バランスの問題

ニューヨーク州では最近ふたつの展覧会『マリーナ・アブラモヴィッチ:The Artist is Present』(ニューヨーク近代美術館)と『キャロリー・シュニーマン:Within and Beyond the Premises』(サミュエル・ドースキー美術館、ニューヨーク州立大学ニューパルツ校)が時を同じくして開催された。このふたつの展覧会は、視覚美術の表現手法のひとつとしてのパフォーマンスの展開におけるひどく偏った理解の一因が美術館にある状況についていくつかの憂慮すべき問題を提起している。私が両展を比較するのは、アーティスト個人の貢献や功績について批評するためではなく、双方の展覧会に内在する企画上の取り組みを具体的に分析するためでもない。むしろ、ここでは以下の2点に関することを取り上げたい。まず、美術館の方針を決定する総意の力。そして、美術館などの機関によって、アーティストの存命中に彼らの歴史的な功績や重要性を評価するというなされるべき責務が果たされていないということ。


Carolee Schneemann – Eye Body – 36 Transformative Actions (1963) Action for camera.
Photo by Erro. Courtesy the artist.

予備知識として、問題のふたりのアーティストの相対的な歴史を考慮に入れるべきだろう。フィラデルフィア生まれのキャロリー・シュニーマンは、現在70代半ばで、テーマとしても素材としても自分自身の身体を使った作品群を展開し続けた世界初のアーティストであると言ってもよい。1963年までに彼女は自分のスタジオで行ったパフォーマンスを記録した写真作品『Eye Body』シリーズを制作し、さらにそこからセルフポートレート写真を基にした現代美術の広範な作品群を派生、展開させた。1965年までには、最もよく知られる「Meat Joy」を伝説的なジャッドソン・ダンス・シアターにて創作し、パフォーマンスアートが70年代中盤にアートの一分野として認知される頃には、既に10年にも渡る活動を展開していた。その間の作品には『Up To and Including Her Limits』(1973~76年)、「Interior Scroll」(1975年)など、その後のフェミニズムをベースとした芸術活動の基準となったものが含まれる。


Marina Abramović – Installation view of the performance The Artist Is Present at The Museum of Modern Art, 2010. Photo by Scott Rudd, © 2010 Marina Abramović. Courtesy the artist and Sean Kelly Gallery/Artists Rights Society (ARS), New York

シュニーマンより10歳ほど年下のマリーナ・アブラモヴィッチの活動は、ちょうどシュニーマンが前衛的な実践の最先端から徐々に姿を消し始めた頃に始まっている。アブラモヴィッチはベオグラード出身。まだ美術を志す学生時代にパフォーマンスを始めた彼女だが、国際的に認められた最初の作品群は長年のパートナーであるドイツ人アーティスト、ウーライとのコラボレーションで、80年代を通してふたりで作り出しふたりで行ったパフォーマンス活動を中心とするものだった。90年代中盤までにはアブラモヴィッチ単独で活動するようになり、世界中のキュレーターたちの大規模な展覧会に、より加えられやすい作品を制作し始めた。その理由のひとつに彼女の芸術的な展開が自分の作品制作を構成する手段として美術館の仕組みを巧みに利用する方向へ自然と向かっていったことが挙げられる。偶然ではなく、(これはシュニーマンの手法だったとも言えるが)ダンスやハプニング、フルクサスやジョン・ケージから得たアイディアを継ぎはぎする取り組みかたに順応するのではなく、アブラモヴィッチは公共圏としての美術館、また体験とコンセプトの感覚的な公会堂としての美術館に特異的に順応する言語や実践を生み出した。これはアブラモヴィッチの目覚しい功績と考えられる。


Carolee Schneemann – Up To And Including Her Limits (1973-76) Installation with crayon on paper, rope, harness, 2-channel video on six monitors, Super 8 film projection. Courtesy the artist.

