やなぎみわ「1924——転換期の芸術」(2)


やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』Vol. 1 “Tokyo-Berlin”(京都国立近代美術館『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション』ならびにコレクション・ギャラリー内)2011年7月29日–30日/撮影:林口哲也/画像提供:やなぎみわ

 

1924——転換期の芸術
インタビュー / 大舘奈津子
I

 

II.

 

ART iT もうひとつ、今回の『1924』の第一部を見ていて気になったのは20年代に限らず、過去の芸術家を取り上げると、どうしても男性中心主義の状況を描くことになります。これまで基本的に女性の物語を作り上げてきたやなぎさんにとって、そうした状況は反感を覚えたりすることはないのでしょうか。

やなぎみわ(以下、MY) 当時は女性の芸術家がほとんどいませんでしたからね。ロシアから亡命したワルワーラ・ブブノワなども少し特別な存在ですし。ただし、プロレタリア、フェミニズム運動があり、そこに参加している女性作家はいました。
「1924」に登場する女性は「案内嬢」の姿をしていて、主体はありません。ナレーターであり、様々な話芸を操るイタコなのです。脚本を書き始めた当初から案内嬢というのが登場していて、自分でも何なのだろうと考えていましたが、最近になってようやく、彼女たちの役割が見えてきました。

 

ART iT だからこそ、やなぎさんは、どちらかと言えばそうした少数でがんばった女性に惹かれて作品を作るのかと思いました。大正時代と言えばモガもいますから。

MY そういう話も別作品でやってみたいんですけれどね。ただし、モダンガールというのは大衆メディアが作ったイコンです。洋装に断髪、帽子をかぶって資生堂パーラーでソーダを飲んでいるという姿からは、彼女たちの生活や思想というのは全く分かりません。何の実体もないイメージによって、女性たちの美の基準が定められ、広告などに使われる。その美の基準は西洋人のプロポーションです。山名文夫のイラストなどが典型的ですね。そうした美の基準にもかかわらず、戦時中になると良妻賢母で割烹着を着た女性像になる。西洋人の身体のイメージを輸入して、列強国と戦おうとしたことが浮き上がってきます。そうやって身体の近代化が行なわれたのです。劇中、モダンガールのなりで登場する「1924」の案内嬢にも主体はありません。実体がともなわない女性の近代的姿の象徴です。
従って、今回、案内嬢役が見世物小屋の呼び込みや講談を行ったというのは、「近代美術館」という場で「近代的女性」が「前近代の話芸」をすることで日本の近代芸術のアンビバレントな部分を触発することが出来ればという意図がありました。
講談は明治時代にものすごく流行し全盛を極め、おそらく明治の展覧会には口上師がいたのではないかと推測されます。美術館になる前、内国勧業博覧会の頃かもしれませんが、日本人が美術品というものを黙ってみることができない時代に、ちゃんと説明係がいて、説明していた。油絵茶屋など、そういうものが存在しました。引き札などには「いろいろ口上師が説明してくれる」という記述が残っています。

 


Both:やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』Vol. 1 “Tokyo-Berlin”(京都国立近代美術館『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション』ならびにコレクション・ギャラリー内)2011年7月29日–30日/撮影:林口哲也/画像提供:やなぎみわ

 

ART iT 演劇作品を作る際に芸術家がテーマになることが多いのでしょうか。

MY そうですね。芸術家の話がやりやすいですが、自分で脚本を書くとそういうものばかりになりそうで、それもどうかと思います。ただ芸術家を描くことと、演劇表現の芸術性は全く別次元の話ですから。
演劇をやることで美術のことが見えてきます。客観的に距離をおいて美術を見るからでしょうか。美術の近代化と演劇の近代化は比べやすいのです。二つ並べたらわかるのです。美術の近代化は完全に国からの近代化です。岡倉天心やフェノロサといった国から任命された人々の趣味で、美術の命運が決まって行きます。外国のものを彼らに取捨選択されたものが日本に伝わっています。フェノロサは優秀だったので、日本にとっては不運ではありませんでしたが、システム自体はそのまま膠着したまま現在に至っているような気がします。
演劇の近代化は全く違い、民間から生まれ、聞き書きみたいなかたちで発展していく。しかもライブだからメディアに乗って伝播もできない。作品が残る美術に比べるとまるで口伝のような混沌とした無秩序な歴史なんです。

 

