31:絵描きと「贋金つくり」——会田誠「天才でごめんなさい」展をめぐって(1)

※本連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。


『会田誠展:天才でごめんなさい』展示風景、森美術館 2012/11/17-2013/3/31 Courtesy Mizuma Art Gallery 撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館

森美術館(東京、六本木)での『会田誠展:天才でごめんなさい』がいろいろと喧しい。私は昨年、すでに展覧会の実見を済ませ、その充実した回顧や新作の展開に大きな関心をそそられた。が、他方で、作家への賞讃ばかりが聞こえてくる当初の反応に、少なからぬ疑問も持った。

会田誠は、その作風から「毒のある作家」とも呼ばれ、今回の展覧会を実現するにあたっても、他館への巡回は予定されておらず、企業による協賛も期待通りには得られなかったと聞いている。そんな「逆風」のなか、美術館をあげての会田誠展を敢行した森美術館の取り組みは刮目に値する。にもかかわらず、なぜ疑問なのか。理由は先にふれた「毒」にまつわる。

そもそも「会田誠の毒」とはいったいなにか。それについてはおいおい触れるとして、ひとまず、こう考えることはできる。もしも、会田誠がほんとうに「毒のある作家」なのであれば、展覧会開催中に、激しい論争や問題提起が起こらないはずはない。他方、なんら波風立たぬのであれば、逆説的に、会田誠に毒など最初からなかったことになる。結局のところ、会田誠は無害な作家であり、単に「健全」な作家の展覧会を開催しただけの館の「断行」も、おのずと意義が薄れざるをえない。

実際はどうか。少なくとも私が展覧会に足を運んだ頃、本展は美術関係者や文化人から軒並み絶賛を集めていた。つまり、状況としてはかぎりなく後者に近かった。昨年でも指折りの展覧会に数えながら、毎年、年の瀬になると大手新聞に寄せている「年間ベスト4」に本展を選ばなかったのは、そのような理由による。会田誠という作家が20年にわたって繰り広げて来た、優等生の「美術」をアイロニカルに揶揄する挑発的な活動と、当たり障りのない賛辞とのギャップに、「生涯一河原乞食」画家(*1)としての(屈服ではないにせよ)社会的な「敗北」を見たように感じたのだ。

ところが、年が明けると、にわかに本展に対する風当たりは強くなる。もっとも、先の理由から、私はこれら一連の「騒動」を基本的には「歓迎」している。どれも、会田誠という作家の本質や森美術館の真価が、はっきり問われる出来事だと思うからだ。

それらは、大きく言ってふたつに分けられる。手足を切断された「美少女」を「犬」として描いた連作への主に「児童ポルノ」疑惑と、ツイッター上での他者の呟きを無断で大量に借用のうえコラージュした「モニュメント・フォー・ナッシングⅣ」への「著作権侵害」疑惑である。繰り返しておけば、これは決して瑣末なクレームではない。性をめぐる描写と引用の活用は、会田誠が当初より存分に駆使してきた、作家性の芯となるイメージと手法だからだ。とうぜん、森美術館には会田誠および彼の作品を社会に向けて支える筋道が求められる。


会田誠「犬(雪月花のうち“月”)」1996年 岩顔料、アクリル絵具、和紙、パネル
100 × 90 cm 高橋コレクション蔵、東京 Courtesy Mizuma Art Gallery


会田誠「モニュメント・フォー・ナッシング IV」2012年 アクリル絵具、紙、合板、木ネジ 570 × 750 cm
Courtesy Mizuma Art Gallery 撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館

その際になにより起点となるのが、本展の図録に掲載された会田誠とその作品についての論考と分析であるのは言うまでもない。なかでも、展覧会を担当したチーフ・キュレーター(=片岡真実)によるメイン・テキストの果たす役割は大きい。が、このような諸問題が生じたあとで改めて読み返してみたとき、このテキストには、会田誠を論ずるにあたって避けがたく必要とされる先のふたつの主題=「性」と「引用」についての熟慮が決定的に欠けている。

そもそも、前者についてはほとんど言及さえなく、後者については拙著『シミュレーショニズム』(1991)が提示した「サンプリング」「リミックス」の語を用いながら(同書には一切触れず)それを近代=資本主義体制以前の「本歌取り」の慣習に素朴に結びつけることで、いちじるしく矮小化している。これでは、今回、起こるべくして起きた諸問題に返答しうる耐久力など、最初から望むべくもない。本論文についてはほかに、やはり先行する拙著『日本・現代・美術』(1998)第3〜4章での論理展開に酷似する記述がありながら、同書への参照がないばかりか、私が「分裂」として抽出した90年代美術の特質を、単なる「混沌」の一語で済ませることで、問題の射程をひどく狭めてしまっている(*2)

