シネマ・インデックス 文/大竹伸朗


: 『五月雨中花 下集大結局』(1960)のビンテージパンフレット。光藝製片公司、秦劍(チュン・キム)監督。: 『佳偶天成』(1947)のビンテージパンフレット。大觀聲片有限公司(アメリカ支部)、蔣偉光(チャン・ワイグォン)監督。

最初の映像体験といえば、昭和30年代(1955–64)の東京のテレビが始まりですね。映像に対する最初の驚きは、その頃集中的に放送されていたアメリカのホームコメディーなどのテレビ番組でしょうか。たとえば:

『アニーよ銃をとれ』(1957)
『ヒッチコック劇場』(1957–62)
『ローン・レンジャー』(1958)
『パパは何でも知っている』(1958–64)
『ローハイド』(1959–65)
『ララミー牧場』(1960–63)
『ベン・ケーシー』(1962–64)
『じゃじゃ馬億万長者』(1962–63)
『とつげき! マッキーバー』(1963)
『ブラボー火星人』(1964)
『アウターリミッツ』(1964, 1966–67)

いろいろそういうものがあったわけです。この頃の映像は8歳くらいまでの記憶と強く結びついています。そういう外国の映像から世界を垣間見ていました。当時知っていた外国といえば、南六郷というところに住んでいたのですが、近くの羽田空港のことを飛行場と呼んでいました。「ギブミーチョコ」の時代というわけじゃないけど、友だちと自転車で2時間かけて飛行場まで外人を見に行ったり、お菓子をもらいに行ったりして、飛行場やロビーのインターナショナルな雰囲気から未知の世界を感じていました。

物心ついたときには既に家にテレビがありました。オレが生まれたのは戦後10年経った頃だから、渋谷の傷痍軍人とか家のそばにあった防空壕の記憶は残っているけれども、焼け野原の東京とか闇市のぐちゃぐちゃしていた頃の記憶はなんにも残っていません。それが当たり前だと思っていたけれど、30歳、40歳くらいになってあらためて考えると、終戦から10年後の当時、日本人の欲とか成り上がり的な処世術とかぐちゃぐちゃしていたことが実際はあったはずだけれど、同時に、子どもにそうした記憶を残させないようにしようという大人の健全な意志もあったんだと思います。10年の間に戦争の痕をある程度消し去るには、とんでもないパワーが必要だったと思うんですよね。それと同時に昭和30年代はアメリカの文化がどっと入ってきた時期で、オレなんかは完璧にアメリカに洗脳された世代でしょうね。テレビで見るアメリカの冷蔵庫のでかさとか、芝生に投げ出されたスタンドのない自転車とか、ドアに向かって投げられる朝刊とか、コンバースのスニーカーとか、そういった光景に驚きしかなかったんですよ。

小学校3年生のとき、初めてのテレビアニメとして『鉄腕アトム』(1963–66)が放映されました。初回の放送のとき、テレビの前で正座して待っていたけれども、アトムの動きとディズニーの動きとの差にがっくりきてしまいました。ディズニーの『101匹わんちゃん』(1961/日本1962)とかの滑らかな動きに比べると、ぎこちないし、モノクロだし。そういうところに子どもはうっすらと日本とアメリカの国力の差を感じたんじゃないかな。それから何十年後かに鉄腕アトムの動きの面白みがわかるようになるんだけれど、当時、オレらの世代の多くはそう思ったはずです。

他には、『月光仮面』(1958–59)っていうすごくポピュラーな番組があって、オレなんかの世代はもの凄く熱狂しました。当然子供のころはストーリーに熱狂していたんだけど、その後年を追うごとに『月光仮面』の背景映像が自分の中でドンドンと大きくなっていった。番組の最後に車とかバイクのカーチェイスみたいなシーンが必ずあるんだけれど、その背景がおそらく東京近郊で、ただ電信柱とか工場があるだけで、他にはほとんどなんにもなくて、とにかく空が広い。そういう映像を30歳、40歳くらいになって思い返したとき、監督の名前やストーリーの内容、コンセプトよりも、背景の映像みたいな無意識のうちに記憶されていたものに影響されているんだと気がついたんです。そんなことに気づいてからは、映画でも背景とかに興味を持つようになっていって、雲とか空の感じとか、その1点だけよければどんな映画だっていいと思うようにもなりました。いまでもテレビで1950年代の日本映画やっていると無意識のうちに背景に目がいきますね。

10代後半の頃は、金はないけど暇だけはあって、いちばんいい暇つぶしが映画でした。絵でなにかしようと思っていはいたけど、上手くいかなかったり、わからなかったり。そういうときに、映画を観ることは自分自身に対して時間を無駄にしてないっていう言い訳が効くんです。8時間ずっと映画館にいて、映画を3、4本観ることでなんとか繋いでいくというか。この頃が映画をいちばん観た頃かもしれませんね。あくまでもオレの場合はミーハー的なレベルでの話ですけど。ひとりの作家を全部掘り下げることもないし、何本かつまみ食いでおもしろいと思うものだけを観ていたっていう話です。この20年はそんなに情報があるところにいないから、最新映画情報についてはよく知らないですが。


: 『海女の戦慄』(1957)のビンテージパンフレット。新東宝、志村敏夫監督。香港では興昌影業公司配給。: 『乖侄』(1959)のビンテージパンフレット。重光影業公司、蔣偉光(チャン・ワイグォン)監督。

