連載 編集長対談6:住友文彦(前編)

日本的アートとは:アジアの近代化と表現との関係性

メディアアートやパフォーミングアーツなど幅広い視点から表現を捉える気鋭のキュレーターは、中国や韓国での国際展企画も数多く手がけている。アジアから発信するアートに、地域性はどのような影響を及ぼしているのだろうか。

構成:編集部

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技術の発達が人間に与えている影響は確実なものとしてある

 
左:佐藤慶次郎「岐阜ススキ群 ’99」1999年 右:江渡浩一郎「Modulobe」2005年 
『アート&テクノロジーの過去と未来』(2005年)展示作品 
撮影:澁谷征司 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]

小崎:住友さんがこれまで企画した展覧会の中では『アート&テクノロジーの過去と未来』(2005年、NTT インターコミュニケーション・センター [ICC])が非常に面白いと感じました。特に印象的だったのが実験工房を取り上げていたことです。1950年代に武満徹などが参加していた実験工房は美術史上では影響力が大きいと思いますが、最近まではよく知られていなかったりする。それをあえて取り入れて、日本のアートとテクノロジーの歴史における重要なポイントとして紹介していた。ICCでの展示以外でも、住友さんが企画する展覧会からは、メディアやテクノロジーへの強い関心が感じられますが、意識的に取り込んでいるのでしょうか。

住友:意識的に考えてはいないと思いますが、あるとすれば大学で学んだ古典的な美術史学的アプローチへのちょっとした反発でしょうか。当時は作家の考えを伝記的に読み解くか、作品を図像学的に分析する方法が主で、どちらも美術の自由な鑑賞を排除している気がしていました。例えばキリスト教について知識がない人にとって、マリア像の図像学的意味はわからないですよね。しかし、技術の発達が人間に与えている影響は確実なものとしてあるので、そこに関心を持ったのだと思います。

小崎:その一方で、ヨコハマ国際映像祭2009のオープニングイベント『停電EXPO』にも参加したcontact Gonzoなど、日本のダンサーたちも紹介し続けていますね。「身体性」も非常に大きいテーマとしてお持ちだと思いますが、それもメディアや技術などとつながっているのでしょうか。

住友:そうですね。contact Gonzoは、相手との接触によって次の動きが決まる「コンタクトインプロビゼーション」というダンスメソッドに則って殴り合いをする集団です。彼らが本気で殴り合いをしながら感情をコントロールできているのは、どれだけ殴られたら痛いかをお互いにわかっているからで、その共有の回路がどうやって作られているかに関心があります。

自分には見えていない世界を共有するためのツールとして映像は重要ですが、それを共有する際に何を媒介とするかといえば、それは身体です。自分の身体を通して初めて、他人の具体的な体験を獲得することができると思うんです。

小崎:contact Gonzoの身のこなし方というのは、方法としては諸外国の影響があるかもしれませんが、ベースにあるのは東アジア的な身体ですよね。

住友:自分の身体がどの地域に属しているかよりも、例えば昔事故にあって傷があるとか、そういう文化的コードの中に回収される部分とされない部分とが明白に分かれている点に身体の重要性はあるのではないかと考えています。だから、映像という情報を受け取るときにはそれを意識することが非常に重要だと思います。


contact Gonzo
『第3回南京トリエンナーレ2008』(南京博物館)でのオープニングパフォーマンス

小崎:なるほど。住友さんは『第3回南京トリエンナーレ2008』でもキュレーターのひとりでしたが、図録の中で次のような認識を示しています。近代的な西洋文化の優位性が低くなり、また交通やコミュニケーション技術の変化によって国境を越えた意見交換が容易になったことで、国際的な価値と地域的な価値との両方が存在するようになった。だからこそ伝統的なものと新しいものの両方が社会にとって必要だということは言われているけれども、現代の非西洋諸国にある種の「空虚さ(emptiness)」をもたらしてもいる、と。こういう傾向が美術作品の内容にも影響していると思いますか。

