椹⽊野⾐ 美術と時評 100:回帰する「爆心地の芸術」——戦争、疫病、原発

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MOCAF(Museum Of Contemporary Art Fukushima)、2022年3月11日、福島県双葉郡富岡町
写真提供:MOCAF

 

東日本大震災から11年となる今年の3月11日、私は福島県富岡町の、とある空き地に立っていた。もっとも、この場所にはこれまでも何度か訪れている。かつてここに家が建っていたとき、私はその家の持ち主に招かれ短時間だけだが屋内へとお邪魔した。放射能の影響を最小限に防ぐための防護服を着用してのことだった。家のなかは地震による大きな揺れと原発事故による避難で経過した年月を経てなお、持ち出したいものも持ち出せず、まるで時間が止まってしまっているかのようだった。その後、家は取り壊しとなり、あとに先に触れた空き地ができた。

その空き地は、今では空き地のまま美術館になっている。空き地のままなのに美術館とはおかしな言い方だが、世にも稀なこの美術館、MOCAF(Museum Of Contemporary Art Fukushima)については、この時評でも以前に触れたことがある。そう、ちょうど今年の3月11日から1年前にこの美術館はオープンした。ただし開館しているのは、これも1年に一度、3月11日に地震が起きた午後2時46分からわずか数時間だけのことである。昨年のその日は、美術館がここにあることを示すサインのほかには、美術館の入り口にあたる真っ白い回転扉だけが設置された。

 


2021年3月11日のMOCAFの様子 写真提供:MOCAF

 

それなのに、この空き地の向かいにある駐車場にはそのことを知った人たちの車が次々に駆けつけていた。やがて午後2時46分となり、あたりにサイレンが鳴り響き、犠牲者たちへ思いを向ける黙祷が済むと、来場者は次々にこの回転扉を回してくぐり、美術館へと入っていった。入っていったと言っても、もとの同じ空き地に出るだけである。展示室も展示品も、ここにはない。だが、入る前と入ったあととでは、なにかが変わって感じられた。もとの同じ空き地ではあっても、そこは、MOCAFを体験した前と後で違って見えた。しばらくしてから、この回転扉は来場者たちの手で壊され、薪となり、火にくべられて、日が落ちてあたりが暗くなる頃、皆はその火で暖を取った。そして、あとには回転扉の台座として地中に打たれた円形のコンクリート部分だけが残された。これらのことについては以前に触れたとおりなので(本連載第95回)、ここでは繰り返さない。私が今年も3月11日にこの地を訪ねたのは、一年ぶりにこの美術館が限られた時間だけ開くからなのだ。

昨年、回転扉をくぐって入場した私たちは、しかしまだ美術館から出てはいなかったのかもしれない。というのも、今年は同じ空き地に今度はミュージアム・ショップが設置され、東日本大震災に関連する美術書を販売したり、コーヒーが振舞われたりしたからだ。つまり、一年という時間のブランクを挟むかたちで、実はMOCAFはずっと開館し続けていたのかもしれない。その証拠にと言うべきか、回転扉が乗っていたコンクリートの台座はそのままだ。私たちは昨年、その上に設置された回転扉から入場して、今年はようやくその直近に設けられたミュージアム・ショップに身を寄せただけで、来るべき展示室や企画展は、来年以降の3月11日から数時間へと時空を超えて続いているのかもしれない。美術館の全貌が見える日がいつ来るのか、それらの断片が脳裏の記憶と体験のなかで総体としてどんな姿をとるのか、それはまだわからない。まだ美術館のなかから出ていないのかもしれないこの身を東京において、来るその日を今から楽しみに待つしかない。

 


今年(2022年)3月11日のMOCAF 写真提供:MOCAF

 

アートディレクターの緑川雄太郎(MOCAF館長でもある)の発案と実施によるこの美術館は、今年も昨年と同様、3月11日の午後2時46分のサイレンと黙祷を経て活動を再開した。ただし去年と違っていたことがある。それは、残された円形の台座を囲んで来場者が立つことで始まった黙祷から館の再開に至る様子が現地から、東京の森美術館で開催中の「Chim↑Pom展:ハッピー・スプリング」の一角に設けられたモニターを通じて中継され、 富岡町のMOCAFの来場者と、森美術館の来場者とが、それぞれ福島、東京と遠く隔たれたまま、同じ3月11日の午後2時46分という時を共有し、同じ黙祷の機会を持ったということだ。むろん、それはコロナ・パンデミック以降はあたりまえとなったリモート技術により、単に場を共有したというだけにとどまらない。

