【特別連載】杉田敦 ナノソート2017 no.7「不機嫌なバー、あるいは、政治的なものに抗するための政治」


パリ、ヴィラ・ワシリエフの「no hospitality, but bar」

 

不機嫌なバー、あるいは、政治的なものに抗するための政治
文 / 杉田敦

 

国際展を巡ることがヨーロッパ滞在の主な目的のひとつではあったが、もうひとつ心がけていたことがあった。展示を見て回るだけでなく、日本にいたときと同じようにプロジェクトも行えればと考えていたのだ。リスボンではすでに何回か行っていたが、できれば別の都市でもやってみたい。そんなとき、前回触れた田中功起からミュンスターの展示会場で何かできないかと誘われた。あいにく、種々の事情からミュンスターで実現することはできなかったが、彼のパリのレジデンスの報告を兼ねた展示に合わせてできそうだという。いろいろ考えた末、日本でも何回か開催してきたカクテルを提供するバーを、最終日だけオープンすることにした。”no hospitality, but bar”、ホスピタリティの欠けたバー。三種類のハードシェイクのカクテルを用意し、それぞれのカクテルには、共同体を考察する上で重要だと思われる三人の思想家、モーリス・ブランショ、エドゥアール・グリッサン、そしてアルフォンソ・リンギスの名前を借りることにした。来場者は気になる名前のひとつを選び、目の前でシェイクされるウォッカをベースにしたショートドリンクを口に運びながら、いつもより少しだけ心を開いて話をしてみる。もちろん、黙したままでも構わない。

1962年のシャロンヌの地下鉄駅に集まった人々の姿に共同体の理想を見ると同時に、すでにその水面下で始まっている解体、あるいは堕落について注意を促したブランショは、もちろんパリ在住だと想像される来場者の多くにとっては馴染みがあるようだった。けれども、意外なことに、晩年その街で一年の半分を過ごしていたというグリッサンについては知っている人も少なく、リンギスに至ってはほとんどの人が初めて聞く名前のようだった。協働的な行為やそれに基づく共同体の在り方を検討しようとする際、三人ともそれぞれ重要な視点を与えてくれるのは間違いないが、だからといって、来場者のほとんどが知っているだろうという思い込みは、考えてみればあまりにも身勝手なものだった。事前にリストアップしたキーワードをプリントして、短冊状にカットし、それぞれのグラスに貼り付けたらどうかという田中のアイデアは功を奏した。曖昧にしか知らない思想家の言説を想像しながら、いや場合によっては初めて耳にする名前の人物の思想を妄想しながら、必ずしも相応しいものばかりでないキーワードを眺めながら、素人のシェイクした危険なカクテルを口に運んでいるうちに、来場者の多くは、いつしか共同体について、いつもよりも無防備に語ろうと試みたのではないだろうか。もちろん、けれどもそんなお題目はすぐに忘れてしまって、まったく関係のない話題に夢中になったのだとしても、当然それはそれで構わない。前回、グラーツの田中の個展について触れた際に言及したヤン・ヘギュの作品には及ばないまでも、彼女が見事に果たしていた、閉塞しがちな展示空間にある種の風穴を穿つような役割を、何らかのかたちで果たすことができれば。期待していたのは、その程度の微かなものだった。

 

会場となったヴィラ・ワシリエフ・アートセンターは、ロシアの画家マリー・ワシリエフのスタジオだった建物を利用したものだが、第一次世界大戦中には、芸術家たちの胃袋を充たすために、食堂として開放されていたのだという。偶然とはいえ、建物の歴史が、場違いなバーを開くことに言い訳らしきものを与えてくれたのだろうか。アートセンターのスタッフからはイヴェントの冒頭にコメントを求められたが、ステートメントを壁に貼るだけにさせてもらった。事前のコメントは、事後の活動に合目的な性格を与えかねない。そう、もちろんそれは、ブランショが指摘した共同体の堕落でもある、機能的であろうとする、従来の共同体が逃れることができなかった陥穽への滑落を意味している。

そもそも、と、味見を口実にすでに何杯かグラスを空けているバーテンダーは身勝手な思索に耽り始める。ブランショもジャン=リュック・ナンシーも、その思索の端緒に据えていたのは「死の病」ではなかったか。死の病、共にいながら、絶対的に隔てられている恋人たち。その真の姿を、どんな思想よりも見事に捉えてみせたのはマルグリッド・デュラスだった。最小の構成単位であり、最も濃密な関係であるにもかかわらず、もちろん、だからこそとも考えるべきなのかもしれないが、達成することがかなわないモル的な機能主義。ジル・ドゥルーズが、晦渋な言い回しですべてのモル的な機能主義は欺瞞だと説く内容のすべてが、あるいはそれでさえ捉えきれなかったものまでもが、あまねくデュラスの紡いだ言葉のなかにある。ジョルジュ・バタイユでは充分でなかったもの。もちろん、バタイユのすべてが否定されたわけではない。デュラスによる超克、そしてそれを継承したナンシー、ブランショを経て、リンギスはバタイユの言い回しを利用しながら、それまで決して顧みられることのなかった共同体の可能性について言及している。共同体に属さないものたちの共同体(the community of those who have no community)、そう表現したのはバタイユだったが、リンギスはそれをなぞるかたちで、共有するもののないものたちの共同体(the community of those who have no common)の可能性について論じている。旅行者が立ち寄った町で偶然出会った路上の困窮者に差し向けるありふれた憐憫の視線が、けれども何らかのかたちで共同体を形成しているかもしれないという想像は、決して意味のないものではないはずだ。またそれは、共有ということを俎上にあげながら、それだけにとどまらず、共にいることさえもある種の束縛から解き放とうとする。もしもリンギスが想像する共同体が可能なのだとすれば、それは、共にいることさえも条件としないものになるはずだ。