シュニーマンとアブラモヴィッチの作品を別の点で関連付ける経歴上の特徴がいくつもある。ふたりとも非常に人目を引く容姿に依拠していたことが、特に人前で女性の裸体をさらす要因となった。また、ふたりとも男性の協働制作者への依存度が高く、深く結びついていた。シュニーマンの初期のパートナー(日常生活でも芸術においても)には、作曲家のジェームス・テニーや彫刻家のアンソニー・マッコールが含まれる。一方、アブラモヴィッチはヤン・フートやクラウス・ビーゼンバッハのような有力なキュレーターと、より注目される、プラトニックな関係を結ぶ傾向がある。シュニーマンの場合には、その生涯における混乱的な作品は広範囲に継続的な状態で、他者との情熱的な関係―男性とであれ、ネコとであれ―と絡まりあっている。従って、シュニーマンに関する唯一の本格的な研究書『Up To and Including Her Limits』(1996年)が自費出版だったことは、驚くべきことではない。当然だろうが、実質的に重要なシュニーマン作品は米国の主要な美術館に所蔵されていない上、前回の回顧展は1996年にニューヨークのニューミュージアムで私が企画したものだ。それに比べ、開催中のアブラモヴィッチの回顧展は、今回に劣らぬ成功を収めたグッゲンハイム美術館でのパフォーマンスイベント『Seven Easy Pieces』(2005年)からほんの数年しか経っていない。そして、一部のキュレーターたちの情熱的な献身のおかげで、アブラモヴィッチの作品は芸術の殿堂の正面と中心に位置付けられることとなった。その殿堂の中の現代の最も重要な芸術的諸問題のいくつかは彼女が最初に提起したものである。


Marina Abramović – Nude with Skeleton (2002-05) Black-and-white photograph, 125 x 145 cm. © 2010 Marina Abramović, Courtesy the artist and Sean Kelly Gallery/Artists Rights Society (ARS), New York.

いまこの時点でこそ、私は自分の専門分野における世間の一般通念を捨てるべきだと感じている。アブラモヴィッチの活動があたかもボディアートやパフォーマンスアートの既存の傾向とは無関係に展開したかのように見なすかわりに、パフォーマンスアートや、とりわけボディアートの、より大きな歴史の軌跡の中に彼女の役割を明確に位置付けるほうが美術史への貢献としては意義があるのではないか。同じ分野に重要なアーティストたちがいて、彼らの芸術が依然展開を続けている場合には特に意義があるのではないか。ここでシュニーマンを引き合いに出すのは、彼女のほうが年長で、アブラモヴィッチらのほうが高い評価を得てきた理念を開拓したのは明らかにシュニーマンだからというだけではなく、もっと重大な理由がある。シュニーマンの仕事を過小評価することは、現代の最もはなはだしい美術犯罪のひとつだと思うのだ。理解できないのは、これほどまでに広く遠大な影響力を持つアーティストがいつまでも知名度が低いままなのに、広大な公共圏も批評の領域も、シュニーマンのアイディアをまったく異なる時代と場に適応させたアーティストたちには開かれているということだ。

シュニーマンとアブラモヴィッチ双方が使っている表現手法の生みの親のひとりが、ニューヨーク北部の小さな大学美術館でのほとんど人目につかない回顧展に追いやられ、一方では彼女の後継者の展覧会が世界でも最も名高い近代美術館の伝説的な展示室を満員にして、並外れたメディアの注目を集めている。この不均衡を立証した上で、そろそろなすべき仕事を始めようではないか。アブラモヴィッチの功績が「独自」であるかのように伝える近年の美術史を受動的に受け入れるのではなく、最重要人物たちの貢献を評価する、より包括的なパフォーマンスアート、特に、フェミニズムを踏まえたパフォーマンスアートの歴史に着手することを提案したい。恐らく我々はまだいくらか、興奮とか美学とかそんなものの虜になっているのだろう。何十年か前に、女性アーティストたちが服を脱ぐことは男性優位の美術史という拘束衣を脱ぎ捨てるためのひとつの方法だと決心したとき、初めて起こった興奮や美学。しかし、それは60年代の出来事で、70年代や80年代のことではない。この依然として展開を続ける批評的、哲学的効果をこれから公正に評価したいのならば、クレジットは帰すべきところに付けることから始めたらいい。

(翻訳 松浦直美)

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