椹木野衣 美術と時評89:砂守勝巳 – 風景が黙示する(1)

連載目次

 


砂守勝巳「雲仙、長崎」(1993-95年)より © Katsumi Sunamori Photography Office

 

2019年6月2日の昼前、長崎空港に降り立った私たちは、そこから車で南下して島原半島へと向かっていた。島原地方に向かうのは初めてのこと。目的地は有明海に面した雲仙岳の周辺だ。この地は1991年6月3日午後4時8分に発生した大火砕流により死者40名、行方不明者3名の犠牲者と多大な住区被害を出したことで知られている。この大火砕流をもたらした雲仙・普賢岳の噴火活動は、89年に島原半島の西にあたり海底の直下にマグマだまりを持つ橘湾を震源とする前兆的な地震を経て、90年の11月17日から始まり、91年の5月からは普賢岳最寄りの山腹からマグマを噴出し始め、同24日には最初の火砕流も起きていた。だが、世界で有数の火山地帯である日本列島にあってさえ、ひとりの人間が一生涯のあいだでこれだけの規模の火活動を目の当たりにするのは稀なことで、火山の恐ろしさがしっかりと伝えられていたとは言い難かった。今でこそ火砕流の速度はゆうに時速200キロに達し、火砕サージ(高熱のガスと火山灰が高速で流動する現象)の内部温度はときに1000度にも及ぶことがわかっている。しかも、普賢岳の火砕流での最長到達距離は崩落した溶岩ドームから遥か、最長5.5キロまで届いている。気づいてから逃げたのでは到底助からない。

 


雲仙・普賢岳「定点」 撮影:筆者(以降すべて)

 

にもかかわらず、その時分、火砕流は姿勢を低くしてやり過ごせば助かるとの説がまかり通っており、命を守る行動よりも競争的な報道が優先され、実際、犠牲者のうち火砕流に飲み込まれた者の多くがマスメディアで仕事をする報道関係者(うち16名が火砕流に遭遇)であった。この最大の悲劇の場所は当時、関係者がそろってカメラを据えるなどしていたことから「定点」(「正面」とも)と呼ばれたが、現在では慰霊の地として白い三角錐が立てられ、大規模火砕流が発生した6月3日の午後4時8分には毎年、追悼の式典が行われている。島原では同日は「いのりの日」と呼ばれ、雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼之碑が設置された仁田団地第一公園には献花所が設置され、サイレンを合図に街をあげて黙祷、半旗とする営みが続けられている。また同日には災害の記憶を後世に伝えるため、有明海に面し平成新山を望む「がまだすドーム(雲仙岳災害記念館)」では地元の高校生たちによるコンサートや、小学生の手で思い思いに絵付けされた千本のキャンドルを灯す点灯式が広場で催されている。

 


建物の基礎だけが残された北上木場農業研修所跡。写真奥に見えるのは慰霊の鐘

 


「いのりの灯(ともしび)」会場風景。夜には犠牲者を追悼するキャンドルが灯る

 

島原に着いた翌日にあたる6月3日には、私たちも定点や仁田団地第一公園、がまだすドームでの追悼式典の場に足を運び、同時刻には黙祷を捧げたが、前もって訪ねた「定点」から300メートルほど下った場所には、火砕流に飲まれて多くの犠牲者を出した当時の消防団の詰め所であった北上木場農業研修所跡の建物の基礎部分と、火砕サージに急襲されて焼けただれた消防車やパトカーの残骸が保存されていた。同地ではほかにも災害遺構が随所で残されており、土石流被災家屋保存公園には噴火中にたびたび起きた土石流で埋没した家屋の一部を移設し、11棟を敷地内(屋外8棟、屋内3棟)に展示している。同時に園内には道の駅も設けられ、観光と伝承の両立を図っており(被災家屋を災害の「遺構」として残す事例としては、他にも2004年の新潟県中越地震による水没家屋を保存する新潟県旧山古志村〔現長岡市山古志地区〕の取り組みなどがある)、東日本大震災(以下、東の大震災)でもたびたび議論の対象となった、災害遺構を残すべきか(記憶を伝える)/残すべきでないか(トラウマを引きずらない)、という難しい問題を考える上で参照すべき前例となっている。

 


土石流被災家屋保存公園

 

