【特別連載】杉田敦 ナノソート2017 no.2「アテネ、喪失と抵抗の……」


EMSTのテラスから望遠したアクロポリス

 

アテネ、喪失と抵抗の……
文 / 杉田敦

 

ギリシアを訪れたのは初めてだが、アテネはリスボンと違和感なく連続しているように感じられた。いや正確に言うと、現在のリスボンではなく、5年ほど前のと言った方がよいかもしれない。旧市街の住民と旅行者のバランスが、まだ微妙に保たれていて、生産拠点がオランダにできたことで、ヨーロッパの都市を席巻しつつあるトゥクトゥクも姿を現していない。そう、こういう表現が許されれば、古き佳きリスボンとでも言うべきものに近い雰囲気に包まれていたのだ。観光立国として歴史も古く、そのためツーリスト値段が横行しているのではと恐れていた物価は、こちらの想像とは裏腹に、むしろリスボンよりも安いような印象を受けた。いやおそらく、リスボンの物価が高騰したためだろう。毎年、10%以上も観光客が増加し、京都市の10分の1程度の面積に、島国の古都の半分には少し満たないものの、相応の人数が押し寄せているのだ。ものの値段が上がらない方がどうかしている。ただ単に、リスボンがヨーロッパの主要都市と変わらない水準に達してしまっただけのことなのだろう。そんなことを考えていた。そして、いよいよ、地下鉄の通路の暗闇を抜けて広場に出る……。わずか数日前、ドクメンタの主要会場となった美術館や大学、博物館などを臨時閉館させたゼネストの集会があり、その翌日、若者たちを中心とした暴動が発生し、警官との衝突が伝えられたシンタグマ広場は、あっけないほど静まり返っていた。そこは、どうしてもドクメンタの会場に向かう前に訪れておきたい場所だった。極端な言い方をすれば、そこに向かわないまま、どのような光景を目にしても意味がないとさえ考えていた。もちろん、勝手な思い込みにすぎないのだが……。

物事を経験するには順番があり、それによって同じ経験でもその印象は大きく異なるものになる。人間は様々な条件に縛られている。何かを見ようとする場合も、同時にふたつのものを見ることはできない。あたり前のことだが、例えば、両者の地理的な隔たりがそうすることを阻むことになる。どちらを先に、どちらを後にまわすべきなのか。もちろんそこには、この順番が効果的だという根拠のない憶測や、それ以外の様々な事情が関係してくることになる。この道筋ならロスが少ない。ただしその旅程を実現するには、この程度の経済的、時間的な余裕が必要だろう……。空間的な隔たりに加え、経済や時間、あるいは体力や気力などの条件も関係してくることになる。実は、こうした経路に注目する学問がある。ホドロジー(路の学)と名づけられたそれは、神経科学や哲学など、多くの分野にみられるもので、厳密に共通の定義を見出すことは難しいが、大まかに言えば、いずれも状態の遷移だけでなくその過程にも視線を向けようとしている。最初にそうした考えを知ったのは、古代ギリシアの遺跡を巡る先人たちの行動に注目しようという研究を通じてだった。それによれば、分析を試みる人々の辿った道筋こそが、研究対象である遺跡そのものに対する評価や分析、そして思想こそを説明する。なぜこの遺跡を見る前にあそこに向かったのか。ギリシア語の路、ホドスこそが思想を秘めているというその視点を、アテネを含めた国際展を巡る旅に応用してみることは許されないだろうか。もちろん、シンタグマ広場に行ったからといって、数年前にそこを埋め尽くした群衆が目の前に広がっているわけではない。けれども、まずそこに立ってみたいという素朴な想いも無視することはできない。とりあえずここでは、厳密ではないものの、時系列に沿った表現を試みてみることにしよう。そうすることで、ある種のホドロジー的な効果が得られるかもしれない。どのような順番、経緯、あるいは経路を辿るのか。もちろん、想定した順番が、好ましくない結果を生むこともあるだろう。しかしそのような場合も、そこに込められた想いと、それが裏切られたという事実が、直接的な言表に匹敵する何ものかを立ち上らせることになるかもしれない。そう、淡い期待を抱いているのだ。客観的な分析を謳う評論は、すべてを経験しているという虚勢を張ろうとする場合が多い。あまねく見てみた結果、ここにはかくかくしかじかの性質が認められる……。しかし、もちろんすべてを見ることは不可能だし、たとえそうすることができたとしても、すべての経験が、同じ条件の下で与えられるというようなことはありえない。どの経験も、何かの後の経験でしかなく、その逆は決してありえない。経験は、すべてが固有の順番のなかに縛られている。たとえその選択を後悔して、即座に踵を返したとしても、そこには単に往還が残るだけで、逆向きに経験するという可能性は、何らかの順番を選択した時点で永遠に奪われている。時系列的な記述は、おそらくそうした喪失をも示すことになるだろう。しかし、それこそもまた、何かを語っているのかもしれないのだ。

