14:「わたし」に穿たれた深くて暗い穴(前編)

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飴屋法水「わたしのすがた」は、舞台芸術祭『フェスティバル/トーキョー10』の正式な参加作品である。したがって、役者も居らず脚本もなく劇場で上演されないからといって、これを単純に演劇でないと決めつけることはできない。事実、チラシには「構成・演出:飴屋法水」と明記されている。その意味では「わたしのすがた」は、まず、従来の演劇やそれが観られるコンテキストからの距離や位置付けにもとづいて考えられるべきだろう。
 

なぜこういうことを言うのか。僕らはまず、地面に深い穴が掘られた受付近くの旧校庭を第一留とし、近隣から巣鴨駅近辺に至る三つの不動産(それぞれ第二留、第三留、第四留とされている)を、各所で手渡される簡単な地図だけを頼りに経巡って行く。だから、もし「わたしのすがた」を<廃屋を使ったインスタレーション>として美術の文脈に引きつけてしまえば、それは「演劇を脱ぐ」どころか、美術の世界では1990年代以降、頻繁に試みられている一種の類型に収まってしまう。近い例ではこの夏に開催された『瀬戸内国際芸術祭』が挙げられる。とりわけ豊島にある甲生の集落で人の住まなくなった家屋を使い試みられたクレア・ヒーリー&ショーン・コーデイロやスー・ペドレーの展示、あるいは男木島での二階屋を使った北山善夫の展示は、かつて住んだ人たちが廃屋に残して去った生の痕跡や残留物と、そこに美術家が加えた表現との分ち難い混交において、「わたしのすがた」と極めてよく似て見える。もちろん、それぞれは固有のものとして考えなければならないし、なにより飴屋の場合、一連の廃屋が都会のただ中で見出されるという違いは大きい。にもかかわらず「美術」として見た場合、「わたしのすがた」から展示形式だけを取り出せば、そこには、とりたてて言及すべき革新性は見当たらない。

しかし、演劇としてみたらどうだろうか。つまり<廃屋を使ったインスタレーション>などではなく、飴屋法水という演出家が、「(死者も含む)そこに居ない人たち」を役者に見立て、かれらがその場に居ぬままにして(演技ではなく)存在を回復できるような演出を、廃屋を「劇場」に見立てて手掛けているのだとしたら? 実際、僕がそれぞれの場で強く感じたのは、そこに置かれた「もの」へのフェティッシュな情感よりも、それらの「もの」を通じて浮かびあがる「今はもうそこに居ない」人たちの(下手をすると「降霊」と紙一重だが)生々しい気配や息づかいの方だった。そのとき「わたしのすがた」は、舞台も役者も脚本もないままに「場を変容し、人を動かす」という点で、旧来の演劇概念の強烈な刷新と開放を行い得ているように見えるのである。

いや、美術であるとか演劇であるとか、いちいちジャンルに縛られる必要はないのではないか、ありのまま体験すればそれでよい、そういう向きも当然あるだろう。けれども、それが近代的な「表現」の傘下にある以上、「ありのままの体験」というのは幻想にすぎない。そう主張するのは自由だが、私的な鑑賞というのは得てして類型化を免れない。仮に「わたしのすがた」を見て切実な体験を得たとしても、実はその「切実さ」において近似の類を出るのは難しく、しばしば、それこそが共感と見誤られている。

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と、ここまで書いて、批評家として一定の役割は果たしたと思うので、以後はまったく別の書き方をする。最初に触れておきたいのは、「わたしのすがた」が、文字と音と喪失の痕跡からなる点において、かつて飴屋が会場に設置した暗闇の箱に24日間、独りで籠った『バ  ング  ント』(2005年、P-House、東京)に深く連なっているという点である。もっとも、そのとき大友良英が提供した音は、今回はSachiko.Mと吉田アミの手によるものに、前回では僕自身が提供した文字は飴屋によるキリスト教関連の文からの借用へと移っている。

