【特別連載】杉田敦 ナノソート2017 no.8「南、それは世界でもある」


シンタグマ広場

 

南、それは世界でもある
文 / 杉田敦

 

予定していた国際展にはだいたい足を運ぶことができたが、どうしてももう一度出かけておきたい場所があった。ギリシアだ。ドクメンタが閉幕し、その後、膨らんだ支出による問題が明らかになるなど、いまだにその余韻が漂うなかで、「アテネから学ぶ」と題されたそれが、どのようなかたちでその地に遺っているのか知りたかった。いやあるいは逆に、どれくらいあっけなく消え去ってしまっているのか、確認してみたかった。ドクメンタに合わせて開催された、イドラ島のカラ・ウォーカー展のオープニングの享態についてはすでに触れたが、そのような馬鹿げた熱気が過ぎ去り、再び経済危機の問題ばかりが立ち込めているはずの街で、もう一度その意味を考えてみたいと思ったのだ。またそれにあわせて、トルコとの海上の国境も見てみたかった。アイ・ウェイウェイがアトリエを開き、大量の救命胴衣を極東の島国の港町で開催された国際展に運び出した島、レスボス。その島に生まれた詩人サッポーのセクシャリティに由来して、以後それを示すための名称として知られることになったその島に行ってみたかった。けれどもダークツーリズムとも言えるその行先に、正直、躊躇を覚えなかったわけではなかった。結局はそこに向かうことになったのだが、そうすることに対する躊躇について少し触れておきたい。

 


タブロイド紙

 

島への旅は、東日本大震災とそれに伴う原発事故、つまり3.11以降の東北に向かうのと似ているように感じられてならなかった。3.11直後、多くのアーティストたちが、それに関連する種々の問題を、現場に赴くことで乗り越えようとした。いや、乗り越えようとしたと言うのは正しくないだろう。そうなるかどうかも定かでないまま、けれどもその地に向かわなければならないような義務感に駆られていたと言う方が相応しいのかもしれない。そうすることがどのような意味を持つのか、おそらくそのとき、誰ひとり手がかりらしきものさえ手にしてはいなかったはずだ。そしてその状況は、時間が経過したからといって解消されていったわけではない。当時、堰を切ったように東北を目指し、その地との関係を手にしようとする彼女や彼らの姿に、ただ漠然と、どこか釈然としない想いを抱いていたことが思い出される。震災当時、自分の住んでいた首都圏でも、帰路を確保できないなど、それまでにない事態を経験することになった。もちろん、実際に被害を受けた人や、犠牲になった人もいた。規模としては比較にならないのは言うまでもないが、けれどもつまり、そこもまた被災地だったはずなのだ。だが、多くの視線はいわゆる「被災地」ばかりに注がれていた。もちろん、より深刻な被害を受けた地域に関わろうとする姿勢は、決して咎めるような類のものではないし、可能であればそうすることが望ましいのかもしれない。ただ、目の前の事態、つまり比較的軽かったのだとはいえ、実際に体験し、目にし、耳にしたものを、どこか軽んじてしまうことになるのではないかという想いも払拭することはできなかった。また加えて、そうした東北詣は、どれだけ真摯な想いによるものだとしても、どうしてもどこかツーリズム的な視線の欲望を連想させた。もちろんこれは、自省によるものでもあるし、ある種の自戒を込めた言葉でもある。

首都圏にいながら被災地の問題を考えるために、震災後あるプロジェクトに取り組んでいた。「20km 向こうに : aufklärung von kinder」と題されたそれは、渋谷の109に原発が立地していると仮定して、福島原発事故で住民たちの立ち入りが禁止された20km圏内とはどのぐらいのものなのか、より身近に感じてみようというものだった。事故後、立入禁止区域になった場所にはいくつかの市町村が含まれていることは情報としては知っていたが、それが実際にどの程度の範囲なのか、実際に自身の生活している場所に置き換えてみたことはなかった。また、ただ単にどの程度の範囲かを知りたいのであれば、地図を眺めていれば済むことなのだが、プロジェクトでは実際にその境界を歩いて確かめてみることにした。横浜の少し手前から浦安の娯楽施設の外側まで、渋谷を中心とする半径20kmの円周は、すっぽりと都心部を包み込むことになった。立入禁止区域を右手に見ながらの行程は、休憩できそうな場所があっても、行手の左側になければ入れないことにした。それは、目に見えない放射性物質による汚染を理由に、住み慣れた土地から締め出された人々が感じたはずの理不尽さのいくばくかを追体験するためのものだ。結果としては、このちょっとしたルールが、予想していた以上にプロジェクトの遂行を難しくした。目に見えているそこに行けないということ。住民たちが感じた焦燥の一端に触れることはできただろうか。およそ2年半、10回以上に分けて行われたプロジェクトは、延べ約80人の参加者を集めた。机上の計算では120km、海上部分があるので100km程度になるだろうと高をくくっていたが、実際の行程はナビによる計算では約130kmに達した。

ちょうどプログラムを始めて1年ぐらい経過したときのことだ。ひょんなことから新聞社の輪転機を借りて、少部数だがタブロイド紙を印刷することができることになった。プロジェクトを運営していたメンバーで協議した結果、この機に実際に東北に向かい、自分たちのプロジェクトの意味を再確認してみようということになった。それでも、それを表立って掲げるのには躊躇があり、仮店舗など、急ごしらえではあるが各所で再開され始めた酒場を巡るという、気負いのなさそうな名目を掲げることになった。移動は公共交通機関に限定し、気の向くままに、各所でインターネット・ラジオを配信することも決まった。自分たちで決めておきながら、けれども、その地に向かう足取りは決して軽いものではなかった。釜石で現地集合することになり、結局予定していたメンバーは全員集まったが、後からわかったことだが、最後まで行くかどうか迷っていた人もいた。誰もが躊躇していたのだ。

 


レスボス島の海岸

 

