菅木志雄 インタビュー (3)


Sui-jyou shikitai (1973), photo documentation of open-air work. Courtesy Kishio Suga and Tomio Koyama Gallery, Tokyo.

認識 枠 行為 イベント 放置 占有

II. 行為・イベント

ART iT 菅さんのパフォーマンスには、自分をほかの人に認識させるのではなく、見ている人々と一緒に行為をするというところがあると思います。

KS 特にここだと示さなくても、その場所にいる人間がそれぞれ僕の行為を見て、変化した部分や、それがどういう意味を持っているのかを感じます。僕が提示する意味もありますが、各自が感じる意味もあるのです。僕はそのみんなが感じる意味を少し逆に見ている。そしてそれがまた次の表現の基本になって、というように流れが続いていくのです。まず、そういった自分の行為を通して、場を持たせる。当初から考えていることですが、「もの」がひとつあり、僕が触れる、そのことによってそれを細分化していきつつ、ある時点で停止します。そうして細分化したものを再構成して物体感に持っていくのです。作品の素材としては意味を為さなくなり消えてしまいます。ひとつの物体の存在性が先ずあったとしても、行為の介在により、それが変化し、最後は消滅してしまうのだという考えをイベントの間、ずっと持ち続けています。現す、消滅する。現す、消滅する。そういう考えです。つまり、「もの」自体には執着しないわけです。

ART iT アクティベーションについて、空間と思考に対するものに加え、時間軸が含まれると思います。作家活動を続けていくなかで、時間という自分ではコントロールできないものがリアルに介入してくることは、なんらかの変化をもたらすのでしょうか。

KS 空間と同様に時間も意識をしなくても存在するものです。時間によって「もの」が変容していくことは当然あります。僕が行為をすることは既に時間軸の中でコントロールされています。時間の中でどんどん変わっていくことが想定されていますから。その変わっていく想定の中で空間と同時に時間も経過する。変わっていくこと自体も結局表現の内容として立ち上がってくるわけです。特に時間を意識してはいないですが、僕がここにいて、東京のどこかに誰かがいる、あるいは大阪、京都のどこかにこういうお寺があって、こういうものがあるんだという意識は想定します。おそらく、自分がここに位置している事実は、なにかが支えているのだろうと思っています。それは京都のあるお寺の石ころだったり、北の方の大木であったりすると思っています。それは共時的なものであり、同時に空間をいっしょにしている共空的なものでもあります。だからこそ生きていられるのではないでしょうか。もし、ここだけといったら、それは終わりのような感じがしてしまいます。

ART iT 先程、造形的な枠ということをおっしゃっていましたが、そこには時間という枠組みも含まれていますか。

KS そうですね。行為自体は、意識しなくても進んでいきます。なにかをやっている間に何秒か何十秒か経ってしまう。それはもう物凄く具体的な仕草によって固定されている。その意味で時間はその存在を考えていなくても常にずっと行為と繋がってます。そういう感覚がないと、なにかが生起して消滅していくという感覚がわかりません。

ART iT インスタレーションという作品としての「状況」は、視覚領域や時間領域を行き来したりしているということでしょうか。

KS そうですね。時間とともに移行していきます。だから、例えばこういう状況が成立したけれども、5分後にはこれをこっちに移し替えようというところに行為性が入ります。当然。だから、行為が連続的に繋がっていくことによって「もの」も繋がっていくのです。それが同時的、共時的に派生して、同じ時間軸を踏みながら進みます。

ART iT 最初にギャラリーの造形的な枠組みと、イベントの造形的な枠組みのことに触れましたが、ギャラリーでインスタレーションすることや、ギャラリーや美術館といった空間以外のところで美術的な行為をすることとは違いはありますか。

