追悼-東谷隆司 文/都築響一

インディペンデントキュレーターの東谷隆司が2012年10月16日に亡くなった。1999年に世田谷美術館で『時代の体温』という日本の美術史に残る展覧会を企画した後、オペラシティギャラリー、横浜トリエンナーレ、森美術館の、いずれも立ち上げに関わった彼は、2008年に複数のキュレーターのひとりとして参加した『釜山ビエンナーレ2008』で、その実力を認められ、2010年、日本人初の釜山ビエンナーレのディレクターを務めた。
生前付き合いのあった都築響一による追悼文と共に、彼に関連する過去の記事をここに再録する。(ART iT編集部)


2008年 撮影:森村泰昌

追悼・東谷隆司くんに寄せて
文/都築響一

東谷くんが亡くなってからもう2ヶ月以上がたって、いまさらこんな追悼文を書いているのは、ひどく間抜けな感じがする。「都築さん、なにやってんすか」と、東谷くんにどっかから笑われてる気分だ。

東谷くんと僕はちょうど干支でひと回りちがう、若い友人だった。でも、いっしょに仕事をしたことは一度もない。いっしょに遊んでただけだ。

『時代の体温』を東谷くんがキュレーションする少し前、僕が水戸芸術館で『珍日本紀行』の展覧会をやっていたころに、僕らは知りあった。もう13、4年前になる。

そのころの東谷くんは、勤務先の世田谷美術館に行っても、ジャージ上下にゴムゾーリをペタペタさせながら歩き回ってるような、ものすごく異色なキュレーターだった。そうして、知りあって最初に驚いたのは、美術館の展示室内に、膝掛け毛布で座ってる女の子たち、あの子たち全員の誕生日を覚えてる! という、林家ぺーみたいな特技だった。

ふつうの学芸員たちは、膝掛け毛布の女の子なんて、名前すら覚えようとしないだろう。東谷くんは全員の誕生日をしっかり記憶して、でも誕生日その日に言うとプレゼント代がかかってしまうから、「その翌日に、『きのう誕生日だったよね、おめでとう!』って声かけるんすよ」と、自慢そうに言っていた。

東谷くんは世田谷美術館時代も、森美術館時代も、上からはずいぶんめんどくさがられていただろう。でも、展示室に座らされてる女の子たちや、食堂のおばちゃんたちからは、ものすごく慕われていた。僕が知るほとんどすべての学芸員は上しか見ていないけれど、東谷くんだけは下ばっかり見ていた気がする。

背伸びするのではなく、地べたにしゃがみ込む感覚。捨てようにも捨てられない、アンダーグラウンドに向かう精神。それが東谷くんという人間をつくりながら、東谷隆司というキュレイターはあくまでメジャーな美術館で、メジャーな展覧会をキュレーションするという野心にもあふれていた。そういう両極端のベクトルをこころに抱く、優秀でものすごく扱いにくい人材を存分に暴れさせてくれる美術館なんて、この国にはありっこないのに。

美術業界における権威的なるものを徹底的に軽蔑しながら、みずからはその権威の、手のひらの上を走り回らざるを得なかった日々。それが東谷隆司という希有な才能の、半分を殺したのだろう。そうして、こんなに素敵な猛獣をだれひとりとして使いこなせなかった日本の現代美術界が、東谷くんのもう半分を殺したのだと、僕は思う。

連載 椹木野衣 美術と時評:29 東谷隆司––––その「存在と体温」(2012/11/02)

Living in Evolution 文/東谷隆司(2010/09/29)

釜山ビエンナーレ2010 part1(2010/09/25)

2012年 記憶に残るもの

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