そのときのことが蘇ってきた。そのため、責任を回避するためというわけではないのだが、せっかく一人で判断することができないのだから、その疑問や戸惑いをいろいろな人に相談してみることにした。単なる思いつきの域を出るものではないが、そのときは唯一の可能性のように思われた。友人、知人をはじめとして、学生、アーティスト、批評家、映像作家など、同国人だけでなく思いついたまま声をかけてみた。立ち話をした場合もあるし、そのためにわざわざスカイプで時間を割いてもらった場合もある。相談相手になってくれた人々の意見はそれこそ様々で、微かながら一貫するものを見出すことができるだろうという希望は残念ながらかなえられることはなかった。けれどもそうした身勝手な期待を冷たく突き放すような結果は、明確な理由など見出すことはできないのだという事態、それそのものの受け入れを可能にしてくれたように思われる。その島に行ってみることを想起したこと、けれどもそのことに対する躊躇を払拭することなどできるはずもなく、ましてやそうした事態に対して、判断するための理路など定まらないということ。そうした状況そのものを受け入れることで、どこかで逡巡や躊躇とともに、それを携えたまま行動すればよいのではないかと思うことができたような気がする。しかし、考えてみればそれは、あの財政危機の折にシリザが示して見せた姿勢ではなかったのか。緊縮政策は拒否するが、EUにはそのまま留まりたい。矛盾するとされるものを併せ持つこと。初めてそのことの意味に触れることができたのかもしれない……。

けれども、島への旅は簡単ではなかった。乗り継ぎのための時間に余裕をみていたものの、搭乗機は滑走路まで出たにもかかわらず電子機器の故障で引き返し、出発時間の目処も立たないまま、待合室で待機させられることになった。アナウンスは一切しないので、あの黄緑色のベストを着たスタッフが搭乗できると告げるのを聞き漏らさないようにして下さい……。暇を持て余すはずの時間までが、ある種の緊張を強いるものに成り果ててしまった。経過説明など事態を呑み込むための情報も一切なく、不安なまま時間が過ぎていく。もちろん、不確かでしかなく、しかも極度に乏しい情報を頼りに、ひとつひとつ慄きながら先に進まなければならない難民たちが置かれている状況に比べれば恥ずかしいレヴェルの困難でしかない。しかしそれでさえ、恵まれた状況に微睡んできた人間の精神には大きな負担となるということだろう。

結局、午前中に部屋を出たにもかかわらず、本来宿泊する予定でなかったアテネのホテルに着いたのは夜遅くなってからのことだった。アテネからレスボス島までの飛行時間は30分程度。たったそれだけの距離がもどかしく立ちはだかった。レスボス島に辿り着いたのは、翌日の早朝の便だった。レスボス島のミティリニ空港は島の東側にあり、島最大の都市、ミティリニの約6km南に位置している。ノーベル文学賞を受賞した詩人に因んで、オデッセアス・エリティスとも呼ばれる空港を出ると、すぐ目の前に海が広がっている。そして、その彼方に霞んで見える陸地はトルコだ。20kmほどの距離だが、波は荒く、ボートでそこを渡るというのはある種の賭けのようなものだと言えるだろう。そこに人生を、家族を、命を託すというのはどういうことなのか。レスボス島で確認したいと思っていたことは、出し抜けに、ごろりと目の前に横たわっていた。

 


レスボス島のミティリニ空港。あるいは、オデッセアス・エリティス空港

 

1日遅れで着いたホテルは、ミティリニの港に面していて、テラスからは潮風が吹き込んできた。小さなレセプションは、観光客ではなく難民支援だと思われるボランティアで賑わっていた。レスボス島には、メディアなどで紹介される機会の多い、ミティリニから北西に5kmほど離れた内陸部にあるモリア難民キャンプがあるが、そこだけでは収容できなくなり、ミティリニとモリアの中間の海岸部、カラテペにも難民キャンプを建設して対応している。どちらも亡命申請のための一時収容施設なのだが、現在では、モリアが単身男性、カラ・テぺは、家族や女性、未成年者などを主な対象とするというように、役割を分担している。ただレスボス島では、そうした場所へ出向くつもりはなかった。それは、先に触れた東北への旅の際、特別な場所に行かないようにしようとしていたのと似た想いによるものだった。特別な場所に出向いてしまうと、そこだけに問題があるかのように誤解してしまいがちだからとでも言えばよいだろうか。ミティリニの街中をぶらつき、気の向くまま海岸に向かい、海風に吹かれ、酒場の喧騒に包まれる。そうしながら、無謀な試みに賭けなくてはならない人々の気持ちを想像してみるということ。もちろんそれは及ばないものにしかならないはずだが、そうしてみることだけが可能なことのようにも思われた。あてもなく彷徨うことになる場所の光、あるいは風や匂いは、やっとのことでここまで辿り着いた難民たちも感じたものであるはずだ。少なくともそれは、たとえ儚いものだとしても、何らかの共有を可能にしてくれるだろう。

困窮している人々に何気なく差し向けられる視線が、けれどもどこかである種の共同体の下地をなしているのかもしれない、いやそれこそを共同体と考えるべきなのかもしれないと述べたのはアルフォンソ・リンギスだった。クレタ島生まれのこの思想家の視点は、共同体について考える際、真っ先に排除されてきたものでもある。表層的な同情を抱くことは誰にでもできるが、問題はそこから先なのだ……。けれども、リンギスはそれを逆転してみせる。むしろそのとき、すでにある種の共同体が成立していると考えるべきなのではないか。身勝手ではあるかもしれないが、彼のこのある意味での転倒は、特定の施設に向かおうとしない自身の視線に言い訳を与えてくれるのかもしれない。それでさえ、何らかの共同体をなしているのかもしれないのだ。また、そうした共同体意識は、難民に対する視線が、自身に対する視線でもあるということに気づかせてくれるはずだ。ただそれとは逆に、難民を感じようとする視線が、ある意味での距離を捉えてしまうこともあった。街中で難民について尋ねてみると、それまでと異なる表情に誰もが切り替わる。タクシーの運転手も、ホテルの従業員も、酒場の男たちも……。誰もがどこか日常と異なる表情になって、だからと言ってできればそれに触れたくないというのでもなく、けれども少し緊張した表情になってそのことについて話し始めるのだ。おそらく彼女や彼らの姿は、自身の姿でもあるだろう。自分もまた、レストランやバーの場所を尋ねるのとは異なる表情で、件の問題を口にしているのだろう。その態度は、同じ共同体について語ろうとするものとは言えない。共同体であるべきなのだが、そうなるにはまだ距離があるということなのだろうか。

