32:絵描きと「贋金つくり」——会田誠「天才でごめんなさい」展をめぐって(2)

※本連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。

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会田誠「犬(雪月花のうち“雪”)」1998年 パネル、和紙、岩顔料、アクリル絵具、ちぎり絵用の和紙 73x100cm
撮影:宮島径 © AIDA Makoto Courtesy Mizuma Art Gallery

日本の美術は、いまなお明治維新における西洋文明導入時の悪しき忘却と反復に陥っている。そこでは、まるで歴史など存在していないかのようだ。会田誠「天才でごめんなさい」展における連作「犬」をめぐる一件なども、その一端だろう。今回の問題については、昨今の「児童ポルノ」の概念規定をめぐる一連の動向と絡めて語られる傾向が強い。が、そもそもこの日本で、美術として図画に描かれた女性の裸体図さえ社会的に問題視する傾向が、いったいいつから、どのような経緯を経て広まったのかという、より根本的な出自を確かめておかないことには、主張のいかんにかかわらず、土台のない水掛け論にしかなるまい。

今更ながら確認しておかなければならないのは、女性(にかかわらず)の裸体を芸術の対象とする傾向が、西洋美術の基盤となるギリシア・ローマ時代はもちろん、遡れば、より呪術的傾向の色濃い古代の土偶などでも根幹的な地位を占めてきたという、至極あたりまえの事実である。もしも人類の文明や西洋美術の歴史から裸体表現を除いてしまえば、「美術史」そのものが成り立たなくなってしまう。そのなかには、ブロンズィーノ「ヴィーナスとキューピッドのいるアレゴリー」のように、かりに「児童ポルノ」の適用範囲を非実在の図画対象にまで拡張するならば、明白に議論の対象となるであろう作品も少なくない。


アーニョロ・ブロンズィーノ「ヴィーナスとキューピッドのいるアレゴリー」1545年頃
ナショナル・ギャラリー蔵

ところがわが国では、明治維新での性急な近代化のもと、西洋美術における「裸体画」の導入と、民衆への「公序良俗」の啓発が一気呵成に進められたため、両者のあいだに見過ごせない齟齬が生じてしまった。すなわち、前者からすれば裸体画を美的対象と認めない下々の民は、芸術を理解しない「蒙昧(もうまい)」となり、後者から前者は、堂々とおおやけの秩序を乱す罪深き「猥褻(わいせつ)」と見なされたのである。それ以来、芸術と猥褻をめぐって日本で起きてきた一連の事件や騒動は事実上、この次元から脱することができていない。会田誠展での連作「犬」をめぐるいざこざも、同様にこの歪んだ円環のなかで起きている。

奇しくも、同じ会田展の会期中に、島根県奥出雲町が公園に設置したミケランジェロのダビデ像やミロのビーナス像の模作について、町民から、むき出しの裸体に下着をはかせてほしい(*1)という苦情が寄せられ、「古典芸術への無理解」として一部から揶揄されたのは記憶に新しい。けれども、そうした苦情も、実際にはまったく根拠のないものではない。「そういう眼で観るなら」、ダビデ像であられもなくむき出しとなっている男性器やビーナス像の乳房をじっと眺め続けるのには、誰でも少なからず気が引けよう。すなわち、欧米の美術史では歴史的な評価の定まった芸術作品といえども、わが国で広く信奉されている「良識」に抵触する性質がまったくないわけではない。ではなぜ、これらの作品は欧米において、永く公的な展覧を許容されてきたのか。

それは、たとえそういう二面性があったとしても、人類の文明において後世に伝えるべき「芸術的価値」の方が勝っているという判断が−−−ふだんは顕在化せず潜伏的にではあれ−−−圧倒的に優勢だとされているからだ。ゆえにその公開も制限されず、善き鑑賞の対象として広く推奨されているのであって、裏返せば今後、芸術的価値を見定める尺度に劇的な変化が起これば、現状の容認が根本から覆されないとも言いきれない。

