ナリニ・マラニ インタビュー(2)

それを声とせよ、あなたはなにを聴くのか
インタビュー / アンドリュー・マークル
I

 


Unity in Diversity (2003), single-channel video play, in Indian Art Deco room with crimson walls with a projection in golden frame, two lamps and framed photographs of Gandhi and Nehru, sound, 7 min. All images: Courtesy Nalini Malani.

 

ART iT あなたの作品にはナショナル・アイデンティティやナショナルな神話、ユートピア的ナショナリズムという、それぞれが関係しつつも異なっているものがいろんな形で描かれていますよね。たとえば、「Unity in Diversity」(2003)では19世紀のインド・ナショナリズムと現代インドの民族間衝突が結びつけられています。ユートピア的ナショナリズムは国際主義に着想を得たところもあり、このような言説に立ち返るには、このグローバリズムの時代は本当に興味深い時代ですよね。

ナリニ・マラニ(以下、NM) ナショナリズムが崩壊しはじめている。これはいいことですね。ナショナリズムには、西洋でもインドでも市民革命の瞬間があり、インドは1947年に共和制を獲得しますが、それはブルジョア革命であって、労働者によるものではなかったのです。

「Unity in Diversity」で触れているように、19世紀、インドにユートピア思想が生じて、その思想のために中産階級が英国と戦い、あらゆる宗教や秘教が共存していました。しかし、現在ではそうした状況は過ぎ去り、グローバリズムや多国籍企業といったヘゲモニーへと進んでいます。国内の車道を走るのはたいてい韓国か日本の車です。こうしたレベルこそが、我々が暮らすところであり、こうしたものに興味がひかれるのです。

現在、インド中央部では毛沢東主義派(ナクサライト)が勢力を強めています。この地域には主に先住民族が住んでいて、森に覆われた非常に豊かな土地が彼らの生活に恵みをもたらしています。ところが、その土地に埋蔵されているボーキサイトを、ベダンダ・リソーシズをはじめとする多国籍企業が採掘しようとしているのです。いったん採掘を始めたら、土地はやせ細ってしまうでしょう。インド南部でも日本企業が花崗岩を採掘しています。掘ってしまったら何も残らないのです。

こうして多国籍企業が利益目的でやってきて、土地を掘り起こし、資源を収奪していくのです。そこに住む人々や土地を追われた人々には何ももたらされません。知られてませんが、革命は今まさに起こっていて、土地に侵入してくる企業と組む関係当局と戦うために人々は結集しているのです。政府は企業と手を取り合って、アメリカ合衆国みたいな自由資本主義へと突き進んでいます。

このような問題に我々はミクロなレベルで取り組まねばなりません。私はアーティストで、制作しかできないけど、それでもそうすることで誰かがわかってくれるかもしれないし、そこから大きくなっていくのです。あらゆるデモクラシーには努力が必要です。それは与えられるものではありません。手を伸ばして掴まねばならない。ときに物事は真逆に進んでしまうかもしれないが、再び戻して支えていかなければいけない。そのようなことは安定した状況にたどり着くために世界中で行なわれているのです。偏狭な考え方を変えなければいけません。私の作品を観る人々とともに、そうした視野の狭い思考とは決別し、より拡く、開放的な思考に近づけていきたいのです。

 

ART iT  「Remembering Toba Tek Singh」をはじめ、しばしば文学からの引用がありますが、それもまた拡張された声を創り出すことになりますか。

NM その通りです。『Toba Tek Singh』は印パ両国で知られるサアーダット・ハサン・マントの作品です。彼は分離を扱った短篇しか書いていません。ちなみに私の家族も印パ分離の被害者で、私はカラチに生まれました。『Toba Tek Singh』という物語は、パキスタン北部のインドとの国境付近にあるラホールという街の精神病院を舞台にしています。キリスト教徒やシーク教徒はインドへ、イスラム教徒はパキスタンへ送還すると聴かされ、患者たちは誰もが不安に陥っています。あるイスラム教徒の男性が木に登り、「どこにも行きたくない。僕はこの木の上にいるんだ。パキスタンのことなんてなんにもわからない。カミソリ工場じゃないんだ!」と叫びます。マントは国をふたつに分離するという馬鹿げた事柄そのものを描きます。1998年に核実験が行なわれ、私はこの物語とその風刺を喚起することに決めました。

世の中には優れた作家がいて、私はそれを分かち合えるような気がしています。路上のグラフィティと神話の古典語を使いこなせるハイナー・ミュラーの作品は本当に素晴らしい。「Medea」(1994)も「Hamletmachine」もミュラーに基づいています。ほかにも、クリスタ・ヴォルフの『Cassandra』やベンガルの小説家モハッシェタ・デビからも引用しています。デビは疎外された民族コミュニティについて書いていて、私のインスタレーション「In Search of Vanished Blood」で流れる”make her”という声は彼女の作品から来ています。

 


Hamletmachine (2000), four-channel video play, three wall projections and one floor projection on a bed of salt, surrounded with mirror reflecting material, sound, 20 minutes.