 


今年(2022年)3月11日のMOCAF、午後2時46分の黙祷 写真提供:MOCAF

 


同時刻の「Chim↑Pom展:ハッピー・スプリング」(森美術館、東京)会場 動画撮影:石谷岳寛

 

そもそも福島での原発事故は、福島での事故でありながら東京電力の施設で起きたものであり、同時にその前提となるのは、福島から東京へ電力を供給するという非対称的な力関係であった。原発事故はその結果として、起きた。ゆえに東京にいるものは福島からの電力の恩恵を受け、その犠牲を強いた加害的側面をもち、福島にいるものは東京へ電力を供給し、その結果として犠牲を強いられた、という被害的側面を持つことになる。両者は対称的な関係にない。都心にそびえる超高層ビルの最上階に位置する、電力によって築かれた東京の発展の象徴のような美術館で持たれる黙祷と、なにもなくなって風だけが吹き抜ける福島の空き地に架設された始まりから未完の美術館でもたれる黙祷とが合算されるということは、その両者のあり方の違いを掛け合わせ、想像力のなかで再構成することでもあるのだ。

だが、今年はそこに核が起こす電力をめぐる新たな緊張感が加わった。突如として起きたロシアによるウクライナへの軍事侵攻によって始まった戦争が、思いもよらぬ局面をも迎えていたのだ。というのも、1986年に文明史上最悪と呼んで過言でない核施設の爆発炎上事故による世界への放射性物質の拡散をもたらしたチェルノブイリ(ウクライナ語でチョルノービリ)原発をロシア軍が武力によって制圧した結果、保管された放射性物質を冷却するための電力供給がストップし、48時間後には予備電源も含め全電源を喪失するという管理上の大きな懸念が生まれたからだ(*1)。私たちがMOCAFの空き地に立っていたのは、ちょうどその48時間以内のことであったから、福島原発のメルトダウン=放射性物質拡散事故によって帰ることができなくなった家が取り壊された現地にいることは、昨年までとは異なる意味を持っていた。

 


チェルノブイリ(チョルノービリ)原子力発電所、プリピャチ、ウクライナ(2013年6月) 撮影:Ingmar Runge

 

「チェルノブイリ」は決して過去のことではなかった。過去と言ってもむろん、チェルノブイリ原発は事故を経て数十年を経てなお、廃炉にはほど遠い状況にある。放射性物質の拡散を防ぐためのいわゆる石棺は、内部から発せられる強い放射線によって長期にわたって耐久力を維持することができず、新しい防護用のシェルターが完成してまだまもない。つまりチェルノブイリはまだ現在進行中なのだが、その現在進行性にまた、新たな生々しさが還ってきたのだ。戦争によってチェルノブイリの危機が蘇ってきたと言ってもいい。万が一原子炉が砲撃を受け爆破されるようなことがあれば、かつての惨事を超える放射能被害が世界を覆っても不思議ではない。1986年にチェルノブイリから風に乗って拡散する放射能の脅威を嫌というほど思い知った「西側」の国々は、震え上がったことだろう。

原子力発電所がテロリストの手で占拠されたり攻撃されたりすることのリスクは、かつてはあまり想定されていなかった。事故はあくまで原子炉の管理上の問題であり、外部からの攻撃はまったくの盲点であった。だが、かつての戦争とは異なる「対テロ戦争」と呼ばれる目に見えない敵との非対称で局所的な戦いが世界に広がってから後では、それはにわかに現実の匂いを漂わせるようになった。原発はどこでもテロリストからの不意の攻撃を想定して安全基準を再設定しなければならなくなった。思えばそれは当然のことだった。原発が核施設である以上、核の力を制御さえできれば発電のために私たちの暮らしに寄与するけれども、爆発すれば核爆弾と原理的に言って同じ被害をもたらす。だが、そこまではわかっても、まさか冷戦を終えてなお、ロシアのような大国が隣国の事故原発を武力によって占拠し、危機に貶めるようなことが起きると、いったい誰が考えただろう。

