったシャンデリアの作品があります。円い蛍光灯って日本独特のデザインで、復興期のニッポンの家庭を明るく照らしてきた、的なイメージもある。でも谷崎潤一郎などは――彼の時代は白熱灯ですが――ピカピカの人工灯が嫌いだったようで、日本の美は静かな薄暗さや闇の中にこそあるのでは……と言う。そんなことを聞きつつもこの過剰な蛍光灯作品をつくってしまったあたりから、自分の気持ちも少し変わってきたんです。作品にある種の痛快さを求めはじめたというか……。

宇川 いいですね。まさに蛍光灯の光に導かれて!? 一貫して作風やその方法論を変えないのが美術家の美徳、みたいのは果たしてどーなの? とも思っています。だって自己そのものですら、環境や時間の変化によって少しずつ運動していて固定し得るとは思えませんから。正直、幼少の頃の自分の性格も思考も否定したい部分は確実にありますからね(笑)。

アンビバレントな感情を探る

――今回おふたりそれぞれが『六本木クロッシング』展に出展する最新作はどんなものですか。

東恩納 先ほど話した蛍光灯作品の新作と、手鏡を貼り付けてつくったミラーボール、他にメッシュのレースを重ねて、見る位置によって異なるモアレ状の模様を引き起こすものがひとつ。ミラーボールをつくっている最中に思ったのだけど、バラバラな鏡に写る像がいったいどこを捉えたものなのか、自分がどこに写るか、わからない。そこにちょっと感じるものがあったりね。あと、ミラーボールってあんなにメジャーでポップな存在なのに、誰が最初に発明したかは実はよくわかってないらしくて。それってちょっと不思議だし、面白いでしょう。モアレにしても、その存在は身近に知っているけど、よく見るとどこか不気味さを感じます。これらと、テープとリボンを使ったストライプの壁面や、ペインティングで構成されるインスタレーションです。

宇川 俺の作品は自然災害をテーマにしたシリーズの新作です。台風を「生け捕る」というコンセプトで、ニューオリンズに壊滅的な被害を与えた大ハリケーン型台風カトリーナと同じ最大風速の再現装置による体感型作品。災害シリーズとしてはすでに今春、地震篇を発表したんです(編注:筑波の地震研究所で1995年の阪神淡路、89年のサンフランシスコを再現し、その状況を作品化。ハイビジョン映像では、恐怖する登場人物の顔に一瞬だけ、歓喜の表情が潜んでいたりする)。でも実際はシリーズの第1章目がこの台風なんです。規模や予算の問題で後回しになったけど、今回実現できることになって森美術館には感謝しています。災害に対する恐怖とその裏側にある謎の高揚感、そのアンビバレントな感情を探るのが目的のひとつでもあります。いま日本自然災害学会にも入会していて、この制作をもとに論文も発表しようと思ってます。


Ukawa Naohiro, A Series of Interpreted Catharsis Episode2: Earthquake – San Francisco earthquake / Loma Prieta 1989.10.17 05:04:15-05:04:23pm, 2007 Courtesy Nanzuka Underground, Yamamoto Gendai

東恩納 今日的なテーマだね。ある意味、ランドアートよりスケールが大きい?? やはり具体的なきっかけがあるのかな。

宇川 子供の頃から台風の強烈な被災経験が3回あるんです。床上浸水で大切なオモチャが全部流された絶望感と、一方で水浸しの我が家を嬉々としてビデオ撮影したりする高揚感、その矛盾した感情が何なのか、トラウマのように引きずっていて。それと、世紀末に漂った「あの感覚」ってもう薄れてるけど、否定しがたいリセット願望と、そこで起こった世界規模での連帯意識はいまだ大勢で共有しているはず。20世紀末のハルマゲドン予言は、その幻想を共有できるパーティだったとも、ノストラダムスはそのオーガナイザーだったとも言える。それは人智を超えた力という点で、戦争とはまた別のものです。さらに言うと、災害に対する人間の感情は地震と台風とでも全然違っていて興味深い。