KS 基本的には違いはあまりありません。ただ、その場や状況などの違いを言えば、場の占有性が違います。人間がなにか行為をするということは、場を特殊化する、つまり意味を持たせる行為なんですよ。その意味を持たせる特殊性が画廊とほかの場所では全然違います。画廊は最初から見られることを前提とした空間です。ところが、なにも関係のないところでは、自分が行ってなにかをして初めて反応がでて、そこにある種の場所性、特殊化、特定化というものが成立してくるわけです。反応が出ると同時に意識化されるわけです。そして、言葉が出来る。概念が出来る、認識が出来る。Aという人がここでなにをした。Bという人はこういうふうにして、ここで行き倒れてしまった、ここで死んだ。そうするとその場所がもう意味を持つものとして特殊化される。それが普通の画廊と、普通のなんでもない空間との立ち入る違いなんですよ。場所というのは特殊化されたかどうか、そしていかに特殊化されたかによって見え方が違う。60年代の終わりに一種の場所性、「サイト」という考え方が出てきて、場所とはいったいなんなのかという概念が出来上がった。それまでは画廊の中だけで表現が完結し、虚構の作品をどんどん製造していったけれども、60年代の終わりぐらいから「サイト」という考え、それはアーティストがそこでなにかを行い、場所を特殊化するという考えが始まりました。最初に出たのはアメリカです。アメリカでロバート・スミッソンがある砂漠に行って、石を拾ってきた。そこから始まりました。そういう特殊化を現在はアーティストは普通に考えないといけないけれど、自分がいったいなにを掴んで、そこでどういう行為をするかというのは、そこで、その時点でアーティスト自身のオリジナルでなければならない。そうやって普通に意識しないとアートの表現は出来ないと思います。

ART iT 70年代に野外で行なわれた行為の状況の写真が残っていて、更にそれにタイトルがついていることに興味を持ちました(e.g.「水上識体」※本ページ掲載)。名を付ける行為には、造形的、表出的な意味合いがあるのでしょうか。

KS そうですね。まさに名付ける行為も造形的です。表現としては同じです。おさまりかえってタイトルを付けるのではなくて、文字の造形など、表現する時の基本の意識が言葉として出てきます。並行して出るのか、後から出るのかということはありますが、やはり造形の一端として出てきます。わかりにくいと言われますが、造形なのだからわかりにくくていいじゃないかと思っています。
野外の行為は当時、誰にも注目されず、自分ひとりで、寒い冬の日に作業していました。今思えばよくやりましたよね。でもそれがアーティストの楽しみと言えば、楽しみなのです。人に見られるからうれしいというだけではない、なにか自分が考えたものがひとつの形になっている喜びがあります。

ART iT 記録されていたこと自体はありがたいことです。なぜなら、記録によってそういった作品も時代を超えることができますから。もちろん記録されていなくても意味がなくなってしまうわけではありませんが、記録されていてよかったと思います。

KS あれは全部自分ひとりで行なっています。作って写真を撮って、作って写真を撮ってという、繰り返しでした。今日は井の頭公園に行って、こういう材料を集めて、持っていって、ちょっとやってみて、写真を撮る。そういうことが楽しいわけです。こんなの誰もわからないだろうなとか。例えば井の頭公園で鴨が泳いでいて、僕はそのとき生き物に注目をしていたので、鴨が水かきを使いながら泳いでいて池に波紋が広がっていくのをみて、造形だと思いました。鴨という主体と、足で水をかいた跡、これは当然水の変化ですからね。もうこれがすごい作品だなと思ったりして、写真を撮る。そういうことに注目していました。人間がやらなくても、鳥や動物がやってもいいんです。

ART iT そのようなものの場合はイベントでのパフォーマンスとは違いますよね。

KS そうですね。人間が計画性を持ってやるのと、生き物がやったり、いろんな事象がそこに関わり、現状が変化するということとは、確かに違うかもしれません。しかし、より大きいフィールドで考えれば、それもやはり造形です。動くものがどうなったかという観点があるわけですよね。それと場の変遷みたいなものがあって、それの関わりとして人間が知覚できる。その知覚できたことそのものが造形と完全に一致しているんだと思います。

ART iT イベントを行なったときはどのようなパフォーマンスを意識していたのでしょうか。

KS 僕がイベントを行なう以前から、人間の行為性が主体の「パフォーマンス」がありました。そして、イベントというのは人間も入るけれども、物体および物体のリアリティが中心です。従って、人間だけが動いてなにか現象を起こす形の「パフォーマンス」は、僕はシャットアウトしました。必ず「モノ」があり、そこに対峙する行為性があって、初めてそこに一種のトポス、つまり場所の特性ができる。そう思っていました。僕にとっては、60年代の終わりが「パフォーマンス」の終わりで、そこから始まっているわけです。

ART iT イベントの中では、一連の行為はどうやって展開していったのでしょうか。それは計画によって行なわれたのでしょうか。それとも、ものとの関係の中で起きたのでしょうか。