また『バ  ング  ント』では題名に見られるような余白に充てられていた文字の脱けや作者の不在は、今回は各<留>に穿たれた物理的な「穴」へと変形されている。また『バ  ング  ント』で場内に持込まれた品々が、「作品」というよりも「いまここに居ない」人の気配を浮かび上がらせるための媒介物であった点も同様だ。そう考えた時、「第四留」に当たる「休日診療所」の二階の個室で、飴屋が他界した彼自身の父の遺骨や遺品を並べていたこととの関連もはっきりしてくる。そもそも飴屋が「バ  ング  ント」で箱に籠り「居なくなった」のは、父を失った喪失感を何か別のもので「埋める」のではなく、それをみずから反復することで、彼自身が「喪失」そのものになることであったと考えられる−−−−しかしそれは生きているかぎり不可能だ−−−だからこそ、そこでは一種の「喪失劇」が必要とされたのだろう。「わたしのすがた」では、この「喪失劇」は、もうそこに居ない人たちを不在のまま役者として呼び戻すことで、今度は彼らに転移されて再演されている。
 

写真提供(全て):フェスティバル/トーキョー10 
©片岡良太 

むろん違いがないわけではない。なかでも最大の差異は、第二留の「半分の教会」に設置された二つの懺悔部屋だろう。比較的空いた時期にここを訪れた僕は、指示に従って独りで部屋に入り鍵を掛け、壁に残された他人による罪の告白をゆっくり眺め、結局、奥の方の部屋の天井に、ゆっくりとだが大きく「無罪」と書いた。それは、かれらに比べて自分が無罪だと感じられたというのではなく、結局、ここに残されたようなことは(たとえ法や倫理に触れることが告白されていたとしても)、「罪」と言えるようなものではないのではないか、と思ったからだ。端的に言って、僕にはそれが世俗の一幕にしか見えなかったのである。
 
それよりも気になるのは、父の死が飴屋にとってなぜ、これほどまでに切実であり続けているのかということの方だ。肉親の死なら当然といえばそれまでだが、そこには何か不透明なものが存在する。「わたしのすがた」で僕がもっとも関心を引かれたのは、廃屋とか懺悔といった外皮ではなく、けっきょくそこに尽きる。つまり、今回の演出を通じて飴屋は最初から最後まで自分のことしか語っていない。だから、懺悔の共感や場の共有は一瞬、そこを訪れた他者同士に未知の共感を呼び覚ますかに見えて、実際にはすべてはあの第一留「はじまりの穴」の居心地悪さに吸い込まれるしか手立てがない。言い換えれば<内面的な共感が難しい>からこそ、その溝を何か(たとえば懺悔)によって埋めるのではなく、むしろ個々人が本質的に宿している埋めがたい溝を可視化するために、飴屋は<物理的に穴を掘る>しかなかったのではないか。
 
だとしたら、会期を終えた後、各所を現状復帰した様を見せた一日だけの「跡展」で、穴は元にそこにあった土砂によって確かに埋められたにも関わらず、「そこには穴がある」という体感だけが埋めようもなく残ったのは、むしろ当然のことと言える。つまり穴は掘られたのではない。僕らのなかに最初からあった「穴」を見出させるために、あれらの穴は掘られたのだ。そして、それは誰とも共有することができないからこそ「穴」なのである。しかし、それは最初からほかでもない飴屋自身の言葉で明示されていたことでもある。「わたしのすがた」という他者を排したタイトルそのものによって。
 
したがって、会期を終えて土砂により埋め戻されても、喪失はむしろかたちを失い却って深くすらなるだろう。だからこそ、僕らにできるのは罪の共有などではなく、飴屋という(今度はこちらから見た)他者が各人の中に穿ったこの穴の露呈を埋めようなどとは考えずに、飴屋が言うように、徹頭徹尾、誰にも属さぬ「道具」として使い倒すしかないのだ。(後編へ続く)

「わたしのすがた」
2010年10月30日〜11月28日
『フェスティバル/トーキョー10』
東京芸術劇場、にしすがも創造舎、あうるすぽっとほか池袋駅周辺

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