艾未未のことば 3 臭気ただよう時代

臭気ただよう時代
訳・責任編集/牧陽一

※このインタビューは雑誌『HI芸術』2007年12月1日号に収録された内容をもとにしています。

艾未未・缼席 文/牧陽一

『HI芸術』編集部 ユーレンス現代美術センターのオープニング[注1]には行きましたか?

艾未未(以下AWW) あんな展覧会に行くわけがない。吐き気がする展覧会、典型的な新植民地主義展覧会だ。

『HI芸術』編集部 85美術運動の頃、あなたは何をしていましたか?

AWW 私はニューヨークの街角で乞食をしていたよ。

『HI芸術』編集部 中国国内の芸術家の生活と大した違いはないですね。

AWW 85美術運動の時代自体がさっぱり訳の分からないものだ。ずっと89年まで分からないままだった。

『HI芸術』編集部 時代が訳の分からないものだったのか、それともあなた方自身が、より訳の分からないものだったのですか?

AWW 両方同様に訳が分からないのだ。私自身は時代から離れたことがない。私はアメリカに行けば分かるかと考えたが、結局かごの中へ跳びこんでしまって、いっそう分からないことに気付いた。

『HI芸術』編集部 当時あなたはアメリカにいたにもかかわらず、どうしてこちら側の(中国の)ことを知っているのですか?

AWW 85美術運動の時代、国内はとてもにぎやかだった。あれはひたすら知識を導入している時期で、暴飲暴食の消化不良だった。だから85美術運動は根本的に気候風土になじまないものだった。当時の作品は、歴史的コンプレックスがあったので、広大な事柄を叙述したが、いわゆる歴史的責任感というのも、正直にいえば“しかばね(キョンシー)政治”に反して出て来たものだ。もし政治的歴史に対するあがきに過ぎないものだったら、なかなか出ては来ないだろう。今日でさえ中国人はまだ実際にはそこから這い出て来てはいない。もし這い出て来ることができるとすれば、政治への直接的な抵抗ではない。やっとこのような思考が今日に至ってから始まってきたのであって、当時はあり得ない。皆ちょうど苦しい境遇から離れたばかりで、それからやっと傷痕、苦難、使命感を賞賛し始めたところだった。吐き気がするような事だと思う。

『HI芸術』編集部 私にはとても奇妙に思えるのですが、苦難の中から這い出たばかりの人間が、傷痕美術を賞賛するなんて、まるでさっきまで奴隷だった人間が、奴隷を家に並べて見ているようなものではないですか。

AWW その通り。私は当時かなり退廃的で、数冊の本を読んでみたが、1冊はエロ小説で動詞がやたらに多い。次は哲学の本で、その哲学は犬の屁みたいなでたらめだった。

『HI芸術』編集部 本を読んでもいても心の重荷が解けなかった、そうですか?

AWW 別のひとつの時期に限定されてしまったのだ。かごは開けたが、実際には飛べなくて、翼を羽ばたかせる練習で、ほこりが舞っただけだった。

『HI芸術』編集部 閉じ込められていた時間はとても長いのですが、この時間には意義がありますか?

AWW 時間のアウトラインをはっきりと見ることができた。85美術運動のアウトラインはパレットの上の混合色だ。

『HI芸術』編集部 この汚い色が実はとても心地よかった、そうですか?

AWW 私はそれを賞賛する気はない。かつて彼らが経験した苦難も、彼らの苦難に対する態度も賞賛しない。その中から獲得する自我もその覚悟も賞賛しない、それはいつも救済の角度から世界を見ようとしている。もちろんいかなる邪念も芸術の形態を生みえることは理解できる。当時、文化的話題は多く、そして皆自分のために偽りの強心剤を打つような雰囲気があったが、それはバイアグラではなくて、媚薬のはずだった。

『HI芸術』編集部 時には媚薬が生命を救うことがありますか?

AWW もちろん。非難しているわけではなくて、ただ85美術運動の必要な特徴だと言っているのだ。まるで厳冬の後必然的に雪が溶けてぬかるみの時期があるような、85美術運動はそんな時期だった。

『HI芸術』編集部 それでは盛夏はポスト89なのですか?

AWW 89年はちょうど芽を出し始めた頃だろう!ポスト89の作品は依然として消化不良の状態だった。

『HI芸術』編集部 85美術運動の多くの芸術家は、最終的にはすべて外国へ行ってしまった。

AWW 少なくはない。この土地が干上がるのを待つよりは、直接乾いた地面に飛び移った方がいい。私は1981年海外へ行った。私にはここの氷が溶けるとは思えなかった。

『HI芸術』編集部 あなたが活動を始め、アメリカに行った時が最も動揺していたのですね?

AWW 私の時期が一番酷くて、未来に対して何も良い想像ができなかった。私の氷は溶けにくい。

『HI芸術』編集部 彼らは米国へ行くとあなたを尋ねたのでしょう?彼らはどのように国内の生活を描写していましたか?

AWW 出国した人はほとんどニューヨークの私を尋ねてきた。音楽家であろうと、映画人であろうと、あるいは芸術家もだ。最初の頃は音楽映画関係者が多かった。かなり興奮して中国がすごく自由だと、まず性の方面で空前の自由に達したと言う。性の解放は社会の解放の前提だからね。

『HI芸術』編集部 しかし出国した人間は個性をとやかくいう事もなく、じかに中国四大発明を玩んだのでしょう?

