椹木野衣 美術と時評95:ART / DOMESTIC 2021

連載目次

 


MOCAF(Museum Of Contemporary Art Fukushima)、2021年3月11日、福島県双葉郡富岡町 撮影:筆者

 

東日本大震災から10年となる3月11日は、私にとってその前の月の2月13日午後23時7分頃に福島県沖を震源として起きたマグニチュード7.3の地震によって始まった気がする。この地震により宮城県と福島県の一部で震度6強の揺れが観測された。私はその時分に京都市京セラ美術館で企画・監修する「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」展(以下「バブル/デブリ」展と略)の関連企画に参加するため京都に滞在していた。揺れは遠く京都まで伝わった。最初は軽いめまいかと思ったが、直後にテレビをつけて地震に気づいたのだ。だが、なにより驚いたのは、この地震が発震からほぼ10年を迎えつつあるなかで起きた、東日本大震災を引き起こしたあの東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)の余震であることが推定されると気象庁が発表したことだった。実際、日付が変わった14日の午前1時44分には宮城県石巻港で20cmの津波が観測されている。このことについて識者のひとりは、震源がより浅くエネルギーの放出がもっと大きければ、規模の異なる津波が発生した恐れがあったと指摘している。

さらに3月11日から10日ほどが経過した昨日、3月20日の夜には宮城県沖でマグニチュード6.9の地震が起き、直後から津波注意報が出されたものの、さいわいなことに津波は観測されなかった。そしてこの地震も同様に10年前の東北地方太平洋沖地震の余震であると発表されたのである。

あらためて感じたのは、このような規模の地震を前にしては、10年という時の経過など、ほとんど意味をなさないということだ。10年は確かにひと一人にとっての節目であり、過去を振り返るには少なくない意味を持つ。しかし、ひとたびそれを地球の一種の生理現象としての地震と照らし合わせたとき、私たちはわずか一瞬にも満たないかもしれない持続の渦中へといきなり引き戻される。そういえば私は先に触れた「バブル/デブリ」展で、10年を尺度に美術の動向を推し量ってきた通念に対し、元号の立場から疑問を投げかけ、30年あまりに及んだ平成年間を災害が多発した時期と規定し、そのような時代にどのような美術がありえたのかについて、アーティストらによる集合的活動(バブル/デブリ)を目安に展覧会の全体を組み立てる試みをしたのだった。

むろん、地球的な規模の時を前にして、30年が10年に対してどれほど有意な差があるのかはおぼつかない。しかしそれでも、西暦という機械的・制度的に流れていくだけの時間に対し、一人の天皇という有限な生命によって育まれる元号による一世(世は古くより30年を意味する)が、より人の命に身近な時の実感をわずかでももたらしてくれるのではないか、そういう淡い期待があったのも事実である。

だがしかし、それゆえにこの展覧会は元号という非世界性のなかにみずからを閉ざし、外部を欠いている、という批判があるのも承知している。グローバリズムと呼ばれるちょうど平成が始まった年に東西ベルリンの壁が崩壊し、アメリカ型のイデオロギー、すなわち自由主義、民主主義、資本主義が世界を覆い尽くすことで一気に加速した世界的な標準が際限なく押し進められた結果、私たちの住む地球には、人類の生存そのものが持続していくのに支障をきたすほどの気候変動が見られるようになった。また他方で目に見えないほど小さくどこにでも入り込む新型コロナウイルスが、まさしく資本主義を超えてグローバルに拡散するようになり、その爆発的な感染力によって、やはり人類の活動を著しく制限している。このような時代のなかにあって、世界的な外部性に優位性ばかりを見る視点は、いま一度振り返られるべきだろう。そして逆に、ひとりひとりの人間が具体的な「体温」を持って暮らす有限の命であることを、人の生により近い場所で実感し、その喜びと危機感のなかから、私たちの美術を自立した個人の表現である以前に、肩を寄せ合い困難にあたるような集合的な営みとして捉え返す視点が、やはり必要なのではないかと感じるようになった。

