MU[無]展 講演録4_港千尋「空虚と映画-インスタレーションをめぐって」[原美術館]

港千尋氏は写真家であると同時に評論研究でも旺盛な著述を続けておられます。写真家としては写真展「市民の色 chromatic citizen」(2006年)で第31回 伊奈信男賞を受賞し、評論の分野では『記憶 – 「創造」と「想起」の力』(1997年)でサントリー学芸賞を受賞。また、2007年のヴェネチアビエンナーレでは日本館コミッショナーを務めました。これまでにもペドロ コスタについて評論を執筆されたことがあり、今回の講演会をお願いいたしました。そのお話の内容をごく簡単にご紹介いたします。

この展覧会はもともと2005年にポルトガルの美術館で開かれたものだということですが、そのまま同じ展覧会ではなく、原美術館のために構成し直したそうです。原美術館はもともと邸宅だった空間なのが特色です。ペドロ コスタとルイ シャフェスも、この「家」=「住まいだった空間」に惹かれて展示の構成を熟考したようです。受付に置かれている出品作品リストに二人のステートメントが紹介されていますが、彼らは老子の言葉を引用しています。それは「家は窓や扉のある壁から成っているが、実のところ、その内にある空虚こそが家というものの本質である」というものです。おそらく展覧会タイトルの「無」も、ひとつには建築が内包する空虚=ヴォイドから来ているように思います。たまたま昨年、私は「ヴォイドへの旅」という著書を出しました。ここで、各芸術ジャンルの作家にとって空虚=ヴォイドがどれほどの魔力を持ち、建築や美術や文学においてどんな作品を生み出しているのか、ということを書いたわけですが、ちょうどペドロ コスタとルイ シャフェスも、老子の言葉を引きながら空虚=ヴォイドに触れているのが興味深いですね。

ルイ シャフェスの彫刻は、ヴェネチアビエンナーレなどで見たことはありますが、これだけまとめて見るのは今回が初めてです。彼の彫刻は、「これがなんだ」とはなかなか言いづらい、名付けようのない形をしているのが魅力です。そしてひとつひとつに、「私が震えるのを見よ」とか、魅力的なタイトルがついています。タイトルと形態が直接に結びつかない、そこが彼の作品を読み解く鍵だと思います。もうひとつ、彼の彫刻は鉄で出来ているのですが、見ていると「重い」のか「軽い」のかよくわからない。天井からぶら下がっている鉄の翼のような彫刻が「虚無より軽く」というタイトルで、これはいいなと思いました。

ペドロ コスタの映画はよく見ていますし、批評も書きましたが、彼はずっとリスボンのスラムと、そこに住む人々とつきあってきています。彼の映画を見た方はご存知の、ヴェントゥーラという黒人の男性がこの展覧会の作品のなかにも出てきます。彼に代表されるような、リスボンのスラムに住むカーボヴェルデ島からの移民たちのことは知っておく必要があると思います。彼らはポルトガルのかつての植民地から移住してきて、建設工事現場で働くなど、つらい生活をしているわけですが、ヴェントゥーラは仕事で怪我をして自由がきかず、さらに生活は苦しい。二階の一番奥の部屋の展示では、スクリーンが二面背中合わせになっています。片方に解体工事の映像が出てきて、もう片方に「ヴァンダの部屋」でも使われた映像、スラムの室内の中を写した映像が出てきます。彼らが生活するスラムは、一方で再開発のためにどんどん壊され解体されていく。建物を「作る」仕事で生活する彼らが、同時に自分たちの住まいを「壊される」という、矛盾した現実があるわけです。こうした映像を美術館の中で見せる、ということもひとつ考えるべきことですね。

インタビューなどから推測するに、ペドロ コスタは「美術館」がそれほど好きではない気がします。映画「コロッサル・ユース」の中で、ヴェントゥーラが美術館を訪れたところ、そこから帰されてしまう、暗喩的に排除されるシーンがあります。実はヴェントゥーラはその美術館の建設現場で働いていたわけですが、にもかかわらず完成した美術館には入れないという矛盾。別の展示室の映像では、美術館に入れてもらえなかったヴェントゥーラが、大写しで、胸をはって映っている。そして故郷のカーボヴェルデを思う歌を歌う。社会的には底辺にいて、文化施設に入れてもらえないような移民の代表として、ヴェントゥーラがここ、すなわち美術館にいる。声高なメッセージではないですが、社会の矛盾に向かうペドロ コスタの眼が、この展覧会のインスタレーションにもうかがえると思います。ポルトガルだけでなく、ホームレスになった人たちのなかには建設現場で働いた人たちが多くいます。家を作る仕事で社会を支えた人たちが、作った建物には入れない、そして自分の家を持てない、社会的に排除されるという矛盾が今の社会には現実にあるわけです。原美術館が「家」だったということをもう一度考えると、展示の中で堂々と歌うヴェントゥーラの姿は象徴的だと思います。

私が親交のあるフランスの哲学者ジャック ランシエールは、ペドロ コスタの作品について、サードキャラクター(第三の存在)が現れるような映像だと書いています。「第三」とは、監督のペドロ コスタでもなければヴァンダやヴェントゥーラのような登場人物でもない「何か」で、映画はその何かが招き入れられなければならない。そしてアートとは、アナザー(他なる者)の場所にならなければならない、と言っています。この原美術館の展覧会について言えば、かつて「家」であったときの「主人」でも「客人」でもない、アーティストでもなければ作品でもない、アーティストと作品の間にある、両者の関係の中から生まれるスペース(空間)があるといったことかもしれません。

ところで、ペドロ コスタとルイ シャフェスは、小津安二郎の墓碑に刻んでいる「無」という文字から展覧会タイトルをとってきたそうです。実を言うと私は、今ご紹介したジャック ランシエールを10年近く前に小津安二郎の墓まで案内していきました。今思うと偶然ではないような気もします。墓碑に名前ではなくただ一文字「無」と刻む、これはもう墓ではなくて彫刻だと言えると思います。ペドロ コスタとルイ シャフェスが、老子を引用しながら空虚について思索し、そしてこの墓碑に「無」に触発されたのは自然なことではないでしょうか。

第4回 講演 港千尋「空虚(ヴォイド)と映画-インスタレーションをめぐって」 (写真家・映像人類学者・多摩美術大学教授)
日時 2013年1月30日[水] 19:00-20:30

(了)

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「MU[無]―ペドロ コスタ&ルイ シャフェス」
12月7日[金]-2013年3月10日[日]

「ソフィ カル―最後のとき/最初のとき」
2013年3月20日[水・祝]-6月30日[日]

坂田栄一郎「江ノ島」(仮題)
7月13日[土]-9月29日[日]

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