静まり返ったシンタグマ広場を経験した視線は、その後数日間に渡って、忙しくアテネ市内47箇所に分散した会場を巡ることになった。いや正確には、そう試みたと言うべきだろう。大規模な国際展の場合、相当な熱意がなければその全部を周り尽くすということはかなわない。先ほどホドロジーを、遺跡を巡る順路への注目だというように説明したが、もちろんそれは単に実見したものの順序だけでなく、種々の条件のなかで排除されたものについても同じように意味を見出そうとする。とりわけ日本から訪れるような場合は、限られた日程のなかで、事前に手にした情報を頼りに経験すべきものを取捨選択するのは必然でもある。そうした選択がもたらす残酷な結果については、極東からの旅人は誰もが経験しているはずだ。今回は同じヨーロッパからの移動ということもあり、少し余裕はあるものの、それでも断念することも避けられなかった。順路、そして取捨の選択。ホドロジーは、それらが秘めているものを凝視めようとする。

 

ピレウスの港

 

アテネでは当初、何かあまり集中することもできないまま会場を巡っていた。もちろん、印象に残った作品がないわけではない。そこここでキャプションに遭遇した、ウィリアム・ポープ(Pope. L)の、地元の人々の声そして言語で、その土地のささやかな歴史が語られる「囁きのキャンペーン」もそうだったし、人間の行動を学んだ猿を主人公にしたカフカの寓話『アカデミーへの報告』を、ドイツ語以外の様々な言語、仕草で語らせるピーター・フリードルの「報告」や、ナチスの収容所の記録映像のスタイルを踏襲し、路上生活者たちに理不尽かつ搾取的な仕事を行わせるアルトゥル・ジミェフスキの「瞥見」もそうだった。しかし、いつしか囁きを聴き分けようという熱意は薄れ、フリードルやジミェフスキの映像も、シンタグマ広場の印象の彼方に遠ざかっていくことになった。いずれいつものような感覚、国際展を訪れた際の、スキャンするようなそれに包まれるだろうと高をくくっていたが、結局、アテネでそうなることはなかった。実際に足を運んだいくつかのプログラムに振られたことも原因していたのかもしれない。突然のキャンセルに出くわしたこともあるし、すでに終了しているのを見落としていたこともあった。例えば会場のひとつ、国立アテネ工科大学とアテネ芸術大学の共同キャンパスでは、学生の評議員選挙のため、告知もないまま休館になっていた。また、ピレウスの美術館では、1時間後と聞かされていた開場が、2時間後になり、最終的には展示はなく4時間後のパフォーマンスだけだと言い渡された。しかし、確かにもう少し整えられたものを期待してはいたものの、不思議なことに、いつしかそうした状況を受け入れるようにもなっていった。学生たちの選挙にしても、少し離れた路上で小競り合いが起こり、警察が介入するほど熱を帯びたもので、そもそも非難できる類のものではなかった。作家数の多さも、何らかのプレッシャーになって、集中を削いだのかもしれない。約150人、物故者も入れると約200人。しかも、個々の展示は小規模なものも少なくなく、どこか散漫な印象が拭えなくなっていく。加えて、前回触れたような視点を感じさせてくれるものと出合えなかったことも原因となっているだろう。あるいは、実際に参加したワークショップが、ステレオタイプなグループ・セラピーのような印象で、好感を抱くことができなかったということも関係しているはずだ。そして自然と、諦めにも似た感想が湧き上がってくる。一体、ここから何を学べというのだろうか……。

 

評議員選挙、当日の大学キャンパス


エレフテリアス公園のアテネ市立アートセンター

 

金融資本による専制の可視化や、それに抵抗するために自発的に生まれた小規模な市民運動の昂まりなど、この連載で触れてきた問題について、アダム・シムジックはどのように認識していたのだろうか。前回触れたサンドロ・メッザードラに加え、フランコ・“ビフォ”・ベラルディ、マウリツィオ・ラッツァラートら、スペインやギリシア、ラテンアメリカの抵抗や運動に関する重要な考察を行ってきた人々を招いたトーク・イヴェントの存在は、少なくとも同様な問題意識を抱いていることを示すものだと言えるだろう。自由を意味するエレフテリアスと名付けられた公園のアート・センターには、建築を出自とするアーティスト、アンドレアス・アンジェリダキスの、石材ブロックを模したクッションの作品が積み上げられている。スピーカーなども設置され、イヴェントを想定しているかのような配置になっている。事実、そこでは種々のイヴェントが企画されており、ビフォの3日間に渡る連続イヴェントも、アンジェリダキスのクッションに腰掛けた聴衆が見守るなかで行われている。ドクメンタのオープンからさらに前の、今年の1月のことである。昨年の10月から2月にかけて、『身体の議会』と名付けられたプレ・イヴェントが企画され、「自由の訓練」というテーマの下に、様々な活動家、音楽家、批評家、理論家が招かれている。ビフォのイヴェントはその一環として行われたものだ。元々は病院として利用され、右翼独裁政権下には軍事警察の本部として使われていたという建物は、アンジェリダキスの手が加えられて、今回のドクメンタで最初に公開された会場になった。ところで、あまり馴染みがないこれらの研究者の仕事は、日本でも、批評家、廣瀬純の精力的な取り組みによって徐々に知られるようになり始めているが、今回のドクメンタでは重要な思想的基盤を成しているように思われる。ドクメンタの準備に際してアテネに居を移していたというシムジックが、そうした思想家たちの意見に耳を傾けようとしていたということはあらためて考えてみるべきだろう。シムジックは十分に調査し、分析を進め、彼らの認識を共有していたはずなのだ。