これは展覧会を企画した時点ではそこまで強く感じていたことではなかったけれども、具体的な展覧会をきっかけに私なりの観点から平成年間の年表を作り上げ、その年表が会場で結実した16メートルに及ぶ「平成の壁」を、その前をみずからの歩幅でゆっくりと通り過ぎながら、読むのではなく眺め、体感するうち、しだいにはっきりとした輪郭を持って立ち上がってくるようになった。そして、この「体感」をもっとも端的に示すのが、この年表で1999年の位置に書き付けられている「時代の体温 ART/DOMESTIC」という展覧会の名称なのではないか。そう思うようになったのだ(参考:本連載第29回および筆者企画による2013年の関連展)。

「時代の体温 ART/DOMESTIC」は、のちに日本で数少ないインディペンデント・キュレーターを自称するようになる故・東谷隆司が、学芸員として世田谷美術館に在籍した時代に企画した唯一の展覧会である。私はこの展覧会の内容について当人から知らされたとき、なによりその展覧会の名称に気を引かれた。そしてまずそれは「時代の体温」と「ART/DOMESTIC」が同格として扱われていることにあった。世界がますますグローバルな様相を呈し、人の体温から遠くへ、より離れて加速度的に流通するようになり始めていた時期に、東谷はあえて「体温」という内発的で密着する距離の無さの内部でしか発現しない言葉をみずからの展覧会のタイトルに据えた。そして、それが「ART」がグロ―バルであるよりもむしろ「DOMESTIC」であることについての重要な意義と考えたのだ。つまり、この場合のドメスティックとは、一見して誰もが感じるグローバルな時代に逆行する価値観ではなく、いわば体温を感じさせる、言い換えればごく身近な距離のなかで美術を考える、ということでもあったはずなのだ。奇しくも、グローバリズムの副作用が大規模な気候変動や新型コロナウイルスの蔓延のような未曾有の人類的危機へと変貌しつつある現在、後者での感染の目安がグローバルな距離とは程遠い「体温」を通じて推し量られるように、いままさに「体温」は「時代の」キーワードになっている。それに伴い、世界はまさに、平成の副作用や最大規模で不可測な「余震」を通じて、誰もが「時代の体温」を絶え間なく測り続けなければならない時期に突入している。その意味では、「バブル/デブリ」展は、私自身が1999年から2000年への移ろいのなかで企画・監修した「日本ゼロ年」展(水戸芸術館)よりも、むしろその同じ年の初頭に東谷によって企画された「時代の体温 ART/DOMESTIC」の、令和という時代における別のかたちの変奏でさえあるかもしれない。

ところで、まだウェブサイトが今ほど盛んでなかった時代に、その痕跡としてわずかに残る同展の主旨について、東谷は次のように書いている。

これは同時代の国内(DOMESTIC)のARTの展覧会です。
この企画展の出品者は自分たちの環境や日常を外から眺めるのではなく、そのただなかから何かをつくり続けています。同時代の人々が等しく抱く素朴な感情を絵画/彫刻にたくす奈良美智、身近な素材をもちいて内なる衝動を行為にかえる多田正美、家庭にありふれたもので日常生活にひそむ違和感をあらわにする東恩納裕一、概念や時流に惑わされず同じモチーフを描き長く静かに衝動を燃やし続ける田中敦子、我々の社会や心の陰部を描きこむ漫画家・根本敬、映画作家・大木裕之は身のまわりの人々/風景に愛と欲望をもって迫り、大竹伸朗は、ポップスやカラオケ等我々をとりまく雑然とした文化を消化し視覚化/聴覚化します。彼らは共通して理屈よりも自らの衝動や、ものの手触りを大事にし、気負うことはありません。その表現がはらむ熱、それをこの時代の体温として感じとってみたいと思います。「身近(DOMESTIC)」な場所としての日本のART。これは、この時代を生き抜く「私たち」の展覧会です。

世田谷美術館ウェブサイトより)

