だらしない機関のために──Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎


展示風景「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」東京オペラシティアートギャラリー、東京、2023年、写真:顧剣亨 © Taro Izumi, 2023

 

だらしない機関のために──Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎
文 / 飯岡陸+白尾芽

 

展示物たちはついに意を決し、仮病を使うことに決めた。互いに話し合い、故障や倒壊を演出し、一斉に病気を装うことにした。そしてクッションのうえでダラダラし、仮設のリゾート地で思う存分リラックスして過ごすのだ。かくして鑑賞者は元-作品群に占領された空間で、幽霊のように身を隠すことを求められ、自ら建てたテントのなかでひたすらに無為な時間を過ごすことになる……。

「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」に訪れた鑑賞者は、まずロッカーからマントを取り出して着用するように促される。マントはホワイトキューブの壁を模したものであるらしい。前半の展示室では、スクリーンは倒され、プロジェクターはスイッチが切れたまま床に置かれている──そして展示物もまた横たわり、各々に「仮病」を装わされている。後半の展示室に移動すると、支柱と重しとなる水の入ったペットボトルが用意されており、マントを裏返して小さなテントを建てることを指示される。テントのなかで順番待ちをした後に──同時に1名しか見られないので順番待ちが発生し、多くの来場者は鑑賞しないまま帰路につくだろう──前半の展示室の奥に建てられた半球の構造体の内部で、VR映像を通して石室の空間を体験する。

この奇妙な展覧会を、その思考を引き受けながら、どのように考えることができるだろうか?本稿では、本展をこれまでの泉の実践のなかに位置づけながら、その輪郭を素描してみたい。

 


展示風景「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」東京オペラシティアートギャラリー、東京、2023年、写真:表恒匡 © Taro Izumi, 2023

 

作品の代わりにテキパキと働いているのが、美術館スタッフたちである。彼女/彼らは、鑑賞者がマントを着るのを手伝ったり、誘導したり、テントを片付けたり、番号を読み上げたり、VRを見るために寝そべる際にサポートしてくれたりする。勤勉さやホスピタリティを存分に発揮し、展覧会をできるだけスムーズに運用するべく動いているのだ。しかしその姿と対照的なのが、冒頭に鑑賞者が聞かされる指示とそれに曖昧に反応するウィスパー(やりたくないなあ〜……)、ぐにゃぐにゃに曲がった結界、壁にチョークで書かれた不明瞭でまぬけな指示の文字、昼寝をする監視カメラなど、むしろルールに従わないことを推奨するような設えの数々である。ここでは作品の保全および来場者への円滑な案内・誘導のための美術館の規則と、そこからの逸脱を推奨する作品内の指示は両立することがなく、互いに阻害し合っている[1]

そのうえで会場で目にしたのは、スタッフたちが明文化された美術館の規則とそこからの逸脱を独自に解釈し、多くの鑑賞者もまたそれに自然に身を任せている様子である。人類学者のジェームズ・C・スコットは著書『実践 日々のアナキズム』のなかで、パリのタクシー運転手たちによる「遵法ストライキ」を紹介している。彼らは当局による規制に不満を覚えると、彼らが普段から「思慮深く、実践的に多くの交通規制を無視しているからこそ、パリの交通は循環している」ということを伝えるために、道路交通法規に書かれているすべての規則に一斉に従いはじめ、すると街の交通は機能停止に陥るという[2]

本展における人々の振る舞いは、意図せず「遵法ストライキ」と同じ結果をもたらしている。スタッフたちや来場者の身体に染みついた従順さは、この場を円滑にしすぎてしまうのだ。ときに足を止め、作品の意味に向き合う時間は、マントを着たり、テントを建てたり、ヘッドセットに拘束されながらゆっくりと寝そべったりというタスクの数々に費やされ、鑑賞者の関心は作品から目前の作業へと巧妙にずらされていく。つまり一見円滑に見えるそれは、一種の「遅延」を生み出す装置として結果的に思考停止を招いている。われわれは歓待されると同時に、手懐けられてもいるのだ(座れ、伏せ/座ってください、スフィンクス!)。

 


展示風景「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」東京オペラシティアートギャラリー、東京、2023年、写真:表恒匡 © Taro Izumi, 2023

 