しかしそのような背景を、アテネを訪れることのできない人々はもちろん、訪れることができるとしても、大半がそうだと想像されるが、オープン後にそこに辿り着くような人々は、どのように共有したらよいというのだろうか。ビフォの仕事を乱暴に概観してきた人間にとっても、あらためてドクメンタという枠組みのなかで何が語られ、どのような雰囲気がそれを包み込んでいたのか、それらについて知ることはできそうにない。会場に設置されたヴィデオで確認するだけではもちろん不十分なのだ。この、ある種の喪失感、あるいは欠如は、今回のアテネのドクメンタを特徴づける性質のひとつと言えるだろう。先ほど触れた突然のキャンセルや、情報の不確かさなどによって経験できなかったことなども、もちろん関係している。そもそも時間的に限定されたプログラムは、会期中ある程度の頻度で開催されていない限り参加することは難しい。僕をリスボンに招いてくれた映像作家、スザンナ・ソウザ・ディアスのギリシア国営放送EPT2でのプログラム、ポルトガルの独裁制時代をテーマとした代表作「48」は、会期中の月曜日深夜の放映だから、まだハードルは低い方なのかもしれない。けれども、批評家でもあるマンティア・ディアワラの、友人でもあったというエドゥアール・グリッサンの思想を下敷きにした映像作品「A Opera of the World」を観るためには、火曜日だけオープンするギリシア・フィルム・アーカイヴ、タイニオティキの、月1回というタイミングを何とか都合しなくてはならない。幸いディアワラの作品は、カッセルでは中央駅のバリ・キノで連日上映されているが、レスボス島の難民を撮影したシーンが重要な意味を持つその作品を、当事国で目にすることはほとんど不可能なのだ。2012年のヴェネツィア・ビエンナーレで、日本館とともに特別賞を受賞した、キプロス・リトアニア館のパフォーマンスで注目を集めたマリア・ハッサビの場合も同様だ。実際に人気のない会場で足下を滑らせながら下降していく本人を目にしたこともあり、その後の動向を注目していたのだが、2016年にはベッシー(ニューヨーク・ダンス・パフォーマンス・アワード)の年度賞を受賞するなど活躍もめざましく、ドクメンタ開幕直後にオナシス文化センターで開催された『STAGED?』に注目していたが調整することはできなかった。もっとも、カッセルでは6月と9月のそれぞれ一週間、別のパフォーマンスが予定されているから、それでもまだ比較的、調整可能な部類に入るのかもしれない。だが、今回のカッセルのドクメンタのアイコンのひとつでもある、街の城門の役割を果たすはずだった建物を覆うイブラヒム・マハマの石炭袋を、シンタグマ広場で縫い合わせようという3日間だけのイヴェントに参加することは容易なことではないだろう。会場に出かけていけば経験できるという暗黙の約束事はどうやら手放さなくてはならないようだ。もちろん、こうした日時限定のイヴェントの抱える問題は、カトリーヌ・ダヴィッドのドクメンタの日替りのイヴェント『100days−100guests』の時点ですでに露わになっている。レクチャーやワークショップなど、どちらかというとそれまで副次的なものと考えられていたイヴェントを展覧会の中心にインストールしたという意味で画期的だった彼女の試みは、けれどもそうした喪失を胚胎させてもいたのだ。イヴェント系のプログラムが多数組まれ、絡まり合うかのような今回のドクメンタは、その問題をより顕著に露呈させていた。カレンダーが強調されたホームページや、イヴェントをまとめたページのある隔週で発刊される新聞は、その問題の解消を目的としたものだろう。しかし、経験、あるいは参加するということは、アテネでは静かに遠ざけられているようにしか感じられなかった。

 


アンドレアス・アンジェリダキスの「Demos」


『South』

 