このうち「定点」は普段、立ち入りができない危険地帯とされているものの、「いのりの日」だけはゲートが開かれ、一般に公開されている。実際に立ち寄ってみてわかるのは、「定点」が山腹への斜面が続くこの一帯ではカメラを据えるのにちょうどよい限られた平らな地形で、なおかつ海外から調査に入った火山学者たちが観察・撮影をしている「最前線」から数百メートル引いた地点に位置していたため、安全であると判断されていたという誤った体感である。このことから、現地入りしていた火山学者たち、とりわけ落命を恐れずに噴火現場へと接近して記録・撮影することで知られるフランスの火山学者、モーリス・クラフト、カティア・クラフト夫妻は、報道陣へ危険の周知をしなかったことでのちに非難されたと聞いているが、そもそもモーリスは、イタリアを代表する火山であるストロンボリで、間欠的に発生する噴火を記録するため、噴火が静まった間を見計らって火口に飛び込み、次の噴火の直前(7分前)に運良く脱出して成果を得るような人物で、日頃から「火山で死ねたらどんなにいいだろうか」と夫婦で夢見がちに語り合うような「クレイジー」な学者だった。取材する側も彼らがどんな研究者なのか前もってコミュニケーションをとり、そのあたりのことをきちんと下調べをしておくべきだったと言えるかもしれない。

だが、そんな強運に支えられた夫妻も実際には命を落としたのであって、噴火現場の至近距離での危険回避がいかに難しいかを如実に物語ってもいる。私がこの火山学者、というよりもアウトサイダー・アーティストとも考えられる夫妻について初めて知ったのは、北海道、昭和新山の麓に建つ三松正夫記念館への訪問を通じてのことだった。三松は在野の火山学者で、戦中において唯一と言ってよい昭和新山の噴火活動記録とそれを描いた日本画を多く残し、同じく日本列島の火山を主題に描いたことで知られる日本画家、片岡球子に絶大な影響を与えた。その三松の記念館で、私はクラフト夫妻もこの地を訪ねていたことを知った。三松やクラフト夫妻については『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎、2015年)でも一章を設けて書いたのでここではこれ以上触れないが、このときの経験から私はいつか、雲仙岳に行ってみたいと思うようになり、それが今回の旅を思い立つ最初のきっかけとなっている。

しかしこの旅はなかなか実現できず、ようやくそれを思い立つことができたのは、雲仙岳の被災地を継続的に撮りためていた写真家が存在することを、ある偶然の出会いを通じて知ったからである。雲仙岳の被災地をめぐる写真は、大火砕流の直後の様子を伝える報道による撮影や、公共の機関が残した記録的なものは比較的残されているが、ひとりの写真家が島原の被災地を継続的に撮りためたというものを私はほかに知らない。まだ1995年の阪神淡路大震災(西の大震災)も、2011年の東の大震災も起こる前のことで、被災地の写真そのものが珍しかった時期のことになる。いまでこそ、そのようなものは数多くあり、とりわけ東の大震災では、多くの名のある写真家たちが自分の作品の撮影のため、軒並み被災地入りしている。だが、普賢岳の平成大噴火では、そのような考え方自体がまだ広く認識されていなかったし、被災地の写真をわざわざ自分の表現のために部外者が撮ることに対し、大きなためらいがあったのも事実である。そんななか、この写真家はまだ火砕流や土石流の危険が続く災害の渦中で、なぜ、そこまでして雲仙岳の被災地を撮り続けたのだろう。しかも、あの「定点」の近くで亡くなった報道関係者のなかには、その頃に一世を風靡した写真週刊誌にショッキングな現場写真を提供するフリーランスのカメラマンもいた。今回の連載で取り上げる写真家、砂守勝巳も、もしかしたらそのひとりになっていたかもしれない人物であった。

しかしその前に、平成元年から前兆活動を開始した雲仙岳をめぐる一連の噴火活動、いわゆる平成大噴火についての概要をもう少し詳しく伝えておく必要がある。この平成の大噴火活動は大きく分けて二期にわたっている。具体的には、溶岩ドーム(そもそもこの名称自体が1988年に開場した話題の「東京ドーム」と形状が似ていることからそう呼ばれるようになったと現地では今も語られている)の形成をともなう二度の大規模な溶岩噴出期に分かれ、最終的に95年の2月に溶岩の噴出停止が確認されるまで、噴火活動の全容は4年半にも及んでいる(最終的な終息宣言は96年6月)。このうち第一期にあたり多くの犠牲者を出した91年6月3日の大火砕流が劇的に伝えられたため、人によって大規模な被災はただ一回と誤解していることがあるが、実際には第二期にあたる93年6月にも大きな火砕流が発生し、これにより1名の犠牲者を出している。さらにこの間、雨が降るたびに降り積もった火山灰が一気に流下する土石流となり、水無川に沿って、その道筋にあった住区や建物を繰り返し襲っていた。

