『ラヴズ・ボディ ー生と性を巡る表現』(Love's body – art in the age of AIDS)

2010年10月5日
『ラヴズ・ボディ ー生と性を巡る表現』(Love's body – art in the age of AIDS)
東京都写真美術館
2010年10月2日ー12月5日


デヴィッド・ヴォイナロヴィッチ, 無題(転げ落ちるバッファロー), 1988-89, Courtesy: the Estate of David Wojnarowicz and P.P.O.W. Gallery, New York, NY


この展覧会は身体表現に焦点を当てて、20世紀の人間の生と死と性を巡る問題を考える試みである。(*1)


本展覧会『ラヴズ・ボディ —生と性を巡る表現』を担当した笠原美智子が、12年前に同東京都写真美術館で行われた展覧会『ラヴズ・ボディ —ヌード写真の近現代』(1998-99)のカタログの中で書いた言葉は、本展の意図と根本的には変わりないだろう。事実、本展参加作家のうち、ピーター・フジャーとデヴィッド・ヴォイナロヴィッチは12年前の展覧会にも参加しており、笠原自身も、前回展が本展のきっかけになっていると述べている。

前回展では、「ヌード」という従来の概念を「女」という他者によって照射することで、ヌードの歴史を読み直し、再構成することを試みていた。さらには、身体表現を「ヌード」という概念から解き放ち、ゲイおよびレズビアンという他者によって乱反射させることで、多角的な視線を獲得しようという意図も含まれていた。本展では、とりわけ後者の試みから浮上してきたエイズを巡る問題提起が主題とされ、(英語の展覧会タイトルには「AIDS」という言葉そのものが明記されている。)80年代から現代に至るまでのエイズを背景にした作品を紹介している。

80年代後半から90年代前半にかけて、アーティストは社会に対するエイズの可視化の一翼を担っていた。美術館もまた、それがどのように可視化されるのかという問題を含めて、論議を引き起こすだけの役割を果たしていた。(*2)しかし、笠原は本展カタログにて、ダグラス・クリンプが93年に「エイズの常態化」を危惧した通り、現在、エイズを巡る問題は解決困難な社会問題のひとつとして、常態化され、無関心にさらされていると指摘している。(*3)日本におけるエイズの可視化に美術館が果たした役割については触れられていないが、エイズが社会的無関心として常態化されているというのは事実であり、それに抗う活動は美術館の外部で継続的に行われている。また、エイズを巡る問題は性のみならず、薬物や貧困など様々な要因が複雑に絡んでいることが表面化している。こうした状況下で、今敢えて、東京都写真美術館がエイズを巡る問題を扱うとはどのような意味を持つのだろうか。



ハスラー・アキラ/張由紀夫, Pandemic, 2010

先述した2名を含め、本展の参加作家であるウィリアム・ヤン、AAブロンソン、エルヴェ・ギベール、フェリックス・ゴンザレス=トレス、スニル・グプタ、ハスラー・アキラ/張由紀夫の8名は皆、エイズと対峙したゲイのアーティストであり、「当事者」である。笠原は本展カタログの冒頭にて、当事者性がゲイ・リプリゼンテーションの要諦のひとつであることを考えたとき、そうではないわたしがこの展覧会を編むことの意味をどのように担保したらいいのだろうか。(*4)と自問している。この問題は、笠原の述べる当事者に当てはまらない人々も、展覧会を経験するという点では、同種の問題を抱えることを示唆している。前回展で用いた、「女」という他者だけでなく、ゲイおよびレズビアンを含んだ被写体、また、アーティストのジェンダーの多様性を備えるという方法論(*5)を踏襲し、当事者に当てはまらない立場から、優れたゲイ・リプリゼンテーションを行う作家を置くことで、当事者に繋がる多角的な可能性を拓くという方法を用いず、敢えて、アーティストすべてを「当事者」に限定している。(*6)

「ヌード」を巡る問題では、見る主体/見られる客体や「視姦」といった言葉が用いられることがあったが、それらが必ずしも物理的な接触を問わないものであるのに対し、「エイズ」を巡る問題において、「接触」という言葉は重要な意味を持ちうる。本展参加作家のうち唯一日本在住であるハスラー・アキラ/張由紀夫は、アーティストステイトメントの中で、次のように述べている。

病気はもちろんどんなものであっても、なったらつらいものだけど、感染が起きている現場にも、その後にも続く営みの中にも、まずはそこに人と人とのふれあいがあることを肯定していたい。(*7)

ハスラー・アキラ/張由紀夫の映像作品が「Pandemic」(2010)と名付けられるように、「接触」という言葉は、エイズという固有の問題が、新型インフルエンザと繋がっていることを容易に想像させる。そうした想像力は、歴史的に繰り返される感染症から、私たちが本当に学ぶべきものは何かと問いただすと同時に、「接触」の持つ肯定的な側面、可能性を再び想起させる。



