私は誰なのか、私は何をするのか  文/アヴィーク・セン


Roni Horn, White Dickinson -NIGHT’S CAPACITY VARIES, BUT MORNING IS INEVITABLE-, 2007, courtesy of Rat Hole Gallery, Tokyo

1870年8月のとても静かな午後、文芸評論家のトーマス・ウェントワース・ヒギンソンはマサチューセッツ州の小さな田舎町アマストへ向かっていた。旅の目的は親兄弟と農家で暮らす40歳独身の女性を訪問するという少し変わったものだった。彼は、その女性、エミリー・ディキンスンと数年前から手紙のやりとりを続けており、彼女から送られてくる詩に批評的な意見を返していた。今回はじめてエミリーの家で会うことに若干の不安を感じていたのは、これまでの手紙のやりとりで、エミリーの文章の明晰な感情に居心地の悪くなることが少なくなかったからである。暗く、ひんやりとした、どこか堅苦しい応接間で待つヒギンソンの前に、子供のようにパタパタと足音を立ててエミリーは現れた。小柄で質素なその女性は、子供のような仕草で2輪の忘れ草を手渡し、「これは自己紹介代わりです」と言った。ヒギンソンは妻に宛てた手紙に、穏やかだがどこか怯えて息をつめている子供のようなエミリーの声について次のように書いている。

彼女は小さな声で、「もし私が怯えているように見えたら許してください。見知らぬ人に会うことがないので、何を話してよいのかよくわからないのです」とことわると、すぐに話し始め、そのまま丁重に話を続けた。時々私にも話すように促すものの、またすぐに自分で話し出すのだった。

ヒギンソンはこの旅の間にエミリーのもとに二度訪れ、彼女のまったく飾り気のない、誠実な話し方や話の内容を、旅の日々を綴った妻宛ての手紙に記している。エミリーとの会話は、父親が日曜日にだけ孤独で難しい本を読むこと、父親のためにパンを焼くこと、シェークスピアに出会ったとき、他の本はいっさい必要ないと思えたことなどに及んだ。「ある本を読み、身体中がいかなる炎でも暖められないほどの寒さに襲われる。それこそが詩なんです」と、彼女は言い、「なんの考えも持たずに、大抵の人たちはどうやって生きるのでしょうか」「彼らはどうやって毎朝服を着る気力を得るのでしょうか」「家とは何なのでしょうか」などと尋ねた。記憶や忘却についても、「頭の中から物事が消えていくというのは、忘却したのでしょうか、それとも吸収されたのでしょうか」と尋ね、「感謝とはそれ自体が明かされることのない唯一の秘密です」と別れ際に告げた。ヒギンソンは、こんなにも神経をすり減らす相手に出会ったのは初めてだと妻に報告しているが、それから20年、エミリーが亡くなって5年後に、アトランティック・マンスリー誌上にて、この訪問を良い思い出として回想している。「彼女は1時間のインタビューではとても理解することのできない、不思議な存在だった。(中略)森の中にいるように、ただじっと座って、見ていること、ラルフ・エマーソンが言うように、銃で狙うのでなく、その小鳥に名を付けねばならなかった」

「頭の中から物事が消えていくというのは、忘却したのでしょうか、それとも吸収されたのでしょうか」

私のこの衝動的な問いとの最初の出会いは、ヒギンソンの記述ではなく、オーストリアの美術館の壁に立てかけられた細長いアルミニウムの直方体に鋳造された白いプラスチックの文字によるものだった。この問いは、高さの異なる14本の直方体に鋳造されたエミリーの手紙、手紙に書かれた詩、記録された会話から抜粋された言葉の中のひとつだった。これらの直方体はロニ・ホーンが2007年に制作した『White Dickinson』という作品であり、ブレゲンツ美術館の2階で展示され、同美術館の全4階を使い、ホーンのドローイング、彫刻、写真作品を的確かつ控えめに展示した展覧会『Well and Truly』(2010)の一部を成している。