 


ミティリニ城址。豊穣の女神デメテルとその娘ペルセポネ、大地母神キュベレーの聖域があったとされる

 

ミティリニの街中を歩いているだけでは、直接、難民の問題を想起させるものと出合うことはほとんどない。いやひょっとすると、港に停泊している哨戒艇は、関連する問題に対処するためのものなのかもしれない。あるいは、そう言えば先ほどすれ違った路線バスには、多くのイスラム系の人々が乗っていたのではなかったか。ひょっとするとそれは、町とキャンプをつなぐ輸送手段ということも考えられなくはない。徴は、確かにわずかしか残されていないのかもしれないが、あるいは、数多く残されているにもかかわらず、単にそれに気づくことがないだけなのかもしれない。

人気の絶えた海岸沿いの食堂で、魚介のフリットと、島特産のウーゾを堪能してから、海岸に沿った崖上の小径を抜けて町に戻ることにした。右手に仰ぐ6世紀に建立されたというミティリニ城は、もともとはアクロポリスで、豊穣の女神デメテルとその娘ペルセポネ、あるいはコレーに加え、大地母神キュベレーの聖域があったとされている。ちょうどレスボスに向かう前に、20世紀初頭にスイスのマッジョーレ湖畔に生まれたコミューン、モンテ・ヴェリタを調査のため訪ねたのだが、真理の山と呼ばれたそこでは、あのハラルド・ゼーマンがコミューンで生まれた独自の文化について『真理の乳房』と題した展示を行っている。ゼーマンはそのとき、モンテ・ヴェリタを象徴するものとしてアルテミス像を展示しているのだが、多くの乳房を持つことで知られるその女神像は、キュベレー信仰からの影響も大きいと言われるものだった。南ヨーロッパに根づくマリア信仰の根源とも言える地母神信仰は、モンテ・ヴェリタとも静かに反響し合っていた。

不思議な想いに駆られながら小径を上っていくと、テリトリーを侵されたと勘違いした放し飼いの犬たちが、近寄ったり遠ざかったりしながら、そして低く唸ったり、声高に吠えたりしながら威嚇してくる。まるで、フランシス・アリスの映像作品「グリンゴ」のようだ。カメラを手にしたおそらく作家本人が、同じような状況に迷い込み、やがて犬たちのあまりの勢いにカメラを放り出して逃げ帰ってしまう。少し心細くなりながらどうにかそこを通り過ぎると、すこし下り坂になり、崖下にわずかばかりの砂浜が見えてくる。ここにも、多くの難民がたどり着いたのだという。おそらくもうその痕跡は残されていないはずなのだが、ひょっとすると砂浜に打ち寄せられているもののなかに、遺留物が紛れ込んでいるのかもしれない。それにしても対岸は遠く、少しでも天候が崩れてしまえば、もう陸地を視認することはできなくなってしまう。そのような海原に身を任せていくときの心情は、どれだけつぶさに情報を集めてみても、決して知ることはできないだろう。よりよく生きようという意志と希望とが、確かにその行為を支えているはずなのだが、ときに大きすぎる代償を強いられることになることを思うと、胸が潰れるような想いにさせられる。

 


レスボス島の海岸。右手にかすかに対岸のトルコが見える


ミティリニ港

 

もともとレスボス島は、古くから、地中海を横断して東西に移動しようとする人々にとっては重要な拠点だった。最も古い時代のものとしては旧石器時代のアジアからの移民で、それ以降、軍人、商人、難民など、様々な人々がそこを通過している。とりわけ島に大きな影響を与えたのは第一次世界大戦後の希土戦争だった。イギリスや西側同盟に唆されたギリシアは、第一次世界大戦の敗戦国であるオスマン帝国の領土のうち、ギリシア語を話し、ギリシア正教を信仰する人々の共同体がある小アジア、アナトリア半島一帯の領有を唱えトルコに侵攻していく。このメガリ・イデア、大ギリシア主義とも呼ばれる誇大妄想的な思想は功を奏さず、イスタンブール空港にその名を残すムスタファ・ケマル・アタテュルクらの活躍によって敗走を余儀なくされてしまう。戦後、トルコはオスマン家を排して共和国となり、初代大統領にアタテュルクが就任して近代国家としての体裁を整えていくことになるが、一方ギリシアは、メガリ・イデアの放棄はもちろんのこと、居場所を失った小アジアのギリシア難民を受け入れなければならなくなり、人口は一気に25%近く増加することになる。このときの難民の数は150万人と言われているが、そもそも難民というよりは、民族浄化的な意味合いの強い、国家間の住民交換だったのだ。そのため、数的には4分の一程度ではあるが、ギリシアからもトルコ系ギリシア人がトルコに追放されている。

レスボス島は小アジアからギリシアへの経由地でもあったため、多くの移民を受け入れ、今日の10万人に充たない島民のうち、60%以上が希土戦争後の難民の子孫だと言われている。しかし当初、難民たちの受け入れはスムーズに行われたわけではなく、今日以上の摩擦を生んでいたようだ。難民たちは、元々の島民たちから「トルコの種」と呼ばれ冷遇される。先ほど、ミティリニの人々に難民の問題を尋ねると、複雑な表情になるということについて触れたが、もちろんそれはこうした過去が関係しているからのことだろう。当時の難民の子孫はもちろん、彼らに対して不寛容を示し、けれどもその後同じ島で生活を共にするなかで、自身や祖先のそうした姿勢を省みたはずの元々の島民やその子孫にとっても、今日の難民問題は決して縁のない問題ではないのだ。いずれにせよ現在、島の人口の5倍を超える難民を受け入れている島民たちの寛容さは、彼女や彼らの、あるいはその親や祖父母たちの記憶を呼び覚ますことになる。難民たちの窮状は、彼らが経験したものでもあったのだ。いや、彼らが受け入れているのは、彼ら自身でもあると言うことだろう。

 


ペトロス・ギルゲチョスの鎮魂のための碑板

 

