【特別連載】杉田敦 ナノソート2017 no.6「拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく」


グラーツ、ヨッヘン・ゲルツの作品があった広場

 

拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく
文 / 杉田敦

 

国際展が集中した昨年のなかでも、いち早く開催したもののひとつでありながら、なかなかそこに行く気持ちになれなかったのがヴェネツィアだった。ヴェルニサージュのような特別な場所を避けたいというのは正直な想いだったが、けれどもそれを理由に最初のタイミングを逃してしまうと、あまり芳しくない評判が漏れ伝わってきて、そこに向かう足取りはさらに重いものになってしまった。ヴェネツィアだけを目的に向かうのではなく、何かの行程のひとつとしてそこに向かえば気も楽になるかもしれない。ちょっとした思いつきに過ぎないが、そんな微かなものにでも頼らなければ、結局、動けなくなってしまうのは明らかだった。

まず向かうことにしたのはグラーツだった。そこでは、ミュンスターとヴェネツィアにも参加している田中功起の個展が開かれている。会場となっているクンストハウス・グラーツも気になっていた。アーキグラムの創設者、アンビルトで知られるピーター・クックの設計で、写真で見た、古い町並みに忽然とヌメヌメとした質感の物体が嵌め込まれている異様な光景が気になっていた。果たして、そもそも美術館のような特別な空間を必要としない田中の作品は、そのような場所でどのように見えるのか。また、街そのものが多言語性を持っていると言われていることにも興味を引かれた。他者を受け入れるある種の徴とも言えるそれは、移民の母語を保護するというかたちに展開しているとも言う。だがその一方で、移民の選別を目的に、在留許可にも語学検定が導入されたという話も聞こえてくる。それ以外にも、ナチスの時代の記憶を留めようとするモニュメントが撤去されたという話題も気になっていた。そうでなくても、極右政権との連立という危ない橋を渡りつつあるオーストリアでは、南チロル問題が再燃するのではないかと囁かれている。南チロル、あの7回目のマニフェスタの開催地でもあるボルツァーノ一帯は、マニフェスタ開催時には多文化性の地でもあったはずだ。そのような場所で、再び領土問題が分断を生むようなことにでもなるというのだろうか。いずれにせよそうした関心事が、自然に足をグラーツに向けさせることになった。

田中の個展は、リヴァプール・ビエンナーレの出展作に、建設されたものの実際に稼働することのなかったツヴェンテンドルフ原子力発電所に対する反対運動を題材にした新作が加えられていた。ワークショップを記録した映像やインタヴューなどによる構成は、2013年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本館の個展以降、一貫しているものだが、少し意地の悪い見方をすれば、クックの空間との相性は決してよくないだろうと考えていた。過去の建築ビエンナーレの資材を利用した日本館のラフさとは反対に、個性的であると同時に、ある意味、隙なく完成された空間のなかでは、とんでもなく貧相なものになってしまうのではないかという懸念もあった。しかし、そうした心配は余計だったようだ。決して空間と対峙しようというのでなく、無造作に設置しているようにしか見えない田中の展示に対して、むしろ分が悪く感じられたのはクックの方だった。田中のはなから隙のなさなど念頭に置いていないかのような空間構成は、完璧であることを望みながらも、けれども実際にはそれを達成できていない、そうしたクックの空間の真実こそを浮き彫りにしてしまっていた。もちろん、田中の作品に対する興味は、そのような視覚的な構成とは関係がないのだが。

 


クンストハウス・グラーツの遠景

 

どのようなかたちで形成されたものであれ、集団と呼ばれるもののなかで、その方針はどのようなかたちで生成されるのだろうか。また、そうした方針がある程度姿を現し始めると、相互に調整らしきものが起こり、やがて安定した機能へと固化していく。そうした過程にも興味があった。田中の作品に対しては、そうした視覚とはまったく別次元の期待があった。モーリス・ブランショの言うところの、ある種の合目的性を抱いた集団、彼はそれを集団としての堕落の端緒として捉えていたが、その形成過程の力学に対する好奇心と言ってもよいだろう。もちろん、あくまでもそれは個人的な興味なのだが、今日の共同体の在り方を考える上で、重要な手がかりを与えてくれるはずだ。何か効果的な機能を果たすという理解に基づく共同体は、さまざまな限界を抱えている。ジャン=リュック・ナンシー、ブランショ的な無為の共同体は、そうした限界を感じてのものだろうし、アルフォンソ・リンギスの、共有するものを持たない人々の共同体という想像もまたそうだろう。あるいは、自立した個が集まってできた共同体という理解そのものに関しても、エヴァ・フェダー・キテイが、ケアの議論を通してそれまで否定的に捉えられてきた依存関係に光をあてたように、その読み直しは迫られているはずだ。キテイの視点は、種々の構造の誤謬を解こうとするジャック・ランシエールが、けれども依然として個に基づく議論に立脚していることにも注意を向けさせてくれる。そしてエドゥアール・グリッサン。離散という想像的な過去で繋がる人々と、そうした人々がいるからこそ可能になるという全-世界。彼の柔軟な理解は、こうした思想状況全体に、静かに反響している。もちろんそして、そこから芸術における関係性の議論までそう距離はない。

例えば、ヴェネツィアに出展されていた9人の美容師の手で一人の女性の髪がカットされていく作品では、最初は相互に遠慮し、探り探りの状態だったものが、それぞれの特性を理解しながら、自身の考えも組み入れて、各自が顧客の要望である未来的な髪型というゴールに向かうようになっていく。相互に疑心暗鬼であった初期状態から、徐々に相互調整が進み、明確な結果に向かって、分担されたと思しき機能を果たすようになる。最終的には、それぞれがどこか自信に充ちているような状態へと遷移していくことになるのだが、この集団が機能的なものに変質していく経緯は、あくまでも否定的なものではないはずなのだが、ブランショ的に言えば、それさえもある意味で堕落していく過程ということになる。相互の認識がどのように始まり、ジル・ドゥルーズ的に言えば、モル的な機能主義がどのように生まれるのか。田中の作品のいくつかには、そのための手がかりらしきものがある。