ア行     カ行     サ行     タ行     ナ行     ハ行     マ行     ヤ行     ラ行     ワ行

 
 
ア行
 
 
アキ・カウリスマキ: カウリスマキはすごく好きな作家です。彼はすごく変わってる。同い年なんですけど、すごくアルコール好きで、日本に来たとき、酒場の接待で大変だったって噂を聞いて増々好きになりました。サミュエル・フラーが彼の『ラヴィ・ド・ボエーム』(1992)に出てるみたいですね。
サミュエル・フラー参照。

アゴタ・クリストフ: 『悪童日記』(1986)− アッバス・キアロスタミ参照。
 
 
アジア映画: アジア映画も観ますよ。ウォン・カーウァイが10年くらい前に流行りましたよね。でも最近の韓国の映画なんかはオシャレすぎるといった偏見があるのか、どうにも拒否感が強い。日本の影響なのかもしれないけど。チャン・イーモウはちょっと観てないけど、『ディパーテッド』(2006)のオリジナルの『インファナル・アフェア』(2002)はすごくおもしろかったです。
80年代に香港に行ったときに50年代の香港映画のパンフレットを偶然古道具屋で見つけて集めたことがあります。小さなパンフレットで表紙が全部わら半紙の薄っぺらい2色刷り、いまでも持ってるけど、それがすばらしい。『ゴジラ』(本多猪四郎監督, 1954)、『空の大怪獣ラドン』(本多猪四郎監督, 1956)や石井輝男の『スーパージャイアンツ』(シリーズ, 1957–59)みたいな特撮映画とか、前田通子主演の『海女の戦慄』(志村敏夫監督, 1957)とか、更に日本映画のコピーとかもある。オレの映像とスチルの関係はパンフレットに象徴されているんじゃないかな。リュミエールの『汽車の到着』(1895)を最初に観た観客は驚いて逃げたっていいますよね。やっぱり絵が写真になったときと、写真が映像になったときの衝撃は想像を絶する驚異だったんでしょうね。
石井輝男リュミエール兄弟参照。
 
 
アテネ・フランセ文化センター(御茶ノ水): 20歳くらいのときに前衛映画特集があって、向こうで放送されたゴッホや北欧の画家のドキュメンタリー、フランスで作られた昔のドキュメンタリーを定期的にやっていて。小さなスクリーンだけど、一般の人も普通に観れたのでよく通った思い出があります。
東京都千代田区神田駿河台2-11 アテネ・フランセ4F  http://www.athenee.net/culturalcenter/
オノ・ヨーコ参照。
 
 
アッバス・キアロスタミ: 監督の名前とかはわからないけれど、偶然テレビで見た映画に入り込むことが多いんですよね。『悪童日記』(アゴタ・クリストフ監督, 1986)とか。イラン映画特集をやっていたときにも、すごく感激したフィルムがあったんです。たぶんキアロスタミの『友だちのうちはどこ?』(1987)だと思いますが、子どもの話でものすごくピュアな映画でした。
 
 
荒木経惟: 荒木さんも映画好きな方ですよね。写真もそうだと思うけど、映画もコントロールできないものが写り込んじゃっているということの影響力がある。『女校生偽日記』(1981)は観たことないけど、本は大切に持っています。映画は日活ロマンポルノ系でも、ぜんぜんエロティックじゃなくて、誰もいないベッドとか四つ角のシーンが意味もなく長かったり、何度も同じ場面が現れたり、映画における写真的なものに興味があったんじゃないかな。
チャーリー・チャップリン日活株式会社参照。

アラン・レネ: 『去年マリエンバートで』(1961)− ロブ・グリエの脚本の映画で、最初観たとき難解で全くわからなかったけど映像は今でも頭の中に残っています。スチルがものすごくきれいでカットをボールペンで描いたり、当時のノートに「影の記憶」と書いたりした記憶があります。

アルフレッド・ヒッチコック文芸坐(池袋)参照。

アンディ・ウォーホル: 20歳の頃、アンディ・ウォーホルのフィルムを全部観ようと思ったんですが、その当時の日本では全部やっていませんでした。1977年に初めてロンドンに行ったときにICA(インスティチュート・オブ・コンテンポラリーアート)でウォーホル特集があって、そこで初めてウォーホルのフィルム、『スリープ』(1963)、『エンパイヤ』(1964)とかを観て、『チェルシー・ガールズ』(1966)は本当にびっくりしました。映画の画面がひとつじゃなくてもいいって初めて気づかされたんです。別に画面が2つでも3つでも4つでも、同時に違う映画が流れていてもいい。だけども、映画とはこういうものだと決めつけて、暗黙のうちにみんなが動くところも逆におもしろいですよね。常に既成概念を壊すことにこそ、アートの意味があるという考え方もあれば、過去に確立されてきたものを使って、いままでにないものを作り出すという考え方もあって、アートの目的が多様化していますよね。後者の方が大きな衝撃を与えることがあるかもしれないし。
 
 
石井輝男: 『網走番外地』の最初のシリーズ(1965–67)の高倉健のものとか、新東宝時代から晩年まで数多くの傑作がある。この人にしか出せないB級テイストと独特なエログロ感のスチルは木炭画に起こしたい衝動を覚えます。
アジア映画参照。
 
 
市川雷蔵: 昔の日本の映画、特に古い時代劇映画をほとんど知らないから、自分が生まれた頃の日本映画をできるだけ観たいですね。市川雷蔵主演の『大菩薩峠・完結編』(森一生監督, 1961)とか。
増村保造参照。