クンストハレ・アテネの創立者でディレクターも務めているマリナ・フォキディスは、2012年に『South as a state of mind(精神の故国としての南)』という雑誌を創刊している。この雑誌とドクメンタのコラボレーションについても事情はあまり変わらない。それまですでに5号を発刊していたこの雑誌との協働が始まったのは、ビフォらの連続レクチャーよりもさらに遡る2015年初頭のことだ。ディアワラやフリードルら、ドクメンタの参加者も積極的に関わっている『South』は、ドクメンタの会場のブックショップにも並べられてはいるものの、その位置づけが浸透しているようには思えない。しかし、会期中6号から9号までの4冊を特集号として発刊し、シムジックもその編集を担当するということを考えると、カタログ以上に今回のドクメンタの在り方を示す重要な役割を担ってることは確かだ。事実、ドクメンタとの協働が発表されていない、それどころか、注目を集めた前回のバカルギエフのドクメンタがまだ会期を残しているときに発行された第2号には、すでにシムジックのドクメンタの方針とも言えるような重要なエッセンスが記されている。メルボルン大学の文化批評家ニコス・パパスデルギアディスは、「南とは何か」と題されたエッセイのなかで、南とは世界のどこか特定の場所を示すものではなく、これまでにない新たな在り方と出合うための空間だと述べている。こうした考え方は、15Mやシリザの背後にメッザードラやビフォらが見ようとしたものにほかならない。もちろんそれは、おそらくシムジックもまた深く呼吸しようとしているものだろう。また、パパスデルギアディスの言葉が、決してヨーロッパだけの問題を念頭に置いているわけではないことにも注意しておきたい。世界規模の金融資本の専制にとって、最も都合が良いのは国家に象徴される様々な分断こそであって、それは北と南であっても、ヨーロッパと非ヨーロッパであっても同じはずだ。もちろん、その次の号で、血縁に関しては問題が残るものの、チェロキーのコミュニティで育ったとされるアーティスト、ジミー・ダーハムがパパルデルギアディスに応答しているように、確かにそうした視点をヨーロッパ中心主義的な捉え方だとする指摘も首肯できないわけではない。けれどもその問題を、単にヨーロッパ固有のものとして退けてしまうのではなく、共有できる部分を見出しながら、いたずらな分断に陥らないようにする努力も必要だろう。ダーハムが指摘するように、ヨーロッパのある種の崩壊が、かつて宗主国として振る舞った先の市民たちの労働を圧迫しているのだとしても、それでもそのことに対する新たな視点を、ヨーロッパ中心主義の視点だとして簡単に切り捨てるべきではないだろう。いずれにせよ確かなことは、少なくともこの取り組みが、新たな分断を生むことだけは避けなくてはならないはずだ。

 


アブバカール・フォファーナのアテネのアトリエ。右端がフォファーナ

 

ところで、『South』がある種の基軸を成しているのであれば、むしろシムジックはアテネからではなく、南から学べという標語を掲げるべきだったのではないだろうか。そうであれば、フランクフルト空港の運営会社がギリシアの14もの空港の運営権を手にしたのだとしても、ギリシアとドイツという対立軸は鮮明にはならなかったはずだ。いや、あるいはその対立軸こそを鮮明にしたかったのだろうか。ギリシアのアクティヴィスト・グループ、Lgbtqi+ Refugeesが、ロジャー・バーナットの作品、古代アゴラで法の遵守を誓う場所を示していたとされる、誓いの石として知られるモノリスのレプリカを、アテネからカッセルに輸送される前にイヴェント会場から盗み出したのは、彼らの主張する内容以上に、むしろその対立軸で発火しているようにしか思えない。アブバカール・フォファーナの54頭のインディゴで染められた羊の作品に対して、動物の権利を主張するグループが採った抗議行動、フォファーナのアテネのアトリエのガラスを割り、インディゴを示唆する青いペンキをぶち撒けるという暴力は、さすがに主張する部分が異なるようにも思えるが、しかしそれでさえ、基底の部分で対ドイツという対立軸が密かにエネルギーを備給しているということはありえないことではない。アテネ芸術大学構内に貼られた禁句が眼を惹くポスターは、ドクメンタを糾弾する厳しい揶揄に充ちたものだが、それもまたそうした思いをさらに深めさせることになる。もっとも後日大学構内にいる学生に尋ねたところ、反対するような動きは目立たないし、学生にとってドクメンタはよい機会だと語ってくれた。サンプル数が少ないのでもちろん断定することはできないが、少なくとも前回述べたような植民地的な意識に基づく分断が、一般的な意識となって横たわっているわけではないのかもしれない。しかしそれでも、数的には少ないのだとしても、表面化した反対、抗議の意志が、今回のドクメンタを特徴付けていることも無視することはできない。国際展に対してほとんど見られることのないそうした意志の露出は、紛れもなくアテネのドクメンタの輪郭を構成する重要な要素のひとつだ。シムジックはそれこそを意図したのだろうか。

フォファーナのアトリエを訪れたのは、襲撃から数日後のことだった。何事もなかったように招き入れられ、淡々と作業を進める彼から、数日前の出来事を窺い知ることはできなかった。割られたガラスも、撒き散らされたという青いペンキも消え去っていた。いや、気づかなかっただけなのかもしれない。実は、メディアがアトリエの襲撃を伝えたのは事件から一ヶ月ほど経ってからのことだった。そのため、訪問の時点では襲撃があったという情報は手にしていなかったのだ。染め上げた羊を使っているので危険なのだということを繰り返し口にしていたが、そのときはピンとこなかった。そのようなわけだから、周囲の状況に気がつかなかったということもありえないことではない。カッセルの展示のためのアトリエをアテネに開設し、マリで染め上げてきた羊を使ったプロジェクトを農業大学で行うということ、アトリエの近所にある伝統的な織機工房と協働しているということなど、作品の概要を説明してもらうことはできたが、アトリエが受けた被害についてはその時点では語られなかった。しかし、後日事件の詳細を知ってしまうと、アーティストの思惑とは関係なく、抗議を受けたという事実が、取り除き難いものとして彼の作品のなかに沈澱していくことになる。ロジャー・バーナットの作品の場合も同様だ。彼の作品は、もはや盗まれたことを抜きにして語ることができなくなっている。