もちろん、まったく問題がないというわけではない。収容所の環境改善を訴えた難民たちの行動が暴徒化し、ミティリニ港で警官隊と衝突が起きているし、移民排斥を訴え急成長してきた極右政党「黄金の夜明け」は、レスボス島でも支持を伸ばしている。それだけでなく、今年の4月には、このネオナチ政党の支持者によって、港にいた難民たちが襲撃されるという事件も起こっている。もともと左寄りの傾向があるため「赤い島」とも呼ばれてきたレスボス島でのこの出来事は、ギリシア国内でも衝撃だったはずだ。ところで、レスボス島の左傾化には、ここまで述べてきた島の歴史が関係しているのはもちろんだが、それとは別にもうひとつ大きな要因がある。先ほどの小道を進み、左手の海岸から少し離れたところまで来ると、右手に森林公園が広がっていて、その途中に少し開けた広場があり、中央に残された一本の松の盛り土を囲む土台に碑文が刻まれている。人道に基づき、イタリアのファシズムとナチス・ドイツに抵抗した人々のために……。かつてここで5人のスカウト運動の愛国者が、反枢軸国的であることを理由に拷問を受け殺されている。そのなかの一人、ペトロス・ギルゲチョスが縛りつけられ、拷問され、そして息絶えたのがその木なのだ。敗戦と住民交換という試練の先に待ち受けていたのは、ファシズムだったのだ。

第二次世界大戦下の1940年、ギリシアは枢軸国側のイタリアに侵攻されるが、それを撃破すると同時に、一年前に同じように侵攻されイタリア・ファシズムの保護領となっていたアルバニアへの侵攻を開始する。しかし、翌年にはドイツの電撃作戦によって敗退し、枢軸国であるドイツ、イタリア、ブルガリアの手による分割占領を許してしまう。面積的にはイタリアが多くの地域を占領したものの、アテネやピレウスなどの地政学的な要所はナチスが占領した。島嶼部では、クレタ島などとともに、レスボス島も、海上交通の要所としてナチスの管轄下に置かれている。ほとんど目立たない松の台座の碑文は、それに対して争った人々の姿を現前させる。そうした記憶は、おそらくその島を「赤い」と形容させたことと無関係ではないだろう。しかしその島においてさえ、難民問題は、極右政党の支持を拡大させてしまうのだ。もちろん、島民の何倍という数の難民を受け入れてきた島全体としての対応には尊敬の念しか覚えることはできない。漁業を生業としているにも関わらず、難民たちのために船を出し続けた漁師たち。一時は街を埋め尽くすほどに膨れ上がった人々を、辛抱強く、優しく受け入れた人々の寛容さ。赤十字社を創設したアンリ・デュナンが第1回の受賞者でもあるノーベル平和賞にレスボス島を含むギリシアの島民たちがノミネートされたのは2016年のことだが、相応しくない人々が名を列ねることも珍しくないこの賞で、彼女や彼らの活動はまさにその名に値するものと言えるだろう。デュナンがソルフェリーノの戦いの惨状を目にしたことが赤十字創設のきっかけとなったということは広く知られているが、レスボスの島民たちもまた、目にした光景に突き動かされたはずだ。わたしたちにとって必要であり責務でもあるのは、限られた島民たちの行為や寛容さに頼り切ることではなく、もちろんそれらをただ単に顕彰することでもなく、これまでとは異なるかたちで、困窮者たちへの取り組みを開始し発展させていくことだろう。

 


ウゼリの男たち

 

ミティリニの街中で、アテネなどでよく見かける酒場、ウゼリを探したがなかなか見つからなかった。観光客のためのカフェやレストランばかりで、昼間から男たちが集まり、ただただ話し込んでいるような場所は見当たらなかった。ようやく見つけた埠頭にある酒場は、ウゼリというには少し大きすぎるが、男たちが集まってカードゲームやボードゲームに興じている。ボードゲームはバックギャモンのようだが、サイコロを手で振っているから、バックギャモンの原型とされるタブラに近いのかもしれない。男たちは当然、賭けていて、勝敗に一喜一憂している。先ほどまでしょんぼりとしていた老人が、どうやらタブラでは一目置かれているらしく、若い男たちを次から次へと打ち負かしている。邪魔にならないように店の片隅で飲んでいるのだが、目立たないわけもなく、どこから来たのか、何してるのかと賑やかになってくる。日参して顔見知りもできてくると、ウーゾを奢ったり奢られたりしながら、束の間その地の何かを手にしたような気持ちになってくる。

その店で出会った一人の男はアルバニア出身で、周辺の店に果物や野菜を持ち込んで、必要であればその場で買い取ってもらっている。他の店でも見かけたことがあるが、この店を拠点としているのか、出たり入ったりしている。売れ残りなのだろうか、いつもオレンジをくれるのだが、とても瑞々しく甘かった。アルバニアはギリシアの西側に位置する小国で、その国旗は、鮮やかな紅色に、黒い双頭の鷲をシルエットのように中央にあしらっている。2016年、マニフェスタを観るために滞在していたチューリッヒで、ある夜、その旗を掲げた車がクラクションを鳴らしながら何台も通りを行き来していた。ちょうどそのとき、サッカーのユーロ選手権のグループリーグが開催されていて、それまですでに二敗を喫していたアルバニアが、ルーマニアを1-0で破ったのだ。残念ながら他のグループの結果に恵まれず、決勝トーナメントへの進出はかなわなかったが、国ではその快挙を「奇跡」と呼んで首相までがその栄誉を称えた。アルバニアはそれまで、ワールドカップもユーロ選手権も、そもそも不参加だったり予選敗退ばかりで、本大会に進んだのは初めてのことだった。長くオスマン帝国の支配下にあったアルバニアが独立するのは20世紀に入ってからのことだが、その後、公国、王国、社会主義、共産主義と目まぐるしく体制を変えながら、ようやく民主化を果たし、現在の体制になったのは90年代に入ってからのことになる。共産主義時代にはヨーロッパの最貧国と揶揄されたこともあるが、現在では経済もわずかながら好転しつつある。もっとも、それでもGDPのランキングでは120台と、ギリシアの50台に遥かに及ばない。