イングマール・ベルイマン: 映画の趣味は10代の頃からあんまり変わってなくて、あんまり芸術的な映画は好きじゃない。たとえば、ベルイマンは何とか好きになるよう努力はしましたが、オレの頭では全くダメでしたね。好き嫌いを言える程は観てないけど、ひたすら難解でした。その難解なところになにか意味があるように思わせるところが現代美術みたいだとも思ってました。サミュエル・フラーの方が好みですね。
サミュエル・フラー参照。

インド映画: インドにはボリウッドというお金をかけてエンタテインメントをやるところがあるけれど、この前偶然テレビで見たんですが、どこかの村に小さな映画館があって、村人はそこで映画が上映されるのを楽しみにしている。そこで上映される映画の制作予算が20万円しかないのにスーパーマンとかが出てくる映画を作っているから、スタッフが手作りの衣装に着替えて、自転車の上に乗って、その自転車をみんなで映らないように気をつけながら押して、監督は手持ちのカメラ1台みたいな世界で、すごくおかしいんですよね。自転車の荷台から飛び降りて着地するところとかもすごくおかしかった。ああいう方が、なんか一気に逆転しちゃう感じがありますよね。昔のインド映画のフィルムは上映が終わると捨てちゃうらしいんですね。蚤の市に行き、細切れのフィルムが安く売っているので、それを買ってきて、くっつけて1本の映画を自分で作って、それを1本20円くらいで上映している人がいるそうです。他にも、屋台の後ろから子どもが6人覗ける映画があって、2人の親父がそれを引いていくんだけど、1本2円らしいです。

ウォン・カーウァイアジア映画参照。
 
 
映画館: 文芸坐以外にも飯田橋のギンレイホールだとか大井武蔵野館(大井)とかパール座(高田馬場)とかがあって、けっこうマニアックな特集を組む人が多くて、他では絶対に取り上げられないような監督特集を一ヶ月間やっていました。映画館ごとに趣味が違って、全部マニアック。新宿にあったATGとかはインディペンデント映画の走りみたいなもので、ストーリーはあるけれど、アートっぽい。ビデオとかDVDとかがない時代だから、どこかで映写しない限り観られないものも多いんでしょうね。
アテネ・フランセ文化センター(御茶ノ水)ギンレイホール(飯田橋)日本アート・シアター・ギルド(ATG)文芸坐(池袋)参照。

大井武蔵野館(大井)映画館参照。

大信田礼子: 『ずべ公番長』シリーズ(山口和彦監督, 1970–71)− 長谷部安春参照。
 
 
大島渚: 『絞死刑』(1968)とか『新宿泥棒日記』(1969)を観ました。横尾(忠則)さんが出てくるやつですよね。『戦場のメリークリスマス』(1983)は坂本龍一、(ビート)たけし、デヴィッド・ボウイが出ていて。あのころはまだ坂本さんに会ってなかった頃だけど。
日本アート・シアター・ギルド(ATG)参照。

岡田嘉子小津安二郎参照。
 
 
小津安二郎: いまや小津安二郎といえば誰でも知ってるけど、オレが20歳くらいのとき、マニアックな映画が好きな友だちがすごくおもしろいって言ってきたけど、ぜんぜん知らなくて、どういう話か聞いてみると、なにも起こらない話だという。垂直水平のラインがきちっとした画面で、普通の娘が嫁ぐ話ということを聞いているうちに、すごくシュールな気持ちになって、ものすごく実験的なアートっぽい映画に聞こえてきたんです。ブニュエルみたいな映画かもしれないという想像も混ざってきて、日本に小津というすごいアンダーグラウンドな、超実験映画監督がいたんだ。と、期待して観に行ったら、本当に普通の話で、ひどくがっかりして。この頃が第一次小津ブーム。黒澤明はすでにものすごくポピュラーだったけど、いまから30年くらい前、80年代くらいに一気にインターナショナルに認知されるようになったんですよ。そういう経験があったんだけど、結局小津もすごく好きになりました。この間、テレビで『東京の宿』(1935)という初期のサイレント映画がやっていて、すごくおもしろかった。仕事にあぶれた労働者が東京を歩き回る話で、坂本武っていう初期の小津映画では常連の役者が出ていて。若い頃の岡田嘉子がすごくきれい。なんか切なくてグッときました。
ルイス・ブニュエル参照。
 
 
オノ・ヨーコ: 20歳くらいのときにオノ・ヨーコ特集を観るためにアテネ・フランセに通ってたんですけど、『フィルムNo. 5 スマイル』(1968)という作品は眼鏡を外したジョン・レノンの顔のアップが超スローモーションで映っていて、1時間に何分かだけジョン・レノンが笑うというすごくウォーホル的なアプローチのものがありました。
アテネ・フランセ文化センター(御茶ノ水)参照。

 
 
カ行
 
 
川島雄三: 『州崎パラダイス赤信号』(1956)− 昭和20年代後半の州崎の遊郭が舞台になっている映画で、ずっと気になっていたのをDVDで観たけど、おもしろかった。永井荷風が死んだ翌年に山本富士子が主演した『濹東綺譚』(豊田四郎監督, 1960)も終戦直後のものでおもしろかったな。あの頃の女優はやっぱり玄人さんですよね。本物か素人かは「サングラスのしっくり具合」で判断するところが自分にはあります。
 