ドメスティックであることは、ここでグローバルの反意語として、その価値を逆に「身近」なものとして、距離を取れば取るほど失われる一種の「熱」として提示されている。それはのちに平成の後半になればなるほど急速にはびこることになるナショナルという言葉の響きともまったく違っている。その点では、ナショナルとはむしろグローバルとこそ相性がいい。世界がグローバル化すればするほど、そのことで「時代の体温」とともに生きる術を削がれ、信じるに足る「身近」を失った者たちは、家族や友人から離れて孤立し、ネットを頼りに抽象的なナショナリズムへと依存するようになる。しかし、実はそのように記号化してバラバラとなった孤立する繋がりを絶たれた人間の群れこそ、資本主義にとってもっとも扱いやすい利益のための材料なのだ。だから、まちがっても混同してはならない、ナショナルとドメスティックを日本的というだけで一緒に考えないことだ。そうではない。むしろドメスティックであることこそが、グローバル=ナショナルであることへの数少ない抵抗手段なのである。

話を戻せば、私は自分でも意外であったそのような「時代の体温 ART/DOMESTIC」という概念の再浮上とともに、東日本大震災から 10年にあたる日を迎えようとしていた。2月13日の夜に突如として福島県沖で発生した東北地方太平洋沖地震の「余震」は、そのような意味で、あれから十年を経ても依然として私たちが棲む日本列島の「体温」が下がっておらず、それどころか、いつ、どこで繰り返される大きな被災をしてもおかしくない、そのような場所に「身近」にいることを強く感じさせた。コロナ禍で海外への移動の大幅な制限を余儀なくされ、どこへいくにもマスクを着用するようになった私たちの、そのような状況に固有のドメスティックな体温感のなかから――決してグローバルな抽象性に呑み込まれることなく――私たちの時代の美術を組み立てること。それこそが、いま真に考えるに値する美術であるように感じられたのである。

その意味で、2月13日の余震のあとで、まだ地震の余韻が覚めよらぬなか、2月16日に常磐線で向かったいわき市でのある美術展の審査体験は、私にそのようなドメスティックな美術についての具体的な触感を与えてくれた。今年で記念すべき第50回を迎えるいわき市民美術展覧会のうち「絵画・彫塑」の部を審査することを依頼され、翌17日は午前から会場となるいわき市立美術館へと足を運ぶことになったのだ。いわき市内は地震の被害が目に見えてあるわけでなく、美術館も私が帰ったあとで一部ガス管に地震の影響による不具合が見つかり、臨時の休館をごく短期的に余儀なくされたが、それに先立つ審査と展示自体は滞りなく進められた。もっとも、第50回という大きな節目にもかかわらず、賑やかな式典や表彰式に参加することは叶わず、審査当日も感染症拡大予防のため、人と人とのあいだを十分にとって進められ、恒例の打ち上げなどもなかった。しかしそれでも、私はこのような展覧会のなかでこそ、「時代の体温」と呼べるものに確かに触れた気がしたし、ドメスティックな美術へのこれまでになかった関心を肌で感じるようになっている自分に気がついたのである。

 


第50回いわき市民美術展覧会「絵画・彫塑の部」いわき市長賞
松憲「夏井川、平橋と平二小、平二中」2021年、油彩、板、45.6×55㎝

 

 
左:第50回いわき市民美術展覧会「絵画・彫塑の部」いわき市議会議長賞
渡辺良春「追想(縄文)」2021年、油彩、カンヴァス、162.1×130.3㎝
右:同教育長賞 久家浩子「2020 晩秋―朝顔」2020年、油彩、カンヴァス、91×72.8㎝

 

その後、私は同じ2月の末、26日から27日にかけて今年になって二度目の福島県入りをした。これは現在、水戸芸術館で開催中の「3.11とアーティスト : 10年目の想像」展 にも出品作家として参加している帰還困難区域での国際現代美術展のプロジェクト「Don’t Follow the Wind」による定期的なリサーチの一貫であった。とりわけ今回は、私自身メンバーの一員として属し、水戸での展覧会でも記録を再編集した展示を見せている「グランギニョル未来」が作品を設置している帰還困難区域の一角にある会場の展示物の追加とメンテナンス、そして記録が主な目的であった。