雲仙岳の平成大噴火は、このように複合的で長期にわたる歴史的にも稀な大規模自然災害であった。私たちを案内してくれた語り部代表の長谷川重雄さんはこの災害で2名の消防団の後輩を失い、ご自身も場所を変えて6年に及ぶ避難生活を余儀なくされていた。大地震や大津波が何年にもわたって同じ場所で繰り返されることはないが、火山の噴火災害はそれらとはだいぶ様相が違っている。驚いたことに、この期間に発生した火砕流の回数は実に9432回を数え、建物被害は2511棟にも及んだが、結果的に普賢岳を抜いて雲仙岳系の最高峰となった平成新山(1483メートル、天然記念物)と呼ばれる溶岩ドームは、現在も安定した状態にあるとはいえず、地震や豪雨により大崩落の危険性があり、仮にそうなった場合、日本一広いドーム球場であるヤフオクドームに換算して約53杯分(1億立方メートル)の岩の塊が崩壊し、最大時速約70キロで有明海までわずか7分で到達するとされている。周囲は今なお立ち入りを厳しく制限された「警戒区域」に指定されていて、先に触れた「定点」のあたりもそうだが、国土交通省による監視がずっと続けられている。その拠点となるのは大野木場砂防みらい館で、ここにも火砕流で大規模被災し、廃墟となった旧大野木場小学校校舎が当時のまま保存され、災害遺構として一般公開(内部は非公開)されている。

 


噴火による熱風に襲われた旧大野木場小学校校舎。災害遺構として保存されている

 

知ったようなことを延々と書いているが、私自身、雲仙岳の平成新山(溶岩ドーム)が噴火から30年あまりを経て、元号も平成から令和に変わってなお、このような危険な状況にあることについて、現地に足を運ぶまでまったく知るよしもなかった。また、ものものしく「警戒区域」と呼ばれ、簡単には人が立ち入れなくなった領域が国土に姿を現したのは、東の大震災で東京電力福島第一原子力発電所が過酷事故となり、大規模な放射性物質を拡散したことで名付けられたのが最初だと信じて疑わない程度の知識しかなかった。火山からの噴出物で見渡す限りを埋め尽くされ、住むことができなくなった地域に最大で6メートルにも及ぶかさ上げを施し、土石流から守るための砂防ダムを維持し続け、住区として復興させたのも、警戒区域内で人が立ち入れないため独自に発達した無人化施工技術にしても、その後、東の大震災からの復旧・復興のため、東北の三陸地方などからの行政の視察を受け入れ、実際に被災地で応用された先駆的な事例であったことも、まったく知らなかった。そう考えてみたとき、雲仙岳の大噴火災害は、いわばその後に続く平成という災害の時代を象徴し、それに先駆け、現在にまで至る自然災害の多発をあらかじめ告げるような予兆であったことが、ようやくわかった気がした。

実際、雲仙岳の噴火活動の前兆がちょうど平成元年から始まったことに表されているように、平成という年間は昭和の後期とは対照的に、著しく自然災害が多発した時期に当たっている。被害の規模から1995年の1月に起きた西の大震災の記憶が強く残り、それ以前の災害が霞んでいるきらいがないではないが、ほかでもない平成元年に始まる雲仙岳の噴火活動、平成2年の同地での大規模火砕流の発生ののちも、平成5年(1993年)7月には日本海では極めて珍しい規模の北海道南西沖地震が発生、死者202名、行方不明者28名の犠牲者を数え、震源に近い奥尻島では巨大津波が沿岸部を襲い集落が壊滅、人口の4パーセントにあたる198名が犠牲になっている。また同じ年には夏季の記録的な日照不足で東北の米どころを歴史的と言ってよい不作が襲い、東日本を中心に国産米の供給が途絶え、急遽、海外から外来の米を輸入して食料不足をしのぐという、江戸時代であれば「大飢饉」に発展したであろう災害が起きている。

砂守が雲仙岳の被災地の撮影のために初めて現地に入ったのは、このような時期にあたっていた。しかも、砂守が島原で撮りためた成果を個展を通じて発表するに至った1995年8月は、新年早々の1月に西で大震災が起こり、そのわずか2か月後には首都東京の地下鉄車内で早朝、化学兵器のサリンが撒かれ多くの死傷者が出るという過去に例を見ない事件で騒然とした時期でもあった。個展は「黙示の町」と題され、東京では8月29日から9月4日まで銀座ニコンサロンで、その後、関西では11月2日から14日にかけて大阪ニコンサロンへ巡回するかたちで開かれた。写真は合計で103点が全紙サイズのプリント(457mm×560mm)で展示されたが、このようななか、東京でさえわずか一週間あまりの展示で、いったいどれだけの人の目に砂守の写真が留まったかは定かではない。