冷笑や皮肉の先にある何か

――否定しがたく存在する矛盾というのは、おふたりともに重要なキーワードのようですね。

宇川 ただ、アートにおいてシリアスな主題をシリアス一辺倒にぶつけてもくだらないから、さまざまなメタファーを用いたいのです。だからアミューズメント的な側面も考えたい、と。災害シリーズの地震篇で思ったけど、避難訓練用の起震車とかもそのいい例ですよね。今回は、館内で夜景が見える唯一の空間を与えていただいたんですけど、そこにある台風発生装置の中では、豪雨の代わりに世界中の紙幣が乱舞します。これは国境を超えて各地域をリセットしていく強大な力の象徴であり、一方で富豪たちが蠢く六本木ヒルズというロケーションだけに、マネーロンダリングのアイロニーも少し(笑)。

東恩納 ポストモダニズムにおいてアイロニカルな視線が行き着くとこまで行って、お約束的な作法にまでなったでしょう。それをどうやったら乗り越えられるかと考えたこともある。でも、アイロニーって美術のベースにあるものだから、簡単にそれを捨てたり、乗り越えることは不可能だなと。ならば、それを持ちながらどう処理するか。そういう意味でも、いまは単に意地悪に見せたいというより、さっき述べた痛快さや、ユーモア、エロティックな感じを出せたらと思ってるんです。

宇川 自分の場合はいつも根底に何らかの批評性がまずあるか、もしくはあえて何も「考えていない」作品のどちらかですね。環境に対してどう向き合うかってことが今日的には重要だと考えたら、東恩納さんが言うとおり結果的にはアイロニーが入り込みますね。そこで共時性だって生まれてくる。でもそれだけじゃなくて、実体験に起因する表現の強度には自分自身惹かれる。そこにこそ心霊や偶然が映り込んでくれるのだと信じています。例えば『電気用品安全法によって消え逝く危険性があるもの展』(06年)とかも自分がキュレーションしましたが(編注:同新法により、愛好者の多いビンテージ機器を含む中古電気製品の売買が困難化する危険性を訴えるため開催。東京のNANZUKA UNDERGROUNDにて7作家が参加)、ああいうのは本来、アート側からも身軽に提案する人がもっといてもいいはず。俺がVJをずっとやり続けるのも、サウンドシステム内蔵のフロア付きオフィスを運営してるのもそこです。やはり現場でのリアルな人間同士の双方向コミュニケーションを体感しつつ「いま、ここ」で表出する波動のダイナミズムが醸し出されないと、作品もただのモノ以上の存在にはならないと考えてるんです。アートバブルといっても肝心な作品が単なる株券に成り下がってしまいますよね。だからなおさら、この世界の通貨が乱舞する俺の台風を買えるものなら買ってみろと言いたい(笑)。

初出:『ART iT 第17号』(2007年10月発売)。

ひがしおんな・ゆういち
1951年、東京生まれ。1990年代初頭から、日常のありふれたインテリアをモチーフにした作品で知られる。近年の個展に『Flowers』(04年、パリ)、『シャンデリア! 』(05年、東京)などがある。参加グループ展には『時代の体温 Art / Domestic』(99年、東京)、『Officina Asia』(04年、ボローニャ)、『愉しき家 』(06年、名古屋)など。Comme des Garçonsなど、ショップのアートワークも多く手がける。2007年10月20日~11月10日、銀座にて初の版画展を開催。

うかわ・なおひろ
1968年、香川県生まれ。自らをメディアレイピストと称し、映像、グラフィック、インスタレーションなど各種メディアを 用いた挑発的かつ批評精神溢れる表現を行う。京都造形芸術大学教授。クラブ付きオフィス「Mixrooffice」主宰。主な 個展に『!!!Seed Wars!!!』( 2003 – 04年、ニューヨーク)、『Dr. Toilet’s Rapt-up Clinic』( 06年、メルボルン)、『A Series of Interpreted Catharsis episode 2 – earthquake 』(07年、東京)など。

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