 
クエンティン・タランティーノ: 『デス・プルーフ』(2007)− この映画はブニュエル的だと思いました。平気で途中で変わってしまう。あれは向こうのドライブイン・シアターとかグラインドハウスとか、かなりの低予算でそれ用の映画を製作するものをモデルにしているんですよね。日本とアメリカの違いとして、向こうだとお笑いで済んじゃうことが、こっちだと人権だなんだってことでいきなりモラルを問われちゃう。もちろんアメリカにもあるんだろうけど、ああいうのはああいうので許す世界が確固として残っているんです。そういうところがやっぱり違いますよね。映画なんだからマジにならないでって言っても、日本で絶対にそうはいかないですよね。タランティーノは日本映画に影響を受けているらしいけど、浮世絵でもなんでもみんな向こうに持っていかれちゃう。日本は律儀だから、良い部分でも悪い部分でもあるけど、変に責任を感じてモラルみたいなものを想定して、あらかじめ自己否定をして可能性を否定してしまう。向こうの人は見る視点、角度が違って、おもしろいかつまらないかだけで想像力に結びつける軽さがありますよね。当たり前だと思っているものが、文化が違うだけでなんだかわからないものになってしまう。ものを作るには、その国のしきたりとか常識とかあんまり踏まえない方がいいかもしれませんね。昔観たアメリカ映画は靴のまま畳に上がっていて、そんなばかな話はないんだけど、それを普通にやっている感じがおかしいし、そこにはとてつもない創造への可能性が潜んでいることがある。
ルイス・ブニュエル参照。
 
 
ギンレイホール(飯田橋): 東京都新宿区神楽坂2-19  http://www.ginreihall.com/
映画館参照。

クリント・イーストウッド: 『グラントリノ』(2008)− こういう単純な映画も好きになってきたね。
 
 
黒木和雄: 『祭りの準備』(1975)− 四国が舞台で信用金庫に勤めるシナリオライター志望の青年の話で、20歳の封切り時、とても影響を受けた映画の1つです。
日本アート・シアター・ギルド(ATG)長谷部安春参照。
 
 
黒澤明: 10年くらい前に絵の制作にデジタルを取り入れて、ディスプレイの中の絵を原寸サイズで見渡しながらやっているけど、そうすることでものすごいディティールを見ることができる。筆の跡とかは明らかにオレがやっているんだけれど、モニタ上でどんどん絵に近づいて行くと、自分が描いた絵からどんどん離れて客観的に見ることができる。そのときに、作品を見る距離っていうのに規則はないんだけれど、美術館でも画廊でも、ほとんどの人がある程度の距離で作品を見ることがおもしろいと思ったんですよね。たとえば、画面から1センチの距離で絵を見るのが、オレの距離なんだっていう絵の見方があったり、望遠鏡で50メートル離れたところから見るのがしっくりくる人がいたりしてもいいんですよね。絵を見る距離は無限にあるんだけれど、無意識に自分の身体の物理的なスケールで絵との距離を測っているんでしょうね。動物的な感覚というかさ。同様に、作者も身体的な手の長さとか絵を描く距離があって、絵を把握してるんです。それでも、1センチの距離で拡大してみていくときに、自分のやったことに対して、自分がいちばんわからなくなるのかな。だから、油絵でも一定の距離から絵を見て把握する方法があるけど、ものすごい至近距離から見たり、ものすごい離れたところから見たりすることで、そこからまた違う想像力が連鎖していくように思えるんです。
黒澤明の『野良犬』(1949)に昭和25年(1950)くらいの戦後の闇市が映っていて、最初のシーンが野良犬が舌を出して息をしているアップなんだけれど、そのムッとした感じがものすごい。新宿か代々木辺りのばい菌がいっぱいいそうなどぶ池の感じ。それがモノクロなんだけど、情報量がものすごいんですよね。機材だってフィルムだっていまより質が悪いのにあの情報量を定着させるアプローチ。あれっていったいなんなんでしょうね。不変のものっていうか。不便でこっちのテンションもあげなきゃいけない状況の方が、そういうものって入り込んだりするのかもしれませんね。
たとえば、誰かに会いに新宿に行くとしても、いまならここから新宿までタクシーとか地下鉄で行くけど、昔は歩きですからね。本当に会いたくなかったら行かないでしょ。その分、人と会っているときの時間の密度とか情報の濃度はものすごく濃かったんじゃないかと思うんです。「とりあえず」が許されない時代だったんですよ。とりあえずオープニングに5分だけ。とかあり得ませんよ。たくさんは実現しないけど、少ない分ディープだったんじゃないかな。いまはどんどん広く浅くになってきているというか。おもしろいものはおもしろいというのは変わらないだろうけど。

 
 
サ行

坂本武小津安二郎参照。

坂本龍一: 『戦場のメリークリスマス』(1983)− 大島渚参照。
 
 
サミュエル・フラー: 『クリムゾン・キモノ』(1959)− サミュエル・フラーに興味を持ったのは、映画のタイトルですね。クリムゾンとキモノ。クリムゾンっていえば、キング・クリムゾンのイメージで、それが着物と合体している。サミュエル・フラーにはB級の独特な世界があるんです。昭和30年頃って進駐軍と日本の芸者の恋の物語の中でドラが鳴って、タイトルがバンブー文字っていう世界、勘違いされた日本。そういう勘違いしたオリエンタルな感じが、遠い世界のように感じられて、すごく好きだったんです。ハワイのミュージシャン、マーティン・デニーの世界。エキゾティック・モンド・サウンドみたいな、南国の緩い感じのリゾートミュージックみたいな世界。サミュエル・フラーってかっこいいんだよね。
アキ・カウリスマキ参照。
 
