トーマス・デマンド:死刑台のエレベーター


Lift (2005), C-Print/Diasec, 190 x 150 cm. © Thomas Demand, VG Bild-Kunst, Bonn /
APG-JAA, Tokyo. All images: Courtesy Sprueth Magers Berlin London.

ルイ・マルは1958年の監督デビュー作『死刑台のエレベーター』に、ジャンヌ・モローを主演に起用し、ジャズミュージシャンで作曲家のマイルス・デイビスの魅惑的なサウンドトラックを取り入れた。その中で、完全犯罪計画を遂行したモーリス・ロネ演じるジャンヌ・モローの愛人はエレベーターに閉じ込められる。このフィルム・ノワールの古典はさまざまなアーティストに強い印象を残している。例えば、1979年にベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻がこの映画について語っており、トーマス・シュトルートは1988年のインタビューで取り上げ、ART iTの映画特集(2010年8月号)に掲載された大竹伸朗の「シネマ・インデックス」にも含まれている。(1)しかし、この映画の中で、異なるレイヤーが重なり合い展開していくサスペンスは、どちらかというとトーマス・デマンドの手法を思わせる。デマンドはすべてが記録され、メディア化したこの世界を直視し、わたしたちの記憶や想像に不可欠な誘因が見つかるところまで、世界を露呈しようと試みる。

デマンドはニュース写真、ポストカード、印刷物など、既に存在しているイメージから、そこに写されているものを、紙を用いて、実物大の大きさに慎重に再構築し、撮影する。既に大量に流通し、日々加速度的に増加していくイメージ群を前提として、物質的な構造物を作るだけでなく、鑑賞者自身が想像力を働かせる土台の構築を誘発することで、溢れる視覚情報の中で伝達されているものの本質を特定しようと試みているようである。観賞者が見るのは、最終的な作品の表面上のイメージだけでなく、そのイメージの構造であり、ときにそのイメージの歴史にまで及んでいる。

デマンドは絶えず解体と構築を絶えず繰り返している。手作業で組み立てられたその構造物は、撮影が終わるとすべて壊される。素材となるのは、ときに自然界から来ているが、その多くはモダニズムの歴史やその歴史と20世紀の政治との重なりから選ばれる。大抵の場合、そうした構造物は微細に撮影されて、鑑賞者はその作り出されたイメージをより深く観察するよう引き込まれる。だが、そこで観察されるものとはなんだろうか。デマンドは、アイディアを書き記すのにうってつけの媒体であろう紙を用いて制作を始めるが、その紙には何も記されることはない。彼の構造物からは素材となったイメージ内にあった、すべての数字、文字、装飾、そして固有性が取り除かれている。また、紙で作られた薄く壊れやすい虚構の中には人が存在していない。色という要素は残されているものの、完成した写真の構造への想像力を邪魔するものは何もない。デマンドは彼の注意を引いたファウンド・イメージに基づく環境を、もととなったイメージとは異なり、実物大のものとして構築する。あるイメージはデマンドの目に留まり、彼の記憶や想像的解釈の引き金となる。そして、彼の制作プロセスは出来事や事物のメディア化された現れに対する彼自身の認識の再現を鑑賞者に伝えるひとつとなる。


Above: Installation view, Fondation Cartier, Paris, 2000-01. © Nik Tenwiggenhorn. Below: Installation view, Serpentine Gallery, London, 2006.

ここ10年以上に渡ってデマンドが続けてきた展示により、彼の作品における重層性は増幅している。2000年、パリのカルティエファウンデーションでは、ジャン・ヌーベルが1994年に設計したガラス構造の展示空間に抗うことなく、それを活かした展覧会を開催している。ル・コルビュジエがデザインした壁紙で壁面を覆い、建物の透明性と庭との関係性を保つというシステムをイギリスの建築事務所カルソ・セント・ジョンが考案し、光に満たされた建物での写真の展覧会を実現した。