 


サーニャ・イヴェコビッチの『革命のためのモニュメント』


スタヴロプル通りのマリア・アイヒホルンの会場

 

こうした経緯を意図的に取り込もうとしているのはマリア・アイヒホルンだろう。国立現代美術館(EMST)で展示されていた彼女の作品は、所有者のわからない建物の調査を行い、それらを文化施設として利用できるように行政と交渉し、その経緯を、書類などを中心に構成してみせようとするものだった。アテネの街を数日間歩いてみると、空いているテナントや建設の途中で中断しているような建物が目についた。厳密に比較したわけではないし、ギリシアの財務危機の情報がそう見せただけなのかもしれない。オモニア広場の南西にあるアヴディ広場に、ミース・ファン・デル・ローエがローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトのために設計し、ナチスの手で破壊されたモニュメントを参照したサーニャ・イヴェコビッチの作品がある。ミースのモニュメントを横倒しにしたような「革命のためのモニュメント」と題されたそれは、巨大なベンチのような形状で、事実参加したプロジェクトではそのように利用されていた。公園は2008年からアテネ市によって整備が進められたが、ちょうどそのモニュメントに腰掛けると、文化施設として計画されたものの、財政危機によって完成が頓挫してしまった建物が無様な姿を曝しているのが目に入る。前回触れた、ギリシアのアクティヴィストからの公開書簡は、アートによるジェントリフィケーションの問題を指摘するものだった。確かに、彼らが指摘するように、アートプロジェクトが既存の不法占拠による活動を圧迫するのであれば問題には違いないが、しかし同時に、アイヒホルンが試みたような放置されたままの空間の有効利用や、財政の問題によって中断してしまった計画の現実的な再編に対しても取り組みは必要だろう。しかし、アイヒホルンが展示したドキュメントは否定的な結論で終わっている。どうやら、思惑どおりにはいかなかったようだ。しかしそれだけなら、あえてここで彼女の作品に触れる必要もない。ところが、スタヴロプル通りの別会場を訪れると、彼女の作品は異なる意味を持ち始める。地図に記されているオモニア広場から北に少し離れた住宅街を訪れると、会場と思しき建物はすぐに見つかったが、扉が固く閉ざされたままになっている。念のため主会場の開場時刻になるまで待ってみたが、一向に扉が開くような気配はない。もう一度ポーチのところまで行ってみて、初めてそこに横たわっている事態に気づくことになる。デッキの部分を注意深く眺めてみると、人が通ったような跡がないばかりか、どうやらここしばらく、その扉が開けられたような形跡もない。そう、つまりそれは、EMSTに展示されていた書類が示していたように、商業目的であれば貸与できるが、文化一般を目的とする場合には貸し出すことはできないという、行政の判断による結論自体を表象するものだったのだ。行政とのやりとりとその結果の率直な提示というアイヒホルンの手法は、すでにオクウィ・エンヴェゾーのドクメンタのときにも見られたものだが、今回の場合、バーナットやフォファーナの作品が直面した、表現に対する抗議という構図を明確化し、再考させるという役割も果たしているように思われた。一方的な提示で完結するのではなく、表現とそれに対する反応にまでアーティストが関わることはできないのか。アイヒホルンはそこに踏み込もうとしているのかもしれない。バーナットやフォファーナの場合は、作品の性質から考えてもそうした領域に立ち入ることは難しいだろう。しかし今回の出来事は、少なくともそうした事態に対する備えが必要であることを示してもいる。

