医学と芸術展

生命(いのち)と愛の未来を探る—ダ・ヴィンチ、応挙、デミアン・ハースト

2009年11月28日(土)〜2010年2月28日(日)
森美術館(六本木)
http://www.mori.art.museum

文:橋本一径(表象文化論)


撮影:渡邉修 写真提供:森美術館

展覧会場は、その副題とは裏腹に、「死」の表象であふれ返っているように見えた。ロンドンのウエルカム財団が収蔵する、医学史にまつわる様々な品々のコレクションを中心に、日本初公開のものも含むというレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図3点、さらには現代アートの諸作品で構成された、この展覧会を通覧しての印象である。皮を剥がれ、腹を裂かれた身体を描き出した近世ヨーロッパの解剖図には、たとえそこに赤子を孕んだ母体のものが含まれているとしても、生命の息吹を感じ取ることは難しかろう。現代アート陣もまた、アルヴィン・ザフラはサンドペーパーの上で頭蓋骨をすり下ろすという荒々しい葬送儀礼を実演してみせ、ヴァルター・シェルスは被写体の死の直前と直後のポートレートを並置してみせる。「永遠の生と愛に向かって」と題された最終セクションに至ってもなお、遺伝子組み換えにより緑の光を発するようになったウサギ(エドワルド・カッツ)が垣間見せるのはむしろ、バイオテクノロジーがもたらす未来の禍々しさであろう。


アルヴィン・ザフラ「どこからでもない議論」2000年 Courtesy Osage Gallery 


ヴァルター・シェルスライフ・ビフォア・デス―エルミラ・サング・バスティアン」
2004年1月14日/2004年3月23日
Courtesy the artist

だがこれらすべてを安易に「死」の一言で片づけるのもまた、差し控えなければなるまい。例えばヴェサリウスの著作に代表されるルネサンス期以降の解剖書の中の身体は、なぜ骸骨の姿で立ちあがってポーズを決めたり、自らの皮を剥いで内臓をこちらに見せつけたりしているのだろうか。端的に言ってそれらは「生きて」いるからである。生命の真理は、キリスト教的な霊魂に帰着するのではなく、身体を探索することによって到達できるはずだと考えたのが、この時代の医学の新しさだった。その探索に死体が用いられたのは、単に生きた身体を切り開くことが不可能だったからにすぎない。解剖図の身体は、そのような不可能をイメージの中でのみ成功させて見せているのである。

かつては「生命」を表象していたはずのものが、今ではむしろ「死」に見えてしまう。結局のところそれは、「生命」も「死」も、時代によって移り変わる抽象的な概念でしかないからだろう。生まれ、そして死ぬのはただ、個々の具体的な身体のみである。ジョージ・ワシントンの義歯、16歳の少女のための義手、負傷した兵士のための、飛行機の部品で作られたという義足、うっすらと充血した義眼……。医学は、あるいは芸術は、これらの医療器具が生々しく想起させる身体に、どこまで寄り添うことができているだろうか。


アンドレアス・ヴェサリウス ロープから吊るされた骸骨
『人体の構造について』より 1555年
Wellcome Library

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