AA ブロンソン, アンナとマーク、2001年2月1日, 2001-02

本展に出展されているウィリアム・ヤンの「独白劇〈悲しみ〉より《アラン》」(1988-90)のように、なんらかの形で死と強く結びついているエイズの表象は少なくない。そうした中で、AA ブロンソンがアーティストグループ「ジェネラル・アイディア」のパートナーの2人が亡くなり、9年の後に発表した「アンナとマーク、2001年2月3日」(2001)は、あまりにも多くの死と向き合わざるを得なかったから、身体を賛美するような方向に向かっているのだと思う(*9)と、彼が述べるように、新たな方向へと向かうエイズの表象のひとつかもしれない。

参加作家が皆、エイズと対峙したゲイのアーティストであり、「当事者」であると、先に述べたが、個々の実践はもちろんそれぞれ異なるものである。例えば、ピーター・フジャーがエイズを宣告されたのは、死の10ヶ月前であり、その期間は治療に費やされ、自身の病を正面から見据えて作品を制作することは叶わなかったという。ここには、笠原が自問していた当事者性への何らかの回路の可能性が潜在しているかもしれない。しかし、そこには同時に別の問題も浮上してくる。スニル・グプタの「マルホトラのパーティ」(2007)を見て、その写真がどのようにエイズの問題に触れているのか、理解できる人がどれだけいるのだろうか。事実、笠原自身も、何の予備知識もなく見れば、単なる町中の若者のポートレイトとしか映らないかもしれない。(*10) と述べている。ここには、一方で鑑賞者がエイズの表象に求めてきたものを裏切られている可能性があり、もう一方では、あるコンセプトのもとに作品が選出され、空間が構成され、図録が編まれ、講演会や上映会などが企画され、そのすべてが展覧会を構成しているという笠原の考え(*11)に沿うことで、例えば、会場内に置かれたカタログを開くことで、何らかの糸口を見つけられる可能性もある。



スニル・グプタ, ビクラム, 2007

今、敢えて美術館という場所で、エイズを巡る問題を提起することは、かつて欧米の美術館が果たした役割とは異なるのだろうか。イメージを可視化し、拡散させるという点において、現在の東京都写真美術館という選択は最適解ではないだろう。おそらくは、日々継続される美術館外での活動こそが主戦場であろう。それでもなお、関連イベントも含み展覧会を編むことは、常態化され、無関心にさらされているエイズが忘却されることへの抵抗のひとつとして存在していることは確かであり、それに「接触」することもまた、抵抗のひとつだと思いたい。

本来であれば、ここで本展へのレビューを終えるところであるが、ほぼ同時期に12年前の展覧会から、「ラヴズ・ボディ」(*12)ではなく、「ヌード」という言葉を引き継いだ展覧会が同美術館にて開催されていたので、それについて少しだけ触れておきたい。『私を見て! ヌードのポートレイト』(2010)は写されている人間を「個人」として写しているヌード写真(*13)を取り上げている。「邂逅」「表現」「家族」「自己」の4章に区分された150点の作品のなかに、98年以降に制作されたのは鷹野隆大の作品のみである。この点のみをあげて、12年前の展覧会および同展を批難したいわけではないが、イメージの再構成というのは本当に困難な作業で、地道で継続的な努力を必要とする。それ故に、同美術館でヌード写真を取り扱うということの意味は他のどこよりも大きいのではないだろうか。


*1 笠原美智子「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」同名展カタログ、東京都写真美術館他、1998/同展チラシ(pdf.
*2 例として、『Nicholas Nixon、Pictures of People』(1988. The Museum of Modern Art, New York)
*3 笠原美智子『ラヴズ・ボディ 生と性を巡る表現』同名展カタログ、東京都写真美術館、2010
*4 同上
*5 もちろん、身体的な性差だけでなく、性差が刻印された視線の制度に対する方法論でもある。
*6 本展カタログにて、笠原は1980年代のエイズの表象を行った制作者を次の3つに分類している。HIVポジティヴであり、エイズと共に生きざるを得なくなったもの、HIVポジティヴではないが、恋人や友人がエイズであるため、エイズを共に生きざるを得なくなったもの、エイズとは直接関係しないもの。
*7 上記*3に同じ
*8 上記*3に同じ
*9 上記*3に同じ
*10 上記*3に同じ
*11 笠原美智子、「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」展についての展覧会評、イメージ&ジェンダー、vol.1、1999
*12 もともとはノーマン・ブラウンの著書より借用されているが、その経緯は前回展のカタログに記載されている。
*13 『私を見て! ヌードのポートレイト』展のチラシに記載(pdf.

(文中敬称略)


『ラヴズ・ボディ ー生と性を巡る表現』展 ウェブサイト
(関連イベント、講演会情報もこちら)
http://syabi.com/contents/exhibition/index-340.html


(文/良知暁)

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