2011年 記憶に残るもの キャロライン・クリストフ=バカルギエフ

キャロライン・クリストフ=バカルギエフ:2012年開催のドクメンタ13のアーティスティック・ディレクターを務める。展覧会に加え、関連出版物「100のノート——100の思考(100 Notes – 100 Thoughts)」、展覧会とそのリサーチのためのウェブサイトの制作などの責任者も務めている。

ART iTは、クリストフ=バカルギエフにこの一年間を振り返ってもらった。


Top left: Tacita Dean – FILM (2011), installation view at Tate Modern, London. Photo Lucy Dawkins, courtesy the artist, Frith Street Gallery, London, and Marian Goodman Gallery, New York/Paris. Top right: David Hall – TV Interruptions (7 TV Pieces): Interruption piece (1971), from the exhibition “Are You Ready for TV?” at MACBA. Courtesy the artist and LUX, London. Bottom: Ahmed Basiony – Installation view of “30 Days of Running in the Space,” Egypt Pavilion at the 54th Venice Biennale, 2011. Photo ART iT.

ART iT ドクメンタ13の準備を進めているところだと思いますが、2011年の出来事、また、2012年へ向けた展望について聞かせていただけますか。まず、2011年はどのような年だったのでしょうか。

キャロライン・クリストフ=バカルギエフ(以下、CCB) わたしは夢想家でも予言者でもないので、2012年に何が起こるかわかりません。歴史的に見れば、たしかに2011年はとてつもない一年だったのではないでしょうか。「Crisis(危機)」は、批判や批評に由来するギリシア語の「krisis」を語源とし、その語は「判断を下す、識別する」といったことを意味します。現在では、過度に劇的なものとして扱われている気がして、これまで好んで使うことはありませんでした。しかし、この一年を言い表す言葉として「crisis」が適当だということに反対する人はほとんどいないでしょう。それは、近年続いている経済危機と呼ばれているものの深刻化だけでなく、驚くべき革命や悲惨な災害が起き、現在も収束していないこととも関連しています。アラブの春、ロンドン暴動、オキュパイ・ムーブメント、日本で起きた3.11の大地震、津波、原発関連の危機。
アートに関して言えば、2月にホスニー・ムバラク元大統領を辞任に追い込んだ、1月25日にカイロのタハリール広場で起こった民衆蜂起から始まったと言えるでしょう。アーティストのアハメド・バショーニーは、積極的に抗議行動に参加し、ビデオを回し、その映像をインターネットにアップし続け、1月28日に広場で射殺されました。バショーニーの死後、6月に開幕した第54回ヴェネツィア・ビエンナーレで、エジプト館は彼の作品を展示しました(エジプト館『30 Days of Running in the Space』6月4日–11月27日)。バショーニーが必ずしも偉大なアーティストだったと言っているわけではなく、路上で亡くなったアーティストの死体とともにこの一年が幕を開けたのは、わたしにとって、アートと世界、アートと歴史の関係において、なんらかのことを意味しています。ジュディス・バトラーのことを思い浮かべますね。彼女は近年の著作や文章で、危機や戦争、荒廃の背景について書いています。とりわけ、『Frames of War: When is Life Grievable?』(2009)では、わたしたちの時代における主体のあやうさについて話しています。身体そのものはあやういもので、人は死ぬ、そして、個々の生のあやうさを理解しない限り、喪に服すことも、価値を与えることもできないということに彼女は取り組んでいます。こうした探求は、具現化に対する問いや、傷つきやすくも積極的に関与する立場へと身体を投げ出す行為に対する彼女の考えに繋がっています。

ART iT エジプト館のアハメド・バショーニーの展示のほかに、わたしたちがアートを語る上で向かい合うべき歴史的な出来事はありますか。もしくは、特筆すべきイベントや、展覧会、新たな取り組みなどはどうでしょうか。

CCB アートワールドはたくさんあって、決してひとつではありません。名声や正統性、社会的地位に関連するとともに、投資にも関連するマーケット志向のアートワールドがあります。そのほかの例をひとつあげるとすれば、実は新しい種類のアンダーグラウンドを形成しているアクティビストによるアートワールドもあります。
「アート」という言葉は、非常に多層的で、オープンで、両義的であるために、たくさんの人々によって使用されています。また、たくさんのことに結びつけることができる言葉ですね。60年代、70年代に政治へと向かったような若者が、今、アートへと向かっているように感じます。これは興味深いことではないでしょうか。なぜなら、アートという領域は、失敗をほかの分野と同じように扱うことはありません。
つまり、アートにおいて、失敗はある種の優れた功績である可能性を持ちます。例えば、ウィリアム・ケントリッジのドローイングのように、失敗しては消されて、何度も繰り返し描き直され、何千回もの失敗によって美しいアート作品が導き出されます。このような複雑性を前提として、たくさんの人々が世界に能動的に働きかけ、世界に取り組む空間として、そして、奇妙なことに、世界からの避難空間として、アートに取り組み始めています。


Top: Installation view of the group show “Untitled (Passport)” in the 12th Istanbul Biennial, 2011. Photo ART iT. Bottom left: Marta Minujín – Marta Minujín and Rubén Santantonín in La Menesunda (1965). Courtesy MALBA. Bottom right: Pino Pascali – Installation view of “Pino Pascali’s final works 1967-1968” at Camden Arts Centre, London. Photo Andy Keate, © Camden Arts Centre.

ART iT 今年行われた展覧会で印象に残ったもの、もしくはドクメンタの編成に影響を与えたものはありますか。

CCB 国際的な優れた展覧会をランク付けするのは躊躇われますが、いくつかの素晴らしい展覧会がありました。
自分が関係者であることを先に断っておかねばなりませんが、アドリアーノ・ペドロサとイエンツ・ホフマンがキュレーターを務めた第12回イスタンブール・ビエンナーレ(『Untitled』9月17日–11月13日)は、リサーチ、アーカイブ、再考という方向へと振り切った面白い実験といえるでしょう。展覧会の規模やキュレーションにおける知という課題を通して、装飾的ではない、美しいオブジェを寄せ集め、提示していました。ペドロサとホフマンによって生み出された形態における政治性という考えの再接続も重要ですね。先鋭的な展覧会だと思ったのは、『Are You Ready for TV』(2010年11月5日–2011年4月25日)でしょうか。これは、チュス・マルティネスがバルセロナ現代美術館を離れ、ドクメンタにチーフ・キュレーターとして加わる直前に計画したもので、たぐいまれな総合芸術(ゲザムトクンストヴェルク)的インスタレーションによる、普段はメインストリームに出てこない哲学者や知識人などのテレビへの参加に関わる活性化されたアーカイブとしての展覧会となっていました。
そのほか、非常に優れた、重要な歴史的個展もいくつかありました。例えば、ブエノスアイレスのラテンアメリカ美術館で開催されたフェミニストのアーティスト、マルタ・ミヌヒンの回顧展(『Obras 1959–1989』2010年11月26日–2011年2月14日)。しばしば見落とされているアルテ・ポーヴェラのアーティスト、ピーノ・パスカリのカムデン・アート・センターでの個展(『…a multitude of soap bubbles which explode from time to time…: Pino Pascali’s final works, 1967–1968』3月4日–5月1日)。テート・モダンとニューヨーク近代美術館との共同企画であるマドリッドの国立ソフィア王妃芸術センターでのアリギエロ・ボエッティの回顧展(『game plan』2011年10月5日–2012年2月5日)があげられます。そのほか、リュブリャナ近代美術館のアクラム・ザータリの個展(『This Day』3月1日–4月10日)や、バルセロナ現代美術館(2月4日–5月29日)に始まり、わたしが観たイタリア国立21世紀美術館(2011年10月6日–2012年3月11日)へと巡回したオトリス・グループの展覧会『Thoughtform』。また、今年の最重要な作品のひとつは、テート・モダンのタービンホールに作られたタシタ・ディーン「FILM」(2011年10月11日–2012年3月11日)でしょう。この作品は、フィルムによる制作、上映、複製に必要な素材の生産を企業がやめた時代における、シネマの歴史へのレクイエムですね。
アメリカのアーティストをひとりあげるのならば、今日、最も再考すべきミニマリストであるアーティスト、フレッド・サンドバックでしょう。ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリー(5月25日–8月14日)で発表された、糸で作られた彼の彫刻的インスタレーションは、過剰に生産された作品とはまったく言えず、わたしたちの、この危機の時代に与えられた正しい決断ではないでしょうか。若いアーティストでは、2009年から2010年にかけて、ホワイトチャペル・ギャラリーでのいくつかの展覧会を通じて評価を上げ、今年はミネアポリスのウォーカー・アートセンターでの個展(『It Broke From Within』4月14日–8月14日)と、ワルシャワのザヘンタ国立美術館での個展(『Untitled』2011年12月3日–2012年2月19日)を開催したゴシュカ・マキュガが重要作家としてあげられるでしょう。
こうしたキュレーションにおける転回は、近年の権威主義的転回のひとつとして考えられるのではないでしょうか。キュレーション的なやり方、方法論を用いるゴシュカのようなアーティストは、不変的な葛藤に関与し、向かい合うよりも、グローバルな情報の流通を管理している人々から空間を取り戻そうとしています。世界に対し、自身がどう対峙するのか。社会におけるクリエーターと知識人の役割とはなにか、と。


Goshka Macuga – Installation view of “Goshka Macuga: It Broke From Within” at the Walker Art Center, Minneapolis, 2011. Photo Gene Pittman, courtesy Walker Art Center.

ART iT 最後の質問になりますが、新しい年におけるアーティストの役割とはどんなものになるのでしょうか。また、アートに関わり、言及していく上で、なにかが変化していくと思いますか。

CCB すべてが変わるでしょう。なにかひとつでも、ほんの少しでもなく、すべてが変わるでしょう。しかし、それは次の一年間で起きるわけではありません。世界の終わりを喧伝する広告とは違い、パラダイムシフトが起こるためには30年から50年は必要です。そうして、すべてが同じレンズを通して解釈されはじめるのです。現時点では、完全なるシフトは起きていませんが、非常にさまざまな領域で変化へのアプローチの兆しが見受けられます。
わたしたちが考えるアートと世界の関係性や、アートの定義も変わっていくでしょう。例えば、わたしは「コンテンポラリーアート」という言葉を決して使いません。それは、厳密には「モダンアート」という言葉の代わりとして最初に用いられた50、60年代と結びついています。そして、この言葉は既に70年近くも使用され、美術史のある特定の時期を指しており、わたしたちはもはやその期間には属していません。しかし、わたしたちがアーティストと呼ぶ人々による実践や作品は、管理を企てる認知資本主義的空間、その管理に抗える唯一の空間の両方への想像力の空間を表象するため、これまで以上に重要で極めて重大なものになっています。哲学者クリストフ・メンケが、ドクメンタの一連の刊行物「100のノート——100の思考」に寄せた文章に記したように、わたしたちみなが想像力を共有しているという事実に基づいたデモクラシーを再構築するための想像力の跳躍を実現する必要があるのです。

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