しかし、グラーツで田中が中心に据えたのは、1985年にイギリスで起こった学生デモを再現した、リヴァプールに出展した作品だった。国際展が重なり、多忙を極めた状態のなかで、過去作の展示というのは苦肉の選択だったのだろうか。リヴァプールは未見だったが、概略を辿る限り、そこにはひとつの問題があるように思われた。1984年、オーグリーヴの鉄鋼会社のストライキの際、ピケと警察隊が衝突している。その様子を再現してみせたのはジェレミー・デラーだったが、田中の作品は明らかにそれを想起させるものだ。オーグリーヴはリヴァプールからそう離れてはいないし、時期も1984年とほとんど変わらない。構造的にほぼ同じものを、デラー程のスケールでなく、小規模に再現することの意味はどこにあるのだろうか。本来の作品そのものが湛えている内容以上に、そうした在り方自体に関する疑問が浮上してくることになる。またそれは、リヴァプールでは、その地の問題として回収されてしまう恐れがあるだろう。そもそも、田中の共同体への意識は、震災後の協働が強調された環境を遠く離れたロサンゼルスで見聞きするなかで、自分なりのやり方でそれを再度咀嚼するというものだった。その距離感こそが、彼の作品にとっては重要だと考えていた。またその距離を、その後どのように処していくのかということも気になっていた。水戸芸術館の個展は、ある意味でその距離感が成立しない、あるいは成立しにくい場所だった。そのため、彼の試みはのっぺりとした奥行きのないものになってしまっていた。ミュンスターの場合も、確かに水戸芸術館の展示よりも、その地のコミュニティを代表する参加者を集めることに成功はしていたものの、水戸の問題から抜けきることができているようには感じられなかった。作者が意図した関係性の構成には成功していたものの、水戸芸術館の場合と同じように、具体的な問題そのものへの収斂を回避することはできていなかった。もちろん、そもそもそれを作者は意図していないかもしれないのだが、その距離感の処し方にはどこか疑問が残った。

 


クンストハウス・グラーツでの田中功起個展の会場風景。手前の椅子はヤン・ヘギュの作品

 

けれどもグラーツでは、田中によるリアクト、あるいは彼自身の言葉によればリステージは、むしろ本来の出来事から離れて、けれどもそのことで逆に、その地の問題と自然に呼応しているように感じられることになった。先ほど作品の選択を、多忙ゆえのものかもしれないと述べたが、それは間違っているのかもしれない。田中は、そしてキュレーターを務めたバーバラ・スタイナーは、むしろそれこそを選択したということもありえないことではない。グラーツのクンストハウスでのほぼ最初のキュレーションが田中なのだというバーバラにとって、通常であれば、固有性こそを打ち出したいと考えるのが普通だろう。それでも敢えてそうした選択をしたのは、必ずしも諸条件によって強いられたからではなかった可能性もある。協働作業を遠く異国の地から眺め、その解釈を自分なりのやり方で行うことで、ある意味で問題の固有性から抜け出すということ。震災を契機に協働作業に注目した当初は、田中の作品はそれに成功していた。不安定で、不明瞭ではあるものの、それゆえに手にすることができていたものが確かにあったのだ。それを示すことを考えていたのだとすれば、グラーツでの選択は意図的なものだったと捉えるべきだろう。

もちろん、ここで注意しなくてはならないのは、固有の問題への収斂は、受け取る側に拠るところが大きい。その場所に密接に関わりのある問題から、想像力を働かせることができるかどうかは、受け手に委ねられているはずなのだ。そうつまり水戸芸術館の個展やミュンスターに対する印象は、著者の想像力の欠如によるものでもある。しかし、そうしたいわば問題ある受け手にとっても、グラーツとの距離があるだけで、リヴァプールの作品に対する印象は大きく異なるものになった。また相乗効果のためなのか、オーストリアの原発を問題とした新作に関しても、そうした問題を感じさせられることはなかった。どこかそれは、別の惑星から行われた調査のような印象で、現地の問題を扱いながら、言及対象への収斂から逃れることができているように感じられた。これは、個人的には、田中の作品に対するある種の発見でもあった。

自身の国を遠くから眺めるとき、その場所との接点はすでに非常に頼りないものに違いない。けれどもそこで、微かな手がかりを頼りにその場所の出来事に接近しようとするとき、固有性とは別の次元の、ある意味で希薄だが真摯な、それゆえの表現が可能になる。こうした視点は、アライダ・アスマンが、歴史の再演の実例として考える、ジャネット・カーディフとジョージ・ビュレス・ミラーの作品などとも共通する部分があるように思われる。またグラーツの場合は、同時期に展示していたヤン・ヘギュの作品が、固有性に穴を穿つのを助けていたということがあるかもしれない。彼女の作品は、一般の家庭にあるような素材を利用するものが多いが、ドクメンタ13のときのように、視覚的な造形への意識が優ってしまうような場合が多い。だが、グラーツで再構成した2001年の作品、「VIP’s Union」は、むしろ彼女自身の作品としても、素材本来の意味を損なわないものになっていたように思われる。クンストハウスに関わる重要人物たち、つまりVIPのお気に入りの椅子やテーブルを集めた、一種の文化的、社会的ランドスケープとも言うべきコレクションは、田中の展示会場をはじめとして、館内のいたるところに設置されることで、展示空間の閉塞性を静かに破ることに成功していた。特定の機能を割り振られた空間を、ある意味で脱臼させるようなかたちで取り組もうとする田中にとって、ヤンの作品はある種の協働の役割を担っていた。しかしいずれにせよ、こうして田中の作品は、何かについて言及しながらそれ固有の空間や時間に閉塞することなく、それぞれの空間や時間のものとして再解釈することが可能な状態として開かれることになる。こうした性質は、多言語性や多文化性を特質とし、軟体的で奇抜な形状の建築を呑み込むその街の文化とも呼応している。

