山口勝弘 〈イマジナリウム〉 (1981年)

イマジナリウム

近代及び、現代芸術を社会学的にみると、資本主義的社会システムの中で出来上がった、いわゆる芸術作品としての製品概念から出発している。やがて、芸術という概念自体が、商業的な目的から神秘のヴェールに包まれ、それにつづいて、作品の内容、表現方法の両者が神秘化され、解読の可能性を隠蔽してきた。あらゆるマス・メディアは、芸術の神秘性自体には手を触れずに、その神秘性自体を大衆化する役割を負い、さらにその役割から利益を生むことを目的としてきた。
 版画というシステムが、芸術の複数化を可能にしながら、ウォルター・ベンヤミンのいう芸術の礼拝性を否定することにならなかったのは、その複数性の手段が、美術の礼拝性に依存して、原画の希少価値を、算術的に割っただけのものだったからである。それに、版画自体が、ベンヤミンのいう礼拝性の対象となっているというのは、礼拝性自体が、分割され増加したことに他ならない。版画工房というシステムは、中世から近代にかけての複数メディアとしての社会システムから、むしろ芸術のためのシステムに閉じ込められたのである。
われわれはここで、社会の中の複数メディアの存在と、その機能が、芸術とどのように関係しているのか調べなければならない。
 版画のシステムは、すでに現在、社会的メディアとしての機能を失っているが、電子コピーのシステムは、社会的メディアの機能として開かれている。われわれが、電子コピーを使うのは、一つのコピーから無限のコピーまでの量化を前提としている。しかも、このコピーの値段は、一つの単価が基本になっている。電話料金と同じである。コピーは実体を持った製品(プロダクト)でありながら、コピーの持つ意味は、情報の媒介物という見方からすれば、製品というよりは、過程(プロセス)メディアである。
 芸術は、本質的に過程メディアに関係するものであり、それぞれが必要なとき、必要な場所で、必要な人によって入手できることが望ましいのである。できれば、芸術という名称自体をも消去して、そのかわり私は、想像的行為(Imaginary performance) という言葉を使うべきではないかと考えている。想像的行為が、過程メディアの上を移行し、それが必要な人のための情報として転送されてゆくことが、基本的なシステムである。この場合、必要な人は、いわゆる受け手というよりは評価者のことを考える。

 以上のような考察をもとにして、私の提案する〈イマジナリウム〉の概念は、次のような二つの方向のなかに、実現の可能性を見出すことができるのである。
 その一つは、芸術作品そのものの形式にかかわる問題である。私は〈イマジナリウム〉を具体的なものにしてゆくため、1972年に情報構成彫刻という構想をもった。
 この構想は、ベラスケスの作品で有名な「ラス・メニナス」を、ビデオ・メディアのシステムのよって解釈したビデオ・エキササイズ「ラス・メニナス」(1974-75)となった。ここで、ベラスケスの一枚の絵画は、観客の見るという行為が、リアル・タイムの場のなかに含まれる情報環境に変わったのである。
 私にとって、この「ラス・メニナス」によるエキササイズは、ビデオというメディアの機能を、よりよく理解するのに役立ったのである。しかし、情報システムにおけるフィードバック機能を持った環境的な作品は、1974年に構想したプロジェクト「焔と水の噴水系画」である。ここでは、観客はビデオ・カメラがとらえる焔や水や水蒸気と同じく、この環境の一部のイメージとなる。したがって、「ラス・メニナス」の場合、たんに、見る立場をもって、この環境彫刻のなかに組みこまれるのである。
 こうした開放的な環境のなかに、〈イマジナリウム〉を具体化する方法として、次の作品は、より彫刻的空間を対象とした〈イマジナリウム〉である。
 二十世紀における彫刻の特徴のなかで、もっとも大きなものは、彫刻が量塊的な形態から、空間的な形態に変わった点だろう。つまり彫刻の内部は、閉ざされた見ることのできない部分ではなく、外から見通しのきくものになった。ところが、今度発表する私の情報環境彫刻は、造形的な彫刻のなかに、ビデオ・カメラ、ビデオ・レコーダー、モニター・テレビを組み込んだ、情報のサーキュレーションを含んだ作品である。この彫刻の場合、彫刻自体が観客を見る機能を含むと同時に、見られる存在であり、観客もまた、見る機能をもつと同時に、見られる存在となる。
 彫刻の前に立った観客は、彫刻を眺めている。しかし彫刻のなかに組み込まれたカメラは、つねに見る人を撮しながら、彼らにとって見えない彫刻内部のモニター・テレビの映像となって送りこまれている。この彫刻の内部は、鏡が張られ、さらにもう一台のビデオ・カメラが、この内部の情報環境を撮しつづけている。この第二のカメラの映像は、ふたたび彫刻の外のモニタ−・テレビ上に映し出される。
 したがって、観客は、彫刻の内部に成立している情報環境を、モニター・テレビによって見ることができる。この情報環境彫刻は、次のようなシステムを含んだ作品となる。