ロシアがなぜ、このようなことを行ったのか、それについてはっきりしたことはわからない。だが、旧ソ連時代に事故を起こし、そのこと自体がソ連邦消滅の一因になったとも言われるチェルノブイリでの原発事故について、その過酷さをただちに把握していたモスクワ=クレムリンなら、戦争のような極限状態において、それを軍事的に最大限、利用しないはずがない。ここで軍事的に利用というのは、わざわざ原子炉を攻撃するというようなことでなくても、そこを占拠するだけで、風下にある西側への心理的圧迫には想像を超えるものがあるし、実際に核兵器を投入しなくても、原発は立地しているだけで潜在的な核兵器たりうるのだ。

この意味で、今回のロシアによるウクライナへの軍事侵攻で火蓋を切った21世紀の戦争は、これまでの戦争とは局面が大きく異なる。20世紀には、第三次世界大戦とは核兵器を保有する超大国によるミサイルの撃ち合いとなり、そこに勝者はおらず、人類は存亡の危機に立たされるというイメージが強くつきまとった。だが、21世紀になって実際に起きた大国による戦争は、核兵器を実戦に投入するまでもなく、原発という核兵器を楯に取る「核戦争」でありえたのだ。その意味で私たちは、かつての第三次世界大戦のイメージを待つまでもなく、すでに核戦争の時代に突入していると考えるべきだろう。

軍事的にはロシアの同胞として振る舞うベラルーシからの電力を受けて、直後にチェルノブイリ原発の電力が復旧したと伝えられても、その懸念が去ったわけではまったくない。現在ではチェルノブイリ周辺のロシア軍は大半が撤退したと伝えられているが、いつでも起きうる潜在的な危機は深く大地に刻み込まれたままだ。これは、もしかしたらあのMOCAFに足を踏み入れたあとのありえなかったはずの世界の一風景なのだろうか。昨年とは異なる危機感を伴う黙祷をしたその夜、富岡町に位置する真新しいホテルの部屋に身を寄せ、窓から見える土壌改良の様子を眺めながら、私は以上のようなことを考えずにはいられなかった。

だが、同時にそこにはある種の既視感が伴っていた。それは、いったい今は21世紀なのだろうか、というような時の錯乱を伴う既視感だった。懐かしい、というのではない。時間が堂々巡りをしているかのような乱れた感覚が近い。もとより時系列に沿った進歩史観を信じない立場ではあるが、それにしてもこの奇妙な既視感は、幾重にも絡み合う輻輳的な歪みを時空にもたらしている。例えば20世紀初頭に起きた第一次世界大戦だ。2020年のやはり3月11日にWHOが新型コロナウイルス感染症によるパンデミックを宣言して以降、疫病と人類史についての過去がようやく、まるですっかり忘れられていたかのように紐解かれるようになった。なかでももっとも忘却の隅に押しやられていたのが、第一次世界大戦を追いかけるようにして世界に広がったいわゆる「スペイン風邪」によるインフルエンザのパンデミックだろう。

 


スペインかぜに罹患したフォート・ ライリー(米カンザス州)の兵士が収容されたキャンプ・ファンストンの病棟、1918年ごろ 写真:ナショナル・ミュージアム・オブ・ヘルス・アンド・メディスン

 

世界大戦とはその名のとおり、軍事的な作戦によるものにせよ、生み出される膨大な数の難民によるものであるにせよ、ウイルスとっては感染拡大のための大変な規模の好条件を備えている。逆に言えば、戦争にとって感染症対策は敵と戦うために極めて重要な意味を持ち、多くの時間と人力、金銭を計上する。ましてパンデミックの規模となれば、通説として語られるように、感染症の拡大とそれによる莫大な数の犠牲者は、戦争で亡くなる犠牲者の数を遥かにしのぎ、第一次世界大戦の継続能力にさえ支障をきたし、結果として大戦の終結を早めたとさえ言われている。その影響が美術や写真の世界にまで大きな余波を残したことは、前回のこの連載で語ったとおりだ。