 
サム・ペキンパー: 『ワイルドバンチ』(1969)− この人の映画も若い頃、池袋の文芸坐でたくさん観ました。「サム・ペキンパーと池袋」ってなんかしっくり合うんだよな。
文芸坐(池袋)参照。

シティロードぴあ参照。

清水宏: 日本の映画作家はすごいと思うんですよね。小津とか黒澤が有名だけど、まだまだこれから再評価される人がいっぱい出てくると思う。この間、カット割りまで完璧にリメイクされた『按摩と女』(1938)の清水宏は、小津安二郎と同時代の人で、けっこう映画を撮っているけど、まだまだマイナーな監督。
小津安二郎黒澤明参照。

志村敏夫: 『海女の戦慄』(1957)− アジア映画参照。

ジョセフ・コーネルマルセル・デュシャン参照。
 
 
ジョン・ウォーターズ: 新宿でもアンダーグラウンドでマニアックな映画を上映するところがあって、そこで単発的にやっていたジョン・ウォーターズ特集で『ピンク・フラミンゴ』(1972)とかを観ました。他にはトッド・ブラウニングの『フリークス』(1932)とか。

スタン・ブラッケイジビートルズ参照。

 
 
タ行

高倉健: 『網走番外地』シリーズ(1965–72)− 石井輝男参照。
 
 
チャーリー・チャップリン: 映画にしろ絵にしろ、作者が作品のことをいちばんわかっていると考えるのはあまり信用していません。映画監督も天気とか事前にいろいろチェックするんだろうけど、役者がなにかを演じているときの雲の様子とかに対して撮影中は無意識で、撮影後に意識していくということが映像の場合は大きいと思いますね。20歳の頃にチャップリンとかキートンの特集があって、『サーカス』(1928)に綱渡りをしているチャップリンに檻から放たれた猿がまとわりついて、猿がしっぽを執拗にチャップリンの口の中に入れよう入れようとするシーンがあって、それがむちゃくちゃおもしろい。そういうことが天才には起きるんですよね。荒木さんのインタビューでも猫がいいところに来るとか。
荒木経惟参照。

デヴィッド・ボウイ: 『戦場のメリークリスマス』(1983)− 大島渚参照。
 
 
寺山修司: 寺山修司は好きだったから『田園に死す』(1974)とかは封切りのときに観に行きましたね。オレの兄貴が入れ込んでいて、家にたくさんあった本で初めて知ってさ。中学のときだったけれど、短歌を読んでも言葉の使い方がぜんぜん違う感じがわかったんですよね。映画もそうだけど、感覚的にはすごくどろどろした背景でも、若いやつにはすごく伝わりやすい、風通しのいい表現。言葉の組み合わせが天才ですよね。イマジネーションがすごく揺さぶられる言葉の選び方をするから、言葉から絵が浮かぶっていうかさ。寺山修司もあっけなく死んじゃったし、つかこうへいも死んじゃったし。映画を撮るのは大変だろうな、生半可じゃないですよね。あれだけの人数を動かすとかあり得ないですよね。
日本アート・シアター・ギルド(ATG)原田芳雄参照。

東京藝術大学藤田敏八参照。

トッド・ブラウニング: 『フリークス』(1932)− ジョン・ウォーターズ 参照。

豊田四郎: 『濹東綺譚』(1960)− 川島雄三参照。

 
 
ナ行

成瀬巳喜男: 昔の普通の映画、そういうものはつい観ちゃうんですよね。成瀬巳喜男はなんてことのない話を撮るけど、なぜかおもしろい。お金をかければいいってものではないけれど、一般的なレベルでのハリウッドのような映画とテレビ番組の予算とでは、だいたい1分か何秒かでわかるじゃない。おもしろいと思うものとつまらないものは映像の場合、CMでも、一瞬で伝わっちゃうのかな。
 
 
日活株式会社: [映画製作・配給会社(1912–)。日活アクション(1956–67)、日活ニューアクション(1968–71)、日活ロマンポルノ(1971–88)。『野良猫ロック』シリーズ(長谷部安春監督, 1970–71)、『女校生偽日記』(荒木経惟監督, 1981)など。藤田敏八の『八月の濡れた砂』(1971)が最後の日活ニューアクション映画だった]
荒木経惟長谷部安春藤田敏八ルイス・ブニュエル参照。
 
 
日本アート・シアター・ギルド(ATG): [映画制作・配給会社(1961–92)。かつて新宿に劇場があった。封切り作品に『絞死刑』(大島渚監督, 1968)、『新宿泥棒日記』(大島渚監督, 1969)、『田園に死す』(寺山修司監督, 1974)、『祭りの準備』(黒木和雄監督, 1975)、『青春の殺人者』(長谷川和彦監督, 1976)など]
映画館大島渚黒木和雄寺山修司長谷川和彦増村保造吉田喜重参照。


: 『金夫人』(1963)のビンテージパンフレット。嶺光影業公司、莫康時(モク・ホンシー)監督。: 『似水流年』(1962)のビンテージパンフレット。華僑電影企業公司、左几(チョー・ケイ)監督。

 
 
