新連載 田中功起 質問する 1-1:土屋誠一さんへ

国際的に活躍する気鋭のアーティストが、アートをめぐる諸問題について友人知己と交わす往復書簡。ものづくりの現場で生まれる疑問を言葉にして、その言葉を他者へ投げ、投げ返される別の言葉を待つ……。第1回の相手は、批評家の土屋誠一さん。2ヶ月の間にそれぞれ2通の手紙で、現代美術の制度について意見交換を行います。

往復書簡 田中功起 目次

第1回 展覧会という作法を乗り切るために(1)

土屋誠一さま

お久しぶりです。沖縄の夏はどうでしたか?

ぼくは最近台北に行って、制作をしていました。このグループ展のタイトルが『Whose Exhibition is This?』というもので、いわゆるinstitution criticのようなものを目指したものでした。アーティスト、キュレイターとオーディエンスの関係、美術館や展覧会という制度の問題を批評的に捉えるというものでした。ただ、それが美術館という守られた場所で行われることの限界もあって。個々のプロジェクトにはそれそのものとして興味深いものもありましたし、ぼく自身のプロジェクトにも触れた方がいいかもなんですが、それよりもなによりも興味深い対比がそこにはありました。


台北の夜市で、トッピング全部のせにしてもらった特製豆花(風呂桶使用)

この企画の準備が台北市立美術館の地下スペースを使って行われている最中に、地上階では『Pixar』の展覧会が開かれてました。これがすごい入りで、湿度の高い真夏の熱波のなか、屋外までの行列なんですね。日本で言えばジブリの展覧会のようなものです。『モンスターズ・インク』のサリーとマイクのラフ・スケッチのポスターが街のなかにも溢れていて。

地下スペースは無料なので、『Pixar』帰りの子どもたちやカップルもぼくらの展覧会に来たりしてましたが、基本的にテキストの多い展覧会なので、なかなかむずかしい。

この美術館では、これまで学芸部が現代美術も台北ビエンナーレもいっしょに扱っていたけれども、最近、この学芸部のチーフキュレイターを中心に「ビエンナーレと国際展のためのオフィス」として別の部署が設けられ、メインの学芸部から実質「現代美術」が切り離されるかたちになった。いままで野放しにしていた現代美術をどこか場所を確保し、隔離してしまおう、ってわけです。物理的にも状況的にもアンダーグラウンド(地下スペース)になってしまい、そしてその最初の展覧会がこの「展覧会」を問題にしたものでした。

もしアートというものが隔離された安全な場所でだけ成り立つものだとしたら、ぼくらにはそもそも関係のないものになってしまいますよね。ぼくはしかし、「現代美術」もPixarと同じメインのスペースで見せればいいとか、そんなうぶなことを言いたいわけではありません。「現代美術」がいま担いつつある場所、それがどうにも座り心地が悪い。集客数を求める展覧会とは折り合いが悪いにしても、その一方で「現代美術」が求められてもいる。台北でも、ある再開発された旧市街でその建物をつかった展覧会が開かれており、サイトスペシフィックな、その土地固有の記憶をテーマにした作品に溢れてました。かつての街のなかで展開するプロジェクト(インターナショナル・シチュエーショニストとか)というものは、美術館などで開かれる展覧会へのある種の批評性を備えたカウンターであったと思うんですが、この企画のなかでは「サイトスペシフィック」であればそれがどのような作品であろうが、その質はひとまず問われない。いやむしろ最初からその土地にかかわることがアーティストには求められており、それに答えられるアーティストだけが受け入れられるシステムができあがっている。

求められないにせよ、求められるにせよ、「現代美術」はある一定の場所に囲い込まれつつあります。そこに順応できるアーティストだけがもてはやされる状況にもある。ぼくもその批判を免れないかもしれない。