 


ヨッヘン・ゲルツ、城門壁の作品。「あなたに罪はないのか?」

 

しかし、田中の作品に対するそうした印象は、同時に複雑な問題を感じさせることにもなった。先ほど、自身を含めた受け手の問題について触れたが、実際の出来事に関するリサーチに基づく作品のなかには、元々ある種の隠喩として類似の問題に言及していくということを考えていないものもあるはずだ。例えば、作品の撤去の問題で触れたゲルツの作品には、現在も撤去されずに残っているものもある。それは、ビルボード型のものではなく、城門と呼ばれる、中世の要塞の壁に穿たれた通路にある。元々、小さな城、要塞が語源だと言われるグラーツの旧市街、世界遺産でもあるインナーシティと、外側に広がるエリアをつなぐために穿たれたそこは、クンストハウスから、クンストラーハウスに抜ける道でもあり、言わば、グラーツの芸術の基軸をなしているような通りでもある。その通路と直交するようなかたちで、側壁がアーチ状にくり抜かれている箇所があるのだが、その上部に文字がびっしりと刻まれている。そこを通る人々に呼びかけるその文の書き手はジークフリート・ウイバーライター。グラーツを州都とするシュタイアーマルクの責任者として、ユダヤ人虐殺に手を染めたナチスの政治家だ。戦後、フリードリッヒ・シェーンハルティングという偽名で1984年まで生存していたとも言われる彼が、通行人に呼びかける。あなたに罪はないのか? あなたはわたしを探したのか? オーストリアの人間やグラーツの住人でない限り、ウィバーライターやシェーンハルティングという名前で概略を察することは不可能だろう。かろうじて、自身の罪を告白する文章に刻まれた年月が、おおよその見当をつけることを可能にするぐらいだろうか。そして、わたしは一人でやったわけではないし、わたし自身がやったわけでもない、わたしには部下がいたのだというくだりまで来たとき、当然のことながらアドルフ・アイヒマンの抗弁が想起され、不確かながら、事の概略が吞み込めるようになる。もちろんそれは、ギュンター・アンダースが注意を促したように、われらみなアイヒマンの息子であるという認識を経ることで、ある種の普遍化につながるはずなのだが、おそらくそれでもその問いかけは、特定の事件へと収斂せざるをえない。

田中の作品に求めていた身勝手な距離感は、ともすると、ゲルツのような直接的な作品をどこか敬遠してしまうことになりかねない。確かに、ゲルツは一貫して同様の問題に取り組んでいる。アイルランド在住だが、元々ベルリン出身の彼にとって、ある意味で直接関わりがないわけではない。しかしその彼によって、グラーツの人々にある種の自覚が促されるという構図はどうなのだろうか。あるいは、そうした構図のなかで、彼自身の立ち位置が明確でないことも気にかかる。もちろん、ここでの議論は当事者性について検討しようとするものではない。けれども、問題と言及者、そしてその言及の向かう先の位置関係には注意を向ける必要があるだろう。また、おそらくその構図は、今日の政治的、社会的な言及を深めつつある芸術表現が、どこか均質の取り組みのように見えてしまう、ある種のコモディティ化と言うべき事態とも関係しているはずだ。あるいはそれは、問題そのものを渉猟しようとするアーティストの姿勢に対する不信感にも連続していくのかもしれない。もちろん、こうした見地は、ゲルツの作品の撤去に対して何らかの理由を与えるものではない。もしもそのように機能することがあるのであれば、それは断固として回避しなくてはならない。そもそも、グラーツを束の間訪れた人間にとって、要塞壁の作品の問いかけは無視できないものに違いない。また、撤去されたという作品にしても、もちろんそれ自体として残念なのだが、それだけにとどまらず、排除しようという力学が、歴然と、いまここに働いているという事実を示していることの意味は大きい……。これらの矛盾した想いは、おそらく、社会の問題に言及しようとする今日の芸術表現の傾向が続く限り、しばらく解消されることはないだろう。しかしそれは、性急にその結び目を解きほぐさなくてはならないという類の問題ではない。むしろその混沌のなかで、さらなる錯綜を生むかもしれない見逃しがちな挙動にまで、あらためて注意を向けてみることこそが必要だろう。

 


ギュンター・ドメニク設計の、フランシスコ会修道女、寄宿学校中庭のダイニング・ホール

 

クックの建築の在り方と、田中の作品の性質について先ほど触れたが、コリン・フルニエとの共作で、フレンドリー・エイリアンと呼ばれる、クックにとってほぼ最初の実作でもあるその空間は、見た目ほど単純なものではなかった。インナーシティの歴史的な建築群のなかに滴り落ちた、粘性物質のようなそれは、その内部にもうひとつ建造物を呑み込んでいるのだ。捕食された建物には、オーストリア在住の写真家、古屋誠一がその創設に関わったことでも知られるカメラ・オーストリアが入っている。物質的な構造としてもそうだが、写真表現を芸術が内部に胚胎させているという解釈まで、クックが意図していたということはありえないことではない。クンストハウスの写真を初めて見たとき、歴史的建造物とのあまりのコントラストに驚いたことを記憶している。しかし、驚いたのは視覚的な意味においてだけではなく、何よりも、エイリアンを受け入れたこと、そのことに対するものでもあった。

クンストハウスの上流に、ヴィト・アコンチのムーリンゼ(ムール川の島)と呼ばれる奇妙な橋がある。両者はともに、2003年、グラーツがEUの文化首都に選ばれた際に建築されたものだ。アコンチのそれは、クックの空間に負けないぐらい奇抜なものだが、川に浮かぶ建造物という意味では、ムール川には先例があった。対岸に渡ることはできなかったが、川に浮かぶ船の上に建造物を作り、水力を利用して製粉する工場があったのだ。ヨーロッパ各地に6世紀にはすでにみられたという船上工場は、ムール川にも数多く建設され、主にスロヴェニアとオーストリアを流れるその流域に、17世紀の時点で100近くもあったと記録されている。