そうした共同体の可能性を、より大きな枠組みで俯瞰してみせたのはグリッサンだった。アンティルに浮かぶ数千におよぶ島々の上空に立ち昇る不確かなアイデンティティを凝視したグリッサン。あるいは、離散という悲惨な現実であるにもかかわらず、おそらく個々の人々にとっては何世代かを跨いで曖昧に伝えられているだけの物語を手掛かりに、彼らが拉致され、拡散し、それゆえに覆い尽くすことができた場所に対して、つまり全-世界という空間に対して、想像したり言及したりすることも可能になるというアクロバティックな読み替え。バタイユ、リンギスに倣えば、それは、共にいることさえないものたちの共同体(the community of those who have no coexisting)とでも言うべきものだろう。これは、共にいることの可能性を探ろうとする田中らを含むのはもちろんだが、その遥か彼方までとめどなく広がろうとする枠組みでもある。

 


パリ、ヴィラ・ワシリエフの「no hospitality, but bar」


パリ、ヴィラ・ワシリエフの「no hospitality, but bar」

 

けれども、共にいることには疑義が付き纏ってくる。ニコラ・ブリオーの関係性の美学に対する種々の批判、とりわけクレア・ビショップの指摘は、その代表的なもののひとつだ。彼女の指摘は、有意味でありながらも、そもそも前提となる集合体に関する理解が、あまりにも狭隘であることには注意する必要がある。リクリット・ティラヴァニの食事が振る舞われる空間の可能性を、低く見積もり過ぎるようなことがあってはならない。彼が食事を振る舞い始めた90年代初頭よりも20年ほど前、ゴードン・マッタ=クラークが「FOOD」というプロジェクトを行っている。ソーホーで、彼を含めた数人のアーティストの手で、レストランが運営されていたのだ。もちろん、このレストランは、即座にさらに半世紀遡るワシリエフの食堂を想起させる。ヴィラ・ワシリエフの歴史と、共同体のあり方を問おうとする田中、そしてそこでのバーのプロジェクト、その背景にある関係性の美学から、リクリット、マッタ=クラーク、そして再びワシリエフで閉じるという円環は、不思議であると同時に出来過ぎのように思えてくる。あるいはここに、キャロライン・クリストフ=バカルギエフのドクメンタ13で再び光が当てられることになった、マッタ=クラークとほぼ同じ時期に実施されたプロジェクト、アフガニスタンのカブールに開設されたアリギエロ・ボエッティの「ONE HOTEL」を望遠してもよいのかもしれない。飲食をすることに意味があるのではなく、ただそこにいること。ボエッティはそこに滞在しながら代表作の「地図」を制作するが、そうした結果は必ずしも求められていたわけではない。共にいること、しかも、場合によってはまったく言葉を交わすことなく、すれ違うことしかないのだとしても、そのことの可能性がそこには濃密に漂っている。

いずれにしても、何か特定の問題に関する調整や意見交換を目的として掲げることもなく、ときに単に時間だけが経過していくばかりのようなこうした場所は、けれどもブランショが敏感に感じ取っていた陥穽からは逃れることに成功している。ビショップの民主主義の理解はあくまでも近代的な自我に立脚した、言うなれば西洋的なものだが、おそらく共にいることが湛えている真の深みを見損なっている。もっともその点に関しては、当のブリオー自身でさえ理解できていたかどうか不確かなのだが、田中のような取り組みは、ブリオーとビショップの議論に拘泥することの不毛さから離れ、もう一度、共にいることの意味を問おうとするものでもある。グリッサンは、そうした試みに基盤を与えるとともに、同時に、共にいるという最低限の前提の必要性さえも問い直そうとする。明らかにグリッサンから着想したとしか思えないブリオーの言説の末節に時間を費やすことは意味がない。それよりはむしろ、そうした議論を回避し、いやそれからさえ自由になろうとする、グリッサンの思想を、ゆっくりと呼吸してみることの方が意味深いはずだ。

 

忘れることのできない苦い経験。パリで行ったバーのプロジェクトは、実はそれを、繰り返し想起させることになった。共同体との関係があるとは断言できないが、自身のなかでは複雑に縺れ合ったものでもあり、言及することは容易ではないが、あえてここで試みてみることにする。同様のプロジェクトは、すでに何度か経験していたが、原因となっているのはそのうちのひとつだ。リスボンに発つ前年の5月、木場公園の東京都現代美術館に近い木立を利用してバーカウンターを設置した。カウンターといってもロープを張って、その上に段ボールを載せただけの簡素なものだ。美術館ではちょうどMOTアニュアルと名付けられた各年の企画が行われていて、アーティスツ・ギルドというグループのメンバーを中心とした展示が開催されていた。ここでは詳しく触れないが、『キセイノセイキ』と題されたそれは、文字通り種々の規制をテーマにしたもので、容易に予想できることでもあるが、実施に際して多くの困難を抱えることになり、スムーズに事が運ばなかったのはもちろんだが、担当学芸員とアーティスト達とのあいだに不協和音らしきものがあることまで漏れ伝わってきた。一年前のプレ・イヴェントに関わらせてもらっただけでなく、実施までの過程で何人かのアーティストや担当学芸員と話をする機会があったということもあり、事態の推移を心配していた。そんなとき、現在はすでに離れているが、メンバーのひとりだった増本泰斗と、公園で非公式のバーを開いてみてはどうだろうかということになった。形式はパリと似たようなもので、ハードシェイクのカクテルを数種類用意する。ホスピタリティの欠けた、不機嫌なバー。事態が好転するわけではないが、どこかで、淡い期待を抱いていたのかもしれない。