もちろんこの問題は、ヨーロッパの国際展に限った話ではない。例えばそれは、リスボンに発つ前に起こった、群馬県立近代美術館での白川昌生の作品撤去の問題にも通じるものだろう。ここではその詳細に立ち入ることは避けるが、この問題を、表現とそれに対する規制というように捉える見方には、ある前提を招き入れてしまう危険性がある。それは、表現する立場の人間を、自身の表現に対して規制を含めた種々の反応が喚起されるという可能性をあらかじめ考慮するようなことはしない、呆然としたまま立ち尽くす存在として決めつけることになるのではないかという怖れだ。確かに小心な対応で表現の自由を容易く放棄してしまうような態度に弁解の余地はないが、問題は、この十分に予想できるはずの対応の糾弾以上に、そうした対応をあらかじめ内包する表現が開発できていないということでもある。この問題によって、白川の作品はそれまで以上に議論の俎上のものとなったが、そのとき、焦点をあてられることになる表現と規制というフレームに対して、彼自身が充分に意図的に関与することができていたとは言い難い。それに対してアイヒホルンの姿勢は、結果や対応までを内包することによって、いたずらに可視化しやすい対立項を顕在化させるのではなく、まさにそうした環境のなかにいる、そうした状況にこそ取り囲まれ、そこでこそ活動しているのだという、逃れようのない現状を顕在化させようとしている。誤解されることを恐れずに言えば、小心で臆病な対応に堕したのだとしても、忌むべき規制に手を染めた人物たちは対立すべき相手などではない。そればかりか彼は、あるいは彼女は、本来は協働すべき相手のはずなのだ。対立すべき相手はむしろ、背後にあって決して姿を現すことのない人間であり、出来事に対する反射的な指摘は、いたずらに意味のない分断を生成し、不可視の存在にとって都合のよい状況を生み出すことにしか結果しない。本質的に自由であるはずの表現者は、もちろん表現に対する権利を持つものには違いないが、それだけを唱えてヒロイックに殉死してみせるのではあまりに稚拙すぎる。十分に予見できるような分断に先回りし、分断そのものを回避するという領域においてこそ、その創造性は発揮されるべきだろう。その点、いたずらに対立してみせるのではなく、「わたしはわすれない。」という幟を本来作品の置かれるはずだった場所に遺してみせた白川の、即興のしなやかな対応は、見事としか言いようがない。しかし同時に、そうした対応を、事後や即興ではなく、事前に、緻密に計画されたものとして見てみたいのだ。そのような姿勢は、あらかじめ規制という問題を設定したはずの『キセイノセイキ』に関連する出来事を通しても残念ながら確認することはできなかった。クリシエと化した殉教ではなく、予見し、分断を避け、そして可能な協働を創造する。アーティストに期待されるのは、そのような領域における創造性のはずだ。

 


ディミトリス・ピキオニスのパヴィリオン

 

喪失、そして抵抗。地図にマークされた場所を巡りながら、勝手に頭のなかで想像しているものよりも地理的に距離があることに疲れながら、加えて、どこか充たされない想いが募っていった。繰り返し現れる実験音楽系の作品を、どうしてここで見せられなければならないのだろうか。プラトン的な音楽の至上性のためなのだろうか、あるいは、ロスケリヌス的なフラトゥス・ヴォチス、気息への還元なのか。フィリパポスの丘のプラトンの師、ソクラテスの牢獄のあたりを徘徊するころには、なかば諦めのような気持ちに囚われていた。フィリパポスの丘には、マハマの石炭袋のカーペットが一時的なものだとすれば、会期中いつでも目にすることのできる数少ないアイキャッチ、レベッカ・ベルモアの大理石のテントがある。安直な地域アートのような佇まいのようなそれは、決して気分を晴らしてくれるものではないが、ところがこのとき、彼女の作品を探すことに夢中になっている視線は見逃しがちだが、すでに別の作品の懐に抱かれていることが慰めになる。素晴らしいアクロポリスの眺めを提供してくれる丘を縦横に走る石畳は、建築家、ディミトリス・ピキオニスが、彼の学生や地元の石工たちと完成させたものだ。丘を下ると、12世紀に建てられたビザンティン様式の小さな教会がある。60年代にピキオニスが手を加えたもので、日本の様式がそこここに採り入れられている。さらに奥のパヴィリオンは、展示にも利用されているのだが、印象的なのは、数寄屋建築からの引用が明らかなテラスから遠望するアクロポリスだ。西洋風の意匠を嫌い、東洋のものに注目し続けたピキオニスの空間は、アテネを南と読み替えるべきではないかという想いを、さらにその彼方へと解き放ってくれているようでもある。パパスデルギアディスが言うように、南、それはヨーロッパの南のことを指しているわけではない。言ってみればそれは、世界の、人類の南であるべきだろう。

ところで、何よりもアテネを象徴しないわけにはいかないアクロポリスは、ピキオニスの石畳に導かれて丘の上から眺めるのも魅力的だが、さらに意表をつくかたちでドクメンタの来訪者の心を打つことになる。アイヒホルンの資料が置かれたEMSTのハイライトは、なんと言ってもそのテラスに出たときに不意に視界に現れるアクロポリスだ。今回のドクメンタでは、フレデリチアヌムをEMSTの収蔵作品で充たすことで、北と南の交換ともいえるポーズを示してはいるものの、決定的に欠けているのはこのテラスからの眺望だ。マルタ・ミヌヒンのパルテノンがどれだけその威容を誇ってみせても、決してEMSTのテラスからアテネの街越しに望遠できるアクロポリスの姿に及ぶことはない。結局、アテネのドクメンタは、アクロポリスの眼下に散りばめられた瓦礫のようなものに過ぎないのではないだろうか……。実際、会場のひとつ、アテネ・コンサート・ホール、Megaronは、閉館ではないかと疑いたくなるほど閑散としていて、スタッフもこちらに無関心な上、プログラムもないせいか、照明もほとんど落とされ、アポストロス・ギオルギオウのペインティングが、申し訳程度にライティングされているだけだった。その荒廃した様子に、思わず、緊縮財政による圧迫こそを見せようとしているのかと勘ぐりたくなる。散りばめられた瓦礫……。不遜な想いが頭をもたげてくる。けれども、ともすると開き直りとも受け取られかねないこうした自虐的な境地に達したとき、むしろ苦労してアテネに辿り着いた人間の心は不思議と解放され、癒され始めることになる。