 


「3.11とアーティスト:10年目の想像」展 会場風景、2021年、水戸芸術館現代美術ギャラリー
奥:グランギニョル未来「グランギニョル未来2020」2020年 手前:宮永愛子「留め石」2015/2020年
撮影:根本譲 写真提供:水戸芸術館現代美術センター Courtesy of Don’t Follow the Wind and Mizuma Art Gallery

 

その際に私が個人的に展示物に追加したのが、「バブル/デブリ」展にも参加している「國府理「水中エンジン」再制作プロジェクト」が、新たに立ち上げた「「水中エンジン」再稼働用備蓄水の配布」にまつわる水である。このプロジェクトについては、極めて複雑な経緯を辿っているために、ここで要約的に書き綴るのは難しい。詳細について関心のある方はぜひ同プロジェクトのドキュメントを確認してほしい。また私自身、この連載のなかでこのプロジェクトについて取り上げたことがある(第69回)。もとは2014年の展覧会において展示点検作業中に起きた國府理の不慮の事故死に端を発し、作家自身も残された指示書も存在しないなかで集った有志たちが、「水中エンジン」という稀有にして実現が困難な作品(?)を「再制作」するために(その是非を問うことも含めて)生まれる様々な試行錯誤を積み重ねていくプロジェクトである。そのかれらが「バブル/デブリ」展の開催期間中に、今から10年後の2031年に現在地中に埋められている「3号機エンジン」を再稼働するために必要となる水を備蓄水(500ml入りペットボトル×1500本で「水中エンジン」を稼働するための水=750lとなる)として配布することになった(詳細はウェブサイト「國府理 水中エンジン redux」参照)。

 


「水中エンジン」再稼働用備蓄水 撮影:Tomas Svab 写真提供:國府理「水中エンジン」再制作プロジェクト 備蓄水配布の詳細はこちらを参照。なおパッケージデザイン(中家寿之による)も國府のプロジェクト「CO2 Cube」(2004年)を踏襲したという。

 

上記のサイトにあるように、この水は、東日本大震災から10年を経たのちの3月14日から京都市京セラ美術館の特設ミュージアムショップで配布され、「再稼働」を再開する2031年5月4日に同じ京都の平安神宮前、岡崎公園で回収されることになっている。備蓄水の賞味期限は5年間だから、その間に万が一所持者が災害などで被災し、水が必要になった場合には、飲用などに利用することができる。ただしその場合、空になったペットボトルに水道水を詰め直して、2031年の回収に備えるよう添え書きがされている。

私は本当は帰還困難区域のなかのグランギニョル未来の展示会場にこのプロジェクトのための備蓄水を加えたかったのだが、3月11日に間に合わなかったため、帰還困難区域外で営業しているコンビニエンス・ストアでペットボトル入りの水を購入し、代用的に設置した。正式に配布されている備蓄水とは異なるが、事前にプロジェクトのメンバーに打診をし、その水はいまも帰還困難区域のなかでひっそりと無人のまま保管されている。2月26日の入域では、作業中にも余震が感じられ、また2月13日の地震により、付近は大きな揺れに見舞われたものと思われる。実際にその影響も具体的に観察することができた。もしも入域中に大きな災害に見舞われた場合には、その備蓄水がなにかの役に立つかもしれない。いずれにしても、この未来における「水中エンジン」再稼働のための備蓄水は、帰還困難区域の封鎖が解除されたのちに公開されるという未来に加え、2031年に「水中エンジン」が再稼働される際に用いられるかもしれない水という、どちらが先に訪れるかわからない二重の未来を抱え込んだことになる。