もっとも、砂守が島原入りしたのは大火砕流から2年が経過しようとしていた93年の5月で、きっかけは雑誌『晨(あした)』(ぎょうせい)での撮影の仕事であった。雲仙岳はこの年の2月から二度目の活発な溶岩噴出を始めたところで、島原の街がふたたび火砕流や土石流で苦しめられ始めた時期にあたっている。だが、その時に砂守が被災地で見た風景は彼の心を捉え、その後、仕事とは関係なく、個人的に繰り返し通って撮影を続けることになる。逆に言えば、砂守はそれからさらに2年の時を経た95年の個展よりももっと早く、その成果を世に問うこともできたはずだ。それが歴史的にも稀な「悪い年」の発表までずれ込んだのは、どうしてなのだろう。もちろん、それだけ困難な撮影であったということは想像できる。だが同時に、西の大震災の惨禍が彼に雲仙岳の被災地をめぐる写真の発表を急がせた、とは考えられないだろうか。あるいは、雲仙岳による溶岩噴出の停止が確認されたのは95年2月のことなので、そのことを確かめてから発表の段取りを組んだ可能性もある。被災地の写真を公的な場所で個人の名を冠して発表するような前例はまだなかったから、被災者の心境を慮ったのかもしれない。しかし皮肉なことに、この2月の溶岩噴出の停止は、西の大震災が起きた翌月のことでもあった。砂守の心中に、島原の噴火がようやく収まったことへの安堵の念と、起きてまもない西の大震災とが脳裏で交錯していたであろうことは想像に難くない。

いずれにせよ、このような時期を経て、砂守の「黙示の町」は雲仙岳の噴火と同様、人々の記憶からしだいに消えていった。事実、「黙示の町」は写真集にもなっていない。そして砂守と言えば第一に、唯一の本格的な写真集で土門拳賞を受賞した『漂う島とまる水』の写真家、すなわち沖縄と奄美、フィリピンとのあいだでアイデンティティを危うくしつつさまよう写真家として、あるいは基地の島、沖縄の矛盾をそこに生きる人々を通じて描いた『オキナワン・シャウト』の写真家として、さらには大阪の釜ヶ崎に住み込みながらその様態を長く捉えた『カマ・ティダ 大阪西成』の写真家として知られている。むろん、それはそれでまちがっているわけではない。しかし砂守はその後、ガンを患い、2009年にわずか57歳で他界してしまう。だから、本当のところなぜ砂守がそこまでして雲仙の被災地にこだわったのかについては、もう本人に聞くことはできない。また、砂守もこのことについてなにかを書き残しているわけではない。本論はだから、ほとんど偶然としか言いようがないかたちで遭遇することになった私と砂守との出会いを通じて、そのことの意味を批評的に再考しようとする試みである。(次回に続く)

 


 

主要参考文献
・砂守勝巳『カマ・ティダ 大阪西成』アイピーシー、1989年
・砂守勝巳『オキナワン・シャウト』筑摩書房、1992年
・砂守勝巳『漂う島とまる水』クレオ、1995年
・砂守勝巳『オキナワ紀聞』双葉社、1998年
・砂守勝巳『スキャンダルはお好き?』毎日新聞社、1999年
・砂守勝巳『沖縄ストーリーズ』ソニー・マガジンズ、2006年
・大島洋「写真集レビュー 砂守勝巳『漂う島とまる水』(クレオ)」、『ネットワーク・ミュージアム&マガジン・プロジェクト』1998年4月15日号、美術館メディア研究会編、大日本印刷
・『毎日グラフ別冊 ドキュメント 雲仙・普賢岳 全記録』毎日新聞社、1992年
・『広報 しまばら 雲仙・普賢岳噴火災害特集号』島原市、1992年
・『水と緑ゆたかなふるさとの復興を目指して 2001年事業概要』国土交通省雲仙復興工事事務所、2001年
『島原大変 寛政四年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊』国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所、2003年
・白石一郎『島原大変』文春文庫、2007年(初版1985年)
・遠藤周作『沈黙』新潮社、1966年
・砂守かずら「雲仙・普賢岳災害写真から読み解く砂守勝巳のリアリズム」(私家版)、2019年
・砂守かずら「写真家砂守勝巳が見つめた釜ヶ崎の太陽」(私家版)、2020年

付記:なお砂守勝巳の著作については単行本からの文庫化などに際してタイトルも含め大幅な加筆・改稿などがなされているので注意されたい。これは砂守の文筆の特徴でもあり、未発表のものも含め砂守は文章を手元に残して亡くなるまで修正を続けていたという。これは写真家の書く文章のスタイルとして非常に珍しいことではないだろうか。砂守勝巳という人物を捉えるうえで重要な観点を提供するように思われる。

 


筆者近況:ゲスト・キュレーターを務めた「砂守勝巳 黙視する風景」展が原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)で2020年2月22日から4月5日まで開催。初日の午後2時より同館企画展示室で著者と砂守かずら(モデル、エッセイスト)による対談あり。なお砂守については「砂守勝巳写真展 CONTACT ZONE」も開催予定。ニコンプラザ新宿 THE GALLERY 1(2020年3月31日〜4月13日)、ニコンプラザ大阪 THE GALLERY(同4月23日〜5月2日)。

 

Copyrighted Image