 


アポストロス・ギオルギオウのペインティング


ナイーム・モハイエメンの「Tripoli Canceled」

 

EMSTで目にして気になっていた映像作品が、静かに心のなかで反芻され始める。「Tripoli Canceled」、ナイーム・モハイエメンの映像作品だ。バーゼルのクンストハレで、シムジックのキュレーションによる『正しい歴史の囚われ人』と題された個展を行っているモハイエメンは、ドクメンタとの協働による最初の『South』にも参加している。こうした経緯を考えると、かなり身近にシムジックの考えに接してきた、そしてある意味体現してきた作家だということができるだろう。作品は、モハイエメンの父親の体験、1977年にパスポート不所持でギリシアのかつての国際空港、エリニコン空港に足止めされたという事実に基づいている。2001年から放置され、一時シリア難民のキャンプにもなっていたその元空港で撮影された映像は、しかし大胆にデフォルメされ、10年間にわたってそこに住み続ける男の、ユーモアと哀しみに充ちた、不可思議な物語として綴られていく。すでに断線しているはずの公衆電話で遠く離れた妻を呼び出そうと奮闘したかと思うと、まっすぐに前方を見つめるスチュワーデスのマネキンの胸をこっそり弄り、故郷に想いを馳せながら、飛べることもできなくなった旅客機の翼の上で物想い耽り、失意のまま憂愁に沈み込む。廃墟と化した空港のなかをふらふらと彷徨し、瓦礫と化した鉄骨をすり抜けて、そしてまたすり抜けて……。いつしか身体が自然と踊り始めている。そう、それはアクロポリスをいただく街を徘徊し、いわば瓦礫のような作品群をかき分けながら、それでもいつしか心身が不思議な高揚感に包まれ始めた、自分自身の姿にも重なってくる。あるいは元空港という舞台設定が、ドイツに売り渡されたという14ものギリシアの空港を静かに想起させるのかもしれない。映像に登場するオリンピック航空は、一時は国営航空だったこともある航空会社だが、財政危機以降、エーゲ航空による買収を欧州委員会に否決されながらも、やっとのことで認められて子会社としての道を歩み始めるという、EUに翻弄されてきた過去がある。その身の上は、見事に今日のギリシアを象徴してはいないだろうか。いやそれ以上に、パスポートというIDを喪失した主人公の姿は、翼の上で物想いに耽り、泣き、笑い、そして踊り始める彼の姿は、揺らぎ、失われ始めたアイデンティティに対して、狼狽するしかすべのないヨーロッパそのものにしか思えなくなってくる。不思議なことに、そう考えると、なぜか落ち着きを取り戻すことができそうになる。確かに、ピレウスの美術館の酷い対応にいらいらしてはいたものの、それでもそこで待たされたおかげで、難民たちのテントが張られていたというピレウスの港を散策する時間も生まれたのではなかったのか。評議員選挙のために一日待たされたのだとしても、だからこそソコル・ベキリの接ぎ木されたか細い樫の木と大理石が指し示した、ヨーゼフ・ボイスの方角が印象に残ったのではなかったのか。小さな酒場で、食べ残そうとしていた小魚のフライを、傍らでじっと見つめていた少女たちに、突然、手づかみで持ち去られたとき、けれども、自分がどういう立場に立っているのかをあらためて思い知らされたのではなかったのか……。モハイエメンの作品は、それまでのアテネでの経験こそが、そう、つまり、アクロポリスの足元で起こるすべてのことこそが意味があると教えてくれているようでもある。加えてその映像は、世界が直面している種々の問題に対する表現の在り方に対するある指摘を想起させてもくれた。バカルギエフのドクメンタと同じ年に、『蜂起』と題された一冊の論考が出版されている。ここでも繰り返し触れてきたビフォによるものだ。ビフォはその本の終章、「詩と金融」のなかで、それぞれが具体的な繋留をもたない、脱物質化された抽象的な行為であるという共通点を確認した上で、詩の過剰こそが、金融という抽象的でありながら最終的に交換可能なものによる、閉鎖的で、解体困難なリアリティの支配を、別の仕方で創造する可能性を秘めていると指摘している。ビフォの考えは、社会的な問題に言及しようとする表現が陥りがちな問題の再考を促すものでもある。種々の問題に対する具体的かつ実際的なアプローチは、アートという分野での言及にアリバイにも似た保証を与えるものとして安易に利用されがちだが、グローバルな金融資本主義を打ち破る可能性をまったく持たない、政治的、社会的制度への、芸術表現の再配置を意味しかねなくもない。実際の問題に介入するにしても、そのこと自体が織り込まれかねない既存の価値や判断から、遥かに超え出ていく可能性を常に模索するということ。モハイエメンの不可思議な映像は、その可能性を仄見せ、あらためて考えさせてくれた。

 