 かつてフレデリック・キースラーの提案した「終わりのない家」に対してこの彫刻は、「終わりのない情報彫刻」ということができる。
 このように、従来の彫刻の概念を〈イマジナリウム〉の概念によって超えることもできるが、〈イマジナリウム〉の概念によって、美術館の機能を再考察できないだろうか。
 アンドレ・マルローの「想像の美術館」(ミュゼ・イマジネール)は、近代以降のヨーロッパの美術館の内容が、ヨーロッパ中心の美術史の体系に限られていたものを、広く非ヨーロッパ世界の美術を含めたものに編成することを目的としていた。マルローのこうした方法論について、美術批評家の宮川淳は、それを「引用」の意識によるモニュメンタルな芸術論の体系と指摘した。彼は、「それは作品をそれ固有の時間的、空間的な文脈から切り離し、新しい文脈の中にもち来たらすこと・・・・」と述べ、「さらにマルローにおいて、美術館を補完するものとして、複製の役割が強調されているとすれば、それは複製メディアの機能がまさしく引用にあるからだろう。それは美術館と同様、いやそれ以上に、時代や場所を異にする作品を、それ固有の文脈から切り離して、対比させることを可能にする」と述べている。マルローの「想像の美術館」において、宮川の指摘する通り引用のコンセプトは、より現実的に意識化されているが、美術館とはそもそも、ヘレニズムの時代以来、引用というコンセプトに拠って成立してきたのではないだろうか。
 作品を、それ固有の時間的、空間的な文脈から引き離す「引用」と、オリジナル作品からの「コピー」の問題は、版画の例で述べたものとは、また違った観点からだが、美術館を論じる場合の中心テーマである。たとえば、建築家のキースラーは、「引用」に対して、あらゆる美術館のコレクションを、オリジナルの場所へ返還することを提案している。これは、ヨーロッパの美術館のコレクションが、掠奪品によって成立しているという意味より、作品の所属していた環境と作品の関係性を重要視する、環境芸術家としての立場から、キースラーはそれを、一種の文化的掠奪とみたのであろう。これに対して、作品と鑑賞者の関係を、コミュニケーションの場として考える立場から、個人の家が、二、三点ずつの絵をコレクションして、それらを鑑賞者が訪問して歩くという、中央集中より分散型の家庭美術館を提案している。また、こうした草の根式の提案のまえに、「テレ・ミュージアム」(1929) がある。これは「コピー」すなわち複製メディアと関係のある提案で、有線テレビを利用した美術作品の電送システムであり、プラドやルーヴルの作品の中から、好みの絵を送ってもらうという提案である。
 この先見にみちたキースラーの提案は、約50年たったいま、ようやく現実の段階に達しつつある。これらの想像の美術館の対象は、すべて芸術作品である。しかしながら、芸術作品は、ほかのすべての芸術活動と同じく、想像行為の結果の一つである。
 美術館の機能が引用にあたるとしたら、引用機能としての選別と総合が働く。美術館が、コレクションという名のもとに行っているのは、美術史の体系化にほかならない。美術館が作品を中心とした編集と体系化の中に固定してゆく原因は、想像行為を反映させる機能をもたないからである。
 しかしながら、われわれはいま、エレクトロニクス・メディアの時代に生きている。ただ芸術作品だけを、製品として取り扱っていていいのだろうか。芸術はもともと、過程メディアに結びついていたのである。
 二十世紀における視覚メディアの目覚ましい発達は、芸術作品としてではなく、見るという行為を通して読み取ることを可能にした。いまや、芸術作品を創りだす側も、それらを受け取る側もともに、同じ文脈のなかで、見ることを主題として結びつくことができる。こうした一連の行為が、想像行為なのである。
 ビデオ・カメラとビデオ・レコーダーを用いる事によって、これらの想像行為は二十世紀の視覚芸術の明確な方向を明らかにしている。二十世紀の造形芸術は、前にも述べたように、われわれの空間の意識を深めてきた。しかし、ビデオを中心とした視覚メディアは、見る行為の意味を深化させてきたのである。もはや選択可能なイメージは、あらゆる対象から選ばれる。情報メディアを通過したイメージすらも、対象の例外ではない。問題はそれらのイメージが、引用されたという点にあるのでなく、いかなる情報メディアを通して、いかなる操作によって引用されたかという点にある。さらにいえば、見る人間が、それらの操作にいかにっかわったかということ、見ることの重層化を、どのような手段によって行ったかという点にあるのである。
 すでに十五年の歴史をもっているビデオ・アートの領域でも、ビデオ・メディアは、われわれの見ることの重層化に役立ってきた。また、ほかのメディアの場合と同様に、ビデオは、映画とか、写真とか、フォト・コピーなどその周辺のメディアと深いかかわりをもっている。1980年代に、新しい視覚メディアとして登場するであろうビデオ・ディスクは、これら先行して発展してきた視覚メディアと密接な関係をもっている。とともに、ビデオ・テープにないランダム・アクセスによる情報検索が可能になる。
しかし、ビデオ・カメラとビデオ・レコーダーを含むビデオ機器は、人間の身体的機能を拡張するという目的によって、パフォーマンスの芸術領域でさらに大きな役割を果たしてゆくものと思われる。
 私の考えている〈イマジナリウム〉では、こうした視覚メディアの、それぞれの特性を生かしながら、より広い場での芸術へのアクセスを増やしてゆくのである。〈イマジナリウム〉で生まれた想像的行為が、用意されたメディアを媒介して、私という評価者に伝達されてゆく過程を、空間とアクティビティの両面から考えてみると、次のようになる。