地元のコルカタに戻ると、私はエミリーの詩集からホーンの『White Dickinson』に使われた部分を探し始めた。ブレゲンツで出会った言葉は周りの文字群から静かに浮き上がり、捉えようのない既視感や認識、共鳴と反復、分裂、倍増、代理といった感覚が、言葉を読むことによって広がっていった。エミリーとロニ、声とテキスト、読むことと見ること、読むことと思い出すこと、文章と彫刻、同一性と差異は対になり、それはディキンソンを読む、ホーンの作品を見るという異なる行為が分裂と同時に融合を始めるような対関係であり、鋭敏な特異点に視覚的、感情的、知的な経験をもたらした。

私はヒギンソンの記録を読みながら、ホーンもこの記録を読み、特定の質問を拾い上げるだけでなく、アマストの家を訪ね、ヒギンソンは入ることのできなかったエミリーの寝室からの眺めを『From the Windows of Emily Dickinson’s Bedroom』(1994-95)のために撮影していたことを意識していた。つまり、私のブレゲンツやコルカタでのエミリーの言葉との出会いの背景には、ホーンの、彼女が愛するアイスランドの地でのエミリーの言葉との出会い、(ホーンが孤独の中で初めてその詩を読んだ場所はアイスランドだった)アマストの寝室からの眺めの撮影、そして、ヒギンソンのエミリーとの実際の出会いと会話が存在している。異なりつつも、収斂されているそれぞれの出会いが、言葉や、もの、人のアイデンティティを倍増していった。つまり、読む、見る、配置するという行為を無限に複数化していく。ディキンソンの詩をもとにしたホーンの主な作品の中でも、とりわけ『White Dickinson』は声、または沈黙を備え、単一的な作者、鑑賞者のアイデンティティの解体を乗り超える特異性をも備えている。

ブレゲンツ美術館の2階、この部屋には椅子がなく、座ることができない上に、アルミニウムの直方体の暗号化された静寂に包まれているために、作品の持つトーテムのような存在の単一性を感じずにはいられなかった。それらはまるで空間の境界を守る監視員のようだが、垂直に立つことをあきらめ、自身よりも大きく硬いものに寄りかかっているようだった。その様子は、もともとアトリエの壁に寄りかかっていたが、現在ではよく知られた彫刻として台座の上に垂直に立っているルイーズ・ブルジョワの「Personages」を思い起こさせる。 『White Dickinson』の中心には鑑賞者が動いたり、立ち止まったりする何もない空間があり、何もないのにも関わらず、生まれては消えていく複数の会話による興味あふれる空間が創造される。この空間で鑑賞者は作品とともに「This is me, this is you」(「これは私、これはあなた」)というゲームを始めるが、作品内でも彫刻家と詩人の2人が互いに同じようなゲームをしていることに気がつく。分節化した言葉を用いる2人の作家は、その表現の中心に寡黙、疎外感、謎を保ち続けることで、このゲームをお互いに、また、鑑賞者と続けていく。

次の階にも全く同じような部屋があり、厳密に配置された作品が壁に並び、椅子はあるものの中央には空間が広がっている。ここでのゲームのルールは前回と異なり、見えているものと見えていないものが逆になっている。つまり、作家の姿以外は見えない。『a.k.a.』(2008/09)と題した作品では、ロニ・ホーンの幼少期から現在に至るまでのカラーとモノクロの15組のポートレートが白いフレームに額装され、厳密な統一性のもとで、目の高さに展示されている。誰が撮影した写真なのか、セルフ・ポートレートが含まれているのかなどは明かされず、それぞれ対になった写真が時間と視覚の差異の深淵にまたがっている。これは時間の内外における自己についてのタイポロジーであり、アイデンティティのはかない徴(笑顔、ふくれっ面、頭の向きや目の隈といったもの)は、不連続や相違を想起させる並びの中に、認識の瞬間と連続性を可能にする。これらの写真を並べて用いることで、他者の視点がホーン自身の作品を作り上げていくのをホーンは静かに見守る。被写体の明確な統一性は、展示の対称性と反復を伴い、自己の無秩序な変化が戯れたり、持続したりするグリッドを形成する。