アコンチとクックを受け入れたグラーツの寛容。けれどもそれらの液状物質のような建築には、船上工場と同じように先例があった。駅を挟んでクンストハウスと反対側に、エッゲンベルグ城という17世紀の宮殿がある。観光スポットでもあるその近くに、フランシスコ会の修道女のための寄宿学校がある。修道女の寄宿学校といっても、建物はありふれた近代建築で、前を通り過ぎただけでは、そこに何か特別なものがあるとは想像できない。恐るおそる受付に尋ねてみると、恐縮してしまうような丁寧さで招き入れてくれた。目的のものは受付を抜けてすぐの中庭にあった。用途としては食堂なのだが、そのあまりの異様な姿に、ありふれた表現だがしばらく言葉を失ってしまった。難を逃れたオーム(王蟲)が、寄宿学校の中庭で、修道女たちに守られているとでも言えばよいだろうか。元々は白いモルタル造だったそうだが、防水のため、現在では灰色の亜鉛チタン合板で覆われている。設計したのはギュンター・ドメニク。1975年に建設され、防水補修が行われたのは1987年のことになる。ここでも形状以上に驚かされるのは、保守的な印象のカトリックの修道会の、女子寄宿学校が、そのあまりにも奇抜すぎる提案を受け入れたということだろう。確かにそれは、趣ある旧市街のなかに忽然と姿を表すクンストハウスとは異なり、中庭に人目を避けるように庇護されているのだとしても、けれどもその形態に対する寛容さは、クンストハウスに対するそれに劣るものではない。

クンストハレは外から眺めることはできるものの、元々は要塞壁で囲まれたインナーシティのなかにある。また、確かに対岸からその異様な姿形は目にすることはできるが、駅から向かえば、まさにそれを眼前にするまで気付くことができないように周囲を建造物で囲まれている。寄宿学校が近代建築の外壁に守られているのと同じように、世界遺産ともなった旧市街の落ち着いた建築群に遮られて、その未来的な容姿を拝めることは直前まで叶わないのだ。言ってみればそれは、寄宿学校の中庭の食堂という構造を、拡大したものだと言えなくもない。また、その粘性物質がカメラ・オーストリアを呑み込んでいるのと同じように、寄宿学校のエイリアンは、制限された欲望のひとつを充たすために、その内部に、日々、修道女たちを招き入れている。こうした複雑な入れ子構造は、圧倒的な他者、エイリアンを招き入れるための重要な方法のひとつなのかもしれない。少なくともグラーツは、そのための経験を積んできている。それこそが他者に対する寛容を容易にしてきたのだとすれば、その経験は、あらためて学ばれなくてはならないだろう。

 


グラーツ、聖マリアのモニュメント

 

しかし、そうした寛容さを持つ一方で、いち早くナチスを受け入れ、アンシュルス(併合)を実現したのもまたオーストリアだった。もっとも、そこに至る過程は、歴史的建築と現代建築の関係以上に入り組み錯綜している。オーストリア=ハンガリー二重帝国が、第一次世界大戦の敗戦によって崩壊したとき、同じ敗戦国ドイツと、大ドイツ主義に基づいて行動を共にするという選択肢は希望のひとつでもあった。それだけを考えれば、併合の下地がすでにあったと言えなくもない。しかし、事はそう単純ではない。敗戦後の困窮に大恐慌が追い打ちをかけるなかで、保守主義と社会主義の対立が先鋭化し、1934年の2月内乱で保守主義が勝利すると、オーストロファシズムという保守体制が確立される。だがこの体制は、社会主義同様、ナチズムに対して敵視する姿勢をもっていた。同年7月、オーストリア・ナチスによって、首相殺害というクーデターが勃発するが、ほどなく鎮圧され、逆に、以前にも増してナチスに対する嫌悪感が募っていく。国民投票という選択肢を実現することができれば併合は棄却されたはずだと言われているが、残念ながら事前に察知され、武力をちらつかせた併合の求めに応じてしまう。1938年、ナチスはグラーツに進軍する。

インナーシティの南縁に、旧要塞壁の鉄門があった場所がある。広場には、17世紀に建てられた聖マリアのモニュメントがあるが、ナチスを出迎えるためにマリア像は赤い仮設壁ですっぽりと覆われ、壁には第三帝国のアイコン、鉤十字と鷲が描かれた。「結局、あなたは勝ったのだ」。加えてそこには、そうした碑文も添えられていた。讃えられたのはクーデターを起こした人々、つまりオーストリア・ナチスだった。またナチスは、彼らのためにグラーツに「民衆蜂起の街」という名誉称号まで与えている。身勝手な別称は、グラーツだけでなく、30近い都市に与えられているが、なんとも皮肉なその形容は、市民にとっては恥ずべき歴史以外の何ものでもないだろう。アンシュルスから50年を機に開催されたイヴェントで、ハンス・ハーケはその当時のモニュメントを忠実に再現してみせた。異なるのは、台座の部分に犠牲者の数が書き加えられていたことだ。元ナチス党員に唆されたネオナチの若者が爆発物を投じ、モニュメントは炎上している。炎は、マリアの像までを傷つけてしまう。

必ずしも自発的な協力者ではなかったものの、オーストリアはナチス併合後、重要な役割を果たすことになる。この連載でも繰り返し触れてきた優生政策、T4作戦においても、積極的な取り組みをみせている。オットー・ワーグナーの設計で知られる教会を抱く、ウィーンのアム・シュタインホフは精神医療の施設だが、その部門のひとつに子供を対象とした組織があり、T4作戦の舞台として多くの子供たちがそこで処理されている。今日、アウトサイダー・アートへの取り組みで知られるようになったグギングの施設もそうだった。両施設あわせて、17歳以下の子供たち約1,000人が命を落としたのだという。また、直接手を下すことはなかったものの、それらの施設からリンツ近郊の悪名高き最終処理施設、ハルトハイム城に送られた人たちも数多くいる。城から立ち上る煙を見つめていたのは市民たちだった。彼らは、最初は訝っていたものの、やがてその意味に気づき、けれども見て見ぬ振りをしなければならなかったのだ。