美術史家のケレン・ゴールドバーグは、ティンゲリー美術館で行なわれた泉の個展「ex」(2020)のカタログに寄せた論考「時間、変容そして[ポスト]コンセプト──泉太郎の同時代性について」のなかで、泉の作品における遅延に言及している。スポーツ雑誌のグラビア写真を元に、職人との協働により既存の家具を解体し、再構成することで選手のアクロバティックな体勢を再現するための家具を制作した《Tickled in a dream… maybe?》(2017)において、パレ・ド・トーキョーの展示空間に置かれた家具は空席になっている。ゴールドバーグは「泉の作品におけるこうした展示方法は、パフォーマーを作品の現在から締め出し、鑑賞者をその過去から締め出すという二重の排除のタイミングを与えている」[3]と指摘する。「泉は作品の唯一の構想者であり、その現在の存在にはいかなる共同制作の側面も見られない。鑑賞者は行為の余韻のなかで、とっくに終わったパーティーに遅れてきた招かれざる客のようにやってくるのだ」[4]。展示室にはグラビア写真が掲載された誌面を撮影した映像と、パフォーマーが実際に家具を使用している映像が投影されている。イメージに閉じ込められたひとつの瞬間は引き伸ばされ、その時間のなかにパフォーマーが閉じ込められることで、肉体的な負荷が露呈する。作品の元となっているスポーツのフィジカルなルールはイメージのルールに取って代わられ、実体のない時間がパフォーマー、展示物、鑑賞者を隔てることで生まれた遅延が、作品の起源から鑑賞者を遠ざけるのである。

近年の泉は、350人のパフォーマーに(学芸会の端役を思い起こさせる)木を演じさせ、その森を背景に泉にスカウトされたコスプレイヤーたちが撮影会を行なう《無題候補(虹の影が見えない)》(2015)を経由して、2019年に名古屋芸術大学Art & Design Centerでの展覧会「スロースターター バイ セルフガイダンス」からパフォーマーの「動員」を半ば露悪的に作品に取り入れるようになった。そしてこの展覧会には、本展に至る思考の萌芽がはっきりと見られる。

泉は自身が客員教授を務めていた美術大学で学生を「アルバイトパフォーマー」として時間雇用し、パフォーマンスを実行させた。美術史上のパフォーマンス作品を再現する作品では、学生たちは元になった作品の情報を一切知らされず、指示書を各自で解釈することでこれらのタスクを実行した。そして鑑賞者は実際のパフォーマンスに立ち会わない限りそれらを見ることはできず、展示室にはわずかな行為の残骸と、「棒を背中や頭で支えるお仕事です」などと書かれた求人票が残っているのみである[5]。パフォーマンスの意図と指示書、指示とパフォーマーの解釈、解釈と実際の行為、行為とその痕跡、痕跡と鑑賞者のあいだに取り結ばれた関係もまた、一体これがどんなアイディアに関わる作品なのかという問いへの答えを、限りなく遅延させる装置として働いている。

 


泉太郎《Tickled in a dream…maybe?》「Pan」パレ・ド・トーキョー、パリ、2017年、写真:André Morin © Taro Izumi, 2017


左:泉太郎《無題候補(虹の影が見えない)》 「われらの時代:ポスト工業化社会の美術」金沢21世紀美術館、石川、2015年 © Taro Izumi, 2015 右:展示風景「スロースターター バイ セルフガイダンス」名古屋芸術大学アート&デザインセンター、愛知、2019年、写真:怡土鉄夫 © Taro Izumi, 2019

 

オペラシティでの展覧会に戻ろう。鑑賞者は、最終的に辿り着いた部屋でテントを設営することになる。これまでホワイトキューブの壁に擬態していたマントは裏返され、石室のなかに人間の身体を隠す。部屋には深い低音が響き渡り、どのテントに人がいるのかは一見しただけでは判別できない。しかし、展示室を埋めたテントが人間の「不在」を示していることだけは確かである。鑑賞者はスタッフたちの手によって交通整理され、作品のサボタージュを邪魔しないようにそろそろと歩き、テントに身を隠す。VR映像を通して経験するのもまた、空っぽの古墳の石室、かつて遺体があった位置である。つまり鑑賞者は不在自体に成り代わるのだ。一方、ものたちは重力に身を任せることで、だらけ、かさばり、物理的に場を占領する。ものたちの存在は人間の不在を示し、人間の不在がものの存在をより際立たせる。作品を謎として維持管理する──自らの不在を進んで打ち立て、鑑賞という行為から周到に遠ざけられることによって──のは、ほかでもないわれわれ自身なのである。

ここから、なぜ本展が皇室関係の墓所である「陵墓」と古墳の対比を着想源にしているか理解することができるだろう。陵墓はそのほかの古墳と異なり、宮内庁が厳しく管理しているために一般人が立ち入ることはできず、調査も制限されている。しかし、たとえば初代天皇である神武天皇は『日本書紀』『古事記』において神話上の人物の末裔とされ、その実在は定かではない。現在神武天皇陵として守られている再野生化した土地は、江戸時代後期の調査で史書や言い伝えを元に選定された場所であり、そこに住んでいた人々の住居や畑地、墓地があった地域である。人々は政策を通して懐柔させられ、別の土地に移住することになった。展示室の床に置かれた外池昇『事典 陵墓参考地』が示すように、どの人物が眠っているのか不確かなまま厳重に管理される陵墓参考地もまた、日本全国に存在している。泉が展覧会として作り上げようとしているのは、このような人々による維持管理、物理的な占領によって不在を支える機関なのだ。こうした態度は、会場内を占拠するオブジェクト群の制作過程にも現れている。