当日は、当事者であるアーティストたちも、学芸員も足を運んでくれたし、また、それ以外の人たちともいろいろと話をすることができた。けれどももちろん、両者の溝を埋めるなどということは、当然、できるわけもなかった。アーティストには事態が好転しないことに対する苛立ちにも似た感情が根強かったし、学芸員はこれ以上事態を捻れさせることを怖れるかのように、ある種の諦念を決め込んでいた。共有しているものもあり、共にいるにもかかわらず、そこには言いようのない不能性のようなものが立ち込めていた。ビショップが注意を促していた敵対とも異なる、けれども類似した意識の潜在とでも言えばよいだろうか。アーティストたちに見られた疲弊は、彼らのなかで十分話し合いが持たれてきたことの証左でもあり、学芸員との関係の悪化もまた、両者の間に粘り強いやり取りがあったことを示すものでもあった。敵対を解消するための協働が模索されてきたことは明らかだった。しかしそれは、そうした努力があったことを示すだけで、全体としてはむしろ、相互の不信感が、両者の関係の柔軟性を奪い、ついにはそのまま石化してしまったかのような印象だった。硬直した状態を弛緩させるために何ができるのだろうか。カジュアルで緩い場所というだけではそれは無理なのだろうか。身勝手な期待はかなうことはなかった。しかし、苦いと表現したのはこのことばかりが原因ではなかった。

 


木場公園の不機嫌なバー、『no hospitality, but bar』。写っているのは増本泰斗。

 

懸念していた両者の関係は、そのまま解消されることなく会期は終了してしまった。学芸員は途中からメディア等での発言を制限され、しばらくして明らかに懲罰としか思えない人事が発表された。当初、新しいポジションを肯定的に捉えていた学芸員だったが、やがてしばらくすると、自ら組織を離れることを選択してしまう。こうした経緯のなかで驚かされたのは、対立していたとされるアーティスツ・ギルド側からの反応が乏しかったことだ。アーティスツ・ギルドには知り合いも多く、彼らの活動には期待するところも大きいのだが、そうした反応は意外でもあり失望を覚えさせるものだった。

学芸員の発言が制限されるということは、ある意味で予測可能でもあった展示に対する介入よりも、むしろ驚くべき事態ではなかったのか。しかも、組織のなかで明らかな力の行使に遭遇したのは、関係が気まずいものになっていたとはいえ、それまで協働してきた人物なのだ。その彼に及んだ不当な力に対する無視や無関心をどのように理解したらよいのだろうか。ギルドの語源を辿って、封建的な階級や区分を下地にしているのだから仕方ないというような皮肉のひとつも言いたくなる。目の前の政治的な力の発動に対して、無視を決め込むような姿勢は、どれだけその団体や、そのメンバーが有意味な表現を行うことがあったとしても、それらに対する信頼を貶めてしまうことにしかならないはずだ。

少し整理してみよう。ここで問題なのは、ある種の対立は確かに生まれたのだとしても、それがそのまま分断を意味してしまっているということだろう。確かに、関係者のメディアでの発言や、グループそのものが立ち上げたサイトなどの情報からだけでは読み取れない、分断に結果して当然の対応が学芸員にもあったのかもしれない。僕が手にしている情報は限られている。けれども、たとえ原因になるようなものがあったのだとしても、学芸員の人事に対する反応の乏しさは、対立がそのまま分断になっているという印象を抱かせる。言い訳のように聞こえてしまうかもしれないが、より以上の情報の収集に努めるようなことはしなかった。それは、そうすることで、自分自身も考えが変わってしまうことを恐れたからだ。つまり、アーティスツ・ギルドと同じような無視や、諦念に陥ることもあると予想されたのだ。しかしそれは、どのような情報が付加されたとしても、譲ることがあってはならない部分でなくてはならない。そう頭ではわかっていたのだが、そうした考えを維持することに対する自信のなさが、情報収拾を遠ざけてしまったのだ。

ところで、誤解されることを恐れずに言えば、担当者の不手際にとどまらず、明らかに規制に加担するようなことがあった場合でさえ、問題を指摘することはもちろん必要だが、だからといって、それがそのまま分断になるようなことがあってはならないはずだ。彼女や彼を敵視するのは間違っている。それは、単に目の前の安易な相手と組み合ってみせるだけのことで、抗議したことを示すためのアリバイ作りのようなものでしかない。そうした行為による消耗は、疲弊は、対峙すべき真の相手にとっては好都合でしかない。彼らにそう強いている、あるいは知らずしらずのうちにそうした態度を採らせている、敵対すべき核心こそを凝視しなくてはならない。おそらく理想的な状況であれば、ほとんどの学芸員や芸術に関わろうとする人たちは、表現者に対して規制を加えようなどとは考えることはないはずだ。もちろんここで、アドルフ・アイヒマンの身勝手な抗弁を想起しておくことも必要なのかもしれない。しかし、ホロコーストに手を染めたアイヒマンとは異なり、類似しているとはいえ、類似した抗弁を弄する人たちを、哀れむことはあっても、敵に回すようなことはするべきではない。彼らを敵に据えることは、結果的に視線が向かう先を隠蔽するだけで、つまり問題の核心に関わるものたちにとっては、効果的な援護という意味にしかならないはずだ。