にもかかわらず私たちは、そのことをすっかり忘れていた。なぜだろう。戦争と違って人為のものでない透明なウイルスによる物の破壊を伴わない生命の侵食は、「歴史」という言語によって語られる文明をめぐる文法とは適性がないとしか思えない(戦争もまた文明に寄与する、というより戦争こそ文明の実体であるという考えも成り立ちうる)。そこには敵と味方のような対称的な関係が存在しないし、そもそも疫病は戦争と違い自然の現象である。誰を責めてよいかもわからないし、誰に責任を取らせればよいかもわからない。だからこそ「ウイルスとの戦争」のような「敵/味方」の比喩や、「打ち勝つ」ことの意義を強調することで、かろうじて惨禍を凌ごうとするのかもしれない。だが、いずれにしてもパンデミックが戦争と相性が悪いことははっきりしている。この意味で、パンデミックは「消戦(厭戦でも反戦でもなく、意思を伴わないという意味で)」的な効果さえ持っていると言えるかもしれない。

にもかかわらず、である。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、まさに世界が新型コロナウイルスとの人類が「一体」となったかの闘いの渦中で起きた。つまり第一次世界大戦の時とは逆なのだ。確かにパンデミック下での軍事作戦には多大な感染症拡大のリスクがつきまとう。しかし、だからこそロシアは戦争に踏み切ったとは言えないだろうか。誰もが戦争など連想だにしない、家に閉じこもることが人類にとって最大の貢献であることが、堂々と一国の首相の口から呼びかけられる時代に、軍事的に世界でも指折りの大国が、隣国に大規模な軍事侵攻を行うことで、国と国とが真っ向から武器を持って殺し合うことになるとは、まったく「意外」であったとしか言いようがない。

当然、膨大な数の難民が戦争から逃れて国境を越えようとするのに、受け入れる側がいちいち体温を測ったり、手指の消毒を徹底したりしている様子はない。それどころではないのだ。この意味で、私はパンデミックには「消戦」的な効果があると考えていた想定を一部、撤回しなければならない。第一次世界大戦の時とは逆に、パンデミックだからこそ起こしうる戦争もあるのだ。既視感が輻輳性を持って時空を歪ませている、というのはそういうことでもある。よく似た出来事が起きても、順番が逆だったり、因果関係がおかしくなっていたりするのだ。だから、なつかしい、というのとも違う。むしろ似ているだけにそのボタンのかけ違いが恐ろしいのだ。

奇妙な既視感ということで言えば、パンデミック以降さかんに語られるようになった「ポスト・コロナ」という言葉にも同じ感触がともなう。この語が持つ錯綜した意味合いについては、ほかのところで書いたからそちらに譲るとして(*2)、ここで新たに記しておきたいのは、いったい一時期、まるで流行語のようにそこかしこで語られた「ポスト・モダン」という語は、いったいなにを意味していたのか、という消え去った問いである。もしそれが消え去ったのだとしても、解決したからでないのは言うまでもない。そもそも、そのような問いの設定自体がまちがっていたかもしれないのだ。もしそうなら、ポスト・コロナという問い自体にも、答えが最初から存在しない、設定そのものに無理がある恐れは否めない。そのような感覚を抱くのは、このポスト・モダンということが語られるようになった時期と、パンデミックを挟んで大事故や戦争が相次ぐ今の時代が、第一次世界大戦の頃よりももっと近い過去において、前もって繰り返されていたように感じるからである。

そもそも、疫病と原発事故と戦争とのあいだには奇妙な循環性、ここでの言葉でいうと既視感が存在する。この数十年を振り返っても、エイズ=AIDS(後天性免疫不全症候群)の原因となるHIVウイルスの分離(検体中のウイルスをつかまえて増殖させること。各種解析につながる)がなされたのは1983年のことで、80年代末から90年代頭には多くの有名人、文化人、芸術家たちが命を落とし、この「不治の病」は世界中に死の予感をもたらした。有効な薬が生み出され、不治とは言えなくなったいまでも有効なワクチンは開発されていないし、感染者や発症者の数は増え続けている。そして、先に触れたように、まるで現在進行中の事故現場のように蘇ったチェルノブイリ原発で、未曾有の原子炉の爆発炎上事故が起こり、見えない放射能の恐怖が地球を一周したのは1986年のことだった。その頃からにわかに活発化した東欧の民主化の運動は、ついに89年にベルリンを東西に隔てていた壁を崩すに至り、その翌々91年には東西冷戦の東の司令塔であったソ連邦が嘘のように消滅した。「独立国家共同体」といういまでは忘れられたような段階をへて、共同体からそれぞれの共和国へと各国は帰していき、傷ついたチェルノブイリ原発もウクライナのものとなったのだ。

