追悼-多木浩二 文/八束はじめ(建築家、建築批評家)

多木浩二さんが亡くなられた。私などとはちょうど20歳の開きがあるのだが、常に対等の目線で話される方であった。近年は検査入院をされたりと、お目にかかる機会もなかったのだが、多木さんが最後まで全幅の信頼を置いておられた建築家坂本一成さんからは、連絡されたらお喜びになるよといって頂いていたのに、と悔いることしきりである。お目にかかれば、必ず話題は多岐に亘って、次はこういうことをやろうとしているのですよ、と尽きることがなかったのだが、それももう叶わない。残念である。

多木さんのお仕事を定義することは難しい。美学のご出身だが、写真や建築に関する論考が多かったにせよ、その専門と限定することは出来ない。ご自身でも私は建築評論家ではないと明言されていたが、ご自分の興味のある部分でだけ各分野と接していたにすぎず、その興味も常に拡大し、移動していた。若くして亡くなった宮川淳さんを意識され、宮川さんが成し遂げずに終わられたことを代わって果たさねば、とご自身を駆立てていたようにもお見受けした。翻って同世代の人々がかつての圭角を失ってしまうことには批判的で、もってご自身の戒めとなされていたようだ。こうした挑戦的なストイシズムが多木さんを若々しくしていたのではないか?

私の分野である建築からも一時距離をとられていたが、これは狭量な建築家たちが、多木さんの関心や話題に付いていけず、理解が一方通行となるケースが少なからずあったことにも起因していたように思う。これは日本の建築界の知的限界でもある。最近ではこの傾向はますます顕著で、多木さんのような人を必要としなくなってきていた。寂しいことである。これは批評家の側の問題ではなく、もって瞑すべき建築界の方の問題である。

建築や美術に限定される話題ではないが、プライベートにお話ししていて印象に残ったひとことがある。その時に多木さんは、ご自身より1、2世代上の指導的な近代歴史家たちの名前を何人か挙げられ、彼らのために日本の歴史認識は数十年遅れてしまったと苦々しくいわれた。戦後唯物史観によって歴史を書き換えたとされる人々であったが、多木さんご自身もその歴史観は共有されていると感じていたので、この発言には虚をつかれた。この認識は私も共有していたのだが、意外であったために、この時はそれ以上話題を展開しそこなった。今やそれは取り返しがつかない。多木さんを失って悔いるところは他にも多く、今の自分の仕事を見て頂けたらどうだったろうという思いは強いが、今となってはそれも空しく、ご冥福をお祈りするしかない。合掌。

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