そんな国からやってきた彼のオレンジを、店から借りたナイフで房ごとに切り分け、水で割って白濁したウーゾと交互に口に運んでいると、どうしようもなく浅はかだったということに気づかされる。この島に来るまで、ギリシアというEUの喉に刺さった小骨のような国から学ぶということを掲げた国際展が過ぎ去ったあと、最も過酷ともいえる環境にありながら、けれども難民に手を差し伸べていることの意味を考えてみたいというように思っていた。しかしそれは、いかにも安易で狭隘な考えでしかない。オレンジとウーゾは、見え透いた言い訳を許してくれそうもない。ギリシアの隣にはアルバニアという国があり、その国の状況はギリシアよりもさらに困難を極めている。2009年に申請したEU加盟は、2014年になってようやく加盟候補国の承認までこぎ着けるが、加盟条件ともなるアキ・コミュノテール(EUの法体系の総称)の大半は努力の必要があるとされ、ほとんどの項目で実質的な審査に入っていないというのが現状だ。それだけではない。アルバニア以外にも、ひとつの選択肢としてEU非加盟も可能だが、ボスニアやコソボのように、それを望みながらもまだ申請さえかなっていない国々もある。恐らく、すでに半年以上も前にその幕を閉じたドクメンタ14のアテネに学べという標語の指し示すアテネは、いわゆるアテネではないということでもあるだろう。いや、アテネだけではないということだったのだ。島にやって来た東洋人には、決定的にその意識が欠けていた。

束の間のレスボス島からアテネに戻り、ドクメンタの痕跡を少し辿ってみたが、やはりレスボスの酒場で覚えた違和感は大きくなるばかりだった。ドクメンタで訪れた際に、自身の視線に含まれていたアテネに、ギリシアに対する想いは、どうにも居心地の悪い記憶となって纏わりついてくる。結局それは、アテネという特殊に対する視野狭窄に過ぎず、アテネが、そこでもあるがここでもあり、あそこでもあるという想像力を欠くものでしかなかった。フランコ・“ビフォ”・ベラルディやサンドロ・メッザードラらが指摘したグローバル金融資本による抑圧は、当然、どこかに顕著に姿を現わすことはあるのだとしても、そこだけでなく世界中至るところに遍在しているものだ。もちろん、そうした事態は最初から目の前にあったはずのことなのだが、当たり前のそのことに気づくのに随分と時間がかかってしまったようだ。その島は、あまりにも鈍いその感性を、やっとのことでそこに導いてくれたような気がする。レスボス島は、ある意味で、世界そのものでもあったのだ。

 


ソコル・ベキリの「接ぎ木された樫の木と大理石」。傍の大理石がなくなっていた


フィロパポスの丘から眺めるアクロポリス。レベッカ・ベルモアの大理石のテントは撤去されている


アテネ市内のグラフィティ。ベルリンは新しいアテネだ……

 

島からリスボンに戻り、ある建築の展示に出かけた。ベレン文化センターと呼ばれるリスボンの西部にあるそこは、10年ほど前に実業家ジョゼ・ベラルドのコレクションを引き受けるかたちに体制を変えた。ベラルドの現代美術のコレクションは見ごたえはあるものの、ポルトガル有数の資産家と言われる彼の財は、アパルトヘイト下の南アフリカで築かれたものでもあり、ただでさえ資本家の主導によるアートの在り方に疑問を抱かざるを得ないのに、さらにそれを気の重いものに変えていく。泥水を飲まなくてはならないのか。総合芸術センターの一部にその名が冠せられようとしたとき、ポルトガル人の友人のアーティストたちは誰もが複雑な表情を浮かべていた。その総合芸術センターの一角に、ガレージと名付けられた独自規格の展示会場があり、そこで、ポルトガル人建築家、アルヴァロ・シザ・ヴィエイラの集合住宅プロジェクトの展示が行われていた。元々は2016年のヴェネツィアの建築ビエンナーレに出展されたもので、『近隣:アルヴァロとアルドが出逢うところ』と題されている。アルドというのはアルド・ロッシのことで、1976年のヴェネツィア・ビエンナーレの際に、まだ独立して開催されていなかった建築部門の展示やカンファレンスで二人は出逢っている。また、1983年にはジュデッカ島の公共住宅の競技設計で再び顔を合わせ、選ばれたシザのプロジェクトの周囲に、後にロッシら三人の建築家のプロジェクトも追加されている。

展示会場で採り上げられていたのは、自国のポルト、会場となったヴェネツィアに加え、ベルリン、ハーグの4つのプロジェクトだった。シザに関しては、そのキャリアがアントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールの独裁体制、エスタド・ノヴォ(新しい国家)のときに始まっていることを理由に批判する人間も少なくないが、カーネーション革命後、困窮する住宅事情に対応すべく生まれた緊急地域支援事業、SAALの依頼で、低所得者向けの集合住宅を設計しているなど、まだまだ評価しきれていない部分が残っている。ポルトのボウサにある集合住宅は、そうした活動の成果のひとつだが、その後もシザは国内外で意識的に低所得者向けの集合住宅に関わり続けている。展示では、実際に居住者たちの部屋を建築家が訪ねていく様子を撮影した映像を見ることができるのだが、ヘヴィー・スモーカーで知られる老建築家は、いまどき珍しく辺り構わず燻らせるので、見ているこちらがはらはらしてしまう。居住者たちの生活は様々で、彼の意図を十二分に汲み取ったものもあれば、むしろ遠くかけ離れてしまっているようなものも少なくない。もっとも、建築家はそのような使用状態を気にするでもなく、かといってどこ吹く風という様子でもなく、むしろどこか本人の意図とは関係なく生育していくものに目を細めているという感じだ。

ジュデッカ島のカンポ・ディ・マルテのシザのプロジェクトは、依頼主が破産したため部分的な完成で中断してしまうが、2016年の建築ビエンナーレでのアピールが功を奏したのか建築が再開されている。プロジェクトの場所は、昨年のビエンナーレでポルトガル館となったエリオット邸の隣で、その際も館内には集合住宅の建築模型が展示されていた。ジュデッカ島はそもそもユダヤ人を意味する言葉が語源だという説もあり、実際、13世紀にはユダヤ人が強制的に移住させられ、最古のゲットーもそこにあったとされている。ツーリズムが猛威を振るうヴェネツィアで、唯一、古のヴェネツィアらしさが残ると言われる場所でもある。集合住宅の環境も、映像で見る限り決して贅沢なものではなく、慎ましく庶民の生活が営まれていることが感じられる。SAALの場合も同様だが、ここヴェネツィアでも、都市部で困窮した住環境に耐えている人々の救済が、集合住宅に課せられた使命だと言えるだろう。ところで、そうした人々に向けられる救いの視線は、種々の違いはもちろんあるものの、難民や移民に向けられるものと本質的に大きな隔たりはない。レスボス島の酒場での思いを反芻すれば、アテネ的なるもの、困窮した状況に置かれている人々は地域に限定されないばかりではなく、もちろん時系列上においても、どこかに固有なものではないということだろう。シザを口実に訪れた冬のヴェネツィアで、想いは確信に変わっていくように感じられた。アテネ、それはどこでもあり、そしてまたいつの時代でもあるのだ。