ソコル・ベキリの「接ぎ木された樫の木と大理石」


オイゼピ

 

荒廃したエリニコン空港の映像が、アテネの街を徘徊するものの心に棲みつき始めている。静まり返ったシンタグマ広場の印象を超え出るものと出合えるかもしれないという勝手な思い込みはいつしか消え去り、シムジックの模索が半ば乱暴に放置されているかのような、瓦礫が広がるような状況のなかを彷徨う足取りも、いつしか軽いものになっている。種々の作品やそれらが展示された会場は、オイゼピと呼ばれる、誰一人ドクメンタのことなど興味のなさそうな老人たちに、早朝からギリシアのアニス酒、ウーゾを振る舞う酒場にフラットに連続し、ノーヘルのまま街中を爆走していくバイクや、喫煙をまったく問題にしない飲食店のモラルも、種々の社会的な問題を指摘しようと躍起にはなってみせるものの、けれども単なる独善に堕しているようなPC的な作品と混濁していく。いつしか、現代社会がナチスから熱心に引き継いでいるもののひとつ、禁煙を受け入れない人々の姿に、確かにアテネから学ぶべきだろうという皮肉めいた想いさえ頭をもたげてくる。そう、種々の不都合や、充たされない想いにもかかわらず、アテネのドクメンタは不思議な光に包まれ始めていくことになる。

最終日、最後にアヴディ広場のイヴェコビッチのモニュメントで開催されるギギ・アルギオプルのプロジェクトに出かけてみることにした。エレフテリアス公園の「自由の訓練」に招かれ、建築家の立場でマイクロ・コミュニティやコモンについて考察するスタブロス・スタヴリディスとも討議していた彼女の企画であること、15M、ポデモスとも関係のあるスペインの市民運動体、バルサロナ・アン・クムーに参加しているパンチョ・ラマスも参加するというので期待していたのだが、情報の読み込み不足で、オモニア広場からのウォーキングには間に合わず、トーク前のサウンド・パフォーマンスにも辟易とさせられていた。加えて、レクチャーの際の20名近くを相手にしたウィスパリング通訳に疲れ果て、早々に会場をあとにすることにした。しかし、それでも気分は晴れやかだった。期待していたものと出合えないことに原因する失望はまったくなかった。夕闇が迫り、吹き抜ける風が心地よかった。だがしかし、もちろんそう単純なことではないのだ。その後、独りごちていた意識は一気に覚醒させられることになる……。

ホテルに近づくと何やら騒々しい。規制線が張られている。すでに1時間ほど時間が経過していたためか緊張感は解れ始めていたが、経済学者であり元欧州銀行副総裁、そしてシリザが政権を握る前に緊縮財政を推進していた政権の首相を務めたルーカス・パパデモスが、手紙に仕込まれた爆弾によって車のなかで負傷したのだ。緊縮財政の受け入れ、いわゆるEUを主導する国々の経済偏重の解決方法に対して、経歴から考えても共通の理解を持っていたパパデモスは、見方によってはギリシアの空港を、そしてギリシアそのものを売り払おうとした人物のように思えなくもない。幸い、一命は取りとめたものの、この蛮行はあらためてギリシアの、世界の直面する問題の困難さに気づかせてくれた。既存の体制に対する抵抗は、常にその皮膚の下に暴力を蠢かせている。現場はホテルから150mほどのところだった。周囲にはドクメンタの会場が密集し、少し北の希望を意味するエルピドスと名付けられた通りの会場では、リック・ロウが、移民や難民の集まるヴィクトリア広場の再生を目指し、社会彫刻と名付けたプロジェクトを行っている。彼は広場を利用する人々から聞き取り調査をするためにミーティング・ポイントを設けていて、そのひとつ、創業100年を超える老舗のベーカリーも現場のすぐ近くだ。日本でファッション・モデルをしていたというギリシア人男性の古着屋はまさに目と鼻の先だし、老人たちで賑わうオイゼピも遠くない。昼間からジャンキーたちが店の前にたむろしているキオスク、ペリプテロも、きわどい格好に着飾った女たちが通り過ぎる男たちに笑いながら声をかける街角もすぐそこだ。警察車輌の警告灯が、暗闇に立つ彼女たちを明滅させている。いやビルが、街が、そして世界が明滅させられているのだ……。

 


ルーカス・パパデモスを狙った爆弾テロ現場近くの規制線

 

 


 

ナノソート2017
no.1「シンタグマ広場に向かう前に……」
no.2「アテネ、喪失と抵抗の……」
no.3「ミュンスター、ライオンの咆哮の記憶……」
no.4「愚者の船はどこに向かうのか……」
no.5「幸せの国のトリエンナーレ」
no.6「拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく」

 

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評、女子美術大学芸術文化専攻教授。主な著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。オルタナティヴ・スペース art & river bank を運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ)、『Picnic』(増本泰斗との協働)など、プロジェクトも多く手がける。4月から1年間、リスボン大学美術学部の招きでリスボンに滞在。ポルトガル関連の著書に、『白い街へ』『アソーレス、孤独の群島』『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

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