43:再説・「爆心地」の芸術(19)<やさしい美術>と鳥栖喬(中編)

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「ハンセン病療養所大島。鳥栖喬の写真。フィルム00番。」(高橋伸行のTwitterより(以降すべて)。2014年8月2日の投稿)

鳥栖喬(とすたかし)という写真家(と言ってよいのか)が<存在する>そのありようは、とても奇妙で前例がない。その例のなさは、この人物が残した作品(なのだろうか)に、従来の美術批評の尺度を省察なく当て評価することのむずかしさに通じている。が、だからこそ、そこには考えるに値する新しい批評の可能性があるようにも思われる。以下、その「むずかしさ」について、ひとまず箇条書きにしてみよう。

  • 鳥栖喬は実在しない=それは仮の名前である。ハンセン病の患者(療養者)であったために本名を名乗ることができなかった。これは発表を前提とする通常の筆名や屋号とは根本的に違っている。
  • 鳥栖喬については、同じ理由で詳しい履歴がわかっていない。もっと言えば、ハンセン病の患者に対する国家の断種政策ゆえ、むしろ履歴は進んで消される方向で働いた。
  • 鳥栖喬には顔がない。記録がないために顔が浮かばないというのもあるが、ハンセン病の患者にとって「顔がない」のは、「居てはならない存在」であったことを示すもっとも端的なありようである。併せて、病によって変形した容貌が世間との断絶を深くしたであろうことも考えねばならない。
  • そして、なにより今こうして私たちが鳥栖喬の写真を見られるのは、美術家の高橋伸行がいたからである。彼が大島青松園での「やさしい美術」プロジェクトにかかわらなかったら、鳥栖喬の名も、鳥栖喬の写真も世に出ることはなかっただろう。
  • しかも、鳥栖喬と高橋との関係は、たんに発見された者と発見した者との関係に留まらない。高橋はそこからさらに歩を踏み出し、みずから鳥栖喬の名を襲名するに至る。すなわち、鳥栖喬とは高橋伸行のことでもある。

ほかにもあるが、ざっと思いつくところで挙げれば、こんなところだろうか。以上のことを踏まえれば、鳥栖喬という写真家(なのだろうか)について、<作家 − 作品 − 批評>というような旧来通りの単純な分離を施したうえで「評価」「論評」するのが、いかにむずかしいかは歴然としている。


「ハンセン病療養所大島。鳥栖喬の写真。船と岩。」(2014年7月14日の投稿)

たとえば、事故で過去の記憶を失った写真家、中平卓馬の作品にも似たような批評のむずかしさが存在する。近年、中平卓馬の名のもとに多くの展覧会が開かれるようになった。しかし、果たしてそれを「中平卓馬という作家」が居り、「中平卓馬の撮った作品がある」と素朴に考えて批評することは、はたして可能なのか。

そこには、自我の擁立から発した近代芸術と、おのれを置いて他のなにものにも頼らぬその自我が唯一、反省を通じて(自我とは内省するものである)自覚するためにどうしても必要となる「批評」という双生児の役割を、根底から崩してしまうものがある。本来であれば、そこに自我があるか否かそのものが問題となるはずだからだ。

いったい、中平の壊れた自我は、近代芸術的な観点から見たとき「作家」であることの条件を担保できるのか。そもそも、そんな中平に「作品」の「発表」を可能たらしめているのは、カメラが表現のための道具というよりも端的に機械であり、シャッターを押しさえすれば誰でもなんらかの像が写ってしまうという身も蓋もなさに多くを負っている。ゆえに、中平卓馬を生真面目に論ずることにどこか滑稽さがつきまとうのは、作家と論者とのあいだの関係はあいかわらず据え置いたまま、従来通り批評を適用できると考える、その素朴さに起因する。


「ハンセン病療養所大島。鳥栖喬の写真。8億年前のくぼみとされる、コペルニクスクレーター。」(2014年7月20日の投稿)

