12:瀬戸内国際芸術祭を観る(後編)

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瀬戸内を訪ねた9月初頭はまだまだ猛暑で、連日、滝のような汗で全身の水分を搾り取られるようだったが、今時はもう大分涼しくなったことだろう。前回は個々の展示について触れることができなかったので、後編では島ごとに気になった作品を見て行きたい。
 

鈴木康広「ファスナーの船」

留め具のような形状の船が海をファスナーのように開いて行く「ファスナーの船」(鈴木康広)をデッキで眺めながら最初に渡ったのは女木島だった。港に着くと、地図を片手にまずは福武ハウスを探す。辿り着いたのは現在、休校中の女木小学校と旧保育所を使っての展示だ。玄関を入ったところに、休校直前の学校の様子が写真で飾られていて気になる。こうしてかつての島の様子や離島が抱える問題について知るのも、この芸術祭の一部と言える。展示ではビル・ヴィオラ(ジェームス・コーハン・ギャラリー)と杉本博司(ギャラリー小柳)に注目。前者はいつも通りの完璧な映像のコントロールで唸らされる。が、中庭の随所に置かれた悪い冗談ともつかぬ展示には、何度も杉本の名を確かめさせられた。デュシャンが下敷きなのは一応わかるが、駄洒落と悪趣味を極めたかの造作は「国際芸術祭」の名に逆行するようで、これも日本でのデュシャン受容への杉本一流の解釈なのかと勘ぐらせる。いろいろな意味で問題作だ。
 
陽光を求めて斜面に家が密集する男木島は、船から見た島の体そのものの美しさにも感心したが、細い露地を巡る体験も素晴らしい。港の近くにあった大岩オスカールの絵画「大岩島」が先日の火災で不幸にも焼けてしまったのは残念だったが、短時間で描かれたという速度感と、そうとは思えぬスケールとのギャップが見事だった。他には旧民家を使い、かつて住んだ人の呼吸が凄みを増して匂いごと甦るような北山善夫による展示が光る。時を忘れ長居してしまった。
 

王文志「小豆島の家」

小豆島は今回、会場となる島の中では最大で、観光地としても全国的に著名だが、内陸部に島とは思えぬ抱き込まれたひだ状の地形を持つのを、今回の訪問で初めて知った。とりわけ棚田が美しく整備され、秋には(もう終わったことだろう)農村歌舞伎の舞台となる神社の境内に近接した、王文志(ワン・ヴェンチー)の「小豆島の家」は遠目にも見応えがあった。中に入ると四方のみならず床からも風が抜け、時間ごとの光や天候も吸収して環境と一体化するドームは、一瞬ここがどこなのか、わからなくさせる記憶の撹拌力がある。


戸髙千世子「Teshima Sense 」
 
豊島の名からは、即座に産業廃棄物処理の問題が浮かんだものだが、実際に渡ってみると、島の大半は光と水、緑と海への景観に溢れ、名前の通り「豊かな島」として今回の滞在でももっとも印象深い。むろん展示も充実していて、古民家を使い、見る者の記憶の底まであぶり出すような木下晋、同じく民家を使いながら対照的に「2001年宇宙の旅」さながらの感覚にさせる横尾忠則の展示がよかった。唐櫃岡(からとおか)は島ではもっとも不便な地区らしいが、歴史の名残や土地の地勢を活かし、今回の芸術祭でも屈指のゾーンとなっている。個々に詳しく触れられないのが残念だが、旧公民館を使い場を一変させた塩田千春、やはり旧民家を使ったクレア・ヒーリー&ショーン・コーデイロ、スー・ペドレー、ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーは必見だろう。神社の水の湧き出し口に設置された青木野枝の彫刻や、その延長線上にある明神池に設置された戸髙千世子のオブジェ越しに見る広大な海の景観は今でも忘れられない。これらはいずれも、造形そのものに過度の主張はないものの、何もなければおそらくは気付くことのない島の「眺め」を作品から見る人に開き、渡す力を持つ(この連載がアップされる頃には、同地区にある豊島美術館——内藤礼・展示/西澤立衛・設計——も開館しているはずだ)。唐櫃浜の神社の奥に設置されたクリスチャン・ボルタンスキーの「心臓音のアーカイヴ」も、コンセプトばかりが注目されがちだが、見知らぬ人の心音を聞きながら、絶妙の比率で開かれた窓から眺める神域としての海は怖くなるほど静謐で、心臓音の鑑賞にこの地を選んだボルタンスキーの選択に感心せざるをえない。
 

青木野枝「空の粒子/唐櫃」

過去に何度も足を運んでいる直島と、昨年、訪れたばかりの犬島、そして港の展示はここでは省略するけれども、最後に特記しておきたいのが大島だ。大島はハンセン病回復者のための「国立療養所 大島青松園」がある離島として知られるが、今回、療養所や島の一部を展示と併せて公開しているのは画期的なことと言えよう。僕は9月4日、施設内の大島会館で開かれたコンサート「音が絵になり、絵が音になり」(小室等、太田惠資、こむろゆい、田島征三)に招かれ、足を運ぶことができた。展示に関しては名古屋造形大学の髙橋伸行が2002年より学生と行っている「やさしい美術プロジェクト」の一貫として「つながりの家」が催されている。とりわけ忘れられないのは入所者のいない住居棟を使った「ギャラリー15」での展示で、前庭に設置され、かつて解剖のために使われていたという手術台には言葉を失う。反面、高台にある納骨堂から海へと日が沈む様はこの世のものと思えぬほど美しく、過去から変わらぬ自然の周期と、会館を始め多くの設備が真新しいこととのアンバランスな対照には様々な思いが心をよぎった。
 

やさしい美術プロジェクト「つながりの家」

こうして島々を巡ってあらためて思うのは、今回の会場となる七つの島が、近代以後の産業の栄枯盛衰や国の厚生行政の過ちなど様々な矛盾を抱えつつも、それが必ずしもこの地域ばかりに特殊な問題ではないということである。そうではなく、むしろ日本列島そのものが、数多くの島々からなる群島であり、それゆえにより大きな世界の視点から見た時には瀬戸内と同じような近代の構図を持つ。そのことを、究極的にはアートを通じて再度、発見することができるのでなければならない。瀬戸内国際芸術祭は、この意味では「瀬戸内」を観光的に楽しむだけではなく、日本という列島国家を、東アジアや太平洋の全域のなかで再発見する「海の道」へと通じている。そこには、かつてわれわれが浴びた陽光や夕陽、そして果実や野菜の香り、そして水の甘さがある(今回は触れられなかったが、各島でありつける食の楽しみも芸術祭の欠かせぬ要素だ)のだが、それは、つきつめれば瀬戸〈内〉からその〈外〉へと通じていくものでなければならない。ありのままの瀬戸内を通じて、アートという「瀬戸の外」を開いて行くこと、それがこの芸術祭の最大のテーマなのではないだろうか。

写真提供(全て)=瀬戸内国際芸術祭、撮影:中村脩

 
瀬戸内国際芸術祭2010

会期:7月19日〜10月31日
会場:瀬戸内海の7つの島+高松

目次
連載 椹木野衣 美術と時評

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