ハ行

バスター・キートンチャーリー・チャップリン参照。
 
 
長谷川和彦: 『青春の殺人者』(1976)− 長谷部安春日本アート・シアター・ギルド(ATG)参照。
 
 
長谷部安春: 『野良猫ロック』シリーズ(1970–71)− 70年代の『野良猫ロック』シリーズも観てました。和田アキ子とか藤竜也とか原田芳雄とかがまだ新人だった頃で、大信田礼子が『ずべ公番長』シリーズ(山口和彦監督, 1970–71)をやっていて。背景がいいんですよね。新宿の東口から西口に抜ける辺りで言い合いになったりするんだけど、背景を見てしまう。この時代は藤田敏八の『八月の濡れた砂』(1971)とか長谷川和彦の『青春の殺人者』(1976)とか黒木和雄の『祭りの準備』(1975)がよかったですよね。70年代は安保反対とか万博とかで政治的なんだよな。瀬戸内シージャック事件(1970)っていう20歳過ぎの男の子がライフル銃を持って、フェリーをハイジャックしてさ。広島から松山を往復して、最後は射殺されるんですよ。そういう世の中の事件が『野良猫ロック』シリーズとかを製作している映画、音楽の現場に影響していたんじゃないかな。事件の情報にピリピリしながら撮影していたっていうのを本で読んだことがあるよ。あさま山荘事件(1972)もそうですよね。学生運動なんかはオレよりも上の年代だったけどね。
黒木和雄日活株式会社原田芳雄藤田敏八参照。
 
 
原田芳雄: 『野良猫ロック』シリーズ(長谷部安春監督, 1970–71)、『田園に死す』(寺山修司監督, 1974)、『祭りの準備』(黒木和雄監督, 1975)− 黒木和雄寺山修司日活株式会社日本アート・シアター・ギルド(ATG)長谷部安春参照。

パール座(高田馬場)映画館参照。
 
 
坂東玉三郎: 『夢の女』(1993)− 坂東玉三郎の初監督作品で吉永小百合が主演の映画。これが完璧にこけたらしくて、ビデオもすぐに廃盤になって、DVD化されないんですよね。セットとかサウンドトラックがすごくいい。個人的にはものすごく好きな映画です。土手に渡し船に月、そこに芸者が立っている状況がセットだってわかるんですけど、すごくシュールでリアリティがある。芸者の話だから三味線が遠くで鳴っていて、玉三郎のある種の美意識に心をつかまれました。距離感のあるサウンドトラックが痺れます。
 
 
ぴあ: 72年に『ぴあ』が創刊されたときはかなり衝撃的でした。ああいう情報だけの本はそれまでなかったけど、とにかくそれを見れば東京のあらゆる情報、なにがどこでいつまでやっているとかがわかったんです。『ぴあ』のあとに『シティロード』が出たけど、ネットがない時代だからそれしかなかったんですよね。

ピエル・パオロ・パゾリーニ文芸坐(池袋)ルイス・ブニュエル参照。

ビートたけし: 『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督, 1983)− 大島渚参照。
 
 
ビートルズ: 中学のときと高校のときに1本ずつ8ミリで20分くらいの映画を作っているんですよ。小学校の低学年のとき、1963年くらいにシングルエイトが発売されて、写真以外にも家庭で映画が撮れるっていう意識が始まった最初の世代だと思うんです。その時期はビートルズのデビューの頃なんですよね。ビートルズの『ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!』(リチャード・レスター監督, 1964/以下、『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』)と『ヘルプ!4人はアイドル』(リチャード・レスター監督, 1965/以下、『ヘルプ!』)は、実際のミュージシャンを主人公とした映画が、一般映画として興行的にも世界的なレベルで成功したんです。やっぱり『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』の影響力はすごいと思う。『マジカル・ミステリー・ツアー』(1967)にもすごい影響を受けました。トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが撮った『トゥルー・ストーリーズ』(1986)もすごくおもしろかったけど、あれを観たときに最初に思い出したのは『マジカル・ミステリー・ツアー』でした。ホームビデオとビートルズの映画が同時期だったというのはものすごく大きいことだと思っていました。『ヘルプ!』はストーリー性があるけど、『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』はほとんどドキュメンタリーで、映画監督がストーリーを考えて映画を撮るというものではないものがブレイクしていったんです。日常に映画と音楽が入り込んできて、一般の人も映画が撮れるというシングルエイトというツールが生まれたことも大きかったと思いますね。『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』の成功によって、日本のグループサウンズというビートルズとかのコピーバンドがいっぱい出てきて、その中でブレイクしたジャガーズ、オックス、スパイダースとかを主人公にした『ヘルプ!』や『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』をコピーしたような映画がいっぱい出てきたんですよ。それが小学校の高学年から中学校の頃だから、こんなの撮れるだろ、撮っちゃおうぜ。と言って、友だちと撮影したんですよね。そのフィルムはどこかにいってしまったんですけど。そのときは友だちのところにあった8ミリを借りて、高校のときは買ったのか借りたんだと思います。3分のカードリッジを編集して共同制作するんですが、フィルムをヤスリで削ったり、マジックで色を塗ったり、画鋲で穴をあけるとか、60年代のアメリカのアンダーグラウンドの実験作家とかスタン・ブラッケイジみたいなことを、もちろん彼らの存在は知らないんだけれど、見よう見まねで遊んでやっていたんですよね。ビデオは買えないけれど、家に8ミリがあって、時間もあったから。