 


ジュデッカ島、カンポ・ディ・マルテのシザの集合住宅。長年中断されていた工事が再開されている


シザのボウサの集合住宅。一室が資料室になっている

 

ヴェネツィアからリスボンに戻ると、国立リスボン大学の博士課程の特別講義などの準備に追われ、残り少ない日々はさらに慌ただしくなっていったが、どうしてもポルトのSAALのプロジェクトも見ておきたかった。かつて、シザのドローイングの展覧会を日本で企画した際、レサ・ダ・パルメイラのプールや、マルコ・デ・カナヴェーゼスの聖マリア教会などで撮影した映像を展示したのだが、当初はボウサの集合住宅もその候補のひとつになっていた。住民との関係があまりうまくいっていないというシザの事務所のスタッフの助言もあり、そこでの撮影は取り止めることにしたが、ジュデッカ島のプロジェクトを見た余韻が残るうちに、そこを訪れてみたかった。実際に出かけてみると、建築関係者の聖地よろしく整備が進んでいて、近くで世間話に興じていた老人たちに見学していることを告げると、そのうちの一人が資料室になっている部屋があるから案内してあげようということになった。住民との軋轢を心配していた身にとっては、あまりにも呆気ない展開だった。

資料室は集合住宅の一室を利用したもので、SAALの活動の初期の雰囲気を伝える貴重な写真や模型などに加え、彼が出ているのだという自慢の映像も拝見することができたが、それ以上に部屋の内部を見ることができたのが嬉しかった。プロジェクトの最も初期の頃からの住民だという彼の笑顔からは、関係の気まずさなどは微塵も感じることはできない。ボウサの集合住宅は、着手から数年後に住宅行政の方針転換もあり中断されている。数十年後に突如再開され、2005年に完成して現在の姿になるのだが、ちょうどドローイング展を企画したのがその直前ということもあり、おそらく、何らかの問題が持ち上がっていたということだろう。ボウサの集合住宅の最大の見所は、日本でいう1階と2階、ポルトガルの地階と1階の二層からなる部屋の上階のエントランスに向かって、パティオから各戸個別に階段が伸びているところだ。その不思議な構造は目を惹くものではあるものの、機能的には過剰ではないかと訝しがりたくなる。どうしてそのような構造を選択したのだろうか。リスボンの展示の映像のなかで、シザはその秘密を何でもないというように明かしている。彼によればその階段はスタジアムなのだ。住民たちが思いおもいに鉢植えを並べたりして楽しんでいるそこは、パティオでボール蹴りに興じる子供達を眺めるための観客席なのだというのだ。

面白いことに、2016年のヴェネツィアの建築ビエンナーレのディレクターを務めたアレハンドロ・アラヴェナも同じような階段の造形を利用した集合住宅を設計している。なかでも、建築家の母国のチリのキンタ・モンロイのプロジェクトは、30年以上にも渡ってその地を不法占拠してきた約100家族のためのもので、成り立ちも含めてSAALのシザのプロジェクトと共通している。アラヴェナの建築の特徴のひとつは、自作できる部分を組み入れていることで、その独自の視点が評価されてビエンナーレと同じ年のプリツカー賞を受賞しているが、SAALにもアルガルヴェ地方のラゴスに、自助を中核としたプロジェクトがある。もともと粗末な作りだった漁民たちの家を、石造りの堅牢なものに変えていこうというのだが、そこに見られるセルフ・ビルドの思想は、アラヴェナの基底を流れているものでもあるだろう。

ところで、ポルトには実はもうひとつシザとSAALのプロジェクトがある。不思議なことに、シザ事務所から入手したシザのすべての設計を地図上にマッピングしたデータにそのプロジェクトは含まれていない。ポルトは美しいアズレージョで有名なサン・ベント駅の東側に、古くからイーリャ(ilha、島)と呼ばれる住宅密集地が広がっている。現在でも部分的には残っているが、低所得者の小規模な住居が密集した地域で、庶民の生活が残っていると同時に、単純に住環境として見れば改善が望まれるところでもある。サン・ヴィクトル通りのプロジェクトもそうしたもののひとつで、わずかに後発ながら、ボウサとほぼ同じ時期に着手されている。実際に建築されたのは12戸の入った一棟だけで、ボウサと同様、SAALの解体とともに計画は中断されている。実際に見てみると、サン・ヴィクトルのプロジェクトはボウサよりも質素で、建築資材もごく限られたものしか使っていないことがわかる。計画が中断となり隣接する予定だった棟が建てられなかったため、各戸のエントランスは無防備な印象で、熱帯を思わせるライムグリーンのペイントが、一層寂れた感じを漂わせている。予期せぬ再開によってプロジェクトが完成したボウサが、建築の聖地と化しつつあるのとは対照的だが、おそらくサン・ヴィクトルの方が、SAALが取り組んだ時代のソーシャル・ハウジングの問題を的確に示しているように思われる。

 


ボウサの集合住宅の中庭。シザによればスタジアム


サン・ヴィクトル通りのシザの集合住宅

 

