34:再説・「爆心地」の芸術(11) 核と新潟・補遺<1>

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吉原悠博 個展『プレジャー・ドーム』、スパイラル・ガーデン、1989年
100台のテレビモニターと5台のビデオプロジェクター、6 x6 x7m (w/d/h) 撮影: 畠山直哉

以前、本連載で書いた「核と新潟」と題する3編のなかで「水と土の芸術祭2012」をとりあげたのがきっかけで、新潟県との縁が予想外のかたちで広がっている。今回は「再説『爆心地』の芸術」を再開するにあたり、その報告を兼ねて補遺から始めてみようと思う(そういえば、前回まで同じく3回にわたってとりあげた会田誠も新潟市の出身であった)。

ところで、いささか話は飛ぶようであるが、去る5月27日、小平市で東京都初の条例にもとづく住民投票が行われた。市の南北に走る約1.4キロの道路整備計画に関するもので、そのなかには武蔵野の面影を今に伝える数少ない雑木林の伐採や、それに沿って続く玉川上水の遊歩道の再開発も含まれていた。そのため、環境破壊を憂慮する市民から、あらためて住民の意思を反映させようという声が上がったのだ。が、結論から言うと投票率は35.7%と低調で、市が定めた有効投票率の50%に達しなかったため投票は不成立となり、開票もされなかった。たいへん残念な結果ではある(*1)


小平中央公園の雑木林

実はこの遊歩道、個人的にも実に多くの思い出がある。かれこれ20年も前のことになるが、ほぼ隣接して所在する武蔵野美術大学(以下、武蔵美)で授業を持っていたころ、ふだんは国分寺駅からバスで校門の前まで向かうのだが、時間に余裕があるときなど西武国分寺線の鷹の台駅で下車し、すぐに左に逸れて雑木林の中に入ったものだ。大学に着くまでのしばらくの間を、軽快な緑の彩りと木立の薫りに身を包まれるようにして歩いていると、不思議と、思いも掛けずいろいろな着想が浮かんできた。誰かもツイッターで呟いていたが、京都で哲学を学んだ僕には、あの道はハイデッガーにとっての思索=詩作のための「森の道」ならぬ、まさしく武蔵野の「哲学の道」であった。


鄭裕憬(チョン・ユギョン)個展「主観的輪郭」、朝鮮大学校 美術棟1F展示室、2013年4月16日—23日

先日も、武蔵美と境を接する朝鮮大学校の美術研究院内で催され、学外にも公開された鄭裕憬(チョン・ユギョン)の個展「主観的輪郭」に足を運ぶのに久しぶりに脇を通ったが、二十年前となにも変わっていなかった。もっとも、当時は毎週通っていたにもかかわらず、お隣の朝鮮大学校が日本国内で唯一の朝鮮学校の大学教育機関で、なかに美術研究院まであるとは想像もしていなかった。近年は武蔵美との交流も行われているというので、今後の展開に注目したいと思っている。

そういうわけで先の住民投票が他人事に思えず、投票日には固唾を飲んで注目していたのだけれども、締め切りを前にして低調な投票率が伝えられると、正直言っていささか拍子抜けしてしまった。投票行動の詳細にまつわる分析についてはここでは触れないが、「拍子抜け」の原因は単なる期待外れだけではなかったかもしれない。というのも、今年の5月に「水と土の芸術祭2012」を通じて得た便りをきっかけに訪ねることになった新潟市西蒲区旧巻町で、1996年8月4日、東北電力による巻原発建設計画を問う、全国でも初の条例にもとづく住民投票が持たれたのだが、このときの住民投票の投票率が、じつに88.29%(うち反対が60.85%、賛成が38.55%)に達していたのである。公道と原発では案件が違いすぎるかもしれない。が、損なわれる自然の恩恵という点では根本的には変わらない。ましてや、あの「3・11」以後、なお原子力緊急事態宣言下にある現在の話である。巻町のケースでは投票結果を受けて、最終的に原発計画は頓挫したのだから、88%と35%の違いをたんに数字の差だけに置き換えることはできない。