AWW 彼らはみんな一緒で、何か特技を持ってから、中国文化を伝承する類の事をやる。嫌な奴らだ!とんだごますり野郎だ。

『HI芸術』編集部 変ですね、彼らが当時国内であんなに沢山の哲学書を読んだのも、暇つぶしのおしゃべりのためだったのでしょうか?

AWW うまいことを言うな、私には他にもう何も言うことはない。

『HI芸術』編集部 その上彼らは狭隘なナショナリズムコンプレックスに陥りやすい。同時期の譚盾[注2]の音楽、陳凱歌[注3]の映画もそうです。

AWW 過去の時代の全ての病気を彼らはもっている。私は85美術運動の時代は臭気がぷんぷんしたみだらな時代だったのだと思う。

『HI芸術』編集部 あなたは85美術運動の頃に芸術の事を考えましたか?

AWW 考えた。猛烈に考えたがどうにもならなかった。80年代、アメリカではあまり家の景気が良くない(つまり貧乏な)子供が芸術を学ぶのであって、隣近所にも自分の子が芸術をやっているなんて言えなかった。すべての留学生は学位をもらって、アメリカでの身分国籍と交換し、主流社会の一部になって、国家、また家庭のために栄光を勝ち取ることを望んでいた。私は逆で、学位がなく、アメリカの旅券もなく、ニューヨークで戸籍がなくて、身分は不法滞在者、それから行き当たりばったりで何か仕事をして、もろもろの職業の人と混じり合っていた。大体はこんなものだった。

『HI芸術』編集部 80年代は結局どのような時代ですか?

AWW 中国の60年代と70年代はとても独特な中国化された状態だった。80年代は解凍の時代で、新しい服を着ることのできる時代だったが、この服は体に合っていなくて、下着と上着も分からないまま、手に取ったものを何でも着こんだ。靴下を手袋にしている、これはよくある事だ。系統がないのだ、今日までの中国の美学にはすべて系統がない。

『HI芸術』編集部 彼ら芸術家は85美術運動の時代が生命の中で最高の華の時期だと思っていて、今もなおブランドとなった記号を売買しています。しかも高値で売って、酷くなると後継者がまたそのブランド記号を売買しています。この点についてあなたはどう思いますか?

AWW 春の夢から意識的に目覚めた人に会ったことがあるかい?これはとても正常だ。でたらめな時代に、いくつかでたらめな絵を描いて、ブランドになって、大儲けする。でもいま彼らは、当時を思い起こして私達はいかなる功利も求めたわけではないと言う。現実の残酷さが彼らをそこまで追い込んだのだ。あるとても貧しい農村に気がふれた中年女がいて、頭の中では奇妙な恋愛物語を考えている——、当時はこんな状態だ。狂気じみた女の頭の中は煌びやかで美しい画面だが、実は毎日肥だめの上に座っているのを村人は眺めている。だから悲しくまた哀れだ。

『HI芸術』編集部 より哀れですね。悲しみはどこへ行ってしまったのか、全ては自業自得でしょう。キュレーターについて聞きましょうか。

AWW 初期のキュレーターは、完全に単純な権力意識で、虎の威を借りて人を脅すようなものだ[注4]。座山雕のように[注5]手下がいて、文化スローガンを出して、とても下劣だ。中国人は文化そのものに対して本当の認識がなく、文化は権力の言説であり、尊厳を得るチャンスぐらいにしか考えてはいない、これは文化を侮蔑するやり方だ。

訳注

注1 2007年11月5日、北京大山子798工廠跡に開館した「ユーレンス現代美術センター」の開幕展。『’85 New Wave Movement: The Birth of Chinese Contemporary Art』[’85新潮:中国現代美術の誕生]と題され、徐冰[シュイ・ビン]、王廣義[ワン・グァンイー]、張培力[チャン・ぺイリィ]ら30人の作家による137点の絵画、写真、ビデオ、インスタレーションを展示した。

注2 譚 盾[タン・ドゥン、Tan Dun, 1957年生まれ]は、現代中国を代表する作曲家である。映画『グリーン・デスティニー』や『HERO』のための映画音楽を作曲し、グラミー賞やアカデミー賞を受賞した。1985年、ニューヨークへ移住してコロンビア大学の博士課程に入学した。1997年7月1日の香港返還の式典のために「交響曲1997天地人」を作曲している。

注3 陳 凱歌[チェン・カイコー、1952年生まれ]は、中華人民共和国出身でアメリカ国籍の映画監督。『さらば、わが愛/覇王別姫』はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞。そのほか代表作は『花の影』『キリング・ミー・ソフトリー』『始皇帝暗殺』『北京ヴァイオリン』など。

注4 「拉虎皮做大旗」「扯大旗作虎皮」とも。“首先应该扫荡的,倒是拉大旗作为虎皮,包着自己,去吓唬别人。”[まず取り除くべきなのは、大旗を上げて虎の皮にする、自分を覆い隠して人を脅かすような人間だ]/ 鲁迅《且介亭杂文末编 答徐懋庸并关于抗日统一战线问题》[徐懋庸に答え、あわせて抗日統一戦線の問題について]

注5 座山雕 革命現代京劇《智取威虎山》(原作は曲波の小説『林海雪原』(1956)。1967年初演:1946年東北地区解放軍の楊子栄が、威虎山の土匪集団の頭、座山雕の仲間になりすまして、解放軍に情報を送り、最後には匪賊を全滅させた物語)/ ジャッキーチェンの『プロジェクトA』(1983)の元になっている。座山雕は敵の匪賊の親分。

追記(2012.5.1)
牧陽一 『艾未未読本』(集広舎)は、ART iT オンラインショップで発売中

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