ニッポン国デザイン村 番外編 (ヨーロッパ)

iTunesとしての展覧会と、DJとしてのキュレイター

 唐突だが、みなさんは音楽をどうやって聴いているだろうか。お気に入りのCDやレコードを棚から探し出して、ステレオにセットして・・? でも多くのひとは、もうiTunesで好みの曲やアーティストをクリックするだけだろう。
 何年か前、ブライアン・イーノが書いていた――娘がiTunesをいじっていたと思ったら、「おとうさん、このレッド・ツェッペリンってかっこいいね!」と。おまえ、それは70年代の歴史的ロックバンドだよ、と教えると「そうなんだ、ふーん」で終わり。
 彼女たちの世代にとっては、ツェッペリンであろうがエルヴィスであろうが、デビューしたての新人バンドであろうが、iTunesのプレイリストに並んでいる時点ですでに、ぜんぶ「いま」なのだ。角が傷んだレコードジャケットや、貴重盤につけられた高額プライスに「歴史」を実感する感覚は、すでにない。売れてるバンドが、売れてないバンドに較べて、メジャーがインディーズに較べて、大きい音が出るわけでもない。画面が大きくなるわけでもない。そこにあるのは個人的な好き嫌いの感覚だけ。歴史だの評価だのを取っ払った、完全に並列で巨大な音楽世界が、ディスプレーの向こうに広がっている。そこからの取捨選択のセンスが新しい、パーソナルななにかを生み出す――トレンドではなく。
 僕らがいま、もしかしたら史上初めて足を踏み入れているのが、そういう世界だ。言い換えれば、トレンドを失った文化である。
 そんなことない? じゃあいま、音楽のトレンドってなんだろう。ファッションのトレンドって? 建築のトレンドって? アートのトレンドって? 10年かそこら前まで、それは明確にあった。たとえばテクノであったり、ニューロマンティックであったり、シミュレーショニズムであったり。でも2013年の現在、音楽であろうがファッション、建築、アートであろうが、「これが今年のトレンド」と言えるようなものは、ひとつも存在しない。それは、とりわけトレンドによってしかモノを見られない評論家にとっては、恐ろしい時代の到来だ。パリコレの「今年の流行色」みたいな、完全に時代から取り残された言葉しか持てないできたファッションジャーナリストが、すでに語るべきものをなにひとつ持てないでいるように。

 今年の春から夏にかけて、ヨーロッパでは立て続けに大規模なアウトサイダー・アート展が開催されている。ロンドンでは6月末までウェルカム・コレクションで『Souzou: Outsider Art from Japan』展が開かれた。これは数年をかけてヨーロッパ域内を巡回中の、46名の日本人アウトサイダー・アーティストを紹介する大規模な展覧会だ。

Keisuke Ishino, installation view from Souzou: Outsider Art from Japan, Wellcome Collection, London

 同じロンドンのヘイワード・ギャラリーでは『Alternative Guide to the Universe』と名付けられたグループ展が、8月26日まで開催中。こちらは独自の宇宙をみずからのうちに持ち、それを表現してきたアウトサイダー・アーティスト20数名を集めた、意欲的なプレゼンテーションになっている。
 パリではもともと良質のアウトサイダー・アート展で知られるパリ市立アル・サン・ピエール美術館で、『HEY! modern art & pop culture / part 2』というグループ展が8月23日まで開かれている。こちらはオルタナティヴ、ロウ・アート系の雑誌『Hey!』のセレクションによる展覧会の第2部で(第1部は2011年開催)、ジョー・コールマンのような著名なアウトサイダー・アーティストから、『エイリアン』のH.R.ギーガーまでを並べた、パンキッシュとも言える挑発的なキュレーションが興味深い。
 そのパリでは今秋、これまでニューヨークでのみ開かれてきたアウトサイダー・アートフェアの開催が決まっているようだし、ポンピドゥ・センターでのマイク・ケリー展、ロンドン・ナショナルギャラリーでのマイケル・ランディ展など、アウトサイダー・アートにとても近いテイストを感じさせる作家の展覧会も開かれている。
 また、これも美術メディアではすでに大きく報道されているが、今年のヴェネツィア・ビエンナーレでは史上最年少のディレクターであるマッシミリアーノ・ジオーニ(40歳)による『The Encyclopedic Palace』が、ゾンネンシュターン、アメリカの反体制コミック・アーティスト、ロバート・クラム、ヘイワードにも出展中のモートン・バートレット、ウェルカムの『Souzou』でもフィーチャーされた滋賀の澤田真一など、多くのアウトサイダー・アーティストを起用して話題になっている。
 要するにいま、欧米のアートワールドでは「アウトサイダー・アート」が、にわかに脚光を浴びているわけだ(日本を除いて・・・)。
 これを単純に読み解こうとすれば、袋小路にとらわれた感のある現代美術――ハイ・アート――にとって、どのような美術教育とも、どのようなトレンドとも、金銭や名誉欲とも無縁のまま、ただみずからの衝動のみによって作品を生み続けてきたアウトサイダー・アーティストに、行き詰まった局面を打開する刺激を求めていると見ることができる。いまから百年前のピカソやマティスらが、アフリカのトライバル・アートに飛びついたように。
 たぶん、それはそれで正しいのだろう。「エモーショナル」「インスティンクティヴ」「ヴィジョナリー」といった、これまでの現代美術批評では滅多に用いられることのなかった言葉によってしか表現できない、アウトサイダー・アートの特質。それはそのまま、現代のハイ・アートに欠けているもの、欠けているとだれもが感じ始めているものへの、ひとつの解答、あるいは特効薬を指し示している。