そうして冷戦が終わり(しかし実際には朝鮮半島がそうであるように極東アジアではいっこうに終わっていない)、アメリカに代表される自由と民主主義、経済的には資本主義が地球次元での原理原則となり、いわゆるグローバリズムが世界を覆い尽くすかに見えたその渦中で、フセインの率いるイラク軍が隣国、クウェートに軍事侵攻を開始し、これに対し連合国軍が派遣され、バグダッドを空爆した。いわゆる湾岸戦争である。この戦争はやがて2001年のアメリカ同時多発テロ事件の背景のひとつになったと言われ、アメリカがその報復として行ったアフガニスタンへの空爆はやがて、大量破壊兵器を隠し持つことを理由に英国とともにイラクを軍事攻撃するイラク戦争へと発展した。結局、イラクが大量破壊兵器を所有していた証拠は見つからなかったが、イラク全土で劣化ウラン弾をはじめとする非人道的な兵器による攻撃が繰り返され、多くの犠牲者が出た。これがのちのイスラム国をはじめとする対テロ戦争の温床を生み出したのは言うまでもない。そしてこのかん、ずっと「ポスト・モダン」ということが語られ続けたのである。

この意味で、エイズによるエビデミックを発生させたHIVウイルスが特定された1983年からずっと、私たちは原発事故や戦争に翻弄され続けてきたことになる。このサイクルは、決して解決されたわけではなく、ある種の歪んだ循環性を持ち、まるでウイルスが新しい株に変異して異なる感冒症状と流行によって何度でも再帰してくるかのように、2011年に起きた東日本大震災による福島原発事故に続き、2020年には新型コロナウイルスによるパンデミックが宣言され、その2年後の2022年にはロシアがウクライナに軍事侵攻するという「戦争」が勃発したのだ。

振り返れば、私が初めて飛行機に乗り、海外に出て、そのためにパスポートを得たのは、ソ連でのペレストロイカ下での現代美術の動向を、モスクワとレニングラードで調査・取材するためだった。1990年のことだった。期間は1ヶ月近くに及び、成果はひとつの展覧会の開催(*3)につながり、記録は図録となって残っている。その時の報告は『美術手帖』1990年の6月号にも特集として掲載されたが、同号の第一特集はエイズで他界したキース・ヘリングの追悼であった。もう忘れてしまっているかもしれないが、また若い世代にとっては未知の話かもしれないが、そのころも疫病と崩壊するソ連、そして見えない放射能の恐怖が世界を覆い、あくる年の1月に決行されるバグダッドへの空爆=戦争が刻一刻と迫っていたのである。そしてちょうどその頃、レニングラード=サンクトペテルブルクで元KGBであったプーチンが活動を始めるのだ。

 


「ソビエト現代美術展」図録より。右上から時計回りに、セルゲイ・パジレフ(1952- ウクライナ、キーウ出身)作品、コンスタンチン・ポベジン(1956- ウクライナ、ハリコフ出身)作品、セルゲイ・ゲッタ(1951- ウクライナ、キーウ出身)作品、そして出品作家たち。12名中7名がウクライナ出身の作家だった。上記3作家のほか、アレキサンドル・グニリツキー、イリヤ・カバコフ、イワン・チュイコフ、エリック・ブラトフ、エドワード・ガラホフスキー、エウゲニー・ガラホフスキー、オリガ・グレッチナ、オレグ・ワシーレフ、ニキータ・ガシューニンが出展。

 


『美術手帖』1990年6月号(美術出版社)より「特集2:モスクワ1990—ソ連アート最新レポート」。左下はイリヤ・カバコフ、右下はエリック・ブラトフの紹介。

 