いま少し形式的に言えば、この問題は集合論で解決することができる。たとえば、美術作品として古典的な価値が確定されているアングル「トルコ風呂」や、ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」さえも、同じく「そういう眼で観るなら」、「公序良俗」に反する要素を備えているのはあきらかだ(「これは芸術作品なのだからそのような要素は皆無である」と主張するものがいるとしたら、それは無意味な同語反復であり、反省なき芸術信仰にすぎない)。けれども同時に、これらの作品は、人が人であるかぎり避け難く抱え込んでいる性という宿業や欲望の救い難さを、いたずらにそそのかすのでもなく、一方的に断罪するのでもない。むしろ画家としての能力を駆使し、いったん受け入れたうえで制御し、「芸術」として省察しうる対象へと客体化しえて<も>いる。つまり、物理的対象としては単体であるにもかかわらず、受け取る側から観た時には、第一の集合(欲望喚起)と、第二の集合(理性的鑑賞)の要素を併せ持っているのである。


左:ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル「トリコ風呂」1862年 ルーヴル美術館蔵
右:フランシスコ・デ・ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」1821-1823年 プラド美術館像

が、これらの絵では、長く厳しい歴史的な検証を経たうえで、現状では前者の意見は無視しうるレベルに留まっている。けれども、第一の集合にまったく帰属していないわけでは依然ない。けっきょく猥褻物として切り捨てられた産物とは、二つの集合をめぐる包含関係が違っているに過ぎない。ゆえに、どんなに少数の意見だからといって、それを弾劾する権利は残されているし、そのような余地が残されていなければ、現状の芸術への評価はおのずと惰性へと流され、やがて硬直してしまう。だからこそ、いかに歴史的な評価が定まっているかに見える作品でも、いったん問題として可視化されれば、そのつど広く議論をつのり、大勢の判断を確かめていかなければならない。

会田誠の連作「犬」においても、そのような両極が共存しているのは言うまでもない。ただし、先のアングルやゴヤの絵画と決定的に違うのは、描かれてからの時の経過があまりに微々たるものであるために、芸術作品としての鑑賞的価値と、風俗的な欲望喚起からなる矛盾した性質を持つふたつの集合をめぐって、いずれを優先すべきかの判断が、いまだ社会的に成熟していないことにある。実は、きわめて歴史が浅いがゆえに、評価が為替相場のように刻々と変動する現代美術の領域では、このような判断の分裂はなかば必然のものとならざるをえない。

もっとも、だからこそ、現代美術を専門に展示する公的な施設としての美術館の存在意義もあるのだ。単なる博物施設とは違って、「現代美術館」の意義は、いまだ価値の定まり切らない同時代(コンテンポラリー)の表現に対して広く議論の機会を募り、今ある美術の歴史を少しずつでも先へと進めていくことにある。社会的に「毒がある」とされる会田誠の作品について公的な場所で展覧会を催すというのは、もとよりそうした両義的な性質を酌量し、現状での「価値」の如何(いかん)を見定めることにほかならない。しかしながら、今回の会田誠展での森美術館による諸問題へのその場しのぎのコメントや、キュレーターによる黙殺的なやり過ごしには、現代美術の「価値」変動をめぐる積極的な取り組みや使命感がまったく感じられない。たいへん残念なことだ。

ちなみに私自身の見解は、会田誠の作品には、社会通念としての「良識」に抵触する性質が見受けられるものの、それはあくまで法的な許容範囲に留まるものであって、そこから派生する端的に風俗的な性質よりも、そうした要素をも「様々なる意匠=いろいろなデザイン」のひとつとして「記号化」して対象化する芸術的「方法」が勝っており、ゆえに鑑賞的価値が優先する、というものである。
(次回に続く、文中敬称略)

  1. 過去にはほかの例として、1996年に東京ビッグサイトで開催された「アトピック・サイト」展で、シェリー・ローズ「ボバルーン」の露出した性器をかたどった部分に一時、主催者により「オムツ」がつけられた。また今回の会田誠展でも主催者判断で「18禁部屋」が設けられているが、こうしたゾーニングは日本においてはかならずしも先進的な試みではなく、すでに明治36年、白馬会系の展示でさえ、裸体画のみを展示するための「特別室」を設置した展覧会が上野で開かれている。つまり、近代日本における「ゾーニング」は西洋美術への理解の未成熟から来る裸体画の猥褻視に由来しており、矛盾した近代化の二面性に由来する「後進的」なものであった。その入り口は「紫色幔幕にて覆ひ外部より認め難らしめ」られていたという(拙著『日本・現代・美術』、新潮社、1998年、185−186頁参照)。森美術館での今回の「ゾーニング」も、一連の対応(不作為)を観るかぎり、けっきょくは「対処」的なものと理解した方がよいだろう。

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