件の学芸員の場合は、責任を取らされたという意味では健闘したのであろうし、たとえそうでなかったのだとしても、その弱さに対して憐憫を覚えることはあっても、敵視して徒らに分断を生み出すべきではない。あるいは、学芸員を監督する立場にありながら、姑息にも責任を回避することができた人物がいたのだとしても、そんな彼らに対してさえ、哀れむことはあっても排除すべきではない。種々の規制が進行しつつある状況では、そうした関係者、美術に関わるものすべてを、受けとめるような基盤こそが必要なのだ。もちろん、基盤と言ってもそれは、具体的な実践を可能にするようなものを意味しているわけではない。すべてを受けとめる寛容さがあるということを示すだけでも、ひょっとすると充分なのかもしれない。たったそれだけのことで、将来どこかの段階で、それまで勇気を欠き、弱さしか示すことができなかった人物が改心し、少しだけ勇気を出してみようとすることも、決してありえないことではないはずだ。弱さの指摘は必要なのだとしても、その人物を排除してしまうことは、こうした可能性を摘み取ることにしかならない。精神的にすべてを支えるような、ある種の寛容な土壌こそが求められている。

もちろん、降格的な処遇に対する無視を、分断によるものではないと考えることもできるだろう。確かにここでの議論は、学芸員のその後に対するアーティスツ・ギルドの反応の無さを、分断ゆえのものだと決めつけている。それは早計なのかもしれない。だが、そうなのだとしても、種々の問題に介入し、問題を抱えた人々に寄り添おうとする、あるいはその問題の再考を促そうとする、そうした、アーティストたちが常日頃、自身の表現において心がけているはずの姿勢はどう理解すればよいというのだろうか。それは、単なる表面的な身振りに過ぎないのであって、自身が関わる現場では実践できないということなのだろうか。

過去のバーのプロジェクトがある種の苦味となって心に残っていたのは、こうした想いが錯綜していたからだ。しかし、注意しなくてはならないのは、ここでの指摘に関しても、再び同じような問題を考えなくてはならないということだろう。ここまでの記述は、アーティスツ・ギルドに対する批判と読むことができる。彼らの対応に関して、失望がなかったわけではない。だがそれは、結果として彼らとの分断になるものであってはならない。批判や疑問は拭い去ることはできないが、決してそれは対象そのものを否定するものではないし、関係として分断を意味するものでもない。問題を指摘することは決してゴールではない。むしろそれは、対象となった人々とともに、その原因を分析し、超克するための端緒でなければならない。しかし、事態は複雑に過ぎる。なぜならその際、ブランショのことも忘れてはならないからだ。いたずらにある意味で明晰過ぎる動因を想定し、機能主義的になるようなことがあれば、ドゥルーズの言うところの工場の喧騒に安っぽい物語を押しつけることになってしまう。つまり、モル的な機能主義に陥ることになってしまうのだ。ブランショがそこに共同体の堕落を見たことは、忘れることがあってはならないが、こうした複雑さは容易に、深刻なカタレプシーを引き起こすことにも注意しておかなくてはならない。動かなくてはならないが、周囲にはレーザートラップが張り巡らされている。

 


『キセイノセイキ』のプレ・イヴェントの際の不機嫌なバー。このときは、コーヒーを提供したため、『no hospitality, but cafe』の名前で開催。アーティスト豊島康子、映画監督深田晃司、芸術系大学院生飯島真理子、高橋夏菜、長尾真紀子、湯浅千紘に加え、アーティスツ・ギルドから増本泰斗、津田道子が参加した。

 

分断を回避するという姿勢は、ブリオーに対するビショップの批判とも関係してくる。カール・シュミットの友敵理論を敷衍したシャンタル・ムフを引くビショップは、密かに、政治の存立基盤となる構造として構想された枠組みのなかに芸術を組み入れてしまっている。問われなくてはならないのは、近代の政治の存立基盤として構想されたものそのものであり、あるいは、時代に即すかたちでそれを修正したものでなくてはならない。つまり、言ってみればシュミットやムフの言うところの「政治的なもの」そのものを問うことこそが必要なのだが、彼女は、その可能性を手にしているかもしれない芸術を、こっそりとその枠組みのなかの構成要素へと縮退させてしまっている。この、ある意味で政治的なものに隷属してしまった芸術であれば、敵対に原因する分断は必然的なものなのかもしれないが、シュミットが否定したユートピズムまでを視野に入れるものとして芸術を捉えようとするのであれば、むしろ「政治的なもの」から離れることこそ努めるべきだろう。少なくとも、芸術に関わる立場間の断絶や分断は、局地的な政治であることしか意味していない。芸術が政治的なものであるのは、むしろ「政治的なもの」そのものに対してでなくてならない。既存の、いわゆる政治そのものに敵対し、それこそを脅かすものとしての政治。ビショップは、その可能性を放棄してしまっている。もちろんそれは、軽々に可能になるはずのものではないが、徒らに手放すようなこともあってはならない。この、ある意味で理想主義的過ぎるかもしれない政治は、近視眼的な対立や、それによる分断を避けることから始まるはずだ。

