連載 田中功起 質問する 5-2:沢山遼さんから 1

第1信であげられた、「批評」の役割をめぐる3つの問題――作品自体に内在している批判性について、批判が生み出す新たな視点について、そして実際に見ていない作品について書くことの有効性について。作り手の立場から投げかけられたこれらの問いに批評家はどんな球を投げ返すのか。

田中功起さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

件名:批評的トートロジーについて

田中功起さま

こちらこそ、今回の企画にお声をかけていただき、ありがとうございます。田中さんからの第一信が「批評になにができるのか」を問うものであったので、実はとても恐縮しています。


「家の近所にある真姿の池湧水群」

多くの作家がそうであるのかもしれませんが、私もまた芸術に無自覚な執心を抱いていた者のひとりにすぎません。しかし、批評家として世に出てから、多くの現場で批評について言及することを求められてきました。それはおそらく、批評が実際の現場で無効になったと言われて久しいことと無関係ではないでしょう。芸術はいまだ続いているとしても、近代以降のジャーナリズムとしての批評は、その役割を一度ははっきりと終えた――すくなくともそう見なされている――からです。たとえば、美術批評が商業誌の現場でできることといえば、いまやかなり限られていると言わざるを得ません。つまり現在、批評の有用性や役割を語ることは、それが自明のものではないという前提においてなされなければならない。言い換えれば、批評がある(あった)こと、存続することを自明視しない危機的な立場において初めて、批評というものについて言及できるのかもしれないのです。同時代の美術と随伴し、かつそれを牽引する美術批評のモデルはすでに失効しているように思われるし、私は狭義の美術批評、いわゆる「現場批評」のスタイルに自らの活路を見いだしてはいません。批評が存続することが可能になるとしたら、批評の概念自体が拡張、あるいは更新されなければならないでしょう。しかし、それはいかにして可能なのか。田中さんの問いも、批評が現在置かれたそのような条件に関わるものであると理解しています。

批評を終わらせる?

しかし今に始まったことではなく、批評はこれまで何度も窮地に立たされてきました。田中さんが言及されているフェリックス・ゴンザレス=トレスの紙の束の作品もその一端を示していると言えるのかもしれません。田中さんが言われるように彼の作品は「実体のレベルではなく、その作品を存在させるシステム、あるいはコンセプトの次元で成立している」。言い換えれば、作品が扱われる次元に解釈の次元がすでに組み込まれているということです。ゴンザレス=トレスが依拠するコンセプチュアル・アートの文脈は、まさに解釈の次元を作品経験に縫合することで成立してきました。その作品について素朴に描写することすらも、すでにその作品のコンセプトを言明することになるからです。言い換えればそれは外部からの解釈の回路を予め封鎖しているのです。

「コンセプチュアル・アート」という用語が普及したのは、ソル・ルウィットが『アート・フォーラム』誌に寄稿した「コンセプチュアル・アートに関する断章」(1967)によってであると言われています。このテキストを読むと、ルウィットが批評を「終わらせる」という明確な意志のもとに「コンセプチュアル・アート」という概念・形式を開発したことが分かります。ルウィットの作品では、与件となるアイデアを何の捻りも介さずそのまま実演することで、概念と形式との透明な関係=システムが築かれています。ルウィットはそのテキストのなかで、芸術家というものは批評家に「サル(ape)」のように扱われていると皮肉っぽく語っていました。批評は「サル」である芸術家からその成果を収奪する。ゆえにそれは批評に対する権力闘争の色合いを帯びるものでした。批評の権威化――それが芸術の商業化に拍車をかけていたのですが――へのルウィットの問題意識がコンセプチュアル・アートの発明に向かわせたのだと、私は理解しています。解釈の余地なく、システムを可視化し、解釈の次元を作品構造に介在させること。ルウィット作品のミニマルなグリッド構造は、そのことを示しています。