ところで、オーストロファシズムの時代も含めて、多文化国家でもあるオーストリアでは嫌ユダヤはあまり目立つことはなかったと言われている。もちろん併合後は、確かにナチスの施策が実行され、マウトハウゼン強制収容所も建設されている。しかしそれは、絶滅収容所ではなく政治犯や反体制分子などを主な対象とする施設だった。もちろん、そのことはどんな言い訳も与えてはくれないが、T4作戦への積極的な取り組みと比較してみることは無駄ではないだろう。前稿で詳しく触れたように、優生思想の危険な引力も影響して、特定の人種に対する攻撃よりも、T4作戦が抵抗なく受け入れられたということはありえないことではない。ドイツ精神医学会が謝罪を先延ばしにしてきたことを、ホロコーストに対する種々の対応と比較してみる必要もあるだろう。いずれにせよ愚かな拒絶が、その時代、ある種の訴求力を持っていたことは確かなのだ。

 


サン・ジョバンニ公園。建物は院長宅として用いられていた


サン・ジョバンニ公園入り口付近のメディチ・ライオン。本文では触れなかったが、ときに権威主義的に振る舞うこともあったというバザーリアは、友人に「大きな猫」に擬えられている

 

戦後のことではあるが、忌まわしき作戦の対象となった人々に当然の自由を与えることに努めた場所がある。グラーツからヴェネツィアへ向かう旅程は、少しだけ遠回りして、トリエステに向かうことになった。トリエステは、日本ではアントニオ・タブッキの紹介に尽力した須賀敦子の秀麗なエッセイの舞台となった町のひとつとして人気があるが、何よりもその町を特徴付けるのはバザーリア法を生んだということだろう。精神医フランコ・バザーリアが提唱した同法は、精神科病院の廃絶を目的としたもので、1978年に公布されている。この、精神疾患を患う人々に対する究極の、そして当然の権利を認めようとする法律が、T4作戦が実行されていたときから半世紀も経たないうちに制定できたのはある意味では奇跡と言えるだろう。件の学会が、ようやく自省の言葉を口にするのはそれから四半世紀以上待たなければならない。その対比は、それがいかに特殊なものであるかを示している。

イタリア東北端に位置するトリエステは、イタリアといっても第一次世界大戦まではオーストリアと同じ二重帝国に属しており、第二次世界大戦後にも、その帰属をめぐってユーゴスラビアとの間で紛争が起こっている。しかし同時に、三島由紀夫が心酔したガブリエーレ・ダヌンツィオが第一次世界大戦後に併合を求めて争ったフィウメ、現在クロアチアのリエカが、イストリア半島を挟んでさらに東にあることや、第一次世界大戦後にすでにイタリアに併合されていたということも併せて考えなくてはならないだろう。しかし再び、その地勢学的な位置は、本来のフリウリ語、ヴェネト語に加え、スロヴェニア語、ドイツ語、イタリア語が入り混じり、グラーツと共通するポリグロット環境を形成することになる。もっともバザーリア自身は、元々はヴェネツィアの出身であるから、街そのものからの影響は決して多くはなかったのかもしれない。それ以上に、学生時代、反ファシスト運動に関わっていたバザーリアにとって、卒業後に迎える反抗の時代の精神を、自身の分野に適応しようとしたと考える方が無理はないだろう。1971年、バザーリアはトリエステの精神病院の院長に就任する。しかし、病院を介しての実践や試みにとって、多文化性や多言語性は無関係ではなかったはずだ。またバザーリアは、医者だけでなく社会学者、ソーシャルワーカーやボランティア、そして学生などをトリエステだけでなく広くヨーロッパから集めて組織しているが、その運営や種々の実践、そして彼女や彼らの日常には、当然のことながらその街や、そこに住む人々の影響があったはずなのだ。

およそ半世紀を経た小雨の日に、精神病院があったサンジョバンニ公園を訪れてみた。緩やかな丘陵地帯に点在する建物群には、精神病院だったという過去を感じさせるような手がかりは何もない。バザーリア法の制定から2年後、舞台となった病院も閉じられることになるが、その数ヶ月後にはバザーリア自身も亡くなっている。イタリア全土から公立の精神病院が姿を消すのは1999年まで待たなければならないが、バザーリアの徴した一歩は、これまでヨーロッパ各地に残るT4作戦の気配に触れてきた人間にとっては希望以外の何ものでもない。雨は冷たく、空は暗く、快適なことは何ひとつなかった。けれどもそこに佇み続けるのは、決して苦痛ではなかった。病院の名前にもなった聖人は、人々に回心こそを訴えた。バザーリアの成したことは、おそらく同じことだったのだろう。

 


絶滅収容所、リジエーラ・ディ・サン・サッバ。中央に死体焼却施設があったが証拠隠滅のためにナチスによって解体されている

 

バザーリアの功績に対して、トリエステという環境は、そのために何らかの寄与をしていたはずなのだが、そんな街にも拭えない過去はある。トリエステには、イタリアで唯一、絶滅収容所があったことが知られている。リジエーラ・ディ・サン・サッバ。20世紀初頭、精米工場だったそこは、工場としての稼働は10年にも充たないまま軍事目的の施設に転用され、ナチス時代、絶滅収容所に姿を変えている。もっとも、サン・サッバの収容所の主な対象はイタリアやスロヴェニア、クロアチアのレジスタンスで、人種を対象としたいわゆる絶滅ではないことから、その名称は適していないかもしれない。冷戦期には東側からの難民を受け入れるキャンプにも利用されていたが、1965年、ナチス時代の記憶を留める記念施設とすることが決定され現在に至っている。