ビクトル・エリセ: ちょっと前にテレビで偶然『マルメロの陽光』(1992)を見てすごい感動しました。エリセの作品で唯一観たことがあるもの。

フェデリコ・フェリーニ文芸坐(池袋)参照。

藤竜也: 『野良猫ロック』シリーズ(長谷部安春監督, 1970–71)− 日活株式会社長谷部安春参照。
 
 
藤田敏八: 『八月の濡れた砂』(1971)− 日本のヌーヴェルヴァーグって言われたような新しい路線の恋愛、青春もの。真夏の海で出会った不良と女の子たちの恋の物語で、あの頃が藤田敏八の全盛期だと思います。この映画は(東京)藝大の映画上映会で観ました。あそこも映画好きがいましたね。
日活株式会社長谷部安春参照。

ブラザーズ・クエイ: 1980年ロンドンで参加したDOMEとドイツのバンドDAFとのコンサート会場で流れた『人工の夜景』(1979)が初めて観た彼らの映像でした。その後も見続けている映像作家です。

フランソワ・トリュフォー文芸坐(池袋)参照。
 
 
文芸坐(池袋): いちばんよく行った名画座かな。高校のときに映画監督志望の友だちに教えてもらったのが最初で、150円とか200円で映画が2本観られたんです。地下は邦画で、地上が洋画、両方2本ずつで1日4本、8時間。20歳前後の頃はずっと映画を観てましたね。監督特集というのがあって、ブニュエル、フェリーニ、パゾリーニ、トリュフォー、ヒッチコックも、気になるものはとにかく全部観ました。
新文芸坐 東京都豊島区東池袋1-43-5マルハン池袋ビル3F  http://www.shin-bungeiza.com/
サム・ペキンパールイス・ブニュエル参照。

本多猪四郎: 『ゴジラ』(1954)、『空の大怪獣ラドン』(1956)− アジア映画参照。

 
 
マ行

前田通子: 『海女の戦慄』(志村敏夫監督, 1957)− アジア映画参照。

 
 
増村保造: そこまで詳しくないけれど、いくつかは観てますね。けっこう特集されていますよね。市川雷蔵の『陸軍中野学校』(1966)もそうなんですよね。
市川雷蔵日本アート・シアター・ギルド(ATG)参照。

マノエル・デ・オリヴェイラ: 101歳で新しい映画を撮ろうとするんだから信じられないですよね。去年、あの人のドキュメンタリーを観たけど、3歳くらい下の奥さんも化粧して黒いワンピース着て、めちゃめちゃかっこいい。あの夫婦は怪物ですね。日本のインタビュアーが話しかけようとしたら、これから大統領に会うってすたすた歩いていっちゃうし、撮影現場に行っていいですかって聞いたら、困るなあ。ってすごく迷惑そうな顔をしていました。
 
 
マルセル・デュシャン: 『アネミック・シネマ』(1926)− スチルでは見たことがあったのですが、映像は10年前くらいにようやく観られました。ジョセフ・コーネルのフィルムも同じで、スチルしか見ていなかったけれども、そういう自分が強烈に見たいと思っている映画のスチルを見ていると、ものすごく絵を描きたくなります。好きだったんですよ、映画のスチルが。昔はきちんと印画紙にプリントされたものがあって、神田の古本屋とかに買いに行きました。有名な映画のものは高いけど、無名の映画のスチルとか集めて、絵を描いたりしていました。
いまだとネットを使っていくらでも見ることができるけど、オレの10代の頃はミュージシャンが動いているところなんてまず見ることができなかった。中学生の頃は音楽雑誌に載った数ヶ月前の写真が最先端でした。その頃、テレビ東京で『ナウ・エクスプロージョン』(1971–72)という深夜放送の音楽番組が始まり、NHKでクリームやシカゴ・ブルースの特集が放送されて、70年代のテレビの音楽映像は音楽関係の人を中心にかなりの影響力を与えたと思います。オレも好きなミュージシャンが放送されたときは、テレビモニタ越しに写真を撮って、テレビの前にテープレコーダーのマイクをおいて録音してましたよ。シャッター音とか親の声とかが入ってしまうけど、それでも感激なんですよ。いま、DVDでミュージシャンを見ながら、それをカメラで撮ろうなんて欲求はないじゃない。便利になったけど、絵でも映像でもその頃の得体の知れない、残そうという欲求は消えちゃいましたよね。70年代はビデオもDVDもなかったから観たい映画は映画館に行かないといけないんですよね。だから、その映画を観たときの天気だとか映画館への過程だとかが映画体験に含まれている。同じ映像でも、どういうふうに関わるかで違ってくると思うんですよね。
いまだったら、パゾリーニとかフェリーニのDVDボックスを買ってきて、ひとつの映画を5回ずつ綿密に見ることができます。時代によって、フィルム自体は変わらないけど、メディアが変わることで関わり方が変わってくる。昔の人は映画館で観るのが映画だっていうのがあるけど、そんなこと、いまの若い子が言われても、映画館自体がほとんどないんだから。どっちが良い悪いって話ではないけれど。

森一生: 『大菩薩峠 完結編』(1961)− 市川雷蔵参照。

 
 
ヤ行

山口和彦: 『ずべ公番長』シリーズ(1970–71)− 長谷部安春参照。

山本富士子: 『濹東綺譚』(川島雄三監督, 1960)− 川島雄三参照。

横尾忠則: 『新宿泥棒日記』(大島渚監督, 1969)− 大島渚日本アート・シアター・ギルド(ATG)参照。
 
 
吉田喜重: 吉田喜重はダメですね。上品というか知的過ぎて、もうちょっと猥雑な方が好きなんですよね。
日本アート・シアター・ギルド(ATG)参照。

吉永小百合: 『夢の女』(1993)− 坂東玉三郎参照。

 
 
