光州ビエンナーレ 2010

光州ビエンナーレ 2010 『10,000の命』
韓国、光州ビエンナーレホール他
2010年9月3日–11月7日


Sanja Ivekovic, On the Barricades, 2010, Performance

第8回目となる『光州ビエンナーレ2010』が2010年9月3日に始まった。
光州事件から30周年となる今回のビエンナーレは『10,000の命』の題を冠し、ニューミュージアムの特別展担当ディレクター、マッシミリアーノ・ジオーニがアーティスティックディレクターを務めている。「あまりにもイメージが溢れている世界で、もはやイメージそれ自体が命を持っているかのように思える現在こそ、イメージは何をしたいのだ、と問いかける時期に来たのではないかと思っています」と開催前にART iTの取材に対して答えたジオーニはその溢れるほどの量のイメージを展示し、イメージが持つ様々な側面を詳らかにした。

今回の展覧会タイトル「10,000の命」は韓国の詩人、高銀(コ・ウン)の詩集の題名からとっている。「10,000の命」という表現は韓国語では、ジオーニによれば、単に数量を表すだけではなく、その後ろにひとりひとりの命が意識されるという。見る・見られる、家族のアルバムといったイメージの持つ役割や機能を見せる展覧会で、世界各国から参加した134人の作家による、1901年から2010年の間に制作された作品、総計9000点に及ぶイメージが展示されている。

導入部となるギャラリー1は展覧会の始まりにふさわしく、シンプルでありながらもキュレーターの意図が伝わる展示である。サンギル・キム、ブルース・ナウマンらの作品に続く部屋には、マイク・ディスファーマーの作品。20世紀初頭にアメリカの田舎町で写真店を営み、そこで彼が撮影した住民のポートレートは、各々は家族写真であるが、町の住民のほとんどが撮影されたことでコミュニティーの特徴をも映し出している。その手前に展示されているのは、今回、ビエンナーレが制作依頼をしたサーニャ・イヴェコヴィッチによるパフォーマンスと写真。「10,000の命」というテーマにふさわしく、光州事件で亡くなった人々を悼む歌をボランティアがハミングで歌い続けるパフォーマンスと、遺族から集めた写真を併せて展示している。家族や亡くなった人のイメージを通じて探る記憶と、エレジーとも言えるハミングが交差する空間となっている。


Arnoud Holleman, Untitled (Staphorst), 2002, Video, black and white, silent, 11:03 min.

次に続く部屋はカメラを通じて見ること、見られることの感情を疑似体験させる。映画『アイズ』(1978)からフェイ・ダナウェイがカメラで撮影するシーンを切り取りつなぎ合わせたアン・コリアーのスライド作品「Women with a Camera」(2009)、マリリン・モンローを見出したカメラマン、アンドレ・デ・ディーンズによる、毛布で顔を隠したモンローのポートレート「Untitled (Marilyn Shows What Death Looks Like)」(1946–2010)、さらにピューリタンの人々の撮影を試みるが被写体に顔を隠されてしまうという1960年代のアーカイブフィルムで作られた、アーノウド・ホルマンによる作品「Untitled(Staphorst)」(2002)の3作品を組み合わせており、主体、客体としての視点を交錯させる優れた構成の部屋であった。隣の部屋に展示されたマイク・ケリーの「Rose Hobart II」(2006)は観るものに刺激的な映像を覗き見させ、後ろめたさを感じさせ、さらに身体的にも見ることを強制するインスタレーションである。
その後につづく展示室も、見ることと見せることを巡り、絵画、写真、彫刻、インスタレーションと、様々な表現形式で見せる仕掛けが続いていく。深い洞察というよりは、「見る」ということに関する様々な側面を立て続けに見せるという点で興味深い。70年代に作られたフランコ・ヴァッカーリのインスタントカメラスタンドを使った作品、「Leave on the walls a photographic trace of your fleeting visit」(1972/2010)では観客が3分間写真を撮影し、自らその写真を壁に貼る。観客の参加を促すことにより、平面に陥りがちな展示にリズムをつける作品として、うまく機能していた。
ウォーカー・エヴァンスによる、大恐慌時代のアメリカ政府の農村安定局(FSA)から依頼されて撮影したアラバマの農村を記録した写真シリーズ(1935–36)と、それを引用したシェリー・レヴィンのシリーズ作品『After Walker Evans』(1981)を並べるというような、極めて単純で表層的な構成もあったが、イメージのバリエーションを見せるという点に集約されていたことを勘案すれば、すべての知的考証行為は観客に委ねられているという好意的な見方をするべきであろう。