パリンプセストでもまたパリンドローム(回文)でもある『a.k.a.』は、シークエンスであり、かつ、シークエンスではない。シークエンスにおける各対の写真は鑑賞者が年代順、または直線的に進もうとするのを拒み、時間を行ったり来たりさせる。それによって、人間の変化とは通時的な時間だけでなく、人間性の共時的な面によって促進される自己形成の過程であることについて、鑑賞者に考えさせる。しかし、被写体が何であれ(例えば鳥、女性、場所、川、自分など)ホーンの肖像写真作品は、不可解で理解しがたいものに対する追求を可視性のファサードに留める。それはしばしば単純に顔(もしくは顔のようなもの)の不思議さやエロティシズムとして現れる。

再び同じような階段を上り、同じような部屋に入るが、ここではすべてが新しく、昼光の青と白の世界、ガラスと完全なる透明性へと変わっていくようである。それはまるで、美術から自然へ、または文学から音楽への上昇のように感じられるが、見せかけのようでもある。3階では鋳造、冷却、研磨といった技巧が完璧である状態がそのままタイトルとなった『Well and Truly』(2009-10)が展示されている。その完璧さは作品制作の過程をほとんど消し去っている。ホーンは、淡い青、青緑色、灰色、白に微細に変調した同じ形の丸く、背の低い鋳造ガラスのオブジェを10個、ダークグレーのテラゾー床に明確な順序なく配置している。これらは散光に照らされ、時間とともに変化し続ける。このガラスのオブジェが他の階では空いていた中央の空間を埋めていることによって、他の階では鑑賞者のための空間だと思われていた場所で、作品と鑑賞者とが交わりあう。鑑賞者はオブジェの周りを曲がりくねりながら歩かねばならず、すべてのオブジェを同時に見られる一番良い位置は部屋の周縁であり、それは下の階では作品が展示されていた位置にあたる。つまり、鑑賞者と作品の位置関係が逆転しているのである。作品を上から覗き込み、その奇妙な液体のような固体について考えること、深さを明かしながらも、そこへの到達を拒否するガラスの完全なる透明性を凝視することを許されている。じっと眺めているうちに、オブジェは物質性を失い、純粋な光、あるいは色やテクスチャーのわずかな変化によって、音量と音質を微妙に変化させる澄んだベルのような純粋な音に変わっていく。おそらく、本展覧会場の最上階にあるこの場所で、私たちにもたらされたものは純粋な存在、より厳密に言えば、純粋な存在という効果だろう。人間、言語、意味、そして重さと軽さ、液体と固体、透明と不透明、空っぽな状態と満ちている状態、奥行きと表層といった差異が一体になったものが、まずは存在が構築された物質(今回はガラス)の物理的本質、そして形而上学的本質に濃縮したり、吸収されたりするのである。

しかし、この完璧に磨かれたガラスにも、更なる完璧さが求められ、必要とされるだろう。こうした要求や必要性への欲求は、ホーンがよく知る詩人ウォレス・スティーブンズの言葉にも見られる。輪郭が光輝かしく透明な水の世界を目の前に、その日それ自体が単純化される。より困難で複雑なものの必要性は、まるでスティーブンズの『The Poem of our Climate』における信念のように湧き上がってくる。

休むことなき精神が残っているのだろう
逃げ出したくなるように、戻りたくなるように
長きに渡り作られてきた
不完全というパラダイス

休むことなき思考が残る「不完全な」作品に戻ろうと、元来た灰色の階段を降り、写真やアルミニウムの直方体を通り過ぎて、1階へと向かった。大きなドローイングが3点展示されているこの部屋から展覧会は始まる。紙に顔料とニスで描かれたこれらのドローイングには「Enough 8」(2004)「Enough 10」(2005)「Through 6」(2007)という謎めいたタイトルが付けられている。