さて、このような紆余曲折を経て、私は肝心の3月11日、午後2時46分をどこで迎えたか。実はその日、私は帰還困難区域にほど近い福島県富岡町に位置する、ある男性の旧宅跡地にいた。そしてその持ち主は、私たちのグランギニョル未来が帰還困難区域のなかに会場を設けることができるきっかけを作ってくださった方なのである。その方の旧宅が震災後いよいよ取り壊され、空き地となった土地で、その方はその地に概念的な美術館を東日本大震災から10年を経過する3月11日の午後2時46分に開館することを思い立った。名付けてMOCAF(Museum Of Contemporary Art Fukushima)――館長がアート・ディレクターの緑川雄太郎(企画も担当)、副館長がローカル・アクティビストの小松理虔という県内出身者による布陣で、その方と呼んだ持ち主の小貫和洋はMOCAFのチェアマンでもある。そしてここに、いわきの画家であり先に触れたいわき市民美術展の運営の牽引者でもある画家、峰丘が特別顧問として加わっている。さらに言えば私たちが小貫と知り合うことができたのは、この峰丘の紹介による。そういう意味では、いわき市立美術館とこのMOCAFは震災をめぐり身近な行動や実行のための熱量と「時代の体温」を共有していると言うこともできるだろう。

 


MOCAF(Museum Of Contemporary Art Fukushima)、2021年3月11日、福島県双葉郡富岡町 写真提供:MOCAF

 

このMOCAFは実際には自作の白い回転扉からなるもので、午後2時46分に黙祷のあとテープカットで開館し、同日16時には「閉館」のうえ解体され、敷地内で一部を燃された。始まりが終わりでもある、その意味で回転扉のように終わりが始まりにもなる循環を繰り返すこの奇妙な美術館の開館セレモニーは、ほぼ同時にその美術館の火葬でもあるのだが、この式典には私のほかにもDon’t Follow the Windの発案者であるChim ↑Pomから卯城竜太や参加作家の竹内公太、さらに同展のキュレーターである窪田研二、ほかに毒山凡太朗、加藤翼、そして会田誠らも立ち会った。それにしてもなぜ、このような奇抜な着想がアーティストでもない小貫のなかから出てきたのだろう。聞けば小貫は日本でも有数の災害文学の古典、鴨長明『方丈記』から着想し、災害から逃れひとり思索を巡らす場としてのごく小さな庵=方丈庵から最初のインスピレーションを得て、それを館長の緑川に伝え、何度もキャッチボールするなかで実現へと向かっていったと言う。奇しくもそこには、同じ鴨長明『方丈記』の書き出しにあるあまりにも有名な「うたかた」から最初の想を得た「バブル/デブリ」展にもつながるところがあったのだ。

 


「三凾座」跡地、2021年3月12日、福島県いわき市 撮影:筆者

 

方丈と言えば、翌3月12日、私は同じいわき市の湯本を訪ねた。思えば私と福島との繋がりは、この湯本に東日本大震災当初、まだその形を留めていた三凾座というかつての炭鉱町の歓楽街ならではの興行屋敷、言い換えれば夢の方丈との関わりから生まれたのだった(本連載第39回) 。その日私はいま一度ここまで書いてきた東日本大震災と私との最初の原点であり具体的な体温を感じらえる場所である三凾座の跡地を確かめにその場所に向かった。三凾座はすでに取り壊されて久しく、ただ空き地は空き地のままで、その一部に建物の基礎をのぞかせるだけとなっていた。だが、建物は去ってもそこが私の原点であることに変わりはない。「國府理「水中エンジン」再制作プロジェクト」がそうであるように、また帰還困難区域のなかのグランギニョル未来の活動がそうであるように、そして喪失と誕生が同時に起きるMOCAFがそうであるように、私たちは常に私たちが棲み暮らすこの場で息をし、身近に身を寄せ合い、たがいの体温を感じながら、失われたものとの繋がりを回復しようとしている。死者はその典型だろう。死者は記憶において私たちにいつも近く、だが無限に遠い。その体温は失われて久しい。だが、「時代の体温」として、それは長く残り続ける。その熱量をもう一度「ART/DOMESTIC」として見出すことはできないか。そのことをいま私は強く願う。

 


筆者近況:企画・監修を務めた「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989–2019」展(京都市京セラ美術館 新館「東山キューブ」、2021年1月23日~4月11日)が開催中。また同展カタログが世界思想社より発売中。

 

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