ラ行

リチャード・レスター: 『ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964)、『ヘルプ!4人はアイドル』(1965)− ビートルズ参照。
 
 
リュミエール兄弟: 『汽車の到着』(1895)− アジア映画参照。

ルイ・マル: 『死刑台のエレベーター』(1957)− ルイ・マルが25歳のときに撮った映画で、音楽はマイルス・ディビスですよね。25歳で映画を撮っているというのが衝撃でした。
 
 
ルイス・ブニュエル: ブニュエルはずっと好きですね。『アンダルシアの犬』(1929)で彼の名前を知りました。『欲望のあいまいな対象』(1977)という映画は、同じ服装だけど、役者が途中で入れ替わってしまうので、観ているこっちは戸惑ってしまう。それでも向こうはなんとも思っていない、そういう映画のあり方がすごくおもしろいと思ったんです。普通の映画とはまったく違うことを普通にやっている。だから、他の映画監督とはぜんぜん違う感じがしました。なにかがちょっとズレていて、実はそのズレがすごく大きなものというか。そういうところがアートの実験映画よりもぜんぜんおもしろいと思いました。パゾリーニもそういうところがあるけど、展開が難解だったりしてアートっぽい。当時は洋画ファンと邦画ファンに別れていて、オレは両方観てたけど、洋画と邦画では映画館自体が違ったんです。いまだったらブニュエルといっしょに日活ロマンポルノを上映してもシンクロするところがあると思うんですよね。ブニュエルの映画は、パートカラーという、いきなりモノクロからカラーになって、モノクロに戻るみたいなことをして、当時の低予算のポルノ映画もそういう雰囲気があるんですよ。
小津安二郎クエンティン・タランティーノ日活株式会社文芸坐(池袋)参照。

ロマン・ポランスキー: 『チャイナタウン』(1974)− 好きな監督の一人です。

 
 
ワ行

和田アキ子: 『野良猫ロック』シリーズ(長谷部安春監督, 1970–71)− 日活株式会社長谷部安春参照。


: 『鋼鉄の巨人 怪星人の魔城』(1957)のビンテージパンフレット。新東宝、石井輝男監督。香港では邵氏兄弟有限公司(ショウ・ブラザース)配給。: 『空の大怪獣ラドン』(1956)のビンテージパンフレット。東宝、本多猪四郎監督。香港では邵氏兄弟公司(ショウ・ブラザース)配給。

スクラップブックを作るときにもあまり構成とかは考えないけれど、映画のスチルを集めてくると、そこから絵が描きたくなる。スクラップブックのページから絵が描きたくなるのと似ているかもしれませんね。スクラップブックの中で完結させるのではなくて、そこからまた連鎖していく。木炭画になったり、油絵になったり、そういうことはけっこうあります。映画からも影響を受けていると思うけれど、意識したとたんに影響は止まってしまうから。映画をモチーフになにか描くと言われたら、描きたくなくなっちゃうと思います。

ロンドンと北海道で8ミリのスチルを撮ったことはあったけれど、映像スチルみたいなものを撮りたいと思ったんですよね。意味はなにもないのですが、自分が興味を持ったものを映像で撮ってみようとしました。8ミリの撮影機をいつも持ち歩いて、4、5年間は撮ってたんじゃないでしょうか。その映像は現像だけはしたけど、見なかったんですよね。8ミリ映写機って、セットして、巻いて、途中でひっかかって焼けちゃったり、けっこう見るのが面倒くさいんですよ。何本かは見たけど、ほとんど見ないで撮っていただけですね。『全景展』の準備のときにその頃のフィルムが100本以上出てきて、フィルムも傷んできてたからDVDに落としたんですよね。だから撮ってから見るまでに20年くらい経っています。あの映像にはなにも目的がないですよね。後で見ようという気もないし、人に見せる気もないし、まとめてなにかにしようという気もないです。完璧なスナップ動画だよね。ほとんど記憶にない。昔はカードリッジが3分間。昼用と夜用、サイレントとサウンド、サウンドの方はちょっと高いから、サイレントの方でずっと撮っていて、3分っていう想定があるから、撮影時に無意識に編集しているんですよね。それがおもしろい。ビデオとかいまのデジタル映像だといくらでも撮れてしまうから、とりあえず撮っておくっていうのがありますよね。「とりあえず」っていうのがよくない。とりあえず保存しておいて、あとで消去すればいいっていう考えが果たしていいのかどうか。どこから、どれを、どのくらいの長さ撮るかっていうのをある程度頭に入れて撮ってるから、後から編集する必要とかあまり感じなかったんですよね。「とりあえず」道路だけを3分まわして撮っておくとかそういうことはないんですよ。

今回の『NOTES 1985–1987』(2010)も85年から87年にかけて8ミリで撮っているけど、あの映像は無意識に自分が絵にしたいと思うようなところを撮っているんじゃないでしょうか。水面とか金魚とか。ああいう趣味は変わらないですからね。ああいった無目的のサイレントの8ミリ映像をいまの20代の連中が観てどう思うのかってことに興味があるんですよね。

大竹伸朗は東京と愛媛県宇和島市を拠点とするアーティスト。9月3日から11月7日まで光州各地で開催される第8回光州ビエンナーレ『一万の命』に出品。

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