また一方、分断の回避には生政治的な意味もある。アーティストにとって表現が根源的なものであり、切実なものであればあるほど、当然、規制もまたある意味では生政治的な脅威に違いない。けれども、たとえその規制に手を貸した人間がいたのだとしても、逆に組織内でのあからさまな脅威に曝されるようなことが起こったとき、彼女や彼を見捨てるようなことがあってはならないはずだ。アーティストは、世界に散種された種々の憎悪に基づく問題に介入しようとするのであれ、フランコ・“ビフォ”・ベラルディの言うところのグローバルな金融資本主義に対して蜂起するのであれ、あるいは「政治的なもの」に対する抵抗を示すのであれ、現実的かつ生政治的な力の発動を見逃すようなことがあってはならない。自身の関わる活動に関係している人物に対してそうした力が及んだのであればなおさらである。もしもそのとき、それを無視することがあるのだとすれば、被抑圧者を圧殺するのはもちろんだが、アーティストのすべての活動、つまりもちろんそこには芸術的な生産も含まれるのだが、それらの信頼度を一気に低下させてしまうことになる。美術館など公的機関における規制は、政治が恥知らずな右傾化を強めるなかで、容易に想像できるものでもある。どこか典型の物語に見えなくもないそれに対しても、もちろん、指摘や抵抗を怠るべきではないが、だからと言って眼前の権力の露出とも言える事態を見逃すようなことがあってはならない。パリのバーは、そうした、そう遠いことでもない苦い記憶を反芻することになったのだ。

 

けれども、共にいるだけでは不足なのだろうか。リスボンという街に暮らしていると、自分自身のなかで何らかの意味を見出そうと努めてきた、共にいるというゆるい枠組みを創出することの意味が、頼りなく揺らぎ始めていくことに気づかされる。国や町、地域という単位に、何らかの性質を付与することは避けるべきだが、明らかにそうとしか考えることができない状況もまたある。

リスボンでは、街のそこここで、人々が楽しげに話している様子を目にする。地下鉄やバスで、乗り込んできた乗客と、座っていた乗客が話を始める。カフェでTVを見入っていた客同士が話を始める。二言三言ならわかるが、随分長く話込んでいるので、知り合いなのだろうと独り言ちることになる。確かに、リスボンに住んでいると街中で知人とよく出会うことになる。東京の区部の約7分の1程度という市域の狭さが原因なのかもしれないが、それにしてもいとも簡単に、頻繁に出会うのだ。そうしたわけだから、街のそこここで、偶然出会った知り合い同士が話し込んでいてもおかしくはない。最初のうちはそう考えていたのだが、もちろん釈然としない想いも残っていた。しかし、しばらく住んでいるうちに、その謎はいとも簡単に解けていった。話は単純で、単に、既知の間柄ではない、見ず知らずの人々が話し合っているだけのことなのだ。バス停で、店の軒先で、街角で、そして乗り物のなかで。僕自身、何度かそうして話しかけられ、かなり長く話をしていたことがある。おそらくその姿は、周囲から眺めれば、知り合いが偶然出会って話し込んでいるようにしか見えなかったのではないだろうか。

しかし問題は、この、ある種の対話の遍在とも言える状態に浸っていると、共にいることだけの可能性が、非常に虚弱なものに思えることだ。確かに、共にいることには、明確な意見を携えた自立した個が集まり、問題解決のために相互に調整しときに敵対するという、近代的な理解に基づく共同には収まりきらないものを秘めているはずだ。関係性が注目されるようになったのは、そうした事態を察知してのことに違いない。けれども、たわいもない話し合いに終始するのだとしても、沈黙ではなく対話が充溢している場所に立ってみると、漠然と共にいることだけで充分なのだろうかという想いが湧き上がってくる。あるいは、リスボンの状況を、共にいるだけでいつでも対話が生まれうるというように捉えるのであれば、共にいることの可能性を模索するアートの試みを先取りしているというように理解することもできるだろう。しかし、このある意味で特殊な、社会的、文化的な環境のなかでこそ生まれることができたものを、アートの小規模で、思わせぶりな、仄めかすようなやり方で、実現することができるのだろうか。対話が偏在する社会への意識を、地道に、粘り強く説き続けるということ。かろうじてそう理解してみるで、共にいることを重視しようとするアートの活動の意味を納得することができるだろうか。いや性急に、納得しようとするべきではないのかもしれない。ビショップも、もちろんブリオーも、共に問題を抱えている。おそらくその状況を、もう少しゆっくりと、咀嚼しなければならないということだろう。

 


ビエンナーレのカタログと、登録型の入場券


イスタンブール現代美術館近くのチャイハネ

 

予想していなかったことだが、パリのバーで去来したさまざまな想いは、再びイスタンブールで想い起こされることになった。素晴らしい伸びやかさが感じられた、キャロライン・クリストフ=バカルギエフの前回のビエンナーレを下敷きとして、エルムグリーン&ドラッグセットという一筋縄ではいかないアーティスト・ユニットがキュレーションする。そうした事情もあり、イスタンブールへの期待は高まるばかりだったが、心配な要素がなかったわけではない。とりわけ、レジェップ・エルドアン大統領の独裁制が強化されたことは、何らかのかたちで影を落とすであろうということが予想された。エルドアンが自身の権限を強化するために憲法改正を行い、従来から独裁と呼ばれていた体制を、より一層、揺るぎないものにしたのは、もちろんヨーロッパの主要国にとっても脅威には違いない。だがそうなのだとしても、中東とのフィルターの役割を果たしてきたトルコを不安定にさせることは、何をおいても避けなくてはならず、そのためEU主要国の多くは、表面的には非難の言葉を並べてみたものの、成すすべなくというよりは、むしろそうした事態を呑まなくてはならなかったのだ。二年ぶりに訪れたイスタンブールは、もちろん表面的には何も変わるところはなかったが、数日滞在するうちに、大学からリベラル系の研究者が海外に流出しているという話を耳にすることになった。ビエンナーレのパブリック・プログラムの企画を担当したアーティスト、ゼイノ・ペキュンルも、知識人だけでなくアーティストも数多く国外に出ているというような発言をしている。おそらく事態は、予想していた、危惧すべき方向に動き始めているということだろう。