(1) 〈イマジナリウム〉は、場所というよりは、空間におけるメディアのネットワークであるから、スケールと設備の内容については、とくに決められないが、想像的行為のために必要なスペースとメディアが用意されている場所である。そこで、誰でもが、自分の置かれている社会とか、環境とか、生活とか、芸術的表現などについて、一人でも、グループ間の人びととでも、用意されたメデイアを使用して、作品を創ることが可能である。さらに用意されたメディアを使用して想像力の形成とシュミレーション、イメージの転換などができる。また、マイクロ・フィッシュ、ビデオ・テープ、フォト・コピーなどを通して原イメージを、さまざまに変化させることができる。さらにほかの人びとの検索に供することもできる。

(2) もしこうした空間を、パフォーマンスという観点からみるならば、〈イマジナリウム〉は、我が国に伝わる連句、連歌のような集団的な芸術形式を、その先駆的な例としてあげることができる。とくに連句の座は、個人の家なのどでテンポラリーに開かれ、しかもそこでのライブ・コミュニケーションが重要視されている。芭蕉によれば、連句という表現から生まれる句より、連句の開かれている場のライヴな状況が大切なこととされている。したがって連句の座が終わると、記録に使われた紙などは、反古として捨てられるべきだと述べている。この生きいきとした、集合的な想像力のワークショプ的機能を、〈イマジナリウム〉へ反映させなければならない。

(3) 〈イマジナリウム〉のもう一つの大きな展開は、人工衛星によるコミュニケーション・システムを利用する点にある。この計画は、一つは地方にある〈イマジナリウム〉の間を、衛星による通信システムにより結びつけることである。これは中央集中的な芸術や文化活動によって生まれる文化的な階層性を排除し、ローカルな芸術や文化の特質を大切にするためにも必要な手段である。
 また、都市計画や建築物などを対象とした情報交換や、大きな彫刻や造形物の展示にともなう膨大な輸送経費を考えた場合、サテライトによる芸術情報のネットワ=クは、将来ますます重要な役割を果たすことになるだろう。こういう時代的な要請に答えるため、現在地球上の軌道を廻っている通信衛星を利用するには、いろいろな制約が多すぎる。そこで、すでに気象衛星や、軍事衛星のように単一の目的に利用される衛星があるのだから、芸術の目的に利用される「芸術衛星」を打ち上げる費用は、世界中の美術館や、美術関係者が賛同すれば調達可能な金額ではないか。

 以上いくつかの計画概念をまとめてゆけば、現在の美術館や画廊の果たしている機能のうえに、〈イマジナリウム〉の機能が、グローバルな情報ネットワークとして働くことになる。
 とくに、地球上に遺されている遺跡のような文化遺産は、たんに考古学や歴史学上の対象として、観光客の訪問を待つだけのものではないだろう。〈イマジナリウム〉のネットワークが機能的に活動すると、こうした遺跡のなかで、ビデオ・プロジェクションや、レーザー・ショーや、大ホログラフィーなどなどを利用し、さらに音楽や舞踊を含めた、大イヴェントを開くことができる。この総合的なパフォーマンスを、「芸術衛星」で、世界各地に中継し、また必要なイヴェントが、ローカルな〈イマジナリウム〉から、衛星中継によってフィードバックされてくる。
 このようなパフォーマンスは、単に芸術的表現として意味をもつだけでなく、人類の意識を、コズミックな視点のなかで、過去と未来へ向けて拡張することに役立つにちがいない。

1981年2月 東京にて


山口勝弘 〈イマジナリウム〉の実験(1977)

山口勝弘インタビュー 「時空を回遊する想像的行為」

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