しかしそれでも批評は終わらなかった。それは、ルウィットはもとより多くの芸術作品が、いまだに多くの問題を孕んでいるからでしょうし、そもそも芸術作品とは、その内部に批評/理論を組み込んでいるからこそ、批評を可能にするものであったからではないでしょうか。田中さんが言われるように、作家が「自らの制作・作品を言葉にして他者に説明することは必要ない」と思われることは偏見だし、すでに多くの作家が自らの作品について明晰に十分な分量で語ってきました。また作品だけではなく、作家が語った「言葉」自体が批評に影響を与えた例も少なからず存在します。制作と批評は決して分業ではない。制作とは常に汲みつくすことのできない理論的な実践であり、歴史のなかで現れてきた衝撃的な作品群は、常に批評の条件を問い直し、あるいはそれを根底から覆すものでした。

ただ、本当はそのように大げさに言う必要すらないのかもしれません。たとえば批評性を「自己言及性」と言い換えてみましょう。すると、芸術に限らず、あらゆる物・行為が批評を内在しているように、私には思われるからです。さしあたって作家が言葉を使い自作について解説することも自己言及的=批評的な営為と言えるでしょうし、作品に解釈を封じ込めるゴンザレス=トレスやルウィットの批評的な配慮を「自己言及性」と言い換えることもできるでしょう。彼らの作品は、自らについて語っているからです。しかし技術的な条件に目を向ければ、それはゴンザレス=トレスやルウィットに始まったことではありません。映像の編集を行うこと、写真の露光時間を調整すること、絵具を溶くこと、それらすべてが技術的前提を問う自己言及的な営みであり、その都度の行為は写真や映像の特殊な条件に応接するものだからです(批評を「書く」ことも例外ではありません)。したがって、この自己言及性は「メディウム・スペシフィック(媒体に固有・特殊な)」なものと関係していると言えるでしょう。

メディウム・批評・トートロジー

特に戦後の美術批評ではたびたびこのことが取り沙汰されてきたので、この機会に考えてみたいのですが、形式批評の現場において、絵画の場合は「平面性」がそのメディウムの特性を規定しているとされてきました。しかし、私にはこのことがほとんど、今も、よく理解できていません。なぜ絵画の条件が平面性にあるのか? 西洋の古典絵画は明らかに立体的で奥行きを備えているように見えるし、マネの絵ですら、画面の中を筆触が舞っている。知覚は差異を産出する機関ですから、当然のことですね。

それとは異なり、民藝運動を指導した柳宗悦は、非芸術作品である民衆雑器などの特質をその物理的事象ではなく「用の美」に求めています。柳にとってメディウム・スペシフィックとは有用性のことであり、「使う」ことによって発見されるものでした。たとえばお皿の条件は水分を漏らさず食べ物を盛ることができることにあります。だとすれば、あらゆる物や道具にはその節理に従ったメディウム・スペシフィシティがあることになる。柳の画期的なところは――柳がメディウム・スペシフィックという言葉を使っているわけではありませんが――メディウムの条件を物質的規定ではなく、その効果・運用方法に求めたことにあるように思われるのです。それは事物が他の事物や自然や人間と関係することをやめないことにおいてその都度見いだされる特質です。つまり、あらゆる事物が固有の指標を持つことにおいて世界と関係するのは、あらゆる事物がその批評性を自らのトートロジカルな内実(お皿はお皿である)に秘めているからではないでしょうか (*1)