予算が大幅に縮小されたという話も気にかかった。確かに、破産の危機もあったドクメンタ14に象徴されるように、膨張するばかりの国際展に関しては何らかのかたちで反省的に応答する必要がある。しかしだとしても、独裁制の強化という背景を考えたとき、表現に関係する、しかもより政治的、社会的な傾向を強めているアートに対する消極的な姿勢は、どこか気持ちの悪さを残すものでもある。またトルコの情勢とは直接関係ないが、この連載の最初の方でも触れたが、「次のドクメンタはアーティストがキュレーションするべきか?」という刺激的な問いかけを行い、エルムグリーン&ドラッグセットの、ドクメンタはヴェネツィアで開催されればいいし、その代わりに、サンパウロ・ビエンナーレをカッセルで、ヴェネツィア・ビエンナーレはクワンジュ(光州)で、シドニーは……、という、魅力的な返答を引き出すことに成功してみせたイェンツ・ホフマンにまつわる性的ハラスメントのニュースも気持ちを重いものにした。本人は否定したものの、結局、ニューヨークのユダヤ博物館は副ディレクターの職を解いている。当たり前のことだが、世界に対して批判的な視線を送るとき、自身に対する思慮を欠いていてはならない。アートに、それをする資格はあるのか。ホフマンの問題は、改めてそのことを考えさせてくれた。

イスタンブールの日常が、快適なものであればあるほど、こうした問題とのコントラストが、じわじわと精神的な体力を奪っていく。もちろん、これまでこの連載で触れてきた、国際展に関連する種々の問題も、決して声を潜めてしまったというわけではない。そうつまり、問題を見つめるつもりでいながら、同時に別の問題を無視しているのではないかという危惧……。さまざまな方角から押し寄せてくる問題が、渦を巻き、反響している。まるでそれは、この街の、賑やかなバザールのようでもあるのだが、けれどもそこに漂っている晴れやかさのような空気は、残念ながらこの場合はまったく感じられることがない。

 

エルムグリーン&ドラッグセットに対する期待は、彼らの作品はもちろんだが、2009年のヴェネツィア・ビエンナーレでの見事なディレクションに依るところが大きい。デンマーク館とノルディック館を、共通のテーマはあるものの、それぞれに異なるコンセプトでまとめたその手腕は、キュレーションを専門とする人間に引けを取らないユニークなものだった。ふたつのパヴィリオンの協働という形態も、それまでになかったというだけでなく、それ自体、国別のパヴィリオンで競い合うというヴェネツィア・ビエンナーレの構造そのものを問うものでもあった。スヴェレ・フェーン設計の端正なノルディック館は、とあるコレクターの家という設定なのだが、当のコレクターはパヴィリオン前のプールに溺死体として浮かんでいて、展示会場は殺人の可能性もある死亡事件の現場と化していた。立場が危うくなったのは来場者も同じで、恐るおそる点在する作品に視線を送るその姿は、現場にたむろする野次馬に成り果てていた。展示されている作品も安穏としていることはできない。それらは作品であるだけでなく、コレクターが資金にものをいわせて集めた、けばけばしい戦利品という役割を演じさせられることになる。ある意味ではもちろん、それでもそれらは優れた作品でもあるのだが、けれどもしかし、品性に欠ける悪趣味なコレクションの一角を占めるという役どころを放棄することはできないようだった。作品が集中しているということも、展示会場であれば当然のことなのだが、個人宅ということになると、拝金主義者が投機対象として掻き集めたのではないかという、芸術の暗部を想像させないわけにはいかなかった。架空の設定のなかのことではあるものの、来場者は、こうした、いわば不都合な事実と向き合わされることになる。しかもそれだけではなかった。あっけなく生を絶たれた男の亡骸は、意外な印象を周囲に振り撒いていた。たとえそうした種々の問題を抱えているのだとしても、芸術に関わり続けてきてそのまま途絶えた人生が、どこか愛おしいものに思えてくるのだ。芸術の光、そして闇。それでもそれに関わることが、たとえ不幸な死を迎えるのだとしても、その男をどこか人間らしく見せるということはありえないことではなさそうだ。頭のなかを、さまざまな思いが、整理のつかないまま行き来し始めていた。

結局、エルムグリーン&ドラッグセットは、作品を展示するという構造自体を見事に相対化してみせたわけだが、そんな彼らが、国際展という枠組みを利用しながら、どのようにそこからはみ出し、またどのように解体していくことになるのか。期待は決して小さなものではなかった。しかし、結果に先回りしてしまえば、個々の作品に見るべきものはあったものの、全体としては凡庸で保守的な印象のものになってしまっていた。それが先に触れた否定的な要因と関係しているのかどうかは定かではないが、クリストフ=バカルギエフの前のビエンナーレ、フラヤ・エルデミッチによってディレクションされた『おかあさん、わたしは野蛮なの?(Mom, am I barbarian?)』以来、高まり続けてきた評判が、ここにきて足踏みを強いられ、あるいは逆戻りしているようにしか感じられなかったのは確かだ。

 


マフムード・ハーリド、室内の様子


マフムード・ハーリド

 

