艾未未のことば 5 ナスはナスだ

ナスはナスだ
訳・責任編集/牧陽一

このインタビューは雑誌『今日美術』2008年11月22日号に収録された内容をもとにしています。

今日美術編集部(以下、KG) 2006年からあなたは3年連続して、『アートレビュー』誌が毎年発表している、アート業界のパワーを示すランキング、「The Power 100」に入っています(2011年は1位)。世界が認める芸術家になったわけですね。『アートレビュー』誌があなたを選んだ理由の文中で、あなたは「孤独を感じる」と言っています。あなたはどうして孤独を感じるのですか?「孤独だ」というのはよく知識人が大衆にとって難解な思いや、自らの孤軍奮闘を示す時に使いますね。あなたは自分が「知識人」のひとりであることを認めるのですか?

艾未未(以下、AWW) 私はこの問いはつまらないと思う。私はこれまで自分が孤独だなどと言ったことがない。これはとても可笑しなことだ。「alone」という単語の意味は孤独とは限らない。私はこれまでずっと私自身の方法で社会に参与してきた。逃避するばかりではなかった。知識人なんてものは孤高でも何でもない、飯が来れば口を開き、着物が来れば手を伸ばす、贅沢で怠惰な連中だ。

KG グローバル化の視点から見ると、『アートレビュー』誌のあなたへの評価は国際世論を代表しているといえます。あなたの作品「童話」は、あるレベルの中国人の今日の社会生活状態を西洋人へと伝えています。あなたの芸術文献倉庫はかつて政府が警戒した現代アートの陣地でした。あなたが設計に参与した「鳥の巣」は現代都市建設の観念を牽引しました。これらの作品を解読する出発点は中国文化の反対側に立つものです。それは自然にあなたの中国文化における地位を強化しました。この点について、あなた個人の見方はどうですか?

AWW 私に対する評価のすべてがこのような文化的状況で打ちたてられるものなのかどうか私は知らない。あなたがこの方法で議論することに、私はあまり賛成しない。あなたがどれだけ私の作品を見たことがあるかについて私は知らない。他人がどのようにあなたの作品を見るかということと、あなたがどのように考えるかにも、とても大きな距離がある。あなたはナスがナスだと思うのは、トマトがどのようなものか、あるいはキュウリがどのようなものかを知っているからで、それでナスがどんなものか確定することができるが、ナス自身は自分がナスであることを知らない。ある人間のある事物に対する認識は、すべてその他の事物との関連から来るのだ。私は他人がどう見ようが基本的には関知しない。

KG あなたは多くのインスタレーション作品をつくっています。私たちはちょうどインスタレーション作品の特定研究をしているので、あなたのインスタレーションアートに対する理解を教えてもらいたいのです。

AWW これは研究なんてものだろうか?食事するのに箸を使おうが、ナイフとフォークを使おうが、手で掴もうがかまわない。あなたは粥を食べるのに、碗を持って啜り、パンを食べるのには手で掴む。手がどのようにパンを掴むのかをどうしても研究しなければならないというのなら、それはまったく意味のないことだ。

KG 20世紀の80年代から90年代中期、あなたの作品の多くは写実主義絵画を中心としてきましたね。それからあなたはマルチメディアへと大胆な試みをしますが、この転換はどうして発生したのですか?

AWW あなたは間違っている。マルチメディアは大胆な試みでも何でもない。ここには冒険という問題さえも存在しない。私は前世紀80年代、多くの写真を撮影したが、インスタレーションもその時に始めた。今始まったのではなく、突然の転換も何もない。

KG あなたの作品の中には自嘲があるのではありませんか?

AWW ひとりの作家にとって、自身の作品ごとに意図があるかもしれないが、実ははっきりと言うことができないのだ。作品に基づいて話さなければいけない。単純に自嘲だとか何だとかいうのは、人を変な方へ導くことになる。

KG あなたの作品「童話」の中で、1001人はどうして1001の椅子を持って行ったのですか?

AWW 1001の椅子は作品の一部だ。私は1001人を連れて出て行こうと考えた。この人たちの多くは出国の経験がないのだから、彼らの過去の経験が、見知らぬ場所へと、彼らと関係する物を持って来させることになる。例えばある人の旅行では一個の枕、或いは一足の靴を持って来るが、それは過去の経験への追憶なのだ。私は一人一脚の椅子を持って行くのが良い状態だと思った。

KG どうして椅子と人間の関連性を選んだのですか?

AWW 椅子は熟知した物だ。その上、椅子はかねてから単純な家具ではなく、社会の倫理と関係のある器物だが、中国の器物というのはすべて倫理と関係がある。たとえば家屋、家具とその他の物もね。私は椅子をカッセルの現代アートの文脈の中に置くのが比較的おもしろいと思った。

KG あなたは材木と陶磁器この二種類の材料が比較的好きなようですが、それらの間には関連があるのですか?