 

ART iT 国をふたつに分離するという話ですが、あなたは「Splitting the Other」という作品を制作しています。もちろん核分裂は原子を分裂させる。こうしたものを意図的に繋ぎ合わせようとしているのでしょうか。

NM 「Splitting the Other」ではポスト・フロイト派のメラニー・クラインの投影性同一視の理論に用いられる心理学用語を扱っています。クラインは幼児を観察して、攻撃的な自己の一部を対象に投影し、対象にその攻撃性を見出すことで、どこか奇妙で理不尽な憎悪や攻撃性が芽生え、実際に他者を攻撃しはじめるのだという結論に到ります。2002年にインド北部グジャラート州で、ヒンズー教原理主義による少数派のイスラム教徒へのひどい暴動が起こりました。そこには妊婦が強姦され、胎児が殺されてしまうというゾッとするような暴力や攻撃がありました。これらのイメージが私から消えることはありません。

こうしたことの後に制作したため、「Splitting the Other」には子宮の外に出て、へその緒で繋がっている胎児が描かれているのですが、母子の脳も繋げました。子に生を授けると同時に脳へ、そして文明へも生を授けるのです。男性が女性と胎児を殺すということは、事実、文明も殺しているということなのです。

それこそが「Splitting the Other」というタイトルをつけた理由です。マジョリティのなかにはマイノリティが復讐しに戻ってくると信じる人々がいます。83%と17%ですよ。17%のイスラム教徒が戻ってきて、ヒンズー教徒を独り残さず殺すと。狂ってる。原理主義者によってマイノリティが悪魔へとねつ造されているのです。これはドイツのユダヤ教徒にも起こったことです。これは調べるべき心理現象です。

 


Unity in Diversity (detail) (2003), single-channel video play, in Indian Art Deco room with crimson walls with a projection in golden frame, two lamps and framed photographs of Gandhi and Nehru, sound, 7 min.


Unity in Diversity (detail) (2003), single-channel video play, in Indian Art Deco room with crimson walls with a projection in golden frame, two lamps and framed photographs of Gandhi and Nehru, sound, 7 min.

 

ART iT ある意味、あなたはアレゴリーというか、さまざまな物語から引用された臨機応変なアレゴリーを扱ったり、複数のソースから引用をとりいれた臨機応変な絵画に取り組んでいるということですね。全体、もしくは統合されたヴィジョンというよりも、あなたの作品はどこか部分というものに取り組んでいるように思うのです。

NM 閉じた円環は好きではありません。閉じないままにしておいた方がいい。問いみたいに。それに対する答えなどありませんが。アイディアを複数持っていても、あらゆる答えを持っているわけじゃない。それはすべてコミュニケーションにまつわることなのです。「In Search of Vanished Blood」にはアメリカ式の手話で歌うフッテージを用いています。両手を必要とするインドやヨーロッパの手話と違って、あれは非常に優れたスペリングのシステムです。「デ、モ、ク、ラ、シー」と綴って、その後にモールス符号。モールス符号はもちろん昔のコミュニケーションの方法のひとつです。

そして、女性のヒステリックな声が聴こえます。次に扱わなければならないもの、それがヒステリックな声なのです。なぜ、ヒステリックな声に耳が傾けられないのか。その声は何を言おうとしているのか。その声はまるで病でもあるかのように矮小化されています。しかし、それは本当に病なのでしょうか。病ではなく、叫びなのではないでしょうか。それが、私の次のプロジェクト「hysteria[ヒステリー]」になります。

 

ART iT 作品を見ればわかるように、手話というハンドサインもまた、ヒンズー教や仏教のムダラ(手印)、キリスト教で加護を授ける手をかざすイエスの描写、さまざまな宗教的表象のイコノグラフィを模倣していますよね。文脈から切り離されることで、こうしたすべてのあらゆる方法は別の意味を帯びてきますね。

NM それもまた面白いですね。私自身が作品を語るのと同じように、ほかの人たちにも私の作品について話してもらいたいです。それによって鑑賞者と作品と私の三角関係を生み出せるでしょう。事実、作品はそうして完成するのです。

 

 


ナリニ・マラニ|Nalini Malani
1946年カラチ生まれ。暴力や抑圧といった社会的矛盾や寓意的、宗教的、土着的図像を混淆した絵画や映像、インスタレーションで90年代以降国際的な注目を集めるアジアを代表するアーティストのひとり。印パ分離独立時に難民としてインドに移住。ムンバイで絵画を学んだ後に、1970年代初頭の渡仏を経て、90年代に入るとそれまでの絵画制作に加え、映像作品やパフォーマンス、ビデオ・インスタレーションへと表現を展開させていく。これまでに、ローザンヌ州立美術館を含む6箇所の美術館にて巡回回顧展、ニューヨークのニュー・ミュージアムやアイルランド近代美術館で個展を開催。そのほか、ドクメンタ13や第52回ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめとする多数の国際展、企画展に参加している。日本国内でも、国立新美術館や『現代美術への視点—エモーショナル・ドローイング』(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)、『アジアをつなぐ—境界を生きる女たち 1984-2012』(福岡アジア美術館、栃木県立美術館)などで作品を発表している。

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