ギャラリー2は、錯覚、それを作り出す技術や見ることの集積、といったものが集められた。スタン・ヴァンダービークの機器を使った実験映像のインスタレーションから、ブリジット・ライリーのペインティング、トマス・バイルレのシルクスクーリン、佐藤允のドローイングの他、実験工房のDVD作品(オリジナルは35mm)「銀輪」(1955)といった錯視を生み出す作品や、視覚の遊びを見せるものが集められた。特に実験工房の「銀輪」は、過去の作品でありながらも古さを感じさせないという点で、あえて時代順に並べていない今回の展覧会コンセプトを現している作品と言える。視覚の面白さを感じさせつつ、展示はイメージの生み出すヒーローや、メディアが生むイメージに関するものを並べて見せて行く。大竹伸朗の『スクラップブック#1–64』(1977-2005)は時間軸の長さ、バリエーションに富むイメージの収集と集積といった点でも展覧会の主旨に合致する作品であったが、前後の展示作品が持つ文脈と分断され、すこし唐突な印象があった。強度のある作品だけにこの配置の選択は残念であった。ダンカン・キャンベルの「Bernadette」(2008)は1969年に21歳の若さでイギリスの国会議員となったアイルランド人の革新運動家、ベルナデット・デヴリンに関するアーカイブ映像を集めて作った作品。カリスマ性を持った有名人としての彼女と私生活における彼女の映像資料を組み合わせることで、メディアイメージが映し出す人間像と私生活での実像のブレを描いている。ハンス=ピーター・フェルドマンによるインスタレーション「9.12 Front Pages」(2001)は9.11アメリカ同時多発テロ事件を報じる世界各国の新聞の第1面の複写から成る。この作品もまた、メディアが如何にイメージの流布に関わっており、それが人々のイメージに作用するかを表しており、同じ日の世界各国の新聞を見せることでグローバリズムの浸透を見せている。

ギャラリー2から始まるイメージの記録的役割のテーマはギャラリー3にも続き、政治的な作品が多く展示されたが、各作品がもつ政治的社会的背景を観客に理解させるというよりは、イメージにそれを伝える記録的役割がある、という展示になっており、展覧会が表層的で図像学的なものにとどまってしまった要因となっていた。つまりイメージの強さを見せることで、結果的に作品の説明をしなければ政治的な背景がわからないという矛盾が表出してしまっている。展示がきれいなだけにより表層的に見えてしまうのだ。とはいえ、ここで展示されたカール・アンドレの「War & Rumors of War」(2002)と顧徳新(グ・ダージン)の「2009-05-02」(2009)、そこに続く1970年代後半にカンボジアのトゥールスレン刑務所(現在は虐殺記念館となっている)で撮影されたクメール・ルージュによって虐殺される前の囚人達のモノクロの一連の肖像写真は、「10,000の命」というタイトルを具現しており、ジオーニがこうした政治的な作品にコミットはしないながらも真摯な態度で臨んでいることがわかる展示となっていた。


Carl Andre, War & Rumors of War, 2002, 90 Australian hardwood timbers, 90 x 29 x 29 cm each / 90 x 379 x 350 cm overall. Wall: Gu Dexin, 2009-05-02, 2009, 54 wooden panels, paint, red lacquer, dimensions variable

ギャラリー4の展示では、コレクターであり、自身の財団を運営するイデッサ・ヘンデルによる「テディベア・プロジェクト」が圧巻であった。2004年にミュンヘンのハウス・デア・クンストでヘンデル自身がキュレーションをした彼女のコレクション展『パートナーズ』で展示したプロジェクトを再現したものである。これはテディベアが写っている写真を強迫観念とも思えるほど執拗に集め、2室にわたって図書館の様に展示しているものであるが、何よりその量に圧倒される。一方ではこの作品がジオー二にとって展覧会の構成を考える上の開始点として重要だったことは理解できるが、ビエンナーレという大型グループ展でもあることを考えるとその規模の大きさがすこし過剰であったかもしれない。ただし、こうした、デジタルでなくても過剰性を持ちうる集積されたイメージの特性を見せたかったのであれば、機能していたと言えるだろう。