AWW 私は通常関連を打ち立てようとはしないが、私は一個人と物は自然に関連ができると信じている。

KG あなたは材料自体を象徴的意義として使っているのですか?

AWW 時にはそうだろう。例えば磁器はかつて皇室の審美趣味だったが、もっと重要なことは、今日どのような形態によって再び現代人の生活と現代の審美観との間に関係を発生させることができるかだ。


Fairytale – 1001 chairs (2007) 

KG あなたの作品は基本的には実に簡潔なものですね。

AWW 私の作品は二種類に分けられる。ある作品はきわめて簡単で、いかなる人にもできる。鹿を指して馬だというような是非を転倒したもので、まあそれはそれだ。もう一種類は煩雑な方法を通じて、多くの時間と技術を使って完成させるもので、異なったタイプの手工芸家の技術、陶芸家もいれば木工芸家もいるし、他の工芸家もいる。両者にはかなりの違いがある。

KG 「中国地図」の形式はとても単純ですが、この「地図」にはどんな大きな意義がありますか?

AWW 見たところ単純だが実際には些か複雑だ。私に言わせればそこには意義はない。浪費或いは無駄だ。形状としてみれば、かなりの積載重量をそなえながらも、大きな意義は何もない。実につまらない作品なのに、とてつもない気力、労力を使って揃え整えて、非常に形式化されている。それが作品自体に曖昧で異常な状態を備えさせて、人を笑わせるものになる。


Map of China 

KG あなたの作品の全てに「中国の元素」があるかのようですね。

AWW 私はいま中国にいる。ニューヨークにいた頃の作品には中国の元素はない。ニューヨークにいては関わりようがなかったからね。例えば、私はニューヨークでの個展「Old shoes – Safe sex」(1987)で展示した、レインコートを使った「Safe sex」(1986)、「Violin」(1985)、針金のハンガーを使ってデュシャンの頭の形にした「Profile of Duchamp, Sunflower Seeds」(1983)などの作品では、中国に接することができなかった。いま私は大量に中国のものに接していて、問題を回避する必要もない。私は問題に直面しながらつくっている。私は中国のコンプレックスに対して興味がないし、その上、自分の言語と地域性をつなげないではいられないような芸術家も全く重視しない。

KG それではあなたが当初国外でつくった作品、例えばデュシャンに関する作品は、美術史と対話する関係を重視したのではないですか?

AWW 私の今の作品は、美術史との関係の方が、中国との関係よりも大きい。


Top: Hanging Man (1985). bottom: One Man Shoe (1987) 

KG あなたの作品はいくらか「左」のようですね。

AWW 最近ある人もこの問題に言及することがあったが、私は彼らのいう「左」と「右」が何なのか定義できない。だれかもそう言っていたが、私には彼らが何を言っているのか分からない。

KG あなたの作品はいつも微かな歴史関係を感じさせますが、それを明確にすることができません。

AWW あなたはこの歴史を熟知しない限り、間違って理解してしまうだろう。たとえば粥が中国人の食品の一項目だが、中国人は粥を啜る時、青菜を配する。だが西洋人の食品の中に粥はないから、彼らは当然ながら粥を理解できない。

KG あなたは芸術家と知識人の関係をどのように見ますか?

AWW 芸術家は逃避して知識人などになってはいけない。あなたは特殊なイデオロギーを持っていて、このイデオロギーは文化の中で特殊な身分を演じる。芸術家のすべての価値は、人類の認識に関わる経験の基礎に立ち現れている。

KG 芸術家が関心を持つ問題の範疇があまりに小さい時、いつも観念上の繰り返しの問題が出現します。しかしインスタレーションあるいはコンセプチュアルアートはいつも公共性の問題に関わってきます。例えばあなたの作品は建築学の領域に跨っていますが、あなたは芸術家の観念の問題をどのように考えますか?

AWW 観念はどこにでもある。政治化されてもいいし、数学あるいは簡単な論理でもかまわない。コンセプチュアルアートはとても極端なものもあるし、語義が重複して纏わりついてはっきりしないものもある。芸術とは結局一個の人間の活動であって、個人の特徴があれば、自然に多少他人を助けることがある。芸術家に何かすごい事をするのを期待してはいけない。肝心なのは彼が独特な特徴を持っているかどうかなのだ。

KG あなたには建築家と芸術家の二重の身分がありますが、あなたはどの身分が社会に対して大きな影響を及ぼすと思っていますか?

AWW どのような影響のことかわからないが、あなたは建物には人が住むから建築家は人に対して影響があるなどとは言わないだろうね。私は両方がひとつの身分だと思う。私が建築家であって同時に芸術家だと言っているわけではなくて、ブログを含む私の従事したすべての事が、実はひとつの事なのだ。

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