独裁政権下の60年代、50万戸近い住宅が不足していたと言われるポルトガルは、言ってみれば都市の住民そのものが半ば難民のような状態に置かれていた。こうした状況は徐々に改善されることになるが、一方、旧宗主国に流れ込んでくる移民たちを受け入れるために、ファベーラと呼ばれるスラムが生まれることになる。1997年、リスボン万博のために、4月25日橋に向かう高速の左手の斜面にあったカザル・ヴェントーゾというスラムは一掃されるものの、その後もペドロ・コスタの映像で広く知られるようになったスラムは場所を変えながら生成消滅を続けている。一方、都市部でそれに匹敵するほど深刻な問題は、ツーリズムによる観光客の誘致の成功が、旧市街に住む低所得の人々を締め出しつつあるということだろう。滞在中もそれに抗議するイヴェントが繰り返し開かれていたものの、そうした行為では追いつかないようなスピードで、歴史ある店舗や、アソシエーションと呼ばれる地域の人々の交流の場所などが次々と姿を消していくのを目の当たりにすることになった。この連載の第一回目で写真を掲載した、65年の歴史を持つミーニョ地方のアソシエーションも、年末には立ち退きを余儀なくされている。こうした、都市の住民そのものを難民化させるような事態は、まさにビフォやメッザードラらが指摘した、グローバル金融資本による生政治的な圧力のひとつに違いない。しかし、確かに彼らが指摘するように、シリザやポデモス、15Mなどの動きは、これまでにないやり方でヨーロッパを構成し直す方法なのかもしれないが、そうした動きが視野に捉えている特定の地域の問題としてだけでなく、そしてまたこれまでここで述べてきたように、おそらく特定の時系列上の一点における問題でさえもなく、つまりどこでも、いつでも、誰をも難民化してしまうような、そうした力を視野に入れた上で、それに屈することのない社会を構成し直すことこそが望まれているのだ。もちろんそう考えると、ヨーロッパの南に滞在することに意味を見出していた自身の態度にも当然のことながら問題があることがわかってくる。もっとも、そうしたことに気づかせてくれたのが南だったということは、本来の意図とはかけ離れているとしても、それでもここに来たことは意味があったということでもあるだろう。

 


108周年を祝うリスボンのアソシーションのパーティー

 

1年というわずかな期間の滞在でも、ヴィザの更新のために移民局に出向かなくてはならない。数ヶ月先の予約に縛られた生活は、決して心地のよいものではない。必要書類の不備を理由に、再度出向かなくてはならない場合もある。個人的にも、大学の受け入れ承認の書類にポルトガル語のものがなく、再度取り寄せて提出し直さなければならなかった。渡航前の大学院の授業で、日本の難民申請の書類を調べてみた。その多岐にわたる記入項目と、確認事項、加えて入国管理局の体制の不備もあり、その申請がどれほどのストレスになるのか想像することさえ憚られた。日本は現在外国人労働者に門戸を開きつつあるが、難民に対しては、たとえ申請までこぎつけることができたとしても認定率は1%にも満たない。ヴィザの申請ぐらいでその困難を知ることはできないが、居住を認められているかいないかという不安に関しては、かすかではあるもののその一端に触れることができたのかもしれない。もっとも、アイ・ウェイウェイの『Human Flow』(2017)を観ていると、そうしたことでさえないのかもしれないと考えさせられる。

彼の映像が中心に据えているのは、もちろん、世界各地に生まれている難民たちなのだが、けれどもそれは、そうした気の毒な環境を生きている人々がいるというような表面的な理解への収斂を許してくれない。彼の映像を観ていて強く感得されるのは、難民たちだけでなく、国境を取り締まる人々や、取材に来ているジャーナリストや撮影クルー、あるいはボランティアで手助けを行っている人々や、何気なく通り過ぎる市民たち、そして時折顔を出すアイ・ウェイウェイ本人はもちろん、挿入されるかたちでコメントを述べる様々な立場の人までもが、ある意味で絶望的な環境に置かれているということなのだ。難民の危機ではなく、人類の危機なのだ……。この連載でも紹介した彼の言葉は、映像を通してよりリアルに立ち上がってくる。そうつまり、僕たちもまた、ある意味で難民だということだろう。難民の問題に対してリアリティを覚えることができない人々も、比較的恵まれた環境に微睡み、過酷な環境を生きる人たちに対する想像力を欠き、自身の生活だけに専心しながら、そうした日々が孕んでいる圧倒的な暴力に気づくことさえできないでいるという、別種の絶望の海原を漂っているということなのだ。

何十年も通っていたということもあり、知り合いも多く、リスボンでの生活で寂しい想いをすることはなかったが、もちろんどこかで異邦人としての頼りなさも感じていた。繰り返される毎日は、どこかテレサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』のような印象に近く、もどかしさが靄のようにたちこめている。この、若くして暴漢に襲われて命を落とした女性アーティストの驚異的な作品は、フランス語のディクテ(口述筆記練習)から名前を借りたものだが、多様な言語が泡のように至るところに吹き出しては消えていく、独特な印象のそれは、未習熟の言語よろしく、その意味らしきものは一向に手の中にすくい取ることができない。けれどもその不確かな印象が、どこか滞在していた街の印象に重なってくる。また不思議なことにその本は、あのレスボス島の詩人、サッポーの一節から始まっている。プラトンの言うところの10番目のムーサ、その彼女の言葉を、本来の九人の女神を表題とする章の前に配している。しかもその詩人のものとされる言葉自体、実際にはチャによる創作なのだという。あなたは多重なのだ、だからこそあなたはあなた自身なのだ。うろ憶えのエドゥアール・グリッサンの言葉が頭のなかで反響し始める。

