Still from Je veux voir (2008). Courtesy Joana Hadjithomas & Khalil Joreige.
ムービング・モニュメンツ
インタビュー/アンドリュー・マークル
ART iT これまで物語に対する様々なアプローチについて議論してきました。さきほどあなた方は歴史と記憶とを区別しているとおっしゃっていましたがそれについて、もうすこし物語と関連させて話していただけますか?
KJ 記憶とは主観的であり思い出です。我々は同じ出来事について、記憶することができますが、違う観点を持っています。歴史は共有できるものです。記憶の中にある出来事は個人的なもので、主観に基づいたものです。レバノンでは、我々はイメージと同じように沢山の記憶も持っています。問題は、内戦がはっきりと勝者を持たずに終わったことで、普及した唯一の観点もなければ公式の歴史もないのです。これは、ひとつにはレバノンには単独性はないものの、同時に個人主義的ではあることによります。常に宗教や社会や地理的なバックグラウンドに関係しているのです。レバノンでは個人的な立場というものはありません。公式に認められた17の宗教のどれかひとつのもとに生まれ、その宗教とその習慣のもとに死んで行くのです。例えば、ここには民事結婚というものはなく、宗教婚だけが存在します。生誕や相続に関わることも同様です。それを認識した時点で、これら17の宗教がひとつの歴史を作ろうとしている方法に直面してしまうでしょう。
JH 最も大きな問題は我々がそうした事実、出来事や歴史に心から同意していないことです。我々は未だに分断されています。我々が作品や映画を含む全ての制作を始めたとき、これらの疑問を共有したいと思い、たったひとつの視点という考え方についてかなり時間を割きました。共同体を超えて自分自身で考えることができる主題、そしてこれはレバノンにおける問題ではなく、宗教や厳格な家庭や社会構造に従うように人々が育てられている他の多くの国々にも共通する問題だと思います。まず家庭で始まり、学校や、大学、仕事など各グループ、各共同体で起こっていることです。いつ、あなたは、それを自らやめ、否定し、それは私にとってよくないことだから、と言えるのでしょうか。
我々のインスタレーションは、多様なやり方で見ること、触ること、もしくは持って行くことを求められるといった個人的な体験を誘発するアイディアに基づいており、一方で映像作品は壊れやすく、かつあなた自身を投影するべき他者がいる場所、もしくは何も起こらない場所を許容する物語を創りだしています。私が興味をもった問題は、どのようにして私を、彼女が欲しいものを選ぶ誰かとして定義できるのか、というものです、
我々にとって、あなたが特異なものになるとき、そして特異なものがすべて何かについて考え、それについて観点をもち、コミュニティとしてではなく、個人として共有できるときに、歴史は作られるのです。そうでなければそれぞれの共同体の歴史しか存在せず、それらは単なる一人芝居でしかないからです。
Both: Still from Khiam 2000-2007 (2007), video 4/3 color, 103 min.
ART iT あなた方は将来のレバノンの歴史のために提案を前進させているのでしょうか、それとも、この歴史の可能性について制作しているにも関わらず、こうした歴史のアイディアを覆そうと試みているのでしょうか。
KJ 両方です。我々が制作を開始したとき、我々は戦争についてのテレビの特集番組によって生み出されたイメージの洪水と、それらが我々の将来をどう描いているかに対して反応しなければなりませんでした。我々がまずしたことはプロトコルについて考え始めることでした。どういう種類のイメージを我々が使い、どういう種類の状況がこれらのイメージによって導き出されるのか。もし与えられたイメージを使えば、政治的な背景を意識するのでしょうか。イデオロギーや哲学に基づいた結論を意識するのでしょうか。だからこそ我々はイメージを使うことの重要性について考えなければならなかったのです。他のだれも、歴史の問題に取り組んでいなかったからこそ、我々はそれをやらなければいけなかったのです。
JH 我々がしなければならないことについて明確な答えは持っていません。私は歴史を書いているとは決して言いませんが、確かな事は我々が行っていることの一部は歴史と関係しているということです。なぜなら、証人たちにインタビューを行い、行方不明者の事件や、レバノン・ロケット協会やキアム拘留所といった特定のことについて言及しているからです。つまりそうしたことは、アーカイブや資料といったことに関係しています。
したがって、我々は破壊的や挑発的であろうとしたのではなく、破壊的や挑発的に結果としてなってしまったのです。当初はそうしたことを考えてはいませんでした。我々は2000年に『キアム』という映画を作り、2007年にキアムに再度訪問しようと思いました。偶然、新しい映画が歴史を再度書くことについてのものになり、破壊的な映画になったのです。「Je veux voir[私は見たい]」は多様な方法で戦争の余波を扱っているために挑発的な作品だと思われています。言うなれば、将来の歴史のための基礎を置いたようなものですが、既存のイメージの上に押し付けようとする歴史に対する考え方を転覆させなくてはなりません。
Both: Still from Je veux voir (2008).