もちろんそうした事態は、エルデミッチのビエンナーレを含め過去3回、アーティストとして参加してきたエルムグリーン&ドラッグセットにしてみれば、誰よりも痛切に感じることができたことでもあるはずだ。ビエンナーレ開催直前、再開発反対運動に端を発して広がったトルコの春、タクシムのゲジ公園の反政府運動は、トルコ全土にまで広がりを見せ、直後の『おかあさん、わたしは野蛮なの?』は、予定されていた屋外でのイヴェントの多くが中止を余儀なくされた。けれども展示自体は、トルコの春を反芻して余りあるもので、ある意味で芸術が政治に言及する可能性を感じさせるものでもあった。トーマス・ヒルシュホルンやサンティアゴ・シエラという、クレア・ビショップお気に入りのアーティストたちの作品も、独裁者にとっては決して好ましいものではなかったはずだ。とりわけ、ホルヘ・ガリンドとの連名による「責任者(Los Encargados)」と名付けられたシエラの映像作品は、ルーフに天地逆のポートレートを設置した、黒塗りのベンツの葬列がマドリッドの大通りを進んでいくという挑発的なものだった。国王以下、起業家たち7人の責任者に対する批判は、より以上に権力の集中を目論む人物にとっては、当然、愉快なものではなかったはずだ。もちろんそれらは、わかりやす過ぎる抵抗の意志表示ではあるのだとしても、エルムグリーン&ドラッグセットのビエンナーレから、そうした気配がきれいに払拭されているのはあまりにも不自然だった。

この空気、表面的には普段と変わりのないようでいながら、けれどもどこかで決定的に何らかの力が作用していて、しかもそうした事態に誰もがうすうす気づきながら、決してそのことに触れようとはしない、いやできないような、よそよそしく、寒々しい印象。むしろそうしたある種の萎縮こそが、展覧会そのものが示そうとするもの以上に迫り出してくる。『よき隣人(a good neighbor)』というタイトルもまた、もちろん、相互の寛容を促すものに違いないのだとしても、むしろ本来の思惑から離れて、そうであるかないかを確認し、そうでない場合には意図に沿ったものであるように強制する、ある種の相互監視の体制を連想させなくもない。

出展されていた作品も、本来の意図とは別の部分で、周囲を覆っている異常な事態に感応し始める。マフムード・ハーリドの、オーディオ・ガイドを聴きながら、同性愛の男性の邸宅のなかを巡る作品もそうしたもののひとつだ。下敷きとなっているのはエジプトで起こった不幸なホモ・フォビアの事件で、その犠牲者、通称「泣く男」が見えざる主人公になっている。船上のゲイ・ディスコが摘発され、拘束された男たちが顔を覆いながら、泣き崩れたまま連行されていく。その当事者でもあった、あるいはあったかもしれない人物が生活していた空間に招き入れられた来場者は、個々の部屋の微細な部分に注目するように、囁くような声に促される。不在ではあるものの、泣く男の濃密な気配。美術館にほど近い丘の上にひっそりと建つ建物に、警備の人間に促されて足を踏み入れたときの感覚は忘れられない。もちろんその作品が本来意図しているものも感じられないわけではなかったのだが、それ以上に強く、ある種の軟禁状態、あるいは引きこもりとでもいう状況が、強烈に肌に迫ってきたのだ。それは決して、表現における規制を示そうとするものではないはずなのだが、セクシャリティを自身の手で封印して生きる、いや生きなくてはならない人間の日常を通して、間接的ではあるがそうした領域に言及しているようにしか思えなかった。

 


繁華街にひっそりと口を開ける、アーティスト・コレクティヴ、ヨウンルックの会場入り口。室内は撮影禁止になっている。

 

スタジオとして利用しているという繁華街の雑居ビルの一室を会場としていたアーティスト・コレクティヴ、ヨウンルックの作品も、同質な空気を湛えたものだった。数人しか入れないように制限された観客を最初に迎えるのは、漆黒のなかの蒸せ返るような湿度だった。視界はまったく効かず、音もくぐもっている。そんななかで、直接、何かが肌に触れているかのように湿度だけが静かに感じられるのだ。何か目にしてはいけない存在が、すぐ間近にいるかのような不気味な気配。親近性をテーマとしているというその空間は、確かにそのこと自体も伝わってくるのだが、同時に、ここでも再び、拘禁されているかのような、逃げ出したくなるような閉塞性が感じられることになる。外に出ることもかなわず、部屋に閉じこもり、視界もおぼつかないなかで、ただただ肌に触れてくるものに意識を研ぎ澄ます。もちろん触覚に訴えてくるものは、生政治的な脅威となるものではなく、癒しのために伸ばされた慈愛に充ちた腕なのかもしれない。機密性の高い空間の暗闇のなかに立ち尽くしていると、そこで知覚されるものすべてが、おそらく部屋の外の世界まで拡がっているだろうということが、根拠のないまま確信にも似たものに育っていく。いやそれは、部屋の周囲に広がる空間はもとより、結局は社会や世界そのものをも覆い尽くしてしまっているはずだ。おぞましく、不気味な空間に漂う気配は、内向し扉を閉ざしてしまった、いや閉ざさざるをえないような状況ついて語りながら、ある種の普遍性を手にしてもいる。