肖像画と地図の間のどこかに位置しているような、白紙に赤や青で描かれたドローイングは、巨大な廃墟化した迷路のように見える。間近で観察すると、巨大な顔のようにも、ひび割れたガラスみたいに、バラバラに崩れ落ちる手前でなんとか繋ぎ止まっている不安定に組み合わされた存在のようにも見えてくる。もしくは、地殻変動による衝撃で内破し、散在した土地や島(あるいはアイスランド?)の空中写真を見ているようだ。これらの作品は、一度完成されたドローイングの「plates」をバラバラにした後、何ヶ月もかけて慎重にその紙片を組戻す行為によって作られている。複雑かつ正確に組み合わされた作品には、制作、破壊、そして再制作のそれぞれの行為の痕跡が綿密に残されている。鋭い切り込みや継ぎ目があり、真っ白い紙は赤や青の指紋で汚れている。針穴や奇妙な登録記号以外にも、繰り返される短文、数字、単語、文字、「blood, crap, top」といったサミュエル・ベケット的言葉遊びや「crow, low, snow, joe, top」といった同韻語によって継続性を読み取ることができる。それらはまるでスティーブンズの詩「compounded, vital I」の「不完全性」を形成している「欠けた言葉」や「扱いづらい音」のようである。アーティストのタシタ・ディーンは、このプレートに刻まれた曲線が「曲線自体を遮断しつつ新しい形に変化していく様子」に惹き付けられている。このドローイングは鑑賞者を惹き付けると同時に、突き放しもする。そして、距離こそが魅惑的な新しい形に一貫性を取り戻すのである。

「Through」や「Enough」といったホーンの作品タイトルは進行中、継続中ということを示唆する一方で、「もう充分、止めた」といった曖昧な終わりを含んでもいる。「Well and Truly」というタイトルもある種の宙吊りの決断を暗示している。それは流動性、矛盾、パラドックスといったいわゆるホーンの関心事とは対極的である。インデックス形式に纏められた2冊組のアーティストブック『Roni Horn aka Roni Horn』の「enough」の項で、ホーン自身、「enoughness」を次のように定義している。読む必要も、書く必要もなく、その場所にいかなる存在の痕跡も残すことなく、ただ存在するという非常に望ましい状態。しかし、この状態は与えられるものではなく、継続的に生み出され、休むことなき思考の干渉から守られなければいけない。誰かが到着する以前から存在していたであろうどこか、自身の思考の構造に捕われることなく考えること。ブレゲンツ現代美術館の展覧会において様々な手法で明晰に具現化されているこれらの不可能かつ矛盾した欲望は、アイデンティティにおける百科事典編集者を自称し、その百科事典が「エスケープ・アーティスト」によって成されたと考えるロニ・ホーンには避けられないものなのだろう。

「私は誰なのか、私は何をするのか」を誰かが知るかもしれない可能性に対抗するため、私の中の何かが自分を偽るようにと強いるのだ。

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アヴィーク・セン(Aveek Sen)
インドのコルカタに本社を置く新聞「テレグラフ」のシニア・アシスタント・エディター。ジャダイプール大学 とオックスフォード大学で英文学を専攻し、セント・ヒルダ・カレッジにて教鞭を執る。2009年、写真評論で ニューヨークにある国際写真センター(ICP)のインフィニティ賞を受賞する。美術、映画、文学、子供や日常生活について執筆している。

ロニ・ホーン『Well and Truly』は2010年4月24日から7月4日までブレゲンツ美術館にて開催された。

ロニ・ホーンの個展が表参道のRAT HOLE GALLERYにて、2010年12月5日まで開催されている。
http://www.ratholegallery.com/exhibitions/2010/05roni/intro.htm

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