2006年には、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで展覧会を開催。そこでは、写真作品の特別な背景として、彼自身がデザインした4色のツタの壁紙で壁面を覆っている。同ギャラリーのケンジントン・ガーデンズという場所性、1930年代にはティーハウスであったという歴史を踏まえると、このような壁紙に覆われた環境は記憶や感情を無意識のうちに強く喚起する効果を生んでいる。思考と記憶、内と外、構造と事物間の関係性、光と闇だけでなく、35ミリフィルムのループ作品による音声が加えられ、もうひとつの次元を同展覧会に与えていた。紙で作られた時代遅れのテープデッキが永遠にまわり続けるというストップモーションの動画では、途切れることなくビーチボーイズの「バイシクル・ライダー」が響いている。


Installation view, Neue Nationalgalerie, Berlin, 2009. © Nik Tenwiggenhorn.

デマンドは、2009年後半に再びカルソ・セント・ジョンと組んで、ベルリンのノイエ・ナショナルギャラリーで大規模な展覧会を開催している。1968年にミース・ファン・デル・ローエ設計のガラスの建築を、カルソ・セント・ジョンは床から天井へと彩度を抑えた重いウールのカーテンを用いて変容させた。カルティエファウンデーションへのアプローチと同じく、デマンドはモダニズムの偉大なミースの建築を認識した上で、この建築やこの街の強力な歴史に、作品によってまたひとつのレイヤーを加える。

建築史家のビアトリス・コロミーナは、現在、近代建築はメディアの一形式であると言えるところまで、建築とメディアが相互に浸食していると指摘している。(モダニストの建築家、アドルフ・ルースは、同時代の建築家が写真映えの良い建築をデザインしているという批判していると、コロミーナは記している。)かつては専門家の領域であった建築も、今やメディアを通して、ほかのすべてのものと同じように世界中を流通している。だが、大抵の建築家がそうであるのとは正反対に、デマンドはメディアを建築として見ているのだとコロミーナは考え、メディアは「広大な風景であり、疑惑の都市、有名人の砦、殺人者の沼地が一体となったヴァーチャルドメイン」であるという、彼の言葉を引用している。(2)

デマンドの作品は事件現場、真空のようなその空虚感を示唆している。実際、多くの作品が事件に基づいているが、自然界やシンプルなキッチンのシンク(Sink, 1997)の作品に明らかなように、見た目通り最初から“空っぽ”な作品もある。2005年、デマンドはふたつの壁と床が交差するエレベーターの隅に向けられる視線の「Lift(エレベーター)」と題された作品を制作している。画面右側、エレベーターのドアは開いているが、外光はまったく入ってきていない。エレベーターのボタンには文字がなく、上がるのか下がるのかもわからない。1985年に村上春樹がパラレルワールドを書いた『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にも、ボタンのいっさいないエレベーターの中にいる主人公が想定されている。(3)今日、建築とはどうやらわたしたち自身の想像そのものである。それは、わたしたちが欲するすべてのもの、この世界に起こる必要があるもの、起こると信じているものすべての基盤である。そして、デマンドは作品内を、“わたしたちの集合記憶に棲息している出来事のような拡散する影の領域”と彼が称するもので満たしている。(4)

(1) 大竹伸朗, シネマ・インデックス, ART iT, 2010年8月

シネマ・インデックス 文/大竹伸朗


(2) ビアトリス・コロミーナ, メディアとしての現代建築, 「トーマス・デマンド」, サーペンタイン・ギャラリー, ロンドン, Schirmer Mosel, ミュンヘン, 2006, p19
(3) Vince Chadwick, “Before Inception there was Haruki Murakami”, Sydney Morning Herald, 07/08/2010
http://www.newsstore.fairfax.com.au/apps/viewDocument.ac?page=1&sy=nstore&kw=murakami&pb=smh&dt=selectRange&dr=week&so=relevance&sf=text&sf=headline&rc=10&rm=200&sp=nrm&clsPage=1&docID=SMH100807ND4T23CDHKJ
(4) アレクサンダー・クルーゲとトーマス・デマンドとの対話, 「トーマス・デマンド」, 同上, p.86

現在、トーマス・デマンドの個展が東京都現代美術館にて開催中(2012/05/19 – 07/08)
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/134/

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