けれども、鳥栖喬を論じることのむずかしさは、そのような素朴ささえ許さない。そのむずかしさを敢えて一言であらわせば、鳥栖喬という写真家は二重に存在する。一方では不確かな存在として。他方では確定的な存在として、ということになるだろう。

確かに一方では、鳥栖喬はまちがいなく存在した。その証拠に、彼が撮影した写真が実際に数多く残されている。見ればどれも素晴らしいものばかりだ。書き手としては好奇心をくすぐられずにはおられない。たとえ鳥栖喬についてなにも知らないとしても、その名すらも仮名で顔さえ浮かばないのだとしても、残された写真を論じることまで不可能なわけではない。

しかし他方では、鳥栖喬とは高橋伸行のことでもある。私たちは高橋伸行という作家については、ブログやツイッターを通じて、ありうかぎりの情報を得ることができる。この意味では、われわれは高橋伸行=鳥栖喬について実に多くを知っている。つまりわれわれは鳥栖喬について多くを知っているが、ほとんどなにも知らない。

この矛盾は、私たちがもう高橋と鳥栖を分けて考えることができないということに由来する。そこにはもう、作品の単一な属性としての作者はおらず、作品もまた特定の誰かの創作物にとどまるものではない。

かりに高橋が従来通りのキュレーターや評論家のように鳥栖喬の発見者という立ち位置に留まっていたならば、このような困難さは生じなかった。しかしアーティストとしての高橋がすでに鳥栖喬を襲名している以上、高橋の一挙一動は、鳥栖を研究したりキュレーションしたりというのとはもう根本的に違うものになっている。高橋の一挙一動が、今では鳥栖喬の一挙一動でもありうるのだ。


「ハンセン病療養所大島。鳥栖喬の写真。鳥栖の足が写っている。いくつかの位相が松の断面で一致を見ているような。」(2014年7月22日の投稿)


「ハンセン病療養所大島。そこに、立ってみる6。そこから振り返り、鳥栖喬が立っていた地点を、見る。」(2014年7月30日の投稿)

高橋は、鳥栖喬が残した写真を世に出す特定の場所=サイトを、おもにツイッターというノンサイトに据えている( @yasashiibijutsu )。彼は、見つかった鳥栖喬の写真のなかから、高橋=鳥栖自身が関心を引くものを選び出し、簡単なコメントと併せて不定期でツイッターにアップする。高橋=鳥栖は、鳥栖喬がどのような視点や関心から場所を選んで写真を撮ったのか、反復するかのように呟き、また「そこに、立ってみる」という実際の試みを通じて、姿の見えない透明人間のような鳥栖喬の身体の気配や在処を、かろうじて探り当てようとする。


「ハンセン病療養所大島。鳥栖喬の撮影自助具。どのように使うのか。 」(2014年2月12日の投稿)

さらには、病で変形した鳥栖喬の身体は、写真を撮影するために、様々なかたちの自作の道具(自助具)を通じて、そのつどなんらかのプロテーゼ器官補填が行われたようだ。身の回りの木っ端などで作られた自助具を鳥栖がどのように使いこなしたのか、詳しいことはわかっていない。しかし、今度はそれを高橋=鳥栖の方でいまいちど写真に撮りネットにアップするとき、見る者は、それが鳥栖喬という存在と写真機をいかに<写真的に>繋いだかについて、物理的な意味でも意味論的な観点からも想像させられる。

これらの興味にいちいち答えていこうとすると、もはや従来の<作家 – 作品 – 批評>といった予定調和的な了解は成り立たなくなる。いや、無理に成り立たせることもできなくはなかろう。しかしそのとき、鳥栖喬という写真家(なのだろうか)に特有の、存在の輪郭さえ浮かび上がらせることが困難な弱い力は失われてしまう。それは現存するアーティストの襲名という無謀な介入によって、初めて存在することが可能となるたぐいのものであり、それなくしてはそもそも写真家としては成り立たないような危機的(=クリティカル)な立ち姿なのである。(次回に続く)

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