街中の何箇所かに設置されたブルチャク・ビンギョルの、花模様をあしらった陶製の監視カメラも同じだ。ひっそりと、目立つことなく街のそこここに配されたそれは、本来の機能を脱臼させるという作者の一貫する意図を達成する前に、むしろ静かにその地を覆っている、息がつまるような規制や抑圧こそを連想させることになる。こうした作家達の表現に対するある種の誤読は、エルドアンの独裁制が強化されるなかで、本来であればそのこと自体を表現しなくてはならない状況において、かろうじて可能な手段だというように考えるべきなのかもしれない。もちろん、直接的な表現を試みた作家が排除されたわけではない。例えば、ゲジ公園の反政府運動の様子を描いたコンクリート壁の表面が、剥離し、崩れ落ちている光景を現出させることで、抗議行動自体の衰退を示そうとしたラティファ・エシャクシュもそうしたアーティストのひとりに数えることができるだろう。エルムグリーン&ドラッグセットは、トルコの現状について満足のいくものではないとした上で、けれども、直接的な批判を示すことだけが有効な方法ではないと述べている。あるいはまた、政治的な作品が少ないことに対して、自己規制したわけではないとも弁明している。いずれにせよそうした指摘や応答までを含めた全体から、まず何よりも状況の困難さこそが伝わってくる。先に触れたヨウンルックは、政治的な表現は不可能になっていると発言しているが、確かに、明示的な政治的表現は不可能なのかもしれない。けれども、彼らが彼らの置かれている状況で示したものは、十分に、相応するものを表明することに成功していた。恐らくそれは、キュレーターたちが意図したものでもあるはずだ。

また一方でそれは、ある意味で「政治的なもの」から離れるための政治の在り方を示唆しているのかもしれない。状況との距離は、前回、田中の個展について述べる際にも触れたが、具体的な事項に縛られてしまうと、ある意味でいわゆる政治に介入したり、あるいはされたりすることを受け入れざるをえなくなる。もちろんそれは、場合によっては、既成の政治的な枠組みを呑み込むことを意味することにもなるはずだ。「政治的なもの」に抗するための政治は、そう軽々に実践できるものではないはずだ。おそらく今できることは、直接的な批判や指摘の在り方を再考してみることなのではないだろうか。エルムグリーン&ドラッグセットのやり方は、必ずしも充分なものではなかったが、窮状における模索という意味を考えてみる必要があるだろう。

 


ブルチャク・ビンギョルの監視カメラ


ラティファ・エシャクシュの「民衆の衰退」

 

ビエンナーレ自体は、確かに低調というか、熱を帯びたものではなかったが、そうであるからこそ考えさせられたことも多かった。そこでの不自然な沈黙、静寂は、ある意味で、十分に抑圧が予想される表現を試み、期待どおりの反応が起こると、それに憤慨してみせるという態度が、いかに稚拙で、それだけでは来るべき事態を告発もできなければ、回避することもできないということを教えてくれた。あるいは、ビショップの考える関係性が、いかに安易に態度表明の可能性を考えているかということについても改めて考えさせてくれた。ガヤトリ・スピヴァクが指摘したことは、当然のことながら想像力を働かせて拡張してみる必要があるはずだ。語りえない事態……。しかし、いずれにせよこのどちらもが、ある意味で「政治的なもの」に関わっていることには注意しなくてはならない。そこから離れるための政治は可能なのか。眼前の事態を深刻なものにしないためには、あらゆる告発を躊躇するべきではない。しかし、どのようなものであれ、告発がある種の分断を生むのであれば、それを回避しなくてはならないことは改めて胸に刻んでおく必要がある。ヒロイズムや自己満足的な抵抗は、告発することに関しては注力を惜しまないが、分断を生成してしまうことに関しては鈍感過ぎる。忌むべき事態への傾斜に抗うためには、本来、協働しなくてはならないはずの人々を、軽々に敵視して、自己陶酔するような姿勢は、何をおいてもまず改めなくてはならない。

排除される人々を含むばかりでなく、それぞれの立場に立つ人を寛容さにおいて繋ぎとめるということ。グリッサンがアンティルの島々に、そしてディアスポラを経験して世界に広がった人々だからこそ可能になった全-世界という対象に、アイデンティティの可能性を見ようとしたことは繰り返し想起してみる必要がある。その広大な世界に比べれば、遥かに小さい芸術という枠組みのなかで、すべての関係者を抱きとめるような在り方を考えることは、それほど難しいことではないのではないだろうか。またグリッサンの考える全-世界が、既存の政治と遠くかけ離れたものであることにも注意しておきたい。誰かを除外するということを念頭に置かないそこでは、友敵に基づく理解は色褪せるだけでなく、意味そのものを失ってしまう……。パリのバーでは、グリッサンのカクテルは紫色にした。彼の出身地、マルティニークにも咲くジャカランダのことを想った。その可憐な花は、彼が見つめた、ディアスポラを経験した人々のように、世界中に広がっている。

 

 


 

ナノソート2017
no.1「シンタグマ広場に向かう前に……」
no.2「アテネ、喪失と抵抗の……」
no.3「ミュンスター、ライオンの咆哮の記憶……」
no.4「愚者の船はどこに向かうのか……」
no.5「幸せの国のトリエンナーレ」
no.6「拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく」
no.7「不機嫌なバー、あるいは、政治的なものに抗するための政治」
no.8「南、それは世界でもある」

 

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評、女子美術大学芸術文化専攻教授。主な著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。オルタナティヴ・スペース art & river bank を運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ)、『Picnic』(増本泰斗との協働)など、プロジェクトも多く手がける。4月から1年間、リスボン大学美術学部の招きでリスボンに滞在。ポルトガル関連の著書に、『白い街へ』『アソーレス、孤独の群島』『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

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