「たとえば、ある事柄を一度言葉にして、その言葉を今度は彫刻や音や色に変換し、またそれを言葉にしてみる。この変換をしつこく繰り返していくと、もともと何から発想したものだったのか、やがて記憶が遠のいて、言語化するのが難しくなっていきます」[6]

展示室の人工植物の根付近には、液体肥料や固形肥料のような粒が置かれている。泉曰く、この粒はルーチョ・フォンタナの彫刻の形をしているそうだが、これも変換の過程によって生まれたものだ。マンガ雑誌『週刊少年ジャンプ』からできたレンガ、パイナップルの点滴、土器に充たされた米粒に浸る犬の置物──物理的にかさばり、展示室を占めるこれらがどのような変換によって生まれたのかは、もはやアーティスト自身も忘れてしまったことなのかもしれない。タスクを遂行するために、ときに明確な理由は必要ない。それが誰かに与えられたものであればなおさらであり、かくしてスタッフたちや鑑賞者は積極的な忘却の過程に参加させられることになる。そして泉もまた全体を見渡し権力を操る地位、ゴールドバーグのいうところの「構想者」の立場を忘れ、システムの一部に組み込まれるのだ……。

そのシステムは人々の振る舞いと物理的な占領によって遅延を招き、そして不在を浮かびあげる。われわれは何かをしているのか、あるいはさせられているのか──所与のシステムに組み込まれることで、はじめてサボタージュ、仮病、反抗の契機が開かれる。われわれが作り上げた「協働」の名を冠した機関は、美術館にだらしなく横たわっている。

 


展示風景「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」東京オペラシティアートギャラリー、東京、2023年、写真:表恒匡 © Taro Izumi, 2023

 


 

*1 泉の作品では、しばしば鑑賞体験における制約が作品の一部として扱われる。たとえば、一枚の絵画を開館時間中撮影し続け、観客がその映像を映画館のような空間でポップコーンを食べながら鑑賞する《B:「レンズは虎が通るのをはっきりと捉えていたのだ」》(2017)や、月曜日嫌いのねこ、ガーフィールドがボールに詰め込まれ、ボーリングのルールに則って月曜休館中の美術館の入口に向かって勢いよく転がり、ときには跳ね返されてしまう《霧》(2023)など。
*2 ジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム──世界に抗う土着の秩序の作り方』清水展、日下渉、中溝和弥訳、岩波書店、2017年、p. 56
*3 Keren Goldberg “Time, Change and (Post) Concept:On the Contemporaneity of Taro Izumi,” Taro Izumi: ex, Hatje Cantz Verlag Gmbh & Co Kg, 2020, 2749cm(このカタログは巻物を折本として装丁しており、ページ数の代わりに「距離」が示されている)
*4 前掲書、2749cm
*5 この展覧会の様子は以下に詳しい。吉田有里「“不在”の記録を試みる──泉太郎「スロースターター バイ セルフガイダンス」/「とんぼ」」『artscape』2020年04月15日号 https://artscape.jp/report/curator/10161238_1634.html(閲覧日2023年6月6日)
*6 研究者、武田宙也との対談での発言。泉太郎×武田宙也「『わからなさについてのプロセス』という永久機関。『Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.』展の謎を語り合う」『Tokyo Art Beat』2023年3月9日https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/taro-izumi-hironari-takeda-interview-202303(閲覧日2023年6月6日)

 


 

Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎
2023年1月18日(水)– 3月26日(日)
東京オペラシティ アートギャラリー
https://www.operacity.jp/ag/exh258/
企画担当:福島直(東京オペラシティ アートギャラリー キュレーター)

 


 

飯岡陸|Riku Iioka
キュレーター。現在、森美術館勤務。同館では海外で開催された日本の現代美術展の調査(2019-20年)や2022年『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング』等に携わる。企画した主な展覧会に、2016年『新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン』(KAYOKOYUKI・駒込倉庫、東京)、2021年『せんと、らせんと、:6人のアーティスト、4人のキュレーター』(札幌大通地下ギャラリー500m美術館、四方幸子、柴田尚、長谷川新との共同)等。主な執筆として『美術手帖』WEB版での展覧会レビュー担当(2020-2021)、「批評としての《ケア》」(『美術手帖』2022年2月号「ケアの思想とアート」特集)、「分水嶺としての現在地──進藤冬華と宇多村英恵」(『ART iT』2022年11月)等。

白尾芽|May Shirao
ダンス研究、編集者。2023年、東京工業大学大学院(伊藤亜紗研究室)修了。修士課程では、イヴォンヌ・レイナーを中心にポストモダンダンスについて研究。ウェブ版『美術手帖』、株式会社ボイズでの執筆・編集などを経て、現在出版社勤務。

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