住友:まずこの文章は中国と韓国の観客を読者として想定しており、「空虚さ」としたのは多少アジテーションみたいなものもあります。アジアでは近代化された時期が、ヨーロッパのように同時ではなく、地域によってずれていることに最も興味があるので、それがどう美術の表現に現れているのかを現代作家の作品において考えたいと思ったんです。もうひとつは、50年代の戦後日本で、この「空虚さ」というものを抱えた人たちがどういう表現をしたか。それは簡単に言うとアイデンティティポリティクスです。つまり「空虚さ」を埋めるものとして、アイデンティティが性急に必要とされていた。一方いまの作家、90年代に20代を過ごした世代は初めて不況を迎えた世代ですよね。

小崎:高度経済成長がずっと右肩上がりに続いていたのが、バブルがはじけて一気に地獄を見たっていう。

住友:僕も71年生まれで、基本的には父親の世代のような貧しい時代を知らず、日本の高度経済成長とともに育ってきている。そこで初めて不況という時代があった。その「空虚さ」のようなものと日本のアーティストの表現とは関係性があるかもしれないと考えました。


八谷和彦「Open Sky」(2003年〜)
『第3回南京トリエンナーレ2008』(南京博物館)

小崎:なるほど。07年に中国で行なわれた『美麗新世界』展でもキュレーターを務められましたが、その図録の中では「新しい個人主義」と題して、アジアで最も早く近代化を始めた日本では「新しい個人主義」が誕生していて、一部の作家にはそれが現れているのではないか、と書かれていますね。

住友:美術作品は単体では成立しなくて、必ず観る他人がいるから成立するものです。自分とは頭の中を共有できない他人との間に作品が置かれるときに、社会が生まれていく。そこの個人のあり方が社会や歴史によって微妙にずれがあることを考えると面白いと思っています。それと、『美麗新世界』のときにすごく面白いなと思ったのは、日本では一部の男性が女性化している現象がありますよね。

小崎:いわゆる「草食系」みたいなことですか。

住友:そうです。それを中国の人にすごく指摘されました。経済成長期はマッチョな男性の存在が強いわけです。

小崎:いまの中国人は、全員じゃないけど肉食系な感じしますよね。偏見かもしれませんが(笑)。

住友:草食系と言われる若い世代が存在するハイブリディティな状況は、実はすごいことじゃないかと思うんです。例えば社会対個人として考えると、彼らは社会に変革をもたらそうという能動性がないように見えますが、男性と女性が対立的なものとして捉えられ、社会の中に色々な対立の構造を生み出しているとすると、どちらでもない人が増えるというのは、社会を変えうる面白い現象じゃないのかと……。

小崎:生物多様性ですね。

住友:そうですね。もちろんトランスジェンダーはヨーロッパでもありますが、それが社会の中の特殊な領域を占めることなく、普通に増殖している日本のほうがラディカルだという見方もできます。欧米の場合、個人というのは統合された全体性が必要とされます。父親でもあり会社員でもありという、ある種矛盾のない存在として理解されるのですが、実際の人間は矛盾を抱えていると思うんですよね。マッチョになりたいときもあれば、ナヨナヨしたくもなるのが普通だと思っていて、そういう矛盾を表に出しにくい社会風土が西洋の合理主義にはあると思います。だから「新しい個人主義」というのは、個人の統合性に矛盾が生じてもいいとされる社会で、個人が生息していくとどうなるんだろうと考えて書いたものです。

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2009年11月9日にDAY STUDIO★100(Vantan横浜校)にて行われた対談を収録しました。

すみとも・ふみひこ
1971年、東京大学大学院総合文化研究科修了。スパイラル(ワコールアートセンター)、金沢21世紀美術館建設事務局、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、東京都現代美術館で勤務後、『ヨコハマ国際映像祭2009』のディレクターに就任。NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ(AIT)は設立当初から関わり、副ディレクターを務めている。国内での主な企画に『アート&テクノロジーの過去と未来』(ICC、05年)、『川俣正〔通路〕』(東京都現代美術館、08年)などがある。『Beautiful New World 美麗新世界』(北京、広東、07年)『Platform Seoul 2008』『第3回南京トリエンナーレ2008』など、国際展の共同キュレーターも数多く務める。

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