巻町の原発住民投票とその記録を克明に残した現地在住の写真家、斎藤文夫さんについては、5月に訪問した際にゆっくりとお話を聞くことができた。加えて近々、巻町の変遷を数十年にわたって収めた通史的な写真集が発刊されるということなので、そのときに改めて詳しく触れてみたい。今回、その前にまず取り上げておきたいのは、同じ新潟の写真でも、巻町から日本海に沿って新潟を北へ遡った新発田市に残る、一軒の写真館についてである。この「吉原写真館」が、偶然にも巻町と深い由縁を持っていたのだ。


第63回「写真の日」記念講演会での吉原悠博(主婦会館プラザエフ、東京、2013年5月31日)
写真提供:日本写真文化協会、(株)映像企画

この原稿を書いている今日、6月1日は「写真の日」だが、それに先立つ前日の5月31日、東京、四谷の主婦会館で、日本写真文化協会の主催による記念講演会が開かれた。第一部が吉原写真館の館主で美術家の吉原悠博(よしはら・ゆきひろ)による「吉原家の140年」、第二部が吉原に加え俳優の佐野史郎、写真家の平間至を加えた鼎談「写真館に生まれて」からなるこの催しは、引き続き開かれた懇親会に至るまで終始、なごやかで盛況なよい集いであった。もっとも、僕はなにも写真だけへの関心からこの場に足を運んだわけではない。この日の中心人物である吉原が東京に拠点を据えて活動していた80年代末から90年代頭に掛けて、批評家と美術家として密な交流があり(なにをかくそう、フジテレビの深夜番組で、いっときは彼と一緒にレギュラーを務めたこともあるのだ)、その後、ながくやりとりが途絶えた2012年、「水と土の芸術祭」の主会場で、ほんとうに久しぶりに彼の新作と出会ったからだ。

それは新鮮な驚きだった。かつてスパイラル・ガーデン(青山)で見た吉原の大規模個展「プレジャー・ドーム」(1989年)や、同じ頃にギャラリー・フェイス(神宮前)で遭遇した、動的に明滅するテレビジョンの人工光と彫刻を組み合わせたインスタレーションからは似ても似つかぬ、まったく飾り気のない映像作品だったからだ。その作品「シビタ」については、前にこの連載でも触れたので、あらためて筆を費やすつもりはない。けれども、血気盛んで世界に羽ばたきつつあった吉原が、跡取りになるなど想像もしていなかったであろう地方の一写真館の館主に収まり、今の自分と過去の自己像とのあいだに折り合いをつけるまで、おそらくはいろいろなことがあったにちがいない。作風が変化するのも当然だ。

が、にもかかわらず、僕は「シビタ」の記憶と四谷での彼の講演を重ねて聞くうちに、かつての「プレジャー・ドーム」にも、もしかしたら本人でさえ無意識のうち、生まれ育った写真館の記憶が影をさしていたのではないかと思い至った。写真館のセットのような白いジオラマと、それをスクリーンにして反射する人工の光は、故郷を「捨てた」吉原のなかでなお生き延びた写真館のスタジオや暗室の別の姿ではなかったか。そして、吉原写真館の歩みに深くかかわる日本近代写真の先駆者、下岡蓮杖の晩年の姿を写した貴重なガラス乾板が2010年、ほかならぬ巻町で見つかったことに話が及んで、僕は新潟の全域に広がっていたはずの、まだ見ぬもうひとつの写真と写真家たちをめぐる原風景が、ふと浮かんで来た。それは、近代から現代に至るこの一帯の土地改造や自然災害、さらにはのちの原発計画と、切っても切れない関係にあったのだ。(次回に続く)

  1. 反面、この50%という成立条件を「後だし」で出してきた市長自身が、じっさいには37.28%という投票率での選出だったことなどが、あらためて振り返られることになった。

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