Marino Auriti, installation view at the 55th Venezia Biennale, international art exhibition, Photo : ART iT
 
 ヴェネツィア・ビエンナーレの『The Encyclopedic Palace』――「百科事典としての宮殿」は、もともとイタリアに生まれ、1920年代にアメリカに渡ったマリーノ・アウリッティという偉大なアウトサイダー・アーティストの作品に想を得て具現化された展覧会だ。ペンシルヴァニアで自動車整備工として働きながら、アウリッティは「人類が生み出したあらゆる種類の創造物や発見を収納する建築」として、「エンサイクロピーディック・パレス・オヴ・ザ・ワールド」を提唱、200分の1の精密な模型を制作した(会場に展示中、アメリカン・フォーク・ミュージアム蔵)。
 アウリッティが夢想した知の宮殿は、もし実現すれば街区の16ブロックを占め、中央の塔は136階建て、高さ800メートル近くに達する巨大な建造物だった(彼がその立地に選んでいたワシントンDCの、あのモニュメントの4倍の高さにあたる)。そのコンセプトを援用した今回のヴェネツィア版百科宮殿は、前述したように現代美術の枠にこだわらない、幅広いジャンルから選ばれた38カ国、150人以上(故人含む)という膨大な数の参加作家によって構成されている。日本からは澤田真一のほかに大竹伸朗も選ばれてスクラップブック・シリーズを展示しているのだが、全66冊に及ぶ膨大なスクラップブックのページに貼り込まれた森羅万象のイメージは、そのまま「百科宮殿」をヴィジュアル化したものとして、観るものの目に映るかもしれない。

 こうして「あらゆる種類の創造物」と格闘することを、ビエンナーレのような大規模展覧会を企画するキュレイターは、すでに余儀なくされる時代に突入している。そこではキュレイターはひとつの分野や作家の専門家(日本語の「学芸員」はその意味を忠実にあらわしている)に安住していることはできない。必要とされるのは学者としてのキャリアというよりも、むしろDJ的な感覚なのかもしれない。
 ひとりのアーティストやひとつのバンドの、貴重なレア盤や未発表音源を探し求めるのではなく、ホコリにまみれたエサ箱(LPやシングル盤でいっぱいの、中古レコード屋の床に置かれた段ボール箱のこと)から、指を真っ黒にしつつ有名無名問わずに抜き出した既成の音源をつないで、まだだれも聴いたことのないビートやグルーヴを生み出そうとすること。そういうセンスや、パッションや、エネルギーが、DJのようにキュレイターにも求められる時代が来ているのだとしたら。そうして自家用ジェットでクラブからクラブへと移動するスターDJのような、スター・キュレイターが生まれかけているのだとしたら。
 それは既存のアート・キュレイター業界や、美術評論家の先生にとっては冬の時代の到来だろうが、僕のような門外漢にとってはすごくスリリングで、むしろ健全な時代の到来に思える。少なくとも、自家用ジェットでアートフェアからフェアへと移動する、超富裕層コレクターだけに牛耳られる業界であるよりも。

 次回は前記のアウトサイダー・アート展から、気になったアーティストを幾人か紹介してみたい。

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