いったい、終わったと言われる冷戦は本当に終わっていたのだろうか。冷戦が終わったのなら、今回のロシアによる軍事侵攻の背景の一端ともされるNATO軍は強化されるどころか、とっくに解散してもよかったのではないか。グローバリズムの勝利とは、実のところ偽装されたローカリズムではなかったか。それどころか、グローバリズムのたどり着いたひとつの結論が、地球であるどころか人を家の中に閉じ込めることが正義となるパンデミックの時代の到来なのではなかったか。だからこそ「ドメスティック」であることが両者への対抗行動になりうることは、このところの連載で何度か繰り返してきたとおりだ。

もしかすると、私たちはソ連が消滅した1991年から一気に、2022年へと次元を滑り落ちたのかもしれない。そんなことはあり得ないのだが、実感としてはそれに似た感覚がどうしても伴うのだ。ソ連ほどの支配機構と軍事力を持つ国家が、いったい一夜の夢のように消滅するものだろうか。そもそも大規模へと内戦に発展しなかったのはなぜなのか。ソ連が消滅したあとの数十年は、冷戦の終結=グローバリズムの勝利などではなく、冷戦の末尾が延々と引き伸ばされたうえでもたらされた「終わりなき最後」の景色だったのではないのか。ウクライナへ容赦なく軍事侵攻するロシアの姿は、グローバリズムを原理とする世界では倒錯としか言いようがないが、冷戦時代のソ連が継続していたのだとしたらどうか。

昭和が終わり平成の世が開けた1989年にベルリンの壁が崩れた。平成が幕を閉じて令和が始まると今度はあっというまに世界をパンデミックが覆い、その渦中でソ連が復活したかのようにロシアによる戦争が始まった。平成とは昭和への既視感を醸す時代でもあった。戦争、五輪、災害、疫病、つまり「うたかたと瓦礫(デブリ)」の悪しき反復――思えばポスト・モダンの問題とは既視感への問いそのものであった。普遍性を探求するモダニズムそのものを過ぎ去った事象として記号的に操作するのがポスト・モダンであったとしたら、パンデミック後に回帰したポスト・コロナという呼称もまた依然として未来への問いなどではなく、歪んだ既視感(ポスト)の問題であり、ポスト・モダンという幻影が恐るべき姿で再起し、とめどなく人類を退化させていく一種のシミュラークルなのではないのか。

1. その後3月10日、ロシア・エネルギー省は同原発の電力が隣国ベラルーシからの供給を受けて復旧したと明らかにした。また続く15日、国際原子力機関(IAEA)が、ウクライナ側からの情報として、同発電所が同国の電力供給網に再接続したと伝えた。さらに31日、ウクライナの原子力企業エネルゴアトムは、ロシア軍が同発電所から撤退したと発表した。
2. 選考委員を務めた「ポストコロナ・アーツ基金」の関連書が初夏に発行される予定。
3. 「ソビエト現代美術展 ペレストロイカ以後の美術の変貌 SOVIET CONTEMPORARY ART 1990」、アルファ・キュービック・ギャラリー東京、1990年(6月22日〜7月27日)

 


筆者近況:

  • 「佐藤渓 怪物」展(2022年5月28日〜9月11日、町立久万美術館、愛媛)の監修、および図録主論考寄稿(開催に併せて刊行予定)。初日28日の15時から筆者によるギャラリートーク「放浪画家・佐藤渓の真価」。
  • 「UNZEN——『平成の島原大変』:砂守勝己と満行豊人をめぐって」展(2022年6月3日〜6月18日、多摩美術大学アートテークギャラリー2F、東京・八王子)の監修、および図録主要論考寄稿(開催に併せて刊行予定)。会期中6月17日に関連プログラム「表現と記録、記憶の継承 UNZENからはじめる」に参加、登壇者に岡村幸宣(原爆の図 丸木美術館学芸員)、笹岡啓子(写真家)、砂守かずら(砂守メディアアーカイヴス代表)。
  • 「楳図かずお大美術展」(2022年9月17日〜11月20日、あべのハルカス美術館[東京展(東京シティービュー)からの巡回])展覧会コンセプトアドバイザー、図録監修および主論考寄稿(近日刊行予定)。

 

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