ART iT ハリールはたった今「プロトコル」という言葉を使いました。私が「Je veux voir」について衝撃を受けたのはこの映画が、レバノンに存在する中央政府とヒズボラのような民兵組織と、国連のような国際的組織、そしてイスラエルの間の信じられないほど官僚的な機構を明らかにしていることです。映画の中で、行なわれる旅は、実際こうした組織がお互いに調整している、抗争中のすべてのエリアを通り抜けて行きます。それらは混乱しているけれども、実際はそれに即した構造が存在しています。
JH 混乱は驚くほどに体系化されています。まるであなたが話していた循環の考え方のようです。物事がそこに存在するということを見せているのです。我々はそれを可視化したかもしれませんが、それは我々が映画を準備している段階で実際に我々の身に起こったことだったからです。映画全体がある意味で一種のルポルタージュと言えるでしょう。
映画はレバノンとイスラエルの間にある国境に三脚を置きたかったというところから始まっています。我々はそれをすることがどのように問題をはらんでいるのか知りませんでした。我々がカメラをセットした瞬間にヒズボラがそしてその後に国連が現れ、そして国境の反対側からイスラエル軍が銃をこちらに向けてきたのです。つまりここから我々はどのように三脚を立てることに成功するかという現実的な挑戦に直面することになりました。そしてそれが映画について我々が考えたことだったのです。
我々は最後の戦争以降、歴史が我々から取り上げられているという印象を持ちました。戦争と敵があり、そしてそれに伴う好戦的なイメージを作り出さないといけないために、我々がここ数年取り組んでいた歴史に対するアプローチとイメージが、完全に消されてしまったかのようです。我々のイメージは、世間で求められているひとつのメッセージをイメージで伝えるものに比べて複雑すぎたのです。
我々はここ数年このイメージによってメッセージを受け取るというアイディアに対抗してきました。我々はより深くに進む為に映画史とその観客との関係における複雑性を使う必要があると理解しました。それ故に我々はカトリーヌ・ドヌーブの起用を思いついたのです。我々にとって、彼女は別の映画史の象徴でもあるのです。この映画の意図はレバノンとイスラエルとの国境で起こっていることやそれにまつわる政治的な力の特殊性を見せるだけではなく、イメージのニュアンスや複雑性を見せることであり、好戦的な映画作品でなくても深く政治的に関与する映画作品を作ることができることを証明したかったのです。
KJ あなたの周りに戦争があるとき、あなたの歴史には空白が生じます。何かが失われるのです。我々が行ないたかったことのひとつは、たとえそれが映画史によるものだとしても、このギャップを再度繋げることができる歴史を呼び起こすことです。この映画作品は映画史が詰まっており、我々自身の映画作品も使っています。ラビが運転する車は我々の短編ビデオ『Rounds』(2001)で彼が運転していたものと同じものです。カトリーヌ・ドヌーブはいくつもの映画作品(フィリップ・ガレル『夜風の匂い』(1999)、ルイス・ブニュエル『昼顔』(1967)など)を想起させます。映画の終盤の遺跡における語りでは、腐敗したエイが海辺に上がったフェリーニの『甘い生活』の最終場面を描いています。ラビは語りのなかで『甘い生活』を描写していますが、同時にレバノンにおける何かも描写しているのです。こうしたことが我々の創り上げようとしていたことです。我々にとって、歴史は我々が守られている場所であり、それ故に歴史に言及することは非常に重要なのです。シネマとしての映画はこういった場所ででも我々に映画を作ることを可能にしてくれるものなのです。
JH 我々の他の映画と同様に、「Je veux voir」は、映画監督あるいは、イメージの制作者としての立ち位置についての非常に個人的な作品です。我々は、時々、こうした境界線を、象徴的にでも広げる夢を見ることができる、拡張し、映画と美術のような新たな領域を作ることができると信じているのです。
ジョアナ・ハッジトマス&ハリール・ジョレイジュ インタビュー
ムービング・モニュメンツ
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第20回 サーキュレーション