田中功起 質問する 15-3:藤田直哉さんへ2

第15回(ゲスト:藤田直哉)― 展覧会の「公共性」はどこにあるのか

批評家の藤田さんとの往復書簡。田中さんの2通目は、彼が探る「新しい公共」像に踏み込むべく、「ワーグナー・プロジェクト」と、ある対照的なイベントを挙げて論じます。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:その先の先、の先?

藤田直哉さま

お返事ありがとうございました。
現在ぼくは二つのプロジェクトを同時進行させていて、ひとつは香港での文化実践者たちへのインタビュー、もうひとつは東京での撮影なのですが、こちらは水戸芸術館のプロジェクトのときに受け取った課題へのぼくなりの応答のようなもので、でも発表はスイスでなんですけれども。まあ、そんなわけで思考は完全に制作モードなのです。ぼくにとって制作というのは小さな個別の問題への対処の連続で、結果的にそれが大枠への変更にも関係する。例えば撮影日に撮影予定の場所で、その町のお祭が入っていることを知って、日程変更をせまられる。でもそのお祭を撮影に含めることもできるわけで、それをどうするか、その判断によってプロジェクトの方向性が大きく動いていく。なかなか面白い局面でもあります。


オアフ島への官約移民100周年を記念した木。

 

不和と敵対の先へ

最近、自分たちを「分け前なきもの」とみなし、「エスタブリッシュたち」の支配的理念であるポリコレなどの「コンセンサス」を破壊し、「分け前や当事者の配分」を壊そうとしたのは、アメリカのトランプ支持者だったのではないでしょうか。(本連載「15-2:藤田直哉さんから1」より)

藤田さんがこう書いているように、ランシエールの公共性モデルは現状に対してとても難しい位置にあると思います。コンセンサスを乱す「不和」こそが現在の社会(現実の社会もネット社会も)を覆っているし、「分け前なきものたち」が必ずしも良心を伴った人びとではないことが分かってきました。ランシエールが言う「分け前」を要求する人びとがもしレイシストであったら、あるいは藤田さんが書くように「トランプ支持者」であったら。「分け前なきものたち」が声を上げることについて書いたランシエールの左派的テキストは、現在の右派的言説と行動の中で居場所を失っています。むしろ左派的方法論が右派のものとして使われている。そもそもそういう左右対立が混乱しているのが現状かもしれません。

一方で、地方の芸術祭やいわゆるコミュニティ・アートや参加型アートにおける批評性のなさ(これは日本に限りません)にぼく自身はうんざりしていたので、クレア・ビショップによるランシエールの引用や「敵対性」を対置させる批評性に惹かれていた部分もあります。つまり「良きこと」としてのみアートが利用されることの不毛さに対して、敵対性や不和とまではいかないまでも、アーティストやキュレーターが自分の置かれている状況に対する自己反省と最低限の批評性は必要だろうと思っていたからです。

参加型アートを批判的に継承したソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)、藤田さんも引用していたエルゲラの本(*1)には「敵対関係」という章立てがあります。「友好的な体験を志向するアプローチ」としての対話やコラボレーションはSEAの重要な要素であるとしながらも、「反社会的または敵対的な社会行為こそ、SEAの基本的な領域である」と定義づけします。ただ、そこで強調されるのも「批判的スタンス」なわけで、単に敵対的に振る舞えばいいというようなものではありません。社会問題に対するアーティストの「意見表明」がどう受け取られるのかは、文脈や「結果とのバランス」だとエルゲラは書きます。つまりそこにはかならず対話の相手である他者がいる。一方的に言い放って孤立することを目指しているわけではありません。SEAにはある程度は明確な社会変革への志向性があります。その点でヘイトスピーチは対話を遮断し、一方的な意見表明でしかないので、SEAにおける「敵対性」とは異なります。ヘイトによる「敵対性」をエルゲラは擁護しないでしょう。

でもそういう議論を分かった上で、さらにこの論の先を考えてみたいとぼくは思うのです。藤田さんが定義した、ぼくたちの目の前にある「リアル・スペース」と「インターネット」が相互に影響し合う「新しい公共空間」。そこはランシエール的な「不和」が、ビショップ/SEA的な「敵対」が、それ自身への自己反省を伴わずに溢れている空間です。藤田さんがいうように異質な意見が混交する場という意味ではこここそが「公共圏」ですよね。でもぼくにはこれは「新しい」公共だとは思えないのです。インターネット後の公共空間という意味でそれは新しい。けれども、ぼくがここで藤田さんと議論したいのは別の「新しさ」というか、可能性です。そして藤田さんが「芸術祭」と「SNS」の(不)可能性としてあげる、異質なものを「接続」させる類いのアートだけでも物足りないのです。差異やギャップ、驚きを与えるのもアートの手法としてはあるけど、そうした極端な行為だけでは現実社会の「敵対」的状況を不本意ながらも/あるいは無意識に称揚してしまう。