ART iT 演劇と美術における観客との対峙において、一番違うところはどこでしょうか。

MY 演劇は直情的ですね。観客に直球を投げ続けている感じです。やはり生身なので、身体的で直接的な力が大きく作用します。そして演劇ではその力を大いに活用します。アウトプットの方法が、美術と比べようもなく、生々しく現実的で具体的に物理的に、即興で立ち上げていく。観客もそれに呼応して、作品をあまり「冷まさず」に、作品と感応して評価を決めるみたいです。歴史への感覚も、前世代に対して新しいものを作れるかという闘争的な勢いを感じます。

 


Both:やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』Vol. 1 “Tokyo-Berlin”(京都国立近代美術館『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション』ならびにコレクション・ギャラリー内)2011年7月29日–30日/撮影:林口哲也/画像提供:やなぎみわ

 

ART iT 美術作品はもう制作しないのでしょうか。

MY それは考えていますよ。演劇をやっていると美術のことが照射されるのか、よくわかるようになり、最近また新しい写真作品を作りたくなってきました。

 

ART iT 表現における新しさというのは求めていないのでしょうか。土方が見て衝撃を受けたというメイエルホリドの作品は抽象的で、これまでに彼が見たことがない作品とのことでしたが、そういう「見たことがないもの」を作り出そうというようには思わないのでしょうか。

MY 作品の前衛性ということですね。ただ私は概念や風景を提示するより、やはり人間を描くことが好きなんですね。バウハウスのシアターワークショップ、やオスカー・シュレンマーのトリアディック・バレエ(1922)などは格好いいとは思いますけれどね。それでもやはり「1924」は人を描く会話劇になっています。そういう意味で私はモダニストではないのかもしれません(笑)。
文献によれば、土方の演出したゲーリングの『海戦』(1917)は、上演の際、誰も理解ができなかったようです。台詞が早すぎること、全く意味不明の言葉の羅列、効果音が大きすぎること、そして立体の舞台ですね、そうした初めてのことばかりで観客の理解の範疇を超えていたのでしょう。特に立体の舞台は、それまで書き割りの舞台しか見たことがなかった観客を非常に驚かせたようです。舞台上演後は、観客は困惑し無言で劇場を出たとのことで、とにかく非常に新しかった、という演劇です。村山のような人物だけが反応をして絶賛をしたわけですが、意味がわかっていたかどうかは不明です。
オリジナルの脚本『海戦』はエイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』(1925)のベースになった部分も多い作品ですが、今回はそれを劇中劇として如何にわかりやすくするかに苦心しています。今回は『海戦』のオリジナル部分を上演しますが、それを演出家が逡巡するという多層構造になっています。

 


Both:やなぎみわ演劇プロジェクト『1924』Vol. 1 “Tokyo-Berlin”(京都国立近代美術館『視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション』ならびにコレクション・ギャラリー内)2011年7月29日–30日/撮影:林口哲也/画像提供:やなぎみわ

 

ART iT 何かをわかりやすくすることに関して、興味があり、悦びがあるということでしょうか。

MY 今回はオリジナルの表現派舞台「海戦」の部分は、まず観客に分かるよう「届けて」おかねばならないんですね。そこからさらに付いて来てもらわねばならない、それだけのことです。
芸術と大衆化の関係について言うなら、「わからなくても良い」という選択は確かに芸術に自由を提供するとは思います。権力にも、そして無知な大衆にも寄り添わない孤高の自由というのは、かっこいいですけれどね。ただ、その選択をする時に、結局、芸術のための芸術という、20世紀初めにどこぞで作られた「聖域」や「神殿」に信者のように依存しているだけなのではないかとも思います。

 

ART iT やなぎさんは、あの20年代の芸術家が左翼思想に向かっていったように、何らかの思想を持っているのでしょうか。

MY 20年代の日本の多くの芸術家たちが左翼思想に向かったのは、関東大震災の後の、大虐殺のトラウマもあり、検閲も一気にサディスティックになっていく中で思想と芸術の自由を護る闘争が重なっていたからですが、皮肉にも、何かのひとつの思想に寄辺を求めると必ず芸術は衰退し、面白くなくなるということは明白でもあり、私自身は制作において特定の思想に向かっているわけではないです。演劇でも美術でも芸術の面白さというのは、そういった方向性からも自由に創作活動を続けていくこと、揺さぶりを掛けて混乱を生むところにあります。しかし、芸術を即戦力に用いた時代の芸術家たちのモチベーションを今の時代から否定することは出来ません。

 

ART iT 未来のことを語ろうとは思っていますか。

MY 面白いかもしれませんね。それを始めるにはもう少し過去のことを振り返りたいと思います。ただ、今、現実の対処ができていない現在の社会状況を考えると、未来を語るために、いま過去を振り返っているのかもしれませんね。

 

 

やなぎみわ インタビュー(1)

 

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