そこで唐突に田中さんの第一信の(2)にある話題に移りたいと思います(これまではどちらかというと(1)について語ってきました)。私は宇多丸さんという人物についてほとんど知りませんが、田中さんは宇田丸氏の「シネマハスラー」を、作品の内的構造を明らかにするという批評の原理と、作品をけなすことが稀有に結びついた例として挙げていましたよね。宇田丸氏がそれらのダメな映画をダメであることにおいて、時間をかけてダメだしを徹底させていることが批評性を持つと。この番組では、そもそも上手く褒めることは宇田丸氏の念頭になく、けなされる映画ほどプライオリティが高い。この宇田丸氏の身振りも、ある種の自己言及性=批評性に意識的に従っていると見なすことはできないでしょうか。それらの映画は、ダメであることにおいて、ダメだからです。そもそもアイドル映画の余計で過剰な演出が、ダメであることを徹底させる行いであるとしたら、アイドル映画とは、ダメであるところに自らの根拠を置いているからです。だとすれば、ダメな映画のダメさを暴くことは必然的に批評的であると言わなければなりません。田中さんの言う宇田丸氏のラジオの批評性とは、そのように組み立てられているのではないかと思います。お皿がお皿として使えるように、ダメであることは、ダメな映画の積極的な限定なのです。ですから、これを「けなす」ことはその映画の内在性を暴露すること、言い換えればその映画の構造に従って映画を吟味することを意味します。宇田丸氏がそのトートロジーを徹底させる自覚的な身振りによって、ある批評性を獲得しているのだとしたら、それは裏返しの肯定(反対の賛成)となるだろうし、褒めることとけなすことの差異は解消されるでしょう(ただ、シニシズムに陥ることを避けるために、批評は最終的に何らかの価値判断に到達すべきだとは思いますが)。

芸術批評の機能や役割とは、その作品の持つ内的構造を明らかにすることだけではなく、その作品の効果・運用方法を限りなく拡張する、という点にも認められるのかもしれません。宇田丸氏の方法に従って言えば、それは作品の存在論的、認識論的枠組みをトートロジカルに運用してみせることです。作品の思いがけない細部がフレームアップされ、作品がそれまで思われていたものとは全く異なる相貌を浮かび上がらせることが、優れた批評においてはあり得ます。同時にそれらの批評は、その細部こそが極めて重要な作品の中枢であった、という認識を読む者に与える。どんな一般性にも解消できない細部が、実は作品を内側から根拠づけ、作品を駆動させていた、と。作品の固有性とは、このような諸矛盾の結合において実現されているように思われてなりません。それが作品経験の基礎となり、作品と呼ばれるものを一見複雑怪奇で得体の知れないものにしているのだとすれば、批評の掛け金は、この不可解さを受け入れることにかかっているように思われます。書き手として作品分析の次元を私が重視するのは、この原理に従って作品の内実を字義通りに実践したい、という思いもあるのかもしれません。そもそも批評は既存のものへのコメンタリーを行うという意味で二次的なメディアですが、やはりそれは反復することにおいて威力を発揮するのではないでしょうか。

とはいえ批評を書いていると、こんな辺境で何かを語る意味などあるのだろうか、という疑心にいつも苛まれるのです。それは批評が一回性と普遍性との対立が盲目的に破壊された特殊な場で思考・実践されるものであるからなのかもしれません。そこでは批評の明証性を保証してくれるようなものなどないように感じられるのです。しかし、それでもなお批評がある効力を発揮することができるとすれば、それは辺境において語ることで、物事の成立条件を洗いなおすことにあるかもしれない……。さしあたって、田中さんの第一信への応答として私が言えるのはこの程度のことですが、こんなものではまだ不十分でしょうね(結局質問の(3)にも触れられませんでした)。考えるべきことはまだ多くあるし、私がこれまで書いてきたことは、批評の可能性のほんのわずかな一面にすぎません。ですが編集部から与えられた文字数もすでにオーバー気味なので、とりあえずはこんなところで。お返事お待ちしています。

沢山遼
2011年1月 東京

  1. もちろん田中さんの作品を含めて、芸術家は事物の異なる運用の仕方を開発する(有用性を脱臼させる)ので、芸術に限定すればこの例えは問題含みなのですが。

さわやま・りょう(美術批評)
1982年生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。『BT/美術手帖』誌を中心に、批評や論考を執筆。主な論文に「レイバー・ワーク:カール・アンドレにおける制作の概念」など。

近況:諸々の仕事を処理する傍ら、ここ最近の懸案であった「When Attitudes Become Form」展(1969)を分析する原稿の執筆に取り掛かったところです。目下、近場への引越準備を進めています。

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