いまぼくらが直面しているのは、単にその都度、状況に対応するだけではどうにもならないなにかです。実践にかかわるひとたちが批評的な態度を持たないと取り返しがつかなくなる可能性がある。今回のこの企画「質問する」は、日本のアートをめぐる環境において、なにかしらの批評的なやりとりができないものかとつね日頃考えていたことがもとになってます。

批評家の土屋さんに最初にご登場願ったのは、以前、『美術犬』という土屋さんを含めた数名が企画したシンポジウムに参加したことがきっかけです。そこでのテーマは「美術」と大きなものでしたが、土屋さんの問いかけがその後どうにもぼくの頭を離れません。

簡単にまとめると、「作品が展覧会というフォーマットから演繹的に決定されている、アーティストのみなさんは、この規制をどのように乗り切るつもりなのか?」。
と、これではまだ乱暴なので、もうすこし説明すると、(A)展覧会というフォーマット(美術館やギャラリー空間で会期が決まっているとか、所与の条件がまずある)+(B)ホワイトキューブ(物理的なホワイトキューブのことではなく、大なり小なり理想的な展示空間を前提しているということ)+(C)そこで見せる人はかならずアーティスト(もちろん建築家やデザイナーもいるけど、つまりその場所で見せることを裏切らないひとという意味かな)、この3つを足したものが、「美術」という制度のベースになる。ここから導き出されたものが作品として展示される。これ「A+B+C=美術」が、この制度が前提としている作法(規制、様式)であり、この作法を逃れ出ているものはあまり見いだせない。

「A+B+C=美術」が無根拠に前提(無条件に承認)とされている。見に行くひとはその前提をひとまずは承認した上で、「美術」を見に行く。簡単に言えば、映画のフォーマット(たとえば映画を見るには1時間半ぐらい、暗がりのなかで椅子に座らなければならない)を承認した上でぼくらは映画館に行く。上記の点に文句をいうひとはまあほとんどいないでしょう。

で、土屋さんはこの無根拠で儀礼めいたものに嫌気がさしている、とうことですよね、たぶん。

というわけでこの「規制」というか「儀礼」「様式」「前提」をどうやって乗り切るのか、ってことが、少なくともアートがアクチュアルなものとしていまでも捉えられるのならば、必要なわけです。ライブなものとして見直す可能性というか。安心できる場所を確保してぬくぬくするのに満足できないひとは、とにかくこの「儀礼」をひとまずはなんとかしなければならない。

だけれども、では実際にそのフォーマットを前提としないような作品・制作・発表ってどのようなものが考えられるのか。美術犬のシンポジウムではそうした議論には発展しなかったんですが、ぼくが土屋さんに聞いてみたい、意見交換してみたいのはここです。もちろん歴史にそのヒントを求めることもできるでしょう。この辺りも聞いてみたいところです。ぼくもぼくなりにもなにか答えなければならないんでしょうが、それは次回以降ということで。

ではでは返信を楽しみにしてます!

2009年9月26日 ロサンゼルスより
田中功起

土屋さんの返信はこちら

たなか・こうき(アーティスト)
1975 年生まれ。作品集に『Koki Tanaka Works 1997-2007』(Akio Nagasawa Publishing Office、2007年)、『The End of Summer: Koki Tanaka』(大和プレス、 赤々舎、2008年)。

ポッドキャスト『言葉にする』
http://kktnk.com/podcast/

『Whose Exhibition Is This?』
https://www.art-it.asia/u/admin_exrec/CnGWbUR2E9IgDcwsquO4

「美術犬」シンポジウム
http://bijutsuken.cocolog-nifty.com/

近況:年内ばたばたと展覧会があります。『Whose Exhibition is This? 』台北市立美術館(11/22まで)、『just around the corner』arrow factory(北京。11/11まで)、個展『on day to day basis』vitamin creative space(広州。11/5から)、またJeppe Heinのどさまわり企画『Circus Hein』がフランスのAtelier Calder(サシェ。12/9オープニング)を皮切りにはじまるんですが、これにも参加します。

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