Installation view, Gallery 4, Gwangju Biennale 2010

賛否両論を引き起こすと予想される展示がギャラリー4奥に作られた2室。1993年にアーネムの国際展『Sohnsbeek 1993』で、マイク・ケリーが企画した展覧会内展覧会である『Uncanny』へのオマージュとした展覧会内展覧会である。すでに2004年にテート・リヴァプールとウィーンのルードヴィッヒコレクション近代美術館(MUMOK)で再構成した展覧会が行われた伝説の展覧会だが、今回はケリーに無許可で一部を再構成している。フロイトの言葉からタイトルをつけたオリジナルの展覧会でケリーは、収集されたオブジェやリアリスティックな彫刻を通じて記憶、再収集、恐怖、不安といった要素を提示した。筆者はオリジナルとされるケリーの展覧会を観ておらず、どの程度今回展開された展示作品がオリジナルに近いものかは不明であるが、ジオーニはアプローチとして、美術品と非美術品(たとえば救命訓練用の人体模型)、近代のオブジェと現代美術といった作品とオブジェを並列して見せる手段を、ケリーから学んだことを明らかにしたかったのかもしれない。
工藤哲巳や韓国の伝統的な人形など、明らかにオリジナルには含まれていないであろう作品群は、ケリーに対する揶揄ではなく、アジアの土地柄を考えたものと推測される。
キュレーターという、必ずしも参照元を明らかにする必要がない職業において、こうしたジオーニの愚直さは観るものを混乱させる可能性も否定できないが、手の内をすべて明かす展示は不思議なことに逆に新鮮に見えた。

別会場の光州市立民俗博物館と光州市立美術館では独立した展示ではなく、メイン会場にあってもおかしくない展示が開催されていたが、展示の質はメイン会場より精彩を欠いていた。特に民俗博物館は、館の性質と、若手作家中心の展示との乖離が気になった。一方、市立美術館では、アンディー・ウォーホールやディーター・ロスといった物故作家の記憶が作品自体のイメージと重なり合い、センチメンタルな空間を生み出しており、印象に残った。しかし、シンディー・シャーマンの「Untitled」(2010) は他の作品がイメージ性を色濃く保有しているにもかかわらず、浅薄な作品であった。

今回の光州ビエンナーレは、いわば「イメージ」を巡る直球の展覧会と言える。その意味では切り口は多いものの、どの作品も均等に、丁寧に見せている反面、キュレーターのメッセージを伝える展覧会ではなく、アンソロジー的なものである。詩集からヒントを得、家族のアルバムを目指したというだけあり、その一覧性と、量的な部分を如何に見やすく見せるか、ということに注思していたように見える。したがって、過去の作品も現代の作家の作品と同等に扱っており、作家性や栄光を讃える展示でもなかった。「テディベア・プロジェクト」や数多くの記録写真の展示も、時系列でなく、美術作品と並列して展示してあるため、見る側に美術に対する理解力がない場合、フィクションかノンフィクションかの混乱は生じうる。
また、ニューミュージアムのキュレーターという現職を意識したかどうかは不明だが、若手作家を意識的に入れていた。しかしながら、その展示の仕方も大きな文脈に挿入する形であったため、必ずしも展覧会のテーマとは合致していない若手作家の作品も少なくなかった。

それでも、今回の展覧会は、乱立している国際展においても、光州ビエンナーレが重要になりつつあることを示し得た。その理由はいくつかあるが、特に光州の場合、まずメイン会場が決まっていることで、展示技術が回を追うごとに向上していることがある。特に韓国側において、前回のメインスタッフが今回そのまま残っているメリットは非常に大きい。これら2点により、キュレーターとの関係構築が比較的スムーズに行われていること、展示や運営ノウハウが確実に蓄積されている様子が窺い知れた。会場とスタッフの定着は円滑な国際展運営においては非常に重要であろう。
展覧会としては、ここ数年の流れであった、ビエンナーレという国際展の構造について考えるというよりは、よりテーマ性を重視した展覧会となっている。それが結果として、今年光州に先立って行われたベルリンビエンナーレや同じ韓国で行われている釜山ビエンナーレにも見られるように、テーマ展としてまとまりを見せ、説得力のある展覧会に繋がったように思えた。スペクタクル性が重視され、イベント的性格を持つ国際展からの脱却の方向性が一層強まっている。数あるビエンナーレの中でも古株にあたる光州のそれは、もはや「町おこし」的性格を必要としない、とも言えるかもしれない。また、前回のドクメンタ12が決定的にしたように、現代美術だけではない作品、歴史的な作品やアーカイブを含めることも、もはや展覧会の手段として定着しつつある。これについては、美術史的な議論も必要ではあると思うが、一方で現存作家においても、アーカイブ資料や写真を使って作品制作をする作家も増えており、線引きが難しくなっている。そうした意味でも、今回の展覧会はそれらを巧妙に混在させており、ここではすでに作品とはなにかという問いすらなく、ただ「イメージ」について表層的に語ることに特化しており、その意味において、ビエンナーレのイメージ向上にも貢献したと言えよう。

光州ビエンナーレ 公式ホームページ
http://gb.or.kr/?mid=main_eng

アーティスティックディレクター、マッシミリアーノ・ジオーニのインタビュー(英語)

フォトレポート
第8回 光州ビエンナーレ 2010 part 1

第8回 光州ビエンナーレ 2010 part 2

第8回 光州ビエンナーレ 2010 part 3

第8回 光州ビエンナーレ 2010 part 4

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