会田誠が「毒のある作家」なのであれば、会期中に性描写や著作権をめぐる問題が生ずることは当然、予想されたはずである。こうした問題に対しては、片岡論文のように「会田誠は混沌の男」(「混沌でごめんなさい」?)などと釈明しても、他者に対してはなんの効力もあるまい。それに、会田誠は「混沌の男」などでは断じてあるまい。これは何度、強調しても十分ということはない。このことについて、いまから作家の原点まで遡って考えてみたい。

会田誠の美術家としてのデビューといえるのは「フォーチューンズ」展(レントゲン藝術研究所、キュレーション=西原みん(*3)、1993年)である。実はすでにこの時点で、会田は一見してバラバラに見える自身の作風について、わざわざ一文を寄せ「いろいろなデザイン」と呼んでいる。言うまでもなくこれは、会田に大きな影響を及ぼした批評家、小林秀雄による、やはり文壇デビュー作にあたる「様々なる意匠」(1929年)の翻案にほかならない。このように会田誠は、美術家としての自分の出自に、意図的に意匠としての「小林秀雄」を組み込んでいる。つまり、表層的には「混沌」に見えかねない会田作品の多様性を凝集しているのは、まぎれもない「意匠としての批評」なのである。言い換えれば、「絵描き」が「絵の評者」として「立つ=発つ」という自己を突き離した分裂と共存から、ジャンルでいえば日本画、洋画、イラスト、マンガからアニメまで、現代美術なら抽象表現主義からミニマル・アート、もの派からポストもの派に至る「様々なる意匠」の乱立へと堕していた当時の美術の状況を、「美術なき<デザイン>のいろいろ」と喝破してみせたのだ。

小林秀雄は文芸をめぐる「様々なる意匠」を醒めた目で捉えながら、同時に、自身の批評的情熱を著すには依然、いずれかの「意匠」に筆を託すしかない矛盾を、はっきり意識していた。同様に会田誠もまた、美術の不在へ向かう屈折した批評精神にもかかわらず、おのれの表現が、否応なくなんらかの「仮象(シミュラークル)」として「現れ」ざるをえないことを知り抜いていたはずだ。ただし、その意匠の群れは、小林の時代とは比べ物にならぬほど高度に資本主義が発達した今日、結局のところ、その都度、取捨選択=消費しうる「いろいろなデザイン」となるしかない。そうと知りつつ、「重厚な油絵」から「繊細な日本画」、「下品な落書き」から「ポルノまがいのイラスト」まで、それらの「魅惑」をあえて平板化して借用し、美術の「ハリボテ」へと仕立て直すこと――それが、会田誠のなかで、小林秀雄に由来する「様々なる意匠」と「シミュレーショニズム」が出会いうる、不幸な時代にあって唯一の「悪い美術」なのである。

会田誠の「日本画」や「油絵」、「マンガ」や「インスタレーション」には、端的に言って、日本画や油絵、マンガやインスタレーションとしての「魅力」がない。だからこそ彼は、その画家としての能力の限界を、自己を顕示するための「虚像」としての「贋金つくり」(アンドレ・ジイド)に賭けたのだろう。彼の言う「天才」とは、この意味においてのことであり、それを「ごめんなさい」と謝るのは、その隠された「偽善(偽悪ではなく)」ゆえのことなのである。「児童ポルノ」や「著作権侵害」疑惑についても、法的な解釈の仔細にのみ振り回されることなく、最終的には、会田誠という美術家をめぐる捩れた本性から答えを出さなければならない。
(文中敬称略、次回に続く)

  1. 『アートの仕事』(太陽レクチャー・ブック 004、平凡社、2005年)所収の会田誠を囲む鼎談を参照。

  2. これに関連して言えば、かりに会期中に噴出した諸問題が美術館にとって「想定外」であったとしても(であればなおさら)「性」や「引用」が、今日のアートにとって真に問うべき価値を孕んでいることに変わりはない。チーフ・キュレーターの片岡氏は、問題を黙殺することなく、積極的に記者会見を開くなどして、議論を広く社会に対して開くべきだ。このことは美術館としての姿勢だけでなく、会田誠という美術家の「毒」が会期終了後、たんなる「厄介の種」として避けられるようになるか、真剣に考えるに値する問題を供えた作家として認知されるかの分岐点となりかねない。キュレーターとしての真摯な対応を強く望む。

  3. 美術家としての会田誠を最初に「発掘」したのは、当時、美術評論家として活動していた、会田と同じく東京芸大出の西原みん氏であることを明言しておく。

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