2.2.1861 (2009- ), last letter of Saint Théophane Vénard to his father before he was decapitated, copied by Phung Vo, ink on paper, 29,6 x 21 cm (title and number of existing copies remains undefined until the death of Phung Vo; each handwritten text to arrive in an envelope postmailed by Phung Vo directly to the buyer, whose address as recipient will be archived by Phung Vo). All images: Unless otherwise noted courtesy Danh Vo and Galerie Isabella Bortolozzi, Berlin.
5つの事柄についての永続的な調書
インタビュー/アンドリュー・マークル
II. リテラシー
ART iT あなたのお父様に関する作品はいくつ作っているのでしょう?
ダン・フォー(以下DV) 一番規模の大きい造形的なプロジェクトは父の筆跡を使った作品です。アジア諸国の中ではベトナムが唯一ローマ字を公式な表記法としている国です。漢字は専門的な分野でしか使われません。大抵のベトナム人は実に美しい字を書きます。完璧な筆記体なのですが、もちろん同時にローマ字を使う他の国で使われているものとは全く別物です。私の家族は第二次のボートピープル(主に低階級の難民)で、父は移住先の言語であるデンマーク語を含め、西洋の言葉は何も正式に学んだことはありませんでした。このプロジェクトでは、私が色々なテキストを選び、父に清書してもらっています。
例えば、クンストハレ・バーゼルでの展覧会のカタログから派生した作品では、ジュリー・オルトがピエル・パオロ・パゾリーニやエミール・シオランといった人たちの文章を編集して組み合わせた収録テキストを父に丸ごと書き直してもらいました。言葉が旅に出て多角的に変形して戻ってくる、というのが好きです。言葉が完全に不透明なものだというコンセプト、そしてそれを展示空間で見るとそこにあいている隙間があることに瞬時に気付くという構図が好きです。
ART iT そのテキストの作品は書の一種として展示するのでしょうか?
DV 私はイメージやドローイングとして捉えています。教養のある人は一定の事物の見方を学びます。私たちはお互いを見て理解し合ったと思い込みますが、作り手の存在を介することによって、私たちの理解を超えた回り道のようなものが作品の中に埋め込まれているのです。その点で、この作品はかなり気に入っています。大抵、文化の作り手は左派的な政治から影響を受けていたり、ヒューマニズムの概念に感染していたりしていて、私たちがそれらについていくら議論しようとしてもなかなか核心に触れることができませんから。このプロジェクトで特に満足しているのは、身体的に参加していながらも切り離されているような状態で父を巻き込むことができたことです。その妙な不穏さがなかなか好きです。

ART iT デンマークに着いたとき、お父様はどうしたのでしょうか? 日常生活の中で現地の言葉を話す必要はあったのでしょうか?
DV 両親は飲食店を営んでいたのですが、話す必要は殆どありませんでした。商売を何度も変えていて、貯金が充分あると思ったら労働を減らすために飲み物だけを出す店に切り替えたりしていました。どのような店かによって言葉も変わりました。
最近は例えばビリヤードができる、ちょっと怪しげなこぢんまりとしたバーをやっていました。母はお酒は飲まないのですが、根っからのギャンブラーで、自己流でビリヤードを覚えました。元々は得体のしれない男性と一緒にいることは決してないような極めて真面目なベトナム女性なのですが、今になって急にバーの客を通して下品な言葉を覚えました。そうやって両親はいつも実際に経験する全てのことに適応してきました。しかし母が筋金入りのプロレタリア階級のデンマーク語を喋るのを聞くのは本当におかしかったです。
他にも色々あります。2009年のクンストハレ・バーゼルでの個展のために[1973年のベトナム和平パリ協定が結ばれた場所である]マジェスティック・ホテルにシャンデリアを貸してもらえないかと交渉するためにパリに滞在していたときに父が訪ねてきたので、一緒にホテルを見に行くべきだと思って連れて行きました。20世紀初頭に最高級の豪華なホテルとしてデザインされた建物とそのダンスホールを思い浮かべてください。ホテルに向かうタクシーの中で父は「私たちは裏切りの部屋に向かっているんだ、死の部屋だ」と、ずっと文句を言っていました。物理的に形にはできませんでしたが、実は概念の面では父の言葉によって作品の多くが構成されています。ようやくダンスホールに着いて明かりがつけられた瞬間、父は「ああ、ヤン、きっとデンマーク女王のお城にもこんなのがあるのだろうね」としか言葉を発することができませんでした。
非常に的確な発言だと思いました。ダンスホールのシャンデリアはいろんな意味で歴史の残留物と言えますが、父の発言はそれらを将来的な視点に持ってきました。それらのシャンデリアは悲しみや苦難を忘れさせるために作られました。父はそのダンスホールで起こったことに対してとても強い感情を持っていましたが、実際に見た途端、きっとデンマーク女王の城にも同じシャンデリアがあるのだろうということを考えていました。本当に衝撃的でした。私には何でも包みこんでしまいたがる癖があるのですが、素晴らしいことに、父はシャンデリアに矛盾を与えることによって私を開けた思考に導いてくれました。

ART iT では、あなたの家族がベトナムから脱出するときに乗ったボートをお父さんが描いたスケッチを元に、トビアス・レーベルガーと一緒に大きな舟の作品「Gu Mo Ni Ma Da」(2006)を作っていますが、それはお父さんの手書きの文字のプロジェクトとは似ていたのでしょうか? それとも全く違う経験だったのでしょうか?
DV まず、そのプロジェクトは私がコントロールできなかった部分が多すぎたため、本当にたくさんの失敗がありました。全体的にトビアスの作風の真似をすることが主旨となっていたので、かなり違うと思います。このプロジェクトのためにトビアスに師事しました。彼は日曜画家であるお父さんが描いた絵を全てリメイクするというプロジェクトをやっていて、当時私はそれに影響を受けました。このプロジェクトは彼の作品からの延長線上に位置するのではないかと思い、プロジェクトを始めてみてどのように発展するか様子を見てみるというのも私たちの師弟関係に関しても面白いのではないかと思ったのですが、結局彼があちこち手を出してしまって、あとは見てのとおりです。私にとって良い経験ではありましたが、彼が手放してくれていればもっと良い作品になっていたと思います。
ART iT あなた自身の個人史の一部分を他の人が具現化させるために手渡したという状況で、その一部分があまりにも重要なものだったから不安を感じたということもあるのでしょうか。
DV 当然、それもありますが、同時にこの経験を通して手放すということも学んだと思います。部屋の隅に座り込んでブツクサ文句を言ってられない、これが現実なのだ、と。
ダン・フォー インタビュー
5つの事柄についての永続的な調書
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第8号 テキスト