ディクテ的な印象は、必ずしも言語に起因するものばかりではない。以前からの知り合いで、今回の滞在で親しくなった友人はブラジル出身なのだが、植民地と宗主国という近接した関係とはいえ、彼女もまた、ある種のもどかしさを感じているようだった。また彼女は同性愛であることにも悩んでいた。性的指向そのものの悩みというよりは、家族へのカミングアウトを躊躇していた。もちろん、寛容であるとはいえ、熱心なカソリック信者の多いその街では、それに類する労苦もあるはずだ。屈託のない笑顔のなかの秘密を知ったとき、何か不思議な共有が生まれたような気持ちになった。はたしてそれはリンギスが見つめようとしていたものなのか。一方、借りていた家の玄関の前は教会の駐車場になっていて、勝手に車の出入りを指図して小銭をもらうことを生業にする長身の気のいい男がいた。彼の出身地ギニアビサウは、エスタド・ノヴォ体制の頃にはすでに植民地戦争で本国と争っていて、革命直後に独立を成し遂げるものの、度重なるクーデターで国は疲弊し切ってしまう。それを嫌った彼は単身、かつての宗主国に渡ってくる。彼の母語はフェルナンド・ペソアの言うところの母国、ポルトガル語でもあるから、コミュニケーションそのものには問題ないが、幾重もの疎外に取り囲まれているようでもあった。ときどき、ビールを差し入れて言葉を交わしたが、当の本人にそんなことを気にかける様子は微塵もなく、むしろ超然とした高潔さに心を動かされた。その駐車場を抜けて、街の中心部に坂道を降りていくと、かつては荒廃していて通ることも憚られた一画がある。いまではそのあたりにも宿泊施設が増えてきて、麻薬の取引のための路地に、事情を知らない無防備な観光客が入り込んでくる。そんな街角でよく顔を合わせた男は、ことごとく同じ酒場で出会うようになり、いつしか言葉を交わし酒を奢り合うようになっていた。明らかに意識が飛んでいることや、そのための霊薬を売っているところも何度となく目にしたのだが、昼間はいたって真面目に、AIDS対策の一環として避妊具を無料提供する施設で働いていた。モザンビーク出身で20年近くそこに住んでいるという彼は、顔も広く、周囲の人々にも愛されてもいるのだが、もちろんテリトリーを一歩外に出てしまえば敬遠気味の視線に晒されることになる。もっとも、彼の名誉のために付け加えておけば、多少飛んでいるときでさえその振る舞いは品が良く、紳士的でさえあった。一方、そうした彼女や彼らを取り囲んでいる、ときに彼らを受け入れ、ときに遠ざけようとする旧市街の人々も、急速にその愛すべき街での立脚点を失いつつあった。ツーリズムの暴力が、ツーリストを惹きつけてやまない庶民的な生活の担い手でもあるそうした人々を、残酷にも締め出し、追い払おうとしているのだ。そうした傾向は、旧市街の雑然を敬遠し、その周縁に拡がる新市街で、近代的な環境を選択した人々にも、じわじわと押し寄せている。高騰し始めた家賃や物価を理由に、仕事場を外に移すだけでなく、さらに遠くへの移住を考えている人も少なくなかった。そこに馴染むことができない人がいて、一方、馴染んできたそこを後にしなければならない人がいる。難民、移民、T4作戦が標的とした人々、放射能汚染で家を追われた人々、ゲットーのイーリャの、そしてファベーラの人々、旧市街の住民、新市街の住民、そしてあなた、そしてわたし……。誰もが異邦人に、移民に、そして難民になろうとしている。難民の危機ではなく人類の危機なのだ……。

本当に両手で数えるほどになってしまった残りの日々は、何か特に意識していたわけではないが、旧市街から失われていきそうな場所を巡っていたような気がする。そんなとき、住んでいたところの近くのアソシエーションで、設立108年を祝うディナーがあるという。近所の知り合い同士が親交を深める場所にお邪魔させてもらうのは気が引けたが、束の間、そこに招き入れてもらった。同行した歳若い友人が踊り出すと、一気に場の緊張が解けて、日本で言うところの米寿を少し過ぎた女性が優雅なダンスを踊ってくれた。ここも失われるのかもしれない。気を重くさせるような考えが浮かびそうになる。ドクメンタに参加していたマンティア・ディアワラの映像作品に、エドゥアール・グリッサンをクイーン・エリザベスⅡ号に乗せてマルティニークを訪ねる映像作品「関係性のなかのひとつの世界(One World in Relation)」がある。ゴキブリの入江(Anse Cafard)と呼ばれる場所にある島出身のアーティスト、ロロン・ヴァレールの奴隷追悼碑の周囲を、マイルス・デイヴィスかと見紛うトランペッター、ジャック・クルシルが彷徨い、その傍らで木訥に言葉を紡いでいくグリッサン。この連載でもすでに触れたが、そのなかでグリッサンは、国境は通過を拒絶する場所ではなく、感謝するための場所だと述べている。そしてさらに言葉を繋いでいる。通過すること、それはコミュニケーションであり、関係性なのだ。理不尽に強いられる移動に希望があるとすれば、まさにそれはグリッサンの言う意味においてでしかない。

 


リスボンのカモンイス広場で開かれたマリエル・フランコの追悼集会

 

さて、ここまで辿ってきたホドスも、そろそろ終わりに近づいている。もうとっくに気づかれているはずだが、ここでの文章はすでにあの白い街で書かれたものではない。高温多湿の、極東の島国で、朧げな記憶を頼りにかろうじて書くことができたものだ。安易な総括はしたくないが、印象的だったものも、そうでないものも含めて、すべての経験がここでの思考を可能にしてくれた。ただ、一貫してその可能性を考えてきたビフォやメッサードラが指摘したグローバル金融資本の生政治的な抑圧、それに対する抵抗は、当然のことながら容易いものではない。滞在も残すところ2週間ほどになったとき、リオ・デ・ジャネイロの市議会議員、マリエル・フランコの射殺事件は衝撃だった。ファヴェーラ出身のシングル・マザーで、ゲイであることをカミングアウトし、フェミニストでもあった彼女は、この連載で触れて来た人々すべてを代表しているように思われた。もちろん、彼女はいわゆる難民ではないが、彼女もまた難民であり、そしてまた難民に手を差し伸べるものまたある意味では彼女だったのだ。その喪失は、抵抗の難しさと、けれども同時にそうし続けることの重要さをあらためて心に刻んでくれたような気がする。

 

 


 

ナノソート2017
no.1「シンタグマ広場に向かう前に……」
no.2「アテネ、喪失と抵抗の……」
no.3「ミュンスター、ライオンの咆哮の記憶……」
no.4「愚者の船はどこに向かうのか……」
no.5「幸せの国のトリエンナーレ」
no.6「拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく」
no.7「不機嫌なバー、あるいは、政治的なものに抗するための政治」
no.8「南、それは世界でもある」

 

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評、女子美術大学芸術文化専攻教授。主な著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。オルタナティヴ・スペース art & river bank を運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ)、『Picnic』(増本泰斗との協働)など、プロジェクトも多く手がける。4月から1年間、リスボン大学美術学部の招きでリスボンに滞在。ポルトガル関連の著書に、『白い街へ』『アソーレス、孤独の群島』『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

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