ベニート・ムッソリーニと日本の関係には、一人の日本人が関係している。下位春吉。詩人でもあった彼は、先に触れたダヌンツィオと親交があり、彼を経由してムッソリーニと知り合った。日本との関係を取り持ったというのは脚色が過ぎるかもしれないが、同盟が強化されていくなかで、本来ナチスに対しても警戒心を持っていたと言われるムッソリーニが絶滅政策に手を染めていくことになる。三島のダヌンツィオへの憧れにも顕著なように、そこにはヒロイズムというよりも、むしろその挫折に対する陶酔がある。下位の場合はそうした嗜好は目立たないものの、けれども、ムッソリーニまでを虜にしたダヌンツィオが影響していないはずはない。いずれにせよその彼の手引きで、ムッソリーニは極東の同調者と出合うことになる……。

様々な影たちが行き交っている。ある出来事を、特定の人間に集約して捉えようとすると、そうした影たちはたやすく霧散してしまう。けれども、その影たちこそが、その出来事を生み出したのかもしれないのだ。夜、影たちが行き交う場所がある。イタリア統一広場の前のトリエステ湾に、アウダーチェ埠頭と呼ばれる長さ約250mの突堤が突き出している。夕刻になると人々が集まり始め、街灯が灯る時刻になると、相貌もわからない影だけが海上を揺らめいていく。単なる夕食後の散歩のはずなのだとしても、幽玄なその光景に、一人二人過去の人間が紛れ込んでいたとしても不思議ではない。バザーリアもいるのかもしれないし、ダヌンツィオも、もちろんウンベルト・サバや英語教師ジェイムズ・ジョイスもいるのかもしれない。あるいは、旧収容所の入り口に銘板がある、ダッハウに送られて命を落としたイタリア人警察官、ジョヴァンニ・パルトゥッチもいるかもしれない。フィウメの警察署時代、多くのユダヤ人の命を救ったと言われるパルトゥッチ。近年、その真偽が問題になっているが、けれども逮捕されサン・サッバに拘留され、ダッハウに向かったことは事実なのだ。そのリジエーラ・ディ・サン・サッバを公的施設にすることが決定した翌年、さっそく建築コンペが開催されている。国立の記念碑として開設されたのは1975年。バザーリアが院長に就任し、おそらくバザーリア法の準備を進めていたのはちょうどこの時期にあたる。世界はいわゆる解放の60年代を挫折のうちに通過し、けれどもその余韻は消え去っていない。バザーリアの功績は揺るぎないものだとしても、それを受け入れた社会もまたそこにあったのだ。その社会の人々も、おそらくあまねくこの突堤の上を、影となって行き来したはずだ。彼らの社会は確かにそれまでそうした制度を作ることはできなかったのだとしても、それが姿を現そうとしたとき、それを積極的に受け入れたのは、紛うことなくその社会だったのだ。

 


アウダーチェ埠頭

 

ヴェネツィアまではトリエステから160km程度。ちょっとした電車の旅で着くことができる。バザーリアが生まれたということを想起するだけで、おそらくそれまでとは違ったものに見えることになるだろう。ヴェネツィア・ビエンナーレへの興味が、次第に後退していってしまう。前回のビエンナーレで金獅子賞を取ったのは、アルメニア人虐殺から100年後にあたるアルメニア館だった。展示は、9世紀ごろからハンセン氏病棟や救貧院として利用されてきたサン・ラッザーロ島にあった。人工的に拡張されてきた島は、18世紀に入るとオスマン帝国でのアルメニア人の文化や教育に対する懸念から、アルメニア・カソリック、メキタリスト修道会が中心となり、印刷などを手がけながらアルメニアの文化を守るための研究所としての役割を果たすようになる。島へは、ヴァポレットで30分程揺られていくのだが、実際に行ってみるとすぐ手が届きそうなところにリド島がある。ヴェネツィアの前に出かけたキャロライン=クリストフ・バカルギエフのイスタンブール・ビエンナーレで、アルメニア人虐殺の問題を繰り返し反芻するように考えていたことも影響していたのだろうか、展示はもちろんだが、その島の存在こそが、ある種の衝撃だった。

この連載で繰り返し述べてきた、国際展に出向いた人々が犯しがちな、その地の出来事や文化を素通りしてしまうという問題を突きつけられたのもまたその島だった。リド島西岸の気持ちのよいテラスで開かれたとあるアーティストのオープニング会場からも、おそらく、その島影は認めることができたはずだ。だが、そのときはそうした島の存在を想像してみることはできなかった。そもそもヴェネツィアで、その地の問題に向き合おうという気持ちになったことはあっただろうか。サン・ラッザーロ島の存在というよりは、その島に対する自身の過失に打ちのめされた。それは、聖ランベルティ教会を素通りすることなどの比ではない。ミュンスター以上に訪れているにもかかわらず、その存在に注意を向けることができなかったのだ。もはやどのような言い訳も不可能だろう。

自責の念のためか、今回ヴェネツィアでは、ビエンナーレはもちろんなのだが、それ以上に、ミュンスターやカッセル、グラーツで注意してきたものを見つめるようにしようと考えていた。そのため、ビエンナーレ会場よりも先に向かうことにしたのは別の場所だった。かつてのユダヤ人ゲットー周辺に、躓きの石が設置されている。ユダヤ人ゲットーについてはここでは詳しく立ち入らないが、カンナレッジョの中央に、3本の橋だけで孤立するようにできているその場所の構造は、ヴェネツィアのなかでも特異なものだ。躓きの石は、その周囲に数多く設置されている。何度かその場所を通ったことはあったのだが、それまでその存在に気づくことはなかった。当然のことながら、躓きの石の存在は、そこから強制収用所に送られた人々の存在を示している。時期にもよるが、ヴェネツィア内の収容所を経てアウシュヴィッツに送られた人々や、トリエステの収容所に送られたという記録も残っている。戦後、ヴェネツィア在住のユダヤ人の数はおよそ半分になったと言われており、収容所からの生還者はわずか数人だった。すでにドイツやオーストリアで見慣れていたはずなのだが、ヴェネツィアの躓きの石はなかなか見つけ出すことができなかった。世界一の観光都市の、浮かれた観光客とのコントラストがそうさせたのだろうか。いずれにしてもそれを目にしたとき、間違いなくそこもまた、あの第三帝国が土足で踏み込んだ場所なのだということを思い知らされることになった。