KS それは両方です。最初は僕自身にとっても知らない空間です。いったいそこに何があり、何がどういうふうに起こるかは、想像が及びません。これは仮定の話ですが、とりあえず今回はこういう行為性を使おうかなと、例えば、足を蹴り上げるとか、身体を横にするとか、どういう状態を基本にしようかということは自分の中で考えはじめ、なんとなく自分の必要なものを持って、現場にいく。そして、現場の様子を見る。場所の広さや、天気を含めた状況などに対応して持っていったものをどうしようかと考えるわけです。つまり、厳密な意味での既定はないけれど、自分の行為についてこういうことができるというファイリングがあり、そのファイルから、今回はこういうふうにしようと決めます。けれども、現場に行ってから、やはりこうしようと、違うことを行なうことも当然あります。考えたこととは全然違うことが出てきて、そのリアリティの方がずっとよかったりするからです。ある種の不確定性が基本にあります。確定されたものの在り方っていうのは、あんまり面白くもなんともないわけです。イベントとかアクティベーションというのは不確定性とか不明瞭性とか、どういう感じに揺れているかということが結局は基本なんですよ。確定してしまったら、画廊の作品と同じになっていくわけだから。ここまでいって、でもまだ確かではないからこうしようというふうに連続性が成立するわけですね。

ART iT かなり前の作品ですが、東京のイタリア文化会館で石ころを自分の身体に付けたイベント(「動差」)がありました。インスタレーション(「動差ーつながりゆく界」)にも石が使われていましたが、例えばそのイベントとインスタレーションの間には特に関係性はあったのでしょうか。

KS もちろん、両方石を使っているわけですから、それはある種の共通項を持っているでしょう。ただ、片方は人間の身体にどんどん石がくっついて、増えていく。つまり、動体を静止させる道具として使っている。落とさないというのが基本だから、自分でやりながらだんだん変になっていく。そういう生体を動かざるものにしていく過程があります。ところが、空間インスタレーションの場合はひとつひとつが崩れるわけではないから自由に置いていける、そうすると、置くことによって何が変わるかということが問題になる。両方に共通しているのは置き方によって何がどう変わるかという意識です。そして、イベントでは人間を土台にして、まるで床のように使って、石を置く。そして、インスタレーションで床に石を置くと、その床の平板さがもっともっと強調されていく。だから、石は必要なんです。共通項もあり、違うところもあります。アクティベーションも機会があればまた何回かやってもいいと考えています。当時は展覧会のたびに必ずやっていましたからね。

ART iT 菅さんにとって、イベントとは儀式性を持っているものなのでしょうか。あるいは、ある種のダンスとしてアプローチしていたのでしょうか。

KS 見た人に「菅さんのイベントには儀式性がある」と言われることはあります。よく魔術や占いをするような踊りがありますが、そういう神に対する祈りのように感じる人もいました。南洋に関する本を読んだとき、いくつかの部族が新月のときに、例えば若者がこれから大人になる儀式をいろんな踊りを用いて行なっていると知り、自分のやっていることに近いような気もしました。そういう意味では、確かに儀式的なところもあるかもしれません。

ART iT 同時にどこか不条理的なところ、ある種のコメディも入っていたのでしょうか。

KS 不条理的なものは入っていたけれど、コメディではありません。みんな真面目な顔をして、渋い顔をして見ているからね。笑ったりするようなことはいっさいなかったですよ。みんな、じっと集中して見ているから。おそらくそういうものだろうなという気がしますね。

ART iT 最初、周りの視線に関するお話が出てきましたが、そのような行為をしている最中も周りや周りの視点から見た自分のことが見えているということでしょうか。

KS 見えています。見えていると同時に見ているのです。そうすると周りの見ている顔から想像できるわけですね。これをこういうふうに見ているのかなということが想像できるわけですよ。

ART iT それは想像であって、そこからのリアクションには繋がらないということでしょうか。

KS 繋がりますね。こう見ているだろうから、変えてみようと思い、変えてみる。必ず見ている人が考えていることからずらすので、見ている人はあまり考えない方がいいと思います。それがまた楽しいのです。見る人は苦労するかもしれないけれども、やはり新しい場を作らないといけませんから。みんなが見る人の想像を裏切っていくことが大事なのです。

III. 放置・占有

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第17号 彫刻

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