ぼくはそうではない、別のことを考えてみたいと思っています。展覧会(における公共性)の未来を想像すると言えばいいでしょうか。

 

未来からの展覧会

「前衛のゾンビたち」や書籍『地域アート』で懸念を示したのは、それぞれの地域で行われている地域アートが、その実、地域性も固有性も尊重しているようでありながら、形式や内容や価値判断などにおいて一様の美学に染め上げられているのではないか、という点でした。(本連載「15-2:藤田直哉さんから1」より)

ぼくには現在の「新しい公共空間」も、「一様の美学」に満たされているように感じます。それはヘイトとアンチによる敵対の美学です。あるいは思考することに疲れてしまった、容易さに満たされた空間というか。その意味では難しさの代名詞になっているコンテンポラリー・アートは少なくとも別の思考を促す空間として確保できる。むしろ一概には言い切れない複雑さこそを保存しうる空間を作り出せる。

未来というのはいうまでもなく不確かなものです。その分、どのような可能性もそこにある。はたしてそこにどのような未来の展覧会を想像するでしょうか。もっとも、これは常日頃、アーティストもキュレーターも行っているルーティーンでもあります。ぼくは今年五つの展覧会を行うことが決まっている。来年はたぶん最低でも二つ。それらはまったく自由に想像することもできる。それに向けて作るものも、展示のアイデアも。でもここでは自分のことではなく、二つの事例を比較することで考えてみたいと思います。高山明さんによる「ワーグナー・プロジェクト」(*2)と川崎の桜本にある「ふれあい館」(*3)です。

(前略)学校であると同時にワーグナーのオペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の「上演」であり、一般のお客さんにも鑑賞していただける公演である。(ワーグナー・プロジェクト「演出ノート」より)

ワーグナーのオペラをヒップホップの学校に見立て、言わば劇場を学校化する9日間。それが「ワーグナー・プロジェクト」です。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は「街で行われる町人たちの歌合戦のオペラ」であるから、

「ストリートのオペラ」であるヒップホップに接続し、オペラを表象する代わりにオペラを現実化してしまう。「学校」として、異なる人が集まる「コミュニティ」として。初日がオーディションだから誰が残るか分からないが、連日あるレクチャー、ワークショップ、サイファー、MCバトル、ラジオ放送、ライブ・・・etcに触れてもらうことを通して、「弟子」たちは新しい可能性を開いていき、教える側の価値観もまた揺さぶられていく。舞台上に見世物をつくることをやめ、その場で生成されていくものに賭ける。(上掲「演出ノート」より)

高山さんの演出ノートを読めばわかりますが、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はヒットラーによって党大会として象徴的に「上演」された。言わばナチズム/ファシズムの生成の起源として使われたわけです。だからこそ、それを逆方向から行う。ワーグナーのオペラをワークショップの形式に置き換え、ヒップホップに接続することで「脱神話化」する。そしてある意味では平等な学びの場を生成しようとする。

ぼくは1日、それもダースレイダーによるレクチャーの一部しか参加できていないから、ほぼ何も経験できていないに等しいけれど、このプロジェクトこそ、想像しうる未来の「展覧会」のモデルのひとつじゃないかと思ったんですね。高山さんが決めた大枠は確かにあるけど、その中にさまざまな要素が同時多発的に入り込んでいて、把握しきれない。まずなりよりもこのプロジェクトの不確かさ、どこに向かっていくのかわからない不定形さがその場にいる参加者や観客に共有されているように思えた。何かが生み出されるかもしれない、「生成」のダイナミズムが共有されているというか。

他方、「ふれあい館」を訪ねたのは『ルポ川崎』(*4)の出版記念イベントがあったからです。前半は著者の磯部涼さん、ラッパーのFUNIさんとSくん、ふれあい館の鈴木健さんによるトークで、これが目的ではあったのだけれども、後半は実際にFUNIさんと、その弟子とも言える17才のSくんによるライブでした。そこで思い出したのが「ワーグナー・プロジェクト」です。実際、このプロジェクトの関係者からは、参加者を探して川崎のサイファーも訪れたと聞いていました。二人のライブ・パフォーマンスの間に、オタ芸を披露する高校生二人組もいて、それが案外会場全体に受けて、混沌とした中にあるグルーブ感というか、コミュニティ感というか、「ワーグナー・プロジェクト」との差異を考えることになりました。

ともにヒップホップをめぐる教育がある。「ワーグナー・プロジェクト」は「一時的なコミュニティ」を生成しようとし、「ふれあい館」は地域コミュニティからはじまる。「ワーグナー・プロジェクト」には大枠を決めた演出家がいて、オペラの再演と歴史の参照という構造があり、ヒップホップとの接続という構造に対する批評性がある。逆にいえばその中でどのような内容が「生成」されても、最低限の質が確保されている。「ふれあい館」はコミュニティ・センターだから日常との地続きであり、FUNIさんとSくんはコミィニティの中での人間関係であるから一時的な繋がりではなく長期的なものであり、可能性として、FUNIさんは師弟関係のようなものを通してSくんの人生を背負っているとも言える。

 

批評性と責任

良し悪しとは別に、二つの場所における差異はとても示唆的です。前者は批評性があるけれども参加者の人生をどこまで抱えているのかといえば、それは短期的なものでしかないのかもしれない(繋がりはつづくこともあるだろうけど)。後者は、批評性はないけれども、責任をもってそのひとの人生を抱え込む。

ぼくが1日しか見ていないのに「ワーグナー・プロジェクト」を評価できるのは、そこに構造があるからであり、歴史的なレファレンスの召喚が現在の状況への批評性をもっているからです。そこには明確な社会批評性がある。構造が内容を下支えしているものだとも言えるかもしれません。なにより再演が可能です。いや、でもこれは、ぼくが現場をちょっとしかのぞいていないからかもしれません。9日間の現場に数日通っていれば、そこで語られた内容や雰囲気から、もっと別の見方をしているかもしれません。他方、「ふれあい館」は再演ができない。それは人生そのものだからです。でも自己批評性を持ちにくい。Sくんの言葉は少なくともぼくにはそれほど響かなかった(むしろ即興的なサイファーでの語りの方が切実に思えた)。もっとも、それまでの人生における辛苦を通過してきた彼は、まず自分の人生を肯定することからはじめなければならないのだろうけど。

ここまでぼくはこの二つを比較して書いてきたけど、これらは繋がっているとも言えます(少なくとも高山さんのチームは川崎に足を運んでいたわけだし)。この二つ、批評性と責任が相互に関係し合い、繋がり合うような状況。ぼくはそんな場を来たるべき展覧会として想像します。

さて、「新しい公共」とぼくが聞いたときにイメージしたのは、現在の公共空間がどう変化してきているのかという分析的なものではなく、「これからの」という意味での、あるいは「ありうべき」という意味での、別の「新しさ」です。つまり別の、「新しい公共」を伴った展覧会の有り様ってどういうものが想像できるだろうか。ぼくはひとまずそれを書いてみました。藤田さんにとっては、書簡の最後に触れていた宗教がそこに関係してくるのかもしれません。もう少しそれについて聞いてみたいようにも思います。あるいはいま藤田さんが進めている「震災後文芸」のプロジェクトも「新しい公共」を伴った未来の展覧会と言えるのかもしれません。

引きつづきお付き合いください。

 

田中功起
2018年3月、京都にて

 

近況:引きつづき香港とチューリッヒで発表するための二つの映像制作をしてます。


1. パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』(翻訳:アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会)、フィルムアート社、東京、2015年、p. 123
2. KAAT × Port B『ワーグナー・プロジェクト』―「ニュルンベルクのマイスタージンガー」―、2017年10月20−28日、KAAT神奈川芸術劇場。構成・演出:高山明。
3. コミュニティ・センター「ふれあい館」は桜本というコミュニティの要です。桜本はもともと在日コリアンの集住地区で、現在はフィリピン系やブラジル系も含む多文化共生地区とも言えます。「ふれあい館」は青丘社の理事を務めた李仁夏(イ・インハ)によって作られたものだが(1988年)、李は川崎教会の初代担任牧師であり(1959年)、在日コリアンであることへの差別から自分の娘が保育園入園を拒否されたことに端を発して桜本保育園を教会の敷地内に作った(1969年)。保育園は在日コリアンだけではなく地域に広く開放した。この考え方は「ふれあい館」にも受け継がれ、現在、多くの子供たちが放課後を過ごしている。
4. 磯部涼『ルポ川崎』、サイゾー、2017年。イベント「ルポ川崎・川崎に生きる若者たち」は、2018年2月17日にふれあい館で開催された。


【今回の往復書簡ゲスト】
ふじた・なおや(批評家)
1983年、札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)、『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)、『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。

 

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