 


ヴェネツィアのゲットー跡地。ギュンター・デムニッヒ「躓きの石」


ミゼリコルディアの修道院教会、聖マリア教会

 

ゲットーの近くには、前回のビエンナーレで会期途中であるにも関わらず展示中止になったアイスランド館がある。ミゼリコルディアの修道院教会、聖マリア教会がその場所だ。前回、そこを訪れたときには閉鎖されていて、簡単な貼り紙と、ビエンナーレのサインが、かろうじてその場所が会場だったということを示していた。滞在中再び訪れると、それらのかすかな徴も撤去され、その場所が会場だったことを知る手がかりはまったくなくなっていた。クリストフ・ビュッシェルの作品は、カソリック教会の内部にイスラム教のモスクをインストールしたもので、礼拝はもちろんだが、礼拝者のための自動販売機なども設置されていた。記録を見る限り、有意義な試みのように思えるのだが、極右政党フラテッリ・ディタリア(イタリアの同胞)の議員が外で抗議行動を行い、あるイタリア人の来場者は、アート作品であることを理由に靴を脱ぐことを拒否したのだという。ヴェネツィア議会による閉鎖の決定は、もちろん不寛容を示すものでもあるが、その記録を一切に抹消してしまったことの罪もまた重い。そこには、グラーツのゲルツの作品と同じ問題が横たわっている。

随分と遠回りしてしまうことになったが、ようやく辿り着いたビエンナーレの、VIVA ARTE VIVA(万歳、芸術、万歳)という能天気なタイトルには、呆れると同時に、憂鬱な気持ちにさせられた。クリスティーヌ・マセルのキュレーションは、カテゴライズではないと弁明されているものの、カテゴライズ以上の何ものでもない9つの区分に基づくものだった。その凡庸な構造のなかで、例えばアンリ・サラの作品は、これまで見たことがないような貧相なものに成り果てていた。逆説的に、これほどまでにキュレーションの重要さを感じさせられたことはない。パリで話を交わしたアート関係者は、美術館レヴェルのキュレーションに過ぎないとにべもなかったが、あながちその指摘は間違ってはいなかった。参加した田中によれば、当初は設定された区分により合致した作品の展示を求められたのだという。結局、田中はそれを裏切る作品を出展することになるのだが、かすかな抗いが功を奏するのを期待するのは虫がよすぎるというものだろう。

会場を周っていて気づかされたことがなかったわけではない。それは、マセルのキュレーションとは関係のないことなのだが、クローズドなコミュニティを単位として行われる活動やその記録に基づくものが多い昨今の芸術表現にとって、グローバルな国際展という場所が、それら相互の認知を促進し、相対的な位置関係を知るための手がかりを与えることになるのかもしれないということだった。近接した関係性に基づく活動や、小さなコミュニティ単位の活動に対して、それらを孤立させないという役割。それ自体の在り方や、問いかけが問題にならないわけではないが、孤立しがちな諸活動を、共感も反感も含めて、相互に認知するという、非常に貧弱な、けれどもかけがえのないネットで結びつけることができるかもしれないという可能性。アテネのドクメンタは、参加者数や日程、それらに関する情報も、確かに必ずしも来場者にとって優しいものではなかった。けれどもそうした視点から考えてみると、参加者にとっては自身の活動と周囲の活動との強弱のある関係性が仄見えるということがあったはずだ。また来場者にとっても、どのような活動が何と結びつき、どのような可能性や問題を秘めているのかということが、朧げながら、総体として概観できたということがあったのかもしれない。国際展は、依然としてキャリア形成のわかりやすい里程のひとつではあるかもしれないが、それ自体も徐々に変質しつつある。将来それは、アーティストはもちろんだが、アクティヴィストやアーカイヴ・ビルダーなど、種々の活動が複雑に関係しながら蠢いている世界の、不十分かつ不器用な、けれどもその概観らしきものを仄見せようとする、見取り図のようなものになっていくのかもしれない。

 


フランシス・アリス、展示風景。手前に見えるのがサイクス・ピコ協定の合意を示す地図

 

国別のパヴィリオンにも、もちろん、いくつか気になったものがあった。とりわけ不思議な印象で、またこれまでにない取り組みで興味深かったのが、スペイン館のホルディ・コロメルだった。女優、歌手、ダンサーという3人の女性の先導する活動に、参加させられたり巻き込まれたりする人々。そしてその様子に視線を送る来場者。リディア・ランチを含む3人の女性たちは、明らかに何らかの指導者としての役割が与えられ、集団と、共同体がそれをとり囲む。彼の提示したものは、田中と同様な問題を扱いながらも、これまでにない性格を帯びているように感じられた。意地の悪い言い方をすれば、アートの文法への再解釈と言えなくもないのだが、けれどもそのハードルの低さや、固有の問題への収斂をはなから前提としないかのような在り方は、魅力的であるだけでなく、いろいろと考えさせられるものだった。一方で、連日長蛇の列を作っていた金獅子賞を受賞したドイツ館のアンネ・イムホフには、複雑な思いにさせられることになった。会期全体を通したシナリオがあり、それを演じていくのだというそれは、個人的には前々回のビエンナーレで同じく金獅子賞を受賞したティノ・セーガルを焼き直したもののようにしか思えなかった。もちろん、それぞれのパートを協力者に委ねたセーガルと、緻密に設計されたイムホフではそもそも大きく異なるのだが、会期を通して日々異なるものが提出されるという形態は、明らかに共通するものだった。また、確かに彼女の試みはセーガルよりも洗練されたものではあったが、そのことがむしろ、粗削りなセーガルのアイデアの消費を強く印象付けることにもなった。コロメルの場合は、もちろんそれもまたある種の消費なのかもしれないのだとしても、むしろ別種の粗削りな何かを、抱き持っているような印象があった。

小さく、目立たないながらも、圧倒的な作品もあった。イラク館のフランシス・アリスだ。イラク館は、2013年から、イラク文化の向上と世界との関係の構築を目的に創設されたルヤ財団によって企画され、昨年は財団の創設にも関わった現在の財団長、タマラ・シャラビとパオロ・コロンボが共同でキュレーションしていた。イラク国立博物館から持ち込まれた考古学的な資料を見ながら、点在する8人のイラク人アーティストの作品の先に進むと、その奥に彼の作品があった。2016年、アリスはモスルを包囲するクルド人民兵組織に9日間同行している。砂塵の舞う前線の戦車の後ろで、忙しげに絵の具の色合わせを行う様子を定点撮影した映像。吹きすさぶ風の音を掻き分けるように、戦闘機の飛来する音や、爆撃音が聞こえてくる。周囲には、戦場の様子を描いたツートーンのシンプルな絵画が置かれている。手前のテーブルには、大きな地図が広げられている。第一次大戦時、オスマン帝国が中央同盟国側につくと、一年後にはすでに戦後のオスマン帝国の分割についてイギリスとフランスの間で秘密裏の話し合いがもたれている。後にロシアが加わるかたちでまとめられたサイクス・ピコ協定が、現在の不自然に人工的な国境線を形成している。地図は、その合意内容を示している。ヨーロッパが、現在の中東の問題に大きく関わっていること。そのことを抜きに、同じ西洋人としてはどのような表現も不可能だろう。モーシェ・ダヤンの描いたグリーン・ラインを辿ったアリスの姿勢は、ここでも一貫している。傲慢こそが生み出した悲劇。アリスを乗せた車は、前線で吹雪に見舞われ道を見失い、ISISの狙撃手の領域に紛れ込んでしまったことがあるという。咄嗟にiPhoneで位置を確認したというアリスは、そのことが自分の置かれた状況をフィクション化するようだったと振り返っている。インターネットなどで見聞きする情報が、離人症の人たちの世界のように、どこか現実離れした印象を受けるのはそういうことなのかもしれない。

 


サン・セルヴォーロ島、元精神病院内の教会内部

 

ヴェネツィアでは、ジャルディーニの国別パヴィリオンとアルセナーレを見るだけでも相当な気力と体力が必要になる。加えて、街の各処に点在する、ジャルディーニにパヴィリオンを持たない国をすべて見尽くすことは不可能だ。おまけに、レデントーレ祭などの催し物が重なればさらに足を運ぶことができる場所は減っていく。加えて、今回のようにその地のものに向ける意識を携えたものにとっては、決して誠実とはいえないザッピングのような行動になってしまう。しかし、そうしたことを承知の上でも足を運びたかった場所があった。

サン・セルヴォーロ島。ヴェネツィアには、ペスト患者や精神病者を収容するための島がいくつかある。サン・セルヴォーロ島には男性精神病者の病院があり、女性患者はサン・クレメンテ島に送られた。バザーリア法によって、両島の病院は閉鎖されるが、現在、サン・セルヴォーロ島には精神病院の博物館がある。ヴァポレットで向かってみると、驚くことにその島は、サン・ラッザーロ島の手前にあり、前回アルメニア館に向かったのと同じヴァポレットだった。博物館は、時間指定のツアーのときだけ開場となり、見終えた部屋はその場で施錠されていった。展示は、かつての精神病者に対する偏見や、その非人道的な療法を包み隠さず示していたが、それでもその密室的な空間で行われていた実態を、おそらく描き切ることはできていないだろう。その島を覆っていた空気に関しては、もはや想像力さえ及びそうにない。しかし、そうしたある種の儘ならなさが、逆に、バザーリアが成し遂げたことの大きさをあらためて考えさせてくれた。それは、紛れもない、ある種の創造だったのだ。

数日後、再びジャルディーニの会場に向かってみた。バザーリアの創造性を基準にしたとき、今日のアートはどのように見えるのか。そんな意地の悪い魂胆を抱いていた。けれども、ヴァポレットを降りたとき、別のことに驚かされることになった。随分と遠くにあると思っていたサン・セルヴォーロ島が目の前に見えるのだ。一度も気にかけたことのなかった島影が、浮き桟橋のせいで、ゆっくりと揺れ動いている。それを視ることができなかったことを、自分以外のせいにすることはできない。もちろん、誰かの功績と比較して、他の何かを判断するなどということは止めるべきだろう。ジャルディーニで問われることになったのは、自分自身の方だったようだ。

 


ジャルディーニから望遠するサン・セルヴォーロ島

 

 


 

ナノソート2017
no.1「シンタグマ広場に向かう前に……」
no.2「アテネ、喪失と抵抗の……」
no.3「ミュンスター、ライオンの咆哮の記憶……」
no.4「愚者の船はどこに向かうのか……」
no.5「幸せの国のトリエンナーレ」
no.6「拒絶、寛容、必ずしもそればかりでなく」
no.7「不機嫌なバー、あるいは、政治的なものに抗するための政治」
no.8「南、それは世界でもある」

 

 


 

杉田敦|Atsushi Sugita
美術批評、女子美術大学芸術文化専攻教授。主な著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。オルタナティヴ・スペース art & river bank を運営するとともに、『critics coast』(越後妻有アートトリエンナーレ)、『Picnic』(増本泰斗との協働)など、プロジェクトも多く手がける。4月から1年間、リスボン大学美術学部の招きでリスボンに滞在。ポルトガル関連の著書に、『白い街へ』『アソーレス、孤独の群島』『静穏の書』(以上、彩流社)がある。

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