六本木クロッシング2010展:アーティストが語る「芸術は可能か?」(2)

3年に一度の「日本アートの定点観測」とも呼ばれる『六本木クロッシング展。開催中の『六本木クロッシング2010展:芸術は可能か? —明日に挑む日本のアート』について、参加アーティストの20組の出展作品と、タイトルに添えられた問い「芸術は可能か?」への各作家(一部)によるコメントを紹介する。
※6月13日(日)に発表された「クロッシング・プライズ」結果は、該当作家名の右に赤字表記

《 戻る(アーティストが語る「芸術は可能か?」(1))

展示会場撮影:木奥恵三 写真提供:森美術館

■ログズギャラリー


『DELAY_2007.10.27』2009年 ハイビジョン・ビデオ・インスタレーション
高出力オーディオを載せた車でドライブし、電気的に強調された走行音を乗客に体験させる『ガソリン・ミュージック&クルージング』を行う2人組。これを素材にした映像&音響インスタレーションが、出展作『DELAY』である。車載カメラ映像が64画面に投影され、中央から螺旋状に1/10秒ずつズレながら流れていく。

■志賀理江子


シリーズ『カナリア門』によるインスタレーション 2010年 Cプリント
どこか幻想的で、ときに暴力的ですらある鮮烈なイメージの数々。これらは作家が外界とのつながりを独自の方法論で探索し、対峙し、また検証する過程の中で生まれてきた。今回は、観る者を円状に取り囲むかたちでの写真インスタレーションを出展。

■鈴木ヒラク


『道路』2010年 反射板
反射板8000枚を用いた「ドローイング」。深夜にメキシコの田舎町から空港へタクシーで向かった際、車が自らのライトと道路の反射板の光だけを頼りに疾走する体験から想を得たという。無数の目、あるいはシグナル、そしてその反射——。

《芸術は可能か?》可能です。好きでやっているので。(鈴木)

■高嶺格


『Baby Insa-dong』2004年(部分) Cプリント、アクリルパネル、DVD、液晶モニタ
作家本人の結婚式の記録と、独白文により展開する作品。在日韓国人であるパートナーとの結婚式を通して、「在日」への向き合い方への自問、祝いの日に登場したドラァグクイーンのダンス映像とそこから派生するおとぎ話、そして妻の身体に宿った子供の未来への想いが紡がれる。

■照屋勇賢 《オーディエンス賞》


『来るべき世界に』2004年 ミクスト・メディア・インスタレーション(奥は『さかさまの日の丸』(2006年))
作家の出身地でもある沖縄で米軍ヘリが民間地に墜落したとき起きた出来事——公道封鎖で県民の通行が禁じられた中、軍の誰かが頼んだと思しき宅配ピザは通過を許された——に着想した作品。怒りや滑稽さが交差する状況への視線は、墜落現場でのピザ箱への写生大会という試みを経て作品化された。ほか、著名ブランドほかの紙袋がかつて木であった記憶を呼び覚ます『告知』、日本国旗の歴史・政治的背景と純粋なデザイン性の間で揺れ動く『さかさまの日の丸』をなどを出展。

《芸術は可能か?》はい。それを信じて制作しています。(照屋)

■宇治野宗輝 《特別賞:審査員=八木亜希子(キャスター)》


『THE BALLAD OF EXTENDED BACKYARD』2010年 ミクスト・メディア
家電製品などをDIY精神で組み合わせて生まれる、奇妙な自動演奏システム。作家は、必要とされなくなりつつあるときこそ、モノには新しい用途が生まれる余地があると考える。今回は中古自動車を1台まるごと「参加」させたのも意味深である。

《芸術は可能か?》価値観が大きく変わる時ですから、「あれは古い迷信を信じていただけだ」というようなかたちで、可能ではない芸術というのもはっきりしてくると思います。しかし僕は、ダメだと言われたら「いやダメではない」ということでエネルギーは上がるんですね。だから、可能です。可能性はありますね。(宇治野)

■八幡亜樹


『ミチコ教会』2008年 ビデオ・インスタレーション
山小屋で教会を営む老未亡人が、下山への迷いの中で生きる日々をドキュメンタリー風に描く。訪れた若いカップルの風変わりな結婚式、また教会や老女の存在自体が虚実の狭間を漂うものだが、作家は自身の作品群を「日常の予告編」と呼び、虚実の重要性に依らない価値観で制作する。

《芸術は可能か?》自分が美術作品を作っている意識がないというか……逆にそれが美術によって可能になっているような気がしていて。「美術というひとつの人格」ではないですが、そういうものが自分の内側に対して広がっていくことで、美術も社会に対して可能なものになっていくのかな、みたいなことは思いました。(八幡)

■横溝静


『all(J)』 2008年- Cプリント
連作『all』は、ロンドンの娼婦たちに代金を払い、彼女たちの「仕事場」で撮影された。ふだん肉体的な親密さそのものを取引しつつも、社会的には不可視な裏街道に生きる人々との、ファインダーを通した対峙。写真に付いているキスマークは、彼女たちの肉体の痕跡を残して欲しいという作家の想いにモデルが応えたものだという。

《芸術は可能か?》私のものも含め、いままでにあった芸術がもしかして「芸術ではない」という可能性は、なくはない。この先、過去を覆すほどの新しい価値が出てくるかもしれない。この先、あるいはいま、芸術がまだなされていない、という意味において、芸術は可能かもしれない。(横溝)

■米田知子


シリーズ『Kimusa』より 2009年 Cプリント
場や物に宿る記憶・歴史を写真で扱う米田の出展作は、様々な政治権力が通り過ぎた韓国の一角を、静かな眼差しで撮影したもの。かつて李氏朝鮮の官庁があり、日本の植民地時代には官立病院として、また戦後は韓国軍事病院として使われ、70年代は国軍機務司令部となった地。なお2012年には、国立の現代美術館になる予定だという。

《芸術は可能か?》可能だと思います。表現する人間は、言いたい事、社会との関係性を考えて、責任をもって自分の位置を伝えていくべきだと思います。(米田)


※都合により本記事での作品掲載はありません。
東京を拠点に活動するグラフィティ・ライター。アーティスト名を示す記号(タグ)には、特に読み方を与えていないという。今回は自身のタグを壁面に再現しつつ、街のあちこちにそれが描かれる様子を映像で伝えると共に、自身の私的な収集物を使ったインスタレーションを展開している。

《 戻る(アーティストが語る「芸術は可能か?」(1))

関連記事:
六本木クロッシング2010展:キュレーターが語る展覧会の真意(1)

展覧会情報
六本木クロッシング2010展:芸術は可能か? —明日に挑む日本のアート—
3月20(土)〜7月4日(日)
森美術館
展示情報および関連プログラム詳細はこちら
※上記コメントを含む作家メッセージ動画は森美術館